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鳴門教育大学附属幼稚園の保育カンファレンスより(6)
「遊誘財と教育課程」(3)

佐々木宏子(鳴門教育大学名誉教授)
2020年 4月20日

1.教育課程が活きた実践として立ち上がるための条件とは何か
 前稿(5)では、「環境を通した教育」と「教材を中心にした教育」は、教育目標が同じ文言、キー概念で語りうるという矛盾について述べてみた。つまり、「要領」や「教育課程」を保育者が理解し、実践に活かすためには、いくら丁寧で細やかな言葉で説明を尽くしても何か本質的なものが欠けているのではないか。
 それでは、どのようにすれば、「環境を通した教育・保育」は実現するのだろうか。そのためには、教育・保育における必要な「環境」とは具体的に何を指すのかが、実例を挙げて示されなければならないだろう。その一つが、鳴門教育大学附属幼稚園が提起した遊誘財の概念なのである。遊誘財は、すべての保育施設で画一化されたものではなく、それぞれの保育施設がもつそれぞれの地域の自然と建築環境、そして保育の歴史を反映するものでなければならないと思う。あらゆるものが過密な大都市そして地方都市とへき地の違い、自然環境としては海辺にある幼稚園、豊かな森の中にある保育所など、保育施設の立地条件と人々の暮らし方は、実にさまざまである。それぞれの地方の自然と人々の暮らし方が、それぞれの地方の保育施設のありように影響を及ぼし、それぞれの地方がそれぞれに特色をもった保育実践を行うべきだと思う。
 「教育・保育要領」や教育課程は、義務教育のように教科書を中心に細かく規定はされていない。その指針や要領の内容は、緩やかで柔軟であり、現場に大きな裁量を委ねている。それは、各省等が就学前教育・保育が人格の基礎を培うものであり、何よりもそれぞれの地域の暮らしや環境に深く根差した保育・教育が望ましいと考えているからであろう。そのような意味では、私は、わが国の現在の「教育・保育要領」は、優れていると思う。そうであるならば、もっとそれぞれの就学前教育・保育施設に、国や各自治体は優れた環境を作るための具体的な支援をしてほしいと思う。あまりにも少ない自然環境、園庭が狭い幼稚園や保育所、子どもが自由に遊べる遊具や玩具の少ない施設はないだろうか。逆に、せっかく周りに豊かな自然があるにも関わらず、教材教育に囚われている施設はないだろうか。保育者の数が少なすぎて、囲い込みの保育になってはいないか。
 子どもは遊びを通して成長するという命題は正しくても、子どもたちが遊びたくなるような環境や施設が十分に整っていなければ、子どもは遊びたくても遊べない。保育者も豊かな遊び環境が準備されなければ、一斉保育でまとめて、教材で乗り切るしかない。保育者は子どもたちが遊ぶ姿を目にすることができなければ、子どもたちが遊びを通して育つということの意味が理解できない。私が遊誘財の概念を思いつき、子どもは遊ぶことにより成長・発達するという確信が持てたのは、30年近く鳴門教育大学の附属幼稚園の実践を見続けてきたからである。
 様々なモデル事例で「このような環境では子どもはこのような創造的な遊びができる」と示されても、自らが勤務する幼稚園・保育所にそのような環境がなければ、保育者にとってはその事例は他人事(ひとごと)の世界の保育としてしか映らないだろう。遊び中心の保育が実現されるためには、それらを可能にする環境がセットでなければ、教育課程の条文や文言が示すような保育実践は難しいと思う。

2.遊誘財とは、「環境を通して行う」という教育・保育方法を実践するための必須の財である 
 私は、現在の「教育・保育要領」が優れたものであるだけに、その保育実践が達成できるような遊誘財がすべての保育施設に保障されることを、強く願っている。遊誘財中心の保育がなぜ教材中心の一斉保育よりも優れているのかを述べてみたい。 
遊誘財がなぜ、子どもの遊びを誘発するのかについては、以下のようなサイクルで示したことがある。1) よく整え構成された環境は、子どもたちに遊びを誘発する財として機能する。
 遊誘財は、その存在の多様性・複雑さから、子どもたちの多様な興味・関心・好奇心に幅広く応える力をもっている。特に自然環境などは人間の意志では支配できない自律性を持っているために、子どもたちを惹きつけてやまない。遊誘財は、

