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絵本を乳幼児と楽しむ(2)
「絵本と子どもの発達を考える尺度について」

佐々木宏子(鳴門教育大学名誉教授)
2017年7月15日

 このタイトルで書き始めてから、ダラダラと時間が過ぎてしまった。絵本と子どもの発達について、一番多く投げかけられる質問が「効用」をめぐるものであることは、この半世紀ほど変わらない。そして、その発想は、もっとも効率良く絵本を活用して子どもの発達に生かせる選書やリスト作りへと流れてゆく。この発想は、営利主義的効率思想が生み出した発達観から派生するものであり、歴史的に見ればそれほど昔から存在したものではないだろう。もっとも、最初は、活字や本自体の存在が宗教や権力・支配者のものであり、エリートのものであったことは間違いない。
 とくに19世紀末以降、資本主義体制の形成過程における効率化と人格の標準化への要求は強い流れとなった。この流れは心理学者が統計学を根拠に多数派の反応を「普遍的」と称して、あたかもそれが発達の標準値であるかのような幻想を振りまいたことも大きいと思われる。その結果、効率良く育てるには標準値が生み出す発達コースに、出来るだけ早く追い込み乗せるという強迫観念が生み出された。メディアも親も教師も、個人差をなおざりにして、数字が生み出した人工的な発達像に子どもたちを追い込むことに忙しかった。が、近年、人々が様々な異文化体験により、少しずつ子どもの発達を個人差や個別性において見ることの大切さに気づき考え始めたことは、とても嬉しい。
 そのようなことを考えていたところ、オーストラリアでは認知症であっても「症状に応じて個別判断」がなされ、日本のように「認知症と診断されると一律で免許は取り消しや停止となる」ことはないとの報道に触れた。(1)つまりは、そういうことなのだ。発達の道筋や段階なるものを考えるとき、統計的なデータから見る多数派の像は確かに存在するが、それは、あくまでも人工的に作りだされた集団の抽象的な塊であり、すべての個人の発達や道筋がそのような同一のコースで進行するものではない。たとえ、認知症であっても「出来ること出来ないこと」には個人差があり、決して一律に判断を下すことは出来ない。ましていわんや子どもの発達の問題は、もっと個別的に考えることが要求されるのは当たり前ではないだろうか。
 絵本と子どもの問題に話しを戻そう。私の経験からも、それぞれの発達段階に応じて存在する平均的・標準的な子どもの読書像は存在しないし、すべての子どもに共通する典型的な絵本リストも存在しない。勿論、ある年齢幅を区切ってよく読まれる絵本は存在するが、細かく追跡すると同じ絵本でも好きなページや絵などがかなり異なっている事も事実である。このような標準的な発達観や発達段階について、そのように作られた「発達の道しるべが、母親たちの子どもをみる見方を決めさせ、進歩の速度に懸念を抱かせ、子どもを比較するように促し、親たちの間での競争を誘発する」(2)とし、「標準はそれ自体が虚構である」と批判する心理学者も存在する。(3)私もその意見には賛同する。
 豊かな社会は、個人の異質さや多様性を保証することから始まる。標準とは、それに同化することではなく今や、そこから外れることに意味がある指標としてこそ現代的な意味があるのではなかろうか。とくに、絵本のような文化や環境により多義的な意味を持つ媒体は、読み手の側の子どもの好奇心や好みに応じて生じる多義的・多層的な個人差こそが命ではなかろうか。「はじめに個人差ありき」から出発し、成長過程にある子どもたちがどのような環境でどのような絵本を好きになり、それはなぜなのかを探り、それを知ることにより親子関係(人間関係)の理解が促されるものであることが望ましい。
 複雑な要因を持つ絵本と複雑な個性をもつ親子の相互作用の中で生じる絵本の読み合いから生まれる力を、私は「絵本力」と命名したい。文字の読めない子が絵本を仲立ちにして様々なコミュニケーションを始め、親は子どもの反応を通して子どもの心の動きを理解し、感情や思考(好奇心)の芽生えに気づく。子どもは、読み手(親)が注目するものに注目し(joint attention)、読み手が読み取ったことを探り(joint reference)、読み手のジェスチャーを模倣し(joint activity)ながら、時代(歴史)の中で人となることを引き受けはじめる。その逆もしかりだ。読み手(親)は子どもの注目するものに注目し、子どもが興味をもったものを探り、子どものジェスチャーを模倣しながら、関係性の中で親となることを引き受けはじめる。
 私たち研究者は、そのような複雑な相互作用から生じる心理的な面白さや豊かさを描いてこそ意味があるのではあるまいか。今までのように、多様に存在する要因の中から「語彙」や「集中力」のような単純な要因を引き出し量的な比較をしても、教科書と何が異なるのであろうか。
 一人ひとりに絵本との出合いがあり独自のコースがある。置かれた条件は同じではない。私は今までにも数多くの親子の絵本記録を採集してきたが、膨大な量がありまだまだ整理が出来ていない。私は、様々な土地で講演をしているが、講演後、私のそばに近づいてきてそっと家族独自の絵本エピソードを教えてくださる人は少なくない。私が、読み合いを通してこそ子どもの個性が見えてくるとの主張に、思い出してくださるからだろう。
 一つの例を挙げてみよう。岡山の県立図書館で一人のおじいさんが、講演後、私のそばに来て孫の面白いエピソードを聞かせてくださった。私が、絵本を読む子どものビデオ記録をお見せしたことから思い出されたようである。孫の小学二年生がぬいぐるみを前に『きんぎょがにげた』(五味太郎作/福音館書店)を読みながら、最後の頁で「みんなといっしょになれてよかったね」と、ぬいぐるみに話しかけているのを聞いて、とても感激したとのこと。「絵本の中に、そのような文章はないにも関わらずそんな風に感じていたのだと驚いた」とのこと。日常に溢れるこのようなエピソードの面白さに注目せず「絵本を読むときっと語彙が増えるに違いない」とばかりに、ひたすら生真面目に教科書のように読み続けることは、本末転倒ではないか。
 すぐに何かの要因と結びつけて「成果と効果」に執着するのは、文化・芸術活動としては貧しいことであると思う。

(1)「認知症運転はできる時まで 豪州『症状に応じ個別判断』」(朝日新聞/2017年5月14日朝刊) (2)E・バーマン著/青野篤子・村本邦子監訳 2012 『発達心理学の脱構築』ミネルヴァ書房 106. (3)E・バーマン著/青野篤子・村本邦子監訳 2012 『発達心理学の脱構築』ミネルヴァ書房 243.


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