HOME[ 1 ][ 2 ][ 3 ][ 4 ][ 5 ][ 6 ]
鳴門教育大学附属幼稚園の保育カンファレンスより(2)
「幼小の連携教育について考える」

佐々木宏子(鳴門教育大学名誉教授)
2017年3月10日(金)

 今回の話題は「幼小連携の教育」である。私が幼稚園長時代に、この問題を幼稚園のスタッフとともに研究し、その成果は1冊の著書として出版されている。(1)そのときのカンファレンスは、とても楽しかったことを覚えている。
 私の一番の関心は、小学校からの人事交流で本附属幼稚園の教育に向き合うことになった小学校教師が出合う葛藤や悩みが、どこから生じるものかを探ることであった。私の知る限り、かなりすんなりと幼稚園教育になじむ教師がいる一方で、「教える」ことの意味の変化に戸惑い苦戦する教師も少なからず存在した。
 この「苦戦」は、学部学生が附属幼稚園の実習に入ったとき、高校までに受けた教育との違い、「教える」ことの意味の大転換に悩むことと基本的には同じであると考えている。したがって、幼小の連携教育において生じる葛藤は、小学校の教師だけに限定されるものではない。ごく普通の公立幼稚園の保育者が、人事交流で附属幼稚園に入ってきた場合にも少なからず同じような葛藤が見られるからである。つまり、カリキュラムに基づく一斉教育(保育)が「普通」という経験をしてきた人々すべてに当てはまる悩みである。
 実は、わが国の教育方法のくっきりとした質的分岐点は、①保育所・幼稚園と小学校の間にある壁、②高等学校と大学の間にある壁、③日本と欧米先進諸国との間にある壁などとして、顕著に存在するのではないかと考えている。
 一番の問題点は、現在の義務教育が、①教科書中心で、②同一年齢の集団において ③一斉のクラス単位の教育であることの弊害である(もちろん、短期間の間に効率的に知識を詰め込むには良いこともあるが)。この3点セットは国際的に見ると欧米先進諸国の間では少数派であると考えられる。しかし、この一斉的な教育方法になじんだ学生や教師は、附属幼稚園のような「子ども中心の保育」にぶつかると、どうしてよいのか分からなくなり混乱する。「一人に焦点を当てると他の子どもはどうなるの?」「対面でもなく机と椅子がないのにどうして教えることが可能なの?」等々の疑問に振り回される。
 教育の目的や方法など、それまでに理解していた教育(教えること)の概念がほとんど役に立たないので、小学校から来た教師は感覚的に附属幼稚園の保育がつかめず、悩み抜くことになる。

