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鳴門教育大学附属幼稚園の保育カンファレンスより(5)
「遊誘財と教育課程」(2)

佐々木宏子(鳴門教育大学名誉教授)
2020年 4月17日

 前回の(4)では、「教育課程と遊誘財との発展的相互作用については詳しく触れることができなかったので、次回のコラムに引き継ぎたい」と述べた。本稿では、その続きを述べてみたい。

1.わが国の「教育・保育要領」にみる教育・保育の基本に関連する重視事項
 わが国の就学前教育・保育施設の「教育・保育要領」(以下、「要領」と略)は、『幼保連携型こども園 教育・保育要領解説』(平成30年3月)(内閣府 文部科学省 厚生労働省)、『保育所保育指針解説』(平成30年3月)(厚生労働省編)、『幼稚園教育要領解説』(平成30年3月)(文部科学省)に詳しい。三つの「要領」の原則は同じであり、ここでは内閣府・文部科学省・厚生労働省合同の「幼保連携型こども園」の解説にみられる教育・保育の基本に関連して重視する事項を見てみたい(アンダーラインは筆者)。(33-41)
①安心感と信頼感をもっていろいろな活動に取り組む体験
②乳幼児期にふさわしい生活の展開 (ア 興味や関心に基づいた直接的、具体的な体験が得られる生活、イ 友達と十分に関わって展開する生活)
遊びを通しての総合的な指導(ア 乳幼児期における遊び、イ 総合的な指導)
④園児一人一人の発達の特性に応じた指導(ア 園児一人一人の発達の特性、イ 園児一人一人に応じることの意味、ウ 園児一人一人に応じるための保育教諭等の基本姿勢)
 これらアンダーラインが意味する重要な事項を、私なりにまとめてみると以下のような項目になる。
1)子ども一人一人の主体性(自律性)を大切にする
2)遊びを通して保育を行う
3)活動を通して保育を行う
4)子どもが自分の興味・関心に基づいて楽しみながら活動できるように配慮する
5)子ども同士が協同して遊べるように配慮する、などである。
 実際の保育現場では、これらの「要領」の指針に基づき年間から日々のカリキュラムまでが「教育課程」として編成されることになる。就学前教育・保育のカリキュラムは、義務教育ではないので、小学校の「学習指導要領」とは異なり大まかな「保育内容領域とねらい」が示されているだけで、教科書のように細かく定められたものはない。就学前の教育・保育は「環境を通して行う」ものであり、それぞれの地域の特性を生かすことが柔軟に保障されている。私は、その柔軟性をとても高く評価している。しかし、このような「環境を通して」、「乳幼児期の遊びは重要な体験」、「子どもの興味・関心に基づいて」というキー概念は、時としてその柔軟性(言葉の通俗性と抽象性)から解釈が驚くほどの多様性と不確実性を生み出す。