 1)子どもたちの好奇心や興味を刺激し
(遊誘財は、教材よりもはるかに多様で複雑な子どもたちの個別の興味・関心に応える)
2)子どもたちが自発的に対象を操作することで対象に変化を引き起こし
(遊誘財は、教材よりもはるかに予測のできない多様で複雑な変化を引き起こし刺激する)
 3)その変化に「なぜだろう?」と考えることをはじめ
(遊誘財は、教材より多くの子どもたちに異なった‘なぜだろう’を引き起こす)
 4)何かの因果関係やつながりなどに気づきはじめ
(遊誘財は、教材よりも多様で複雑な因果関係やつながりを子どもたちに気づかせる)
 5)面白い、驚き、好奇心、感動が生まれはじめ 
(遊誘財は、教材より子どもたちの個性に応じた多様な‘ワクワク・ドキドキ’を引き起こ
す)
 6)その繰り返しのなかで知識や技術、思考方法を獲得しはじめ 
(遊誘財は、教材のようなあらかじめの論理に導くのではなく、失敗や挫折の回数だけ複合的で多様な思考回路を作らせる)
 7)何度もそのような仮説(過程)を繰り返すことで、目的をもって取り組むことをはじめ
   (遊誘財は、教材とは異なり、子ども個々人が目指す目的により多様な仮説を生みだす)
 8)目的が達成されると達成感や精神的充実感により自信や有能感をもちはじめ
   (遊誘財は、教材より試行錯誤の回数と時間を要するため達成したときの充実感は深い)
 9)自分たちがどのような可能性をもっているかが分かりはじめ 
(遊誘財は、教材より多様で幅広い選択肢を提供するため子ども個々人が自分の好きな
ことや得意分野に気づく)
 10)これらのサイクルが友達同士で行われることで「人間関係を理解し関係を調整する力」注1)が形成されはじめ 
(遊誘財は、教材より多様な選択肢を内包するため子ども同士に様々な調整や妥協を要求する。その結果人間関係について多くの気づきをもたらす)
 11)協力や協同の能力が育ちはじめ
   (喧嘩も挫折も経なければ、協力も協同も成立しないことが理解でき始める)
 12)組織・集団(社会)へ参加することの大切さや必要性を身につけはじめ 
   (目標が高く難しければ難しいほど、それにかかわる仲間同士が協同することの必要性が分かり始める)
 13)以下、その時に対象となった遊びの種類や遊び方により、無限の展開が予想される。それは、保育者の予想をはるかに超えることがあり、保育者に子ども理解の機会と環境の意味を深く理解させる。このような遊びのサイクルは、まさにアクティブ・ラーニング(active learning)そのものである。
 もちろん、教材がすべて悪いわけではない。時には学習を効率よく運ぶためには必要なときがあるだろう。しかし、人間が人工的に作り上げたものは、それがどれほど興味深く驚きに満ちたものであっても、それは人間という種が持っている絶対的な限界を持っていると思う。私は、このようなAIなど人工的なものが生み出す複雑さや意外性、面白さは、どこまで追っても所詮は人間という動物にしか通用しない言葉であり論理であると思う。教材は、学習を効果的に促すための方略であるが、就学前の子どもにとっての遊び・生活活動は、人格の発達に深くかかわる本質的な活動であるだろう。
 人間が、宇宙や地球に存在するすべての生物・無生物などとともに、相互依存のバランスの上でしかその命を維持できないとすれば、子どもたちはまず、それらヒトの意志とは無関係に存在する自然との付き合い方を学ばねばならない。優れた遊誘財は、子ども達に質の高い遊びを誘発し、考えさせ、協同させ、目標を創り出すことを促す。その繰り返しの中で現実社会における「生きる力」や「学力」の基礎が培われることになるのではなかろうか。
 子どもの遊びの最大の特長は、「いま・ここ」を超えて、新しいイメージを作ることである。「いま・ここ」の現実の財を使いつつ、たえず「いま・ここ」を超えた抽象的・具体的産物を作り、そのことについて言語化することで、それに輪郭を与えてゆく。
 大人は「いま・ここ」を言葉や芸術的・科学的パフォーマンスにより突き破るが、子どもはそれを遊び活動として総合的に表現する。そこでは、技術や知識がとても重要になってくる。「いま・ここ」を超えるためには、「いま・ここ」の現実を知ることなしに超えることはできない。
 子どもたちは、「いま・ここ」に深く根を下ろすとともに、物理的な現実を超えて「いま・ここ」にある事象を新しく感じ、意味づけ、味わい、破壊・創造し、驚き、感動することで精神世界を創造することの面白さに気づいてゆく。
 子ども達の遊ぶ能力(play literacy)とは、自分たちで目標を定め、自分たちで必要な知識・技術を集め考え、遊び活動の中で自分たちの可能性を発見、発達させてゆくものであることがわかる。また、遊ぶことの能力は効果的に社会に参加するために、子ども同士がお互いの人格を理解し、協力する能力を育むものであることもわかる。
 遊誘財は、個性をもつ子どもたちそれぞれの興味・関心に応えるため、無数の試行錯誤を促し、とくに自然のような人間の意志では操作できない自律性をもつものは、人間が独善的になることを拒むゆえに、ヒトはこれからも地球の一員として生きるためのヒントを得ることができる。
 保育者とは、このような子どもたちの自発的な遊びのサイクルを尊重し効果的に共鳴・共感したり、支援したりしながら、直接・間接に指導を行う専門職である。
 次回からは、優れた保育者がどのようにして、子どもたちとかかわるのかを、鳴門教育大学附属幼稚園の保育者たちが記録した事例エピソードを中心に述べてみたい。
 教育課程×環境×保育者の間の相互作用と滑らかな循環は、保育の質をどのように高めてゆくかについても考えてみたい。また、子どもたちの自発性と自律性を促す教育課程とはどのようなものかついても、提起してみたい。

引用文献
1)佐々木宏子 2009 「保育者のための遊誘財データベースから見えてきたこと―保育の質を語るための新しい保育専門用語の開発−『保育の質的充実を目指して −遊誘財データベースの構築に向けて−』(巻頭言) 研究紀要第43集、鳴門教育大学附属幼稚園


1)「人間関係を理解し関係を調整する力」とは、鳴門教育大学附属幼稚園が遊誘財の概念を議論する中で生み出した補完的な概念であり、それは図式化されて提示されている。この図式と意味については別の機会に述べたい。


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