1)子どもたちが遊んでいる様子を見て「なんでこんなことが面白いの?」と、考えてしまう
 この発言は、葛藤を抱えた教師からよく出る言葉である。とても率直で正直な発言であると思う。逆に、私は遊んでいる子どもたちの表情・仕草・発言など、すべてが面白く刺激的で、半日眺めているだけで脳みそがばらばらになるほどの開放感を覚える。それは、自分が成人する過程で絞り上げてきた常識や「ねばならぬこと」、洗練された科学的論理、新しく増え続ける哲学や思想などに強烈に揺さぶりをかけてくるからである。
 なぜだろうか? それは理屈で説明できることもあるが多くの場合は、まさに非認知的な論理である。一つには、私がこれらの子どもたちに生活習慣を修得させたり、こまごまと汚れた衣服の世話をやいたり、とういうような「日常的な仕事」(ルーティン)に責任を負わず、まったくフリーな立場で、子どもが面白いと思うことを面白いと共鳴し、なにかをやり遂げたいと思うことを一緒になって力み、子どもがうまく行かないことにいらだちを覚えていることに同じようにいらだちを覚え、大人が「そんなアホな」と感じることに「それってやってやろうじゃないの」とストレートに共鳴・共感するからであろう。
 子どもたちは「あなたの大事な仕事は、いま、私がやっていることと同じくらい面白いの」と問いかけているような気がするからである。人生における最良の生き甲斐は、自分自身の感性に照らし合わせて「本当に面白くて情熱をかけるに値すること」を持っているかどうかにかかっているのではあるまいか。子どもたちの遊びへの情熱は、生きることの基本をいつも大人に問いかけてくる。「あなたは夢中になっているものがあるの?」。朝起きたら、「さあ、あれをやろうというものがあるの?」「わくわくするような心の輝きで満たされているの?」などである。
 それでは、「しつけや好ましい常識、正しい知識の修得は必要ないの?」という疑問が出てくるかもしれない。もちろん必要である。それは社会人として必要な知性や教養につながることだからである。しかし、私は、それだけでは人格形成上、必要なことの半分しか満たしていないと考える。冷静な知性や教養だけでは、人生において生きることを強く促す情熱や好奇心、それに一歩前へと行動を促すエネルギーは生まれない。
 だから、多くの若い人々が学校の机上の勉強に飽きたらず、音楽・文学・スポーツ・アート・政治活動などにそのエネルギーを求めて走り出すことになるのだろう。彼女(彼)らは、「知識や科学だけなら、もう結構だ! それらを生かすためにも人生をかける明確な目的や使命がほしい!」と、もがき続けていると思われるからである。
 附属幼稚園の子どもたちの遊びを見ていると、自分の内側から出てくる好奇心・興味に突き動かされながら、遊び活動を通して言葉や数、子ども同士の協同の仕方、コミュニケーションの術、科学的な知識、文学的・美的な感性、他者とうまくやるためのルールなど、これから生きてゆく上で必要なことのすべてを獲得しつつあるように思う。
 このアンダーラインの部分については、おそらく小学校の教師と最終的には一致する教育の目的ではないか。では、何が違うのだろうか? それは、附属幼稚園の子どもたちがそれら「好ましいもの」へとたどり着くまでの過程が、多くの学生や教師が高校までに慣れ親しんだ教育方法とかなり異なっているからだと思う。
 多くの教師は「いつも子どもたちに教科書を正しく教えなければならない」「整然とクラスをまとめ保育(教育)の目的にそって、子どもたちを動かさねばならない」という、強迫観念に囚われているからであろう。
 これは「教科書中心主義の教育」(教師主導型)であれば当たり前のことである。教科書を間違って教えては困るからである。しかし、教師が「いつも正しく模範的に」行動し教えれば、子どもたちはそれをそのまま受け入れて「いつも正しく模範的に」育つのだろうか? 多くの子どもたちは、いつも形だけを押しつけてくる教師への拒否感を持っている。「いつも正しく模範的に」の教育方法で、子どもたちを教育することで育つものは、ある程度は存在する。しかし、そのような教育方法では、子どもたちは自分で考えるという習慣を身につけることはできないだろう。私は教育におけるもっとも大切な目的は、「一人ひとりが自分の頭を使って考え自由に生きる」というところにあると思っている。

