一定の数の受講生から毎年出てくる質問には、以下のようなものがあります。
・絵本は作者の思いが込められたものであり、一言一句違わずに読む
・感情を込めず淡々と読むのが良い
・読んだ後に子どもに感想を求めない
・絵本は静かに聞く、など
これは正しいのでしょうか? と。
この教訓めいたルールは、いったいいつの時代に誰が何の根拠のもとに提起されたのでしょうか。子どもと長年絵本を読みあってきた私には、とても違和感があります。それでも、多くの保育者養成機関でいまだに教えられているようで、かなりの保育者にこの考えは浸透しています。
この「ルール」はどこか「保育者-読む人/子ども-読んでもらう人」という暗黙の枠組みに縛られていて、「作品第一主義」のように思われます。この言説は昭和初期のころまでのエリート階層の大人が、文学に託す「読み方」だったのでしょうか?
就学前の子ども達は、絵本の世界を楽しむために遊び(生活)と絵本の世界をダイナミックに行ったり来たりの「読み」をしています。つまり「読む」ということはどのようなことなのかを、同時に学んでいるからです。絵本の世界の「絵と文字を読む」「描かれた人(擬人化の動物も)の心を読む」「自分や他者・保育者の表情や心を読む」等など、絵本の世界が、自らの経験知としての根っこを持っているかどうかの点検作業をも同時に行っているのです。
それゆえ、読んでいる途中で一見内容とは関係のないような言葉や疑問を次々に発することがあります。スイカの図鑑を眺めながら、突然、スーパーマーケットの話をし始めます。それは、このスイカをどこで見たのかを読み手に話そうとしているからです。
つまり、自分の経験知を総動員して絵本の世界を、自らの知識ネットワークの中に繋げたり、収めようとする試行錯誤なのです。絵本をただ「静かに読み聞かせる」だけならば、絵本は「絵本の時間」の中に閉じ込められてしまいます。
保育の場では(家庭でも)、絵本を読みあうことは「教えるため」ではなく、ともに考え、感じ、対話するための行為なのです。それゆえ、生活経験や遊びが保育の場で豊かに経験できなくては、絵本の世界の面白さや豊かさは深まりません。遊び(生活)の世界から絵本へ、さらに絵本の世界から遊び(生活)の世界への循環がなければ、絵本を保育に活かすことはできません。遊び(生活)を絵本と切り離して、特別に「読み聞かせ」の時間を設けても、興味のない子には少しも響きません。
読みあう対象が0歳〜1歳か、5歳かでもおのずから読み方は異なってくることでしょう。 0〜1歳児であれば、リズミカルな音韻をジェスチャーを交えながらやり取りします。
5歳にもなり様々な読みあいの中で、他児の異なった意見とも恒常的に触れ合っていれば、やがて集団で読みあう時にも、十分に他の子ども達の考えを受容する態度が身についています。子ども達は一斉読みの時も「ここは静かに聴こう」「今度自分たちだけでこの本を読むときに○○ちゃんの意見を聞いてみよう」「自分の感じたことを言いたいが、いまは静かにしておこう」などの落ち着いた態度が身についてきます。
保育者の方も、「あとでみんなの意見を聞くからね」とか「今日の絵本はみんなでいろいろな意見を出し合ってみよう」など、一斉にも様々なスタイル(選択肢)があることを工夫することが可能です。このように考えると保育の場における絵本の位置づけは、その園の保育方法により大きく影響を受けます。つまり、子どもの自発性を尊重し子どもからの意見や考えを活発に交流させる場合、逆に、選書も読み聞かせもすべて保育者が決めて一方的に静かに聞くことを促す場合です。
子ども達の多様な読みあいの機会を経験すると、保育者は次のような意見を述べてくれます。いくつかの意見を紹介しましょう。
・「様々な絵本にふれてほしい、触れる機会を保育者の選書で与えなければならないとつい考えてしまっていたが、子どもの反応はどうか、保育者の思いが強いのではないかというお話に自らを省みて、絵本に強い役割を求めすぎず、読み方や子どもの聞く姿勢を硬く考えすぎず、子どもが楽しめるひとつの遊びとして肩の力を抜いて、選書や読み聞かせをしてもよかったのではないかと思いました」(保育歴20年 担当フリー )。
・「保育士にも色々な読み方があり、どの読み方も間違いではないことを学びました」(1年 1歳児)。
・「絵本の読み方について、正解はなく、その場で生まれる子どもの反応や気持ちを大切に見逃さないようにしていくことを学んだ」(4年 0〜1歳)。
・「読み聞かせはもっと自由でいい、深く考えなくていいというように言ってくださって心が軽くなった気がします。力が入りすぎていたかも。子どもと同じ目線で、お互いに楽しく読みあい、コミュニケーションをとり、次につなげようと思いました」(2年 0〜2歳児/フリー)。
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