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絵本を乳幼児と楽しむ(7)
「ウェンディ・クーリングさんを悼んで」

佐々木宏子(鳴門教育大学名誉教授)
2021年3月15日(月)修正版

 ウェンディ・クーリングさんが逝去された時の私の追悼文は、すでにNPOブックスタートのNewsletter (2020,No.70)に掲載していただいた。今回、その文を許可を得て私のHPに繋いでいる。
 当時は、紙幅の都合もありあまり多くを語れなかったので、ここでは再び印象に残ったことを書き綴ってみたい。クーリングさんは、日本でNPOブックスタートの趣旨に賛同する鎌ヶ谷市の実践会場を見学し、また、NPOブックスタートの活動に携わる関係者との交流を重ねられた結果、英国で活動を発案したときに、「こうあって欲しいと願ったブックスタートが日本にある。今、私はそう感じています」と述べている。その理由の一つが経験豊かなボランティアの存在であったと思う。
 彼女は、絵本を手渡すボランティアの存在は、英国にはほとんど存在しないと述べている。様々な人種やカルチャーが混在する現在の英国では、テロへの警戒、子どもが犯罪に巻き込まれることに対する懸念、個人情報保護の観点などから日本のように穏やかにボランティアを受け入れる政治的・社会的風土は学校にも保健センターの健診の場にもないとのことであった。ボランティアは、かなり厳しい身元の確認や証明書などが必要とされるようだ。

経験豊かなボランティアの存在への称賛
 日本では太平洋戦争後の1950年代から各地でボランティアによる子ども文庫活動が立ち上げられ、1970年〜80代にはピークを迎えている。2001年に始まったNPOブックスタートの活動は、ちょうど、少子化など様々な理由で地域の文庫活動が下降線をたどり始めた時期でもあり、その読書推進パワーは、 すんなりとNPOブックスタートが提唱する活動の担い手へと活動をシフトさせていったように思う。
 多くの場合、中高年者層の女性たちがNPOブックスタートの趣旨に賛同しボランティアとして、各地で活躍している。彼女らは自分の子育てが終わったのち、自身の孫のような赤ちゃんとその家族に対して、単なる絵本の「読み聞かせ」と言うよりは、子育ての中の絵本の在り方をも含めて共感的に語れる人たちである。クーリングさんは、そのような赤ちゃんへのゆとりある姿勢を持つ訪問先のブックスタートのボランティアの存在に注目され、高く評価されたのだろう。
 確かに、日本のブックスタートの成功は、各地に存在するこのような優れたボランティアの存在抜きには語りえない。最近では若い母親は自らのキャリア追求や「母子セット」の活動では飽き足らなくなっていて、自然保護活動などさらなる社会的な活動を目指し始めている。主催者である行政の視点でもなく、図書館員の視点でもなく、家族をマネージメントしつつ子育ての中核を担ってきた女性たちの視点から、「赤ちゃんと絵本」が語られ手渡されることは、NPOブックスタートには幸いであったと思われる。この活動が今後も継続されるためには、このような子育て経験豊かな男女のボランティアの存在を、どのように確保するかが重要な課題となるであろう。