2)子どもたちから同時にいくつかの問題を持ち込まれ、様々な問いかけが行われるとどうすればよいか分からなくなる
 附属幼稚園では、日々の保育は子どもたちの自発的な遊びにより、様々なグループ活動が同時多発的に行われている。そのようなとき、多様で異質な活動が展開するゆえに、初めて附属幼稚園で働き始めた保育者は、「教科書を使って、同一年齢の集団に、一斉の教育」を施してきた感覚と、あまりにも異なるために生じる発言である。
 これは集団の子どもすべてに平等に教育の機会は与えられなければならない、という公平の原則からくるものだろう。ここでは平等で公平な教育とは何か? という、教育における核となる概念が問われている。
 ここで浮かび上がる問題は、いつも同じことを同じようにクラスの子どもたち全員に教えるということが平等で公平なのか、という核心に関わることである。子どもたちはそれぞれの生き方や個性に応じて、今、学びたいと思うことがそれぞれに異なっている。本当の平等と公平は一人ひとりの子どもが、今、真剣に知りたいこと学びたいことを、それぞれの子どもの要求に応じて提供することではないだろうか。つまり、対象となる子どもの個人差や要求に応じてできるだけ異なったメニューを提供することこそが、教育における真の平等と公平であると考えるからである。一人ひとりの子どもに、それぞれの立場で本当に欲することを提供するという機会の公平さこそが、本質的な平等を保障するものだと思う。
 たとえば、レストランに入ったとき、皆さんにできるだけ同じ価格で公平なお料理を提供することが大切なので、本日はすべて同じ定食にしました。栄養についても最善の配慮がしてありますから誠に優れたメニューですと言われて、何人の客が満足するだろうか。スーパーマーケットでも、可能な限り、数多くの消費者の要求に対応すべく同じレタスであっても数十種類の商品が用意されている。つまり、顧客のニーズに応えられなければそっぽを向かれてしまうからである。これは、営利主義(資本主義)の立場からのサービス精神である。
 私は、ある意味では教育のサービスも同じでなければならないと考えている。それゆえ、財政的にも豊かな欧米先進諸国ではできる限りクラスの人数を減らし、保育者(教師)の数を増やし教育は個別のニーズに応じられるような配慮がされている。これは、教育における個人の権利と公平の原則が尊重されているからだ思う。
 さて、附属幼稚園の保育である。子どもたちは様々な要求や疑問、伝えたいことをそれぞれが保育者に向かって遠慮なく発する。そのとき、保育者はそれぞれの子どもにそれぞれの問いかけのレベルに応じて、丁寧にできるだけ正確に応えることが必要になる。最初は、このような状況は「一斉保育」になれた教師にはとても難しい。保育者(教師)であるにも関わらず、子どもの個別のニーズに応じられないという現象が生じてしまうのである。
 家庭においては、父母はそれぞれの子どもたちにそれぞれの個性や発達を見極めて応対することが難しいなどとは、言っておられない。あの子の発達からすればこうだろう、この子の個性から推測するにきっとこのような答えがふさわしいに違いないと、瞬時に判断する。幼稚園の教育は、このように家庭教育をベースにしつつも集団であるがゆえに必要とする“何か”を付け加えたものだと思う。小学校の教育から何かを引き算したものではない。小学校の一斉教育を薄く平板にしたものでもなく、家庭教育の個別性と濃密性が持つ複雑性から立ち上がってゆくことが幼児教育(保育)の本質であると考えている。
 ①一人ひとりの子どもに丁寧に濃密に関わることを、それ以外の子どもたちは真剣にみつめている
子どもたちは、保育者が個別に子どもに関わる様子を虎視眈々とうかがっている。「そうか、先生はこんな風に考えているんだ」とか、「こんな時はこんな風に考えて解決すればいいんだ」など、一人の子どもへの助言や振る舞いはたちどころに周辺の子どもたちに伝播する。それは、平板な知識を一斉に薄く頒布するより、数倍も濃くて深くてフレキシブルな知識や考え方を確実に植え付けてゆく。同じような年齢だから、子どもたちのかなりの人数が同じような悩みや疑問を持っていると考えて良い。だからこそ、個別性を大切にしながら、その時機を逃さず、正確な言葉と深い愛情で細かく関わってほしい。
 それに対しては、すべての保育者が持たねばならないような共通の答えなどはないだろう。素のままの自分を子どもたちにさらけ出すこと以外に、方法はない。教育とは人間対人間の営みである。子どもたちの遊ぶことへの限りない好奇心と、そこから生じる率直な表現を「何て面白いんだろう」と感じられれば、より共感的に子どもの心に深く届く会話が可能だと思う。子どもたちへの魅力的な言葉やその対応策は、思ったまま感じたままの発言を積み重ねる日々の努力以外に、方法はないと思う。気の利いた言葉をしゃべらねば、などという強迫観念をもたなくても良い。ありのままの率直な思いを伝えるだけで良いのではなかろうか。そのためには、優れた研究書を読み、経験を重ねた保育者の発言を観察し、日々行われる同僚達とのカンファレンスがとても重要になるだろう。
 私が、「既定のカリキュラムにあまりこだわるな」という意味は、その流れに気をとられるあまり、目の前の子どもとのやりとりが上の空になることを懸念するからである。全体的な週案や日案は、当然あるが、幼稚園には優れた遊誘財が配置されていて、子どもたちは指示しなくてもそれらの財に触発されて活動を始める。まさに「環境を通して行われる教育」である。遊誘財については、後日、もっと詳しく述べるつもりである。
 まず、歴史的に継承されてきた遊誘財に促されて子どもたちが遊び始めると、その遊びの過程で様々な問いかけや誘いかけが子どもたちから保育者へと投げかけられる。保育者は、その都度の「問いかけや誘いかけ」に、丁寧でイメージ豊かな応答をしてゆけば保育のかなりの部分は達成できるのではなかろうか。そのようなエピソードへの豊かな応答の積み重ねが、結果として保育の全体像を形作ってゆくのではないかと思う。
 ②保育(学校教育・家庭保育などすべて)の「成果」は、一人ひとりの子どもの成長・発達にどのように現れるのだろうか? その指標はどこにあるのだろうか?
 一人ひとりの子どもの発達のリズムは千差万別であり、その生き方の面白さとユニークさがその子の個性であり、この世に生まれてきたことの意義であると考える。よく「結果を出さねば」という言葉が学校においてもスポーツの場でも語られる。スポーツであれば、比較的明確な尺度があり、数値で表すことも可能である(今のところは)。
 しかし、人間の成熟や発達はそのような簡単なものではない。私は、一人の子どもが人生のどの時期にピーク(という表現が正しいかどうか分からないし、ピークという概念が正しいとも思えないが)を迎えるかは誰にも分からないと思う。その子ども自身の持って生まれた遺伝子や環境など、様々な要因や条件が入り交じり融合し、外から見える形へと現れてくるのだと思う。
 また、どのような形が現れようとその評価は他者に頼るものではなく、基本的には本人自身が下すものであると考えている。人生の充実とは、その人が感じ決め、満足感により定まるものだから、他者が何かの尺度でつべこべと講釈する筋合いのものではないようにも思う。
 子どもたちにとって、大人の規準だけで自分の発達を決めつけられることは、苦痛であるだろう。「自分の未来は自分で決める」ことのできる子どもを育てることが、最良の教育ではないだろうか。そのためには現在ある平凡な尺度(学歴・所得・職業等)にあまりこだわらない方が楽しく面白く、新しい生き方(理想像)ができるのではないかと考えている。