2.「要領」「教育課程」に書かれている文言は、環境が異なればまるで異なった保育実践として現れる
 私は北京師範大学珠海分校(広東省)教育学院(幼児教育)に教授(2006年9月〜2007年2月)として赴任していたとき、北京師範大学(北京)の附属実験幼稚園、北京師範大学珠海分校附属実験幼稚園をはじめ様々な大都市のモデル幼稚園を見学する機会に恵まれた。また、中国(珠海)の第2回国際幼児教育学会で講演を依頼されたとき、そこではモデル幼稚園の研究発表とともに教材会社の商品開発の発表もあり、その学会のありようがわが国と大いに異なることに驚いた。研究発表内容は、新しい映像媒体などの教材を使った保育実践が多かったことが印象に残っている。当時、すでにAIを使った三歳児向けの三か国語(中国語・日本語・英語)の学習教材も出版されていて、多くの保育者の注目を集めていた。
 後でわかったことだが、中国では幼児園(中国の名称)(3歳〜6歳)のすべての教材は、「国の法律に依拠して作成され、国の教育方針を反映する手掛かりであると同時に、教育の質を規定する要因の一つである」ことを知って納得ができた。すべての幼児園においては幼児園教材が使用され、すべての幼児園教師と家族にも配布されることが前提となっているとのことである。1) 当時、同僚であった北京師範大学の教授(幼児教育)たちも、これら教材の開発に携わっていて、それらの興味深いビデオなどもしばしば見る機会があった。
 そこでわかったことは、鳴門教育大学附属幼稚園と北京師範大学附属実験幼稚園の教育方針は大まかな文言の上ではほとんど変わりはないということである。例えば両者にとって共通する大切な教育活動指針は前述の1)〜5)の重要事項と、表現は異なっていてもその内容はほとんど変わらない。両園は、平成13年(2001)に「友好幼稚園協定」を結び親しく交流を重ねていた。
 しかし、両者の保育環境はかなり異なり、結果として展開される保育の実態も大きく異なっていた。鳴門教育大学附属幼稚園の保育環境はこのシリーズ原稿の(4)で述べたように、環境構成の中核となるものは遊誘財であり、その具体的内容は4部のカラー冊子に公開されている。【〈砂・土・泥・水など / No.1、2010年〉、〈動物・植物 / No.2、 2011年〉、〈造形遊具・玩具・教材・記念物など / No.3、2012年〉、〈表現文化・生活文化 / No.4、2013〉】。
鳴門教育大学附属幼稚園には、狭い敷地ながら工夫された豊かな自然環境があり、教材や造形遊具などは子どもと保育者が長年積み上げてきた「遊び知」(子どもが遊びによって獲得する経験知)により裏打ちされたものが中心になっている。市販の商品教材などは、ブロック積み木やジャングルジムなど伝統的に使い続けられたもの以外はあまり多くない。保育は、子ども自らが選択する遊びに基づく「子ども中心の保育(child-centered education)」であり、その保育方法は子ども自らの意志で動く「活動中心の保育(activity-oriented education)」となる。
 他方、中国の大都市のモデル幼稚園では、教材が中心で、保育者が教育目的に合わせて作成したもの、もしくは前述のような原則のもとに開発・作製された幼児園教材(カード・遊具・映像・AI教材など)が中心で、保育方法はそれら教材を使ってさまざまに工夫された活動として展開されていた。ある保育者は、従来のような紙・粘土・積み木などによる机上の静的な保育活動ではなく、「子どもたちに興味を引くように様々な活動の工夫をしている」と話してくれた。
 保育実践は、保育者が準備した教材で子どもを一斉に誘導するものであっても、遊びを通して、活動を通して、子どもが楽しみながら協同できるように配慮し、子どもの興味や関心を大切にするなど、同じニュアンスの言葉で語られていた。   
 これらのモデル幼稚園は、園庭の多くはすべてラバーで覆われていて(風が強くて、砂ぼこりが立ち上がることを防ぐという説明を受けた)自然の草木などはほとんどなく、遊園地にあるような色鮮やかな大型遊具が配置されていた。その保育は、「教師中心の保育(teacher-centered education)」であり「教材中心の保育( material-oriented education )といってよいだろう。私は、同じ保育目標を掲げていてもこうまで異なった保育実践があることに驚嘆した。
私は、幼児教育の在り方は国の状況によってさまざまに違いがあることは当たり前であり、そのことを短絡的に賛否で表現するつもりはない。表面に現れている保育実践は、それぞれの国が歴史の中で子どもたちにどのような教育・保育を望んできたか、また望んでも諸般の事情で実現しなかったかの結果をあらわす、氷山の一角に過ぎないと思う。私が訪問した青島(山東省)のある幼稚園などは、自然豊かな敷地を持ち自然を十分に取り入れた保育を行っていた。
 当時、珠海で、私が講演の中で紹介した鳴門教育大学附属幼稚園の実践事例ビデオを見た保育者が、「私たちもこのような保育を実現したいと思っているが、受験教育を意識する保護者は許してくれない」と語ってくれたことが強く印象に残っている。それゆえ、現在では状況がいくらかは変化しているかもしれない。
しかし、このような私が見た中国の大都市の保育環境は、今や、わが国の大都市の就学前保育施設にも共通するものになりつつあるのではなかろうか。園庭はなく、あっても狭く、植栽などの自然環境も鉢植え程度のものしかない場合がある。子どもたちは人工的な環境の中に閉じ込められていて、多くの時間は保育者によりコントロールされてはいないか。
 よく工夫されたIT教材を使って遊ぶことは、「子ども達が主体的に取り組み、楽しく友達と協力しながら、達成感も得ていて集中力も身につく」と、賞賛する人もいる。特にAIを活用したゲームやプログラミングなどには、達成感や集中力それに論理的思考などが育まれるとの言説が多い。
 このように、「子どもが興味を持って主体的取り組み」「生き生きと自発的に働きかけ」「友達同士とても楽しんでいる」などのキー概念が、とても便利に使いまわされていることを知ると、「本来の趣旨はそういうことではない」と、言葉のみで反論しても伝わることは難しい。
子どもたちの興味・関心や身体感覚を通して行われる遊び中心の保育活動から創出されたはずのキーワード(主体性・活動性・達成感・集中力・創造性そして挫折や葛藤なども)は、いまや、保育者・おとな主導の教材教育にも当たり前のように使われている。
つまり、保育環境から自然が消え大人の手による教材が当たり前になると、実際の遊び・生活活動が生み出すものの大切さや重みが理解できなくなり、希薄になった結果なのかもしれない。AIが作る仮想的な「経験」や「活動」そして「達成感」「集中力」などは、実体験で培われた能力や自発的な遊びを通して育まれる能力・技能などとどこが異なるのだろうか。「経験」したはずのことが実生活では何の応用力もなかったり、感じたはずの「不思議感覚」や「ワクワク感」が他者によって与えられた安直なものでしかなかったりすることはないのか。これら享受型教育から得られた経験は、さらなるもっと激しい享受型経験を追い求めるという「学習態度」のみを、後に残すということにはならないだろうか。
ここからは、就学前教育・保育の「要領」や「教育課程」の条文や文言が、どれほど素晴らしくても、それらが保育の場で実践・達成されるためには、何か大きなものが欠けていることが分かる。それは何だろうか。いま、保育者が苦しむジレンマの原因は、ある意味ではこの乖離から生じているのかもしれない。教育・保育目標、教育課程の条文や文言が、どのような歴史的背景と子どもたちの「遊び知」を経て言語化されたものなのかが明瞭にイメージできなければ、条文や文言は時代の変化や利害に合わせて独り歩きを始めるだろう。

引用文献
1)蘆 中潔 「中国における幼児園教材の実態―農村部と都市部の幼児園教材の比較から―」
http://www.cf.ocha.ac.jp/cwed/j/menu/activity/a20190314_d/fil/report2017_1.pdf
(2020年4月10日現在)

参考文献
・蘆 中潔 「中国の幼児園教材」 2017 『幼児の教育』 第116巻、第3号、50-53.



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