シェアブックス(Share books)の視点とは
 クーリングさんがもたらしたものの大切のことの一つが、「シェアブックス」の概念であった。彼女には「ブックスタートの始まりのはなし」という有名なエピソードがある。ある学校の準備学年の始まりの日に学校へ招かれてゆき、そこで初めて本というものに出合った少年の様子についてのエピソードがある。少年は、その時、初めて「本」という存在に触れたらしく、匂いを嗅ぎ折り曲げ、最後にフリスビーのように飛ばそうとする。丁度、生まれて数か月の赤ちゃんと同じような探索行動である。ある意味このケースは「貧困問題」が背景にあると思われるが、逆に、家庭に本はたくさんあっても両親は仕事に忙しく、子どもはシェアブックスの時間には恵まれていない場合もあるのだと述べている。
 このような経験から、ク−リングさんは貧しさや困難さだけではなく、経済的に豊かであっても「誰かと一緒に本を楽しみ、分かち合うことの純粋な喜び」を経験しない子どものためにも、ブックスタート活動を立ち上げたのである。「私たちはブックスタートで、本がどんなに素晴らしいものかということを教えているわけではありません。幸せとは何かということを理解するための『経験』を届けているのです」とも述べている。
 私は最初、シェアブックスの概念をもう少し狭い意味でとらえていた。読み聞かせなどでよくある「大人読む人→子ども聞く人」という一方向的な読み聞かせではなく、双方が「読みあう」という心理的な意味合いとして把握していた。
 あるとき、英国在住のライター・保育士のブレイディみかこが「無料託児所」で保育をした経験を活写する中で、次のような文章に出合った時、その大いなる誤解に気づいた。彼女は「英国の保育施設で、幼児が『排泄』とともに最初に徹底して教え込まれるコンセプトは『シェア』、すなわち『分配』である」(1)と述べている。4歳の子どもでもシェアしないのはフェア(公平)ではないと、表明するとのことであった。
 つまり、シェアブックスとは、単純な「絵本の読み聞かせ」の話ではなく、政治的・社会的公平さから始まり、すべての子どもたちに絵本を通して「楽しく幸せな機会を公平に与える」という発達保障の問題から来ていると解釈できる。
 日本では、NPOブックスタートは出版業界が推進母体となって出発していて、それに賛同した各自治体のボランティアも前述のように文庫活動に水脈を持つ。私も、当初、シェアブックスの意味を狭く、絵本を読みあうことの双方向性の深さのような心理的な問題として把握していた。しかし、クーリングさんの様々な言説からは、もっと社会的な機会の公平さ、赤ちゃん時代から愛され、幸せを感じる時間を持つことのできる発達保障の公平さという哲学的な理念が濃い。それは、裏返せば新しく父母となった人たちに、赤ちゃんと共に過ごすことの楽しさや豊かさの「経験」を届けることでもある。
 私は自分の不明を恥じるとともに、根底にある理念を深く知らずして「読みあう」という、ある意味「技術の問題」としてすり替えかねなかったことを深く反省している。
 ブックスタートで「絵本を読むことの楽しさと豊かさ」という狭い枠の中でのみ赤ちゃんと絵本を論じるならば、それは違うだろう。そのような態度に対しては、「私たちはブックスタートで、本がどんなに素晴らしいものかということを教えているわけではありません」というクーリングさんの発言が、強く警告を発しているように思われる。
 それならば、なぜ彼女は日本のボランティアの存在をこれほどまでに高く評価したのであろうか。それは、行政の主催でありながら、日常の生活感覚にあふれた雰囲気の会場で、祖母のようなゆとりと落ち着きを持った女性たちが、赤ちゃんと若い父母に絵本を強制することなく、控えめに微笑みを絶やさずに手渡そうとしている姿ではなかっただろうか。自らの子育てを終えたボランティアたちが、文字通り「赤ちゃんといる幸せ」を伝えようとしているのだ。
 絵本を赤ちゃんに手渡すという活動が、それぞれの異なったルートから立ち上がり、それぞれの思惑や信念が異なっていても、まったく見知らぬ者同士が赤ちゃんを核にしてつながり合い語り合う姿は、やはり貴重であり何かが生まれる可能性を感じさせる。特に少子化が進む日本では、「赤ちゃん」への期待は驚くほど異なっている。経済的効果から新しい命の輝きと交流できることの幸せまで、グラデーションの広がりは複雑に絡み合っている。ブックスタートを決して「絵本の問題」としてのみ消費してはならないと思う。

紙媒体と電子媒体
 この問題についてもクーリングさんは、進取の気性にあふれている。ともすれば、日本では乳幼児が電子媒体へかかわることの偏見があり、紙媒体の本こそが乳幼児にとってふさわしいという考え方が強いように思われる。脳生理学的な観点から、長時間見続けることについて問題視する声が強い。しかし、それは紙媒体の絵本であっても同じことではなかろうか。自然遊びや外遊びを保障することもなく、狭い施設の中でいくら優れた絵本を読み聞かせても子どもは育たない。要するにバランスの問題ではないのか。
 クーリングさんは、「子どもたちはあらゆるメディアや新しいテクノロジーをすべて試して経験する必要があると思っています」「それぞれが一番得意とするところで、そのメディアを使えばよいと思うのです」と言う。その態度はあくまでも未来に開かれていて、彼女がメディアについても公平であることを示していると思う。

