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絵本を乳幼児と楽しむ(3)
朝日新聞「天声人語」(2017年6月14日付)からの違和感 −番外編−

佐々木宏子(鳴門教育大学名誉教授)
2017年7月15日

 この人気コラムを読むことは、楽しい。その日も「手塚治虫は幼いころ」という言葉で始まっておりフムフムと期待をこめて読み始めた。ところが真ん中のあたりまで来て『幼児教育の経済学』が現れる。ハハーン、この二つのエピソードの間にどのようなひねりをきかせるのだろうか、とさらに期待が膨らむ。
 ところが、この二つのエピソードは誠に素直に同列に置かれて、だから「三つ子の魂百まで」なのだと終わっていた。なんだこりゃ! 思わず、このコラムはいつ書かれたものなのか、私は古新聞を読んでいるのかも知れないと思い、あわてて日付を見るとやはりまさに当日(2017年6月14日)となっていた。この違和感は何だろう、何がおかしいのだろう・・・。この「幼児教育の経済学」については、前回(1)、触れたことがある。以下に要旨を繰り返すと、
「ここしばらく『幼児教育の経済学』という理論が流行ったが、それは幼児期に「非認知的能力」を育てると、成人してから「高学歴」「高所得」「高持ち家率」などの指標で、その「発達的な効果」が示されていた。(略)
何がおかしいのだろうか。それは、これから育ち行く子どもたちを前にして、『あなたのゴールはここですよ』と決めつけかねないからである。多くの経済学者が、これからは今までのような経済成長は望めないと語っているにも関わらず、21世紀を生きようとする子どもたちに、19世紀終わりから20世紀前半までの価値観で促しているのである。」
 当日の天声人語は「教育の機会均等」の必要性とそれによる「格差の縮小」を促すためには、「公的な幼児教育で不平等を解消したい」というヘックマンのこの説に賛同を示していた。確かに幼児期からの貧困は、多様な教育機会を奪うことで、多くの子ども達に将来に向けての選択肢を見えなくしていることは事実であろう。そのことについては、まったく異を唱えるつもりはない。
 しかし、子どもたちはさまざまな将来像を夢見るだろうし、中には現在の大人が予想さえしなかった職業を創り出すだろう。手塚治虫の「幼いころ」は、まさにそのことを示しているように思う。
 貧困のゆえに、子ども時代に好奇心と豊かな想像力を育む機会が奪われることが問題であり、「高学歴」「高所得」をゴールとすることこそが逆に、想像力の貧困を生み出す根源になっているかも知れないと考えるのは私だけであろうか。
 過剰な「高学歴」「高所得」への競争が多様な想像力の広がりに歯止めをかけ、貧困ゆえに「高学歴」のコースから振り落とされてしまった親子に、再び、そのコースに戻り競争せよと励ましているようにも思える。子どもたちに「平等な機会を与える」と言いつつ、そのゴールが新自由主義経済といわれる枠組みから一歩も外れていないという違和感こそが、私に生じたものである。
 バンナーマンの「個人の所得に基づく市民権のモデルが、ますます強調されるようになっている」「21世紀の『賢い子ども』はたんに学ぶために学校に行くのではなく、彼女は稼ぐために学ぶのである」(1)という発達論も存在するが、ヘックマンのように注目を集めない。
 私たちは乳幼児期から、しらずしらずのうちに営利主義の浴槽の中にひたりきっているのだろう。とくに、自らが快適な温度の浴槽の中で過ごす研究者にとっては、無意識のうちに何かの枠組みに囚われていることすら見えなくなってしまうのではないか。これは、自戒でもある。
 経済不況や価値観の多様化の時代を迎え、私たちは21世紀へ向けての新しい生き方の可能性を模索しながらもがいている。その可能性の広がりと複雑さは、単純な要因に絞られた大量のアンケート調査から、うかがうことは難しいだろう。
 アメリカにトランプ大統領が誕生したことに、多くのマスメディアは大混乱をしたし、今でも続いている。メディアとの賢いつきあい方を、私たちは学ぶべき時期に来ているように思う。
 
(1)E・バンナーマン著(青野篤子/村本邦子監訳)2012 『発達心理学の脱構築』 ミネルヴァ書房 129.


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