3)幼小連携のつなぎ目はどこに?
 一人ひとりの成長・発達を評価するためには、「学習の到達度」の側面からだけではなく「人格形成」はどこでどのように育まれているかに注目する必要がある。文部科学省の『幼稚園教育要領』のガイドラインに寄り添っている附属幼稚園の教育実践は、確かな「知識の学習」と一人ひとりの子どもの「人格形成」に関わる教育方法がなめらかで矛盾なく繋がっている。しかし、現代のわが国の多くの義務教育の場合、学校は圧倒的に「知識の学習」に重きを置き、あまり「人格形成」への関与はしていないように見える。その結果、人格形成の核は「受験教育」から生じる競争主義に貫かれ、結果として競争主義的人格の形成が優先されているように思えるのは私だけであろうか。幼稚園で着実に積み上げてきた、遊び活動を通して言葉や数、子ども同士の協同の仕方、コミュニケーションの術、科学的な知識、文学的・美的な感性、他者とうまくやるためのルールなど、これから生きてゆく上での必要なことのすべては、小学校へ上がってからどこで培われるのだろうか? このことこそが幼稚園から小学校へと連携されなければならない「置き去りにされた」大切なことではなかろうか。それは、少なくとも現在ある「教科」だけでは不可能だろう。また、教師と子どもたちが一対多数の対面で学べることでもなく、子ども同士の学び合いを通してこそ育まれる資質であると思う。
 私は、この「置き去りにされた」部分について、何度か小学校の教師に質問を投げかけたことがある。「小学校での子どもたちの人格形成は、どこで行われるのですか?」。多くの場合「???」の沈黙に続いて「部活かなあ?」「生活科かなあ?」等という答えが返ってきた。これからも、多くの小中学校の教師に聞いてみたい質問である。私は、教科を学ぶことの中にこそ、その「仕掛け」がほしいと考えている。

(1)『なめらかな幼小の連携教育−その実践とモデルカリキュラム』 佐々木宏子・鳴門教育大学学校教育学部附属幼稚園著 2004 チャイルド本社


HOME[ 1 ][ 2 ][ 3 ][ 4 ][ 5 ][ 6 ]

Copyright(C)2017 Sasaki Hiroko All Rights Reserved