選書についてー「子どもが楽しんでいて、反応しているものであれば、それがその子にとっての良い本なのです」
 この言葉は、私が個人的に「イギリスには、子どものための良い本という概念はあるのか?」と尋ねた時も、対談で話された時にも全く矛盾なく答えられたものである。私は、この言葉を聞いた時、強い衝撃を受けた。当事者が自分の好むものを選択する自由とは、基本的人権であり民主主義の基本である。しかるに、このような「当たり前の答え」を聞くことが、なぜ、子どもの本に関しては「衝撃」になるのかが衝撃であったのだ。つまり、このような原則もわきまえず、子どもの本にかかわり続けていた自分自身への衝撃であったのかもしれない。Newsletterで私の追悼文を読んだある出版社の編集者は、「ガーンと響きました」という、感想を送ってくれた。
 クーリングさんは「子どもに対して『良い本とは何か』という観点から話をすることはありません。もちろん私にも『何が良い本か』ということについての考えはありますが、そのことは厳密にすべきではないと思います」と、述べている。
 ひるがえって、日本における子どものための読書推進運動は、戦前・戦後も一貫して大人が良い本を選び子どもに「与える」(勧める)ことが、活動の中心ではなかったか。戦前・戦中は、戦争遂行のための国策として翼賛思想の絵本や読み物だけが強制され、厳しい出版統制が敷かれた。戦後は、その反動と反省から、欧米からの自由な人格形成を目指す児童文学や絵本に大人たちは夢中になった。
 「こんな絵本が子どものころにあればどんなに良かったか」という思いに駆られた多くの母親たちは、自身の幼年期の読書体験の喪失を埋めるべく、子ども文庫の創設にまい進したのではあるまいか。それは、私自身の絵本研究への大きな動機でもあったからである。
 特に、初期の子ども文庫を立ち上げた人たちの敗戦が切り開いた「良い本」への強烈なあこがれは、目の前の子どもたちの願いや要求などに考慮するいとまもないほど、焦燥と渇望に突き動かされたものであったと思われる。
 終戦を5歳で迎えた私自身の子ども時代を振り返っても、身近に絵本や読み物などは皆無であった。当時、我が家には父が集めた数多くの本があり、専用の書庫も存在していたが、子どものための本などはどこを探してもなかった。しかし、やがて出版され始めた絵雑誌「少女の友」は、私の小学生のころの憧れそのものであった。発売日には書店の前で待ち伏せし、セロファン紙に印刷されたカラーの挿絵の美しさや付録の豪華さに夢中になったものである。童謡歌手(今でいうアイドルたち)のエピソードは、興味の尽きないものでありファンレターへの返事はもう宝物であった。現代の子どもたちの絵雑誌や漫画への執着と、どこか重なるものがある。
 クーリングさんは小学生のころ夢中になって読んだ本を、大人になって読み直してみてもなぜ夢中になったのか「さっぱり分かりませんでした」と、述べている。しかし、私の経験では、なぜ夢中になったのかははっきりと分かる。子どもの好奇心・興味・関心は、その発達段階で変化し続ける。人の一生を振り返ると、その時期その時期ごとに自己充実を促すものは異なっている。将来のために今が犠牲になったり、貧困や様々な理由から「その時」が十分に満たされなければ、本当の意味で充実した人生にはならないのではあるまいか。

発達の節目が大人の価値観により一元化されている
 戦争中に乳幼児・学童期を過ごさねばならなかった人々は、その時代がきわめて統制されたものになっていて、内側に何かしらの空洞を抱えていて人生が豊かな層になっていない。それゆえ、幼い子どもたちが必要とする絵本や読み物の実感がとらえきれないままに、教育効果や大人の望ましい読書像をそのまま子どもにストレートに期待してしまうことになったのではあるまいか。
 その結果、文庫活動をはじめ多くの読書推進活動は「良い本を子どもに手渡す」という強い「信念」が優先され、クーリングさんの「子どもの選ぶ本が良い本」という真の意味が、分からなくなっているように思われる。
 クーリングさんは、私は「ある特定の本を読むことを禁ずることをしません。なぜならばそれはとても否定的なアプローチだからです。・・・彼らにもっとわくわくするような作品を与える懸命な努力をしつつも、彼らの選択を尊重し、それに敬意を払わねばなりません。それは、若い人たちの人格と個性に関わることだからです」と、その理由を明確に述べている。
 子どもの読書にかかわる仕事をし、子どもの人格と個性の尊重をともに願うはずの活動が、結果としてどうしてこのような異なる二つの流れを生み出してしまったのだろうか。一つは、子ども自身の選択への敬意と尊重から出発し、もう片方は大人の期待する望ましい読書像への誘導からはじまる。

再び「子どもにとって良い本とは何か」を考える
 コロナ禍で閉塞感がただよう現在、私たちは様々なことについて原則から物事をとらえなおす機会を与えられている。「良い本」の条件を標榜する箇条書きや研究データ、評論家の言説も様々なメディアで取り上げられている。それは、統計的処理により生み出された標準像(値)であったり、貸出頻度や出版部数の多さなどからくる「エビデンス」であったりする。また、児童文学研究者・絵本研究者からは、絵本そのものの優れた文学性についての論考も数多い。それらは、すべて参考にはなるだろう。だが、もう一つの視点もある。
 保育実践の中で絵本と子どもを見続けてきた松本崇史園長(日野の森こども園)は、「文学性で語るよりは、その子で語ったほうが面白いということです」と、まずは子どもから始めることの重要さを指摘している。絵本の「選び方なども、もっと相互的で、絵本との環境をふまえたり、歴史性をふまえたり、いま目の前の子どもと共に相互に学んだ方がよいと思います」と述べる。
 どのように優れた評論やデータが保証しようとも、目の前にいる子どもが「読みたくない」と言うならば、それは絶対的な事実である。子どもと絵本の関係は、一人一人の子どもの存在と権利を最優先する立場からの言説がもっとあって欲しいと思う。

引用文献
 前述の番号を付さない引用は、すべて下記の文献に基づくものである。
●『すべての赤ちゃんに絵本を』(ブックスタート発案者 ウェンディ・クーリング)
NPOブックスタート編 2019
(1)『子どもたちの階級闘争 −ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(ブレイディみかこ みすず書房 2017)


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