HOME[ 1 ][ 2 ][ 3 ][ 4 ][ 5 ][ 6 ]
鳴門教育大学附属幼稚園の保育カンファレンスより(3)
「参観者からの問いかけが保育の質を高める」

佐々木宏子(鳴門教育大学名誉教授)
2019年12月20日

 附属幼稚園の場合、勤務しはじめたばかりの保育者はさておき、すでにある程度の経験年数を積んだ保育者の場合、一定のバランスの取れた保育者としての「完成形」(それぞれの個性に裏付けられた体系)を持っている。それゆえ、研究保育のカンファレンスでは、私自身は当日のみの保育の問題点をあまり採り上げる必要性を感じない。なぜならば、保育者の言動に一見「あれ!」と感じられるような様子が見られても、そこには必ず何かの理由があることが分かっているからである。
 附属幼稚園では、月一回くらいのペースで、一人ずつの保育者を対象にして「研究保育」が開かれている。その日、対象となった保育者の午前中の保育を参観し、午後からはそこで気づいたことや問題点について合同のカンファレンスが開かれる。そこには、必ず県内外からかなりの数の保育者が参観者として同席し、活発な討論が行われる。
 私にとって興味深いのは、そこで提起される参観者からの質問とそれに応じる附属幼稚園の保育者の回答の数々である。質問には大雑把に言うと2種類があり、一つはA(手掛かりになる理由が見つからない)と、もう一つはB(日頃の保育経験からいくつかの理由は考えられるが、このケースはどれだったのだろうか?)というものである。
 例えば、本稿ではAと思われる質問をとりあげてみたい。

1. 子どもが実にスムーズに、当日のカリキュラムに添って動いている。私の園ならば「まだ動きたくない」「もっとしたい」と、子どもが思うように動いてはくれない。何故なのか?
 「子どもたちは落ち着いて遊んでいる。それでもちゃんと11時には上手く終えることが出来ている。もう、子どもたちの中に「枠組み」が完成しているからなのか?」という問いの類である。
 私は、令和元年(2019)の「幼児教育研究会」で「1年間でどれくらいの比率で同じような保育活動が行われているのか、80%くらいか?」と質問したことがあった。その折、リーダークラスの保育者からは、毎年、「子どもの遊びや行事などの活動は90%くらいが繰り返しであろう」という答えを得た。つまり、就学前の子どもたちに必要な生活経験や協同遊びは、時代が変化しても、それほど変化はないとの認識である。私も、その通りであろうと思う。小学校以上のカリキュラムであっても、大人の生活であってもルーティンとしての活動は、それほど変化するものではない。むしろ、その恒常性が壊れてしまうことのほうが危険である。バランスを崩したり疲労が重なったりして、生物としての存在自体が危うくなる。
 つまり、環境と教育課程がマッチしていて、必要な経験や遊び活動の展開が子どもたちに任されていれば、自動的にある種の規律をもった活動が持続してゆくことになる。緻密に構成された教育課程と保育者側の自信が揺ぎなければ、子どもたちも揺ぎなく落ち着いて自分たちの遊びに没頭することができる。それが、園の歴史の中で何十年も続いていれば、その持続性は園全体の雰囲気のレベルにまで沁み通っている。丁度、国際都市のパリや北京などに身を置いたときに感じるあの雰囲気である。自然も歴史も風土も異なったところから立ち上がる人々の暮らしの新鮮さ・異国情緒・面白さなどである。附属幼稚園は、参観者からよく「自然体で子どもが遊んでいる」と指摘されることがあるが、その雰囲気は確かに存在するかもしれない。
 私は、かつて人間は「4種類の時間」を生きなければならないと述べたことがある。(鳴門教育大学附属幼稚園「研究紀要第39集」2005)。つまり、以下のような時間である。
 ①他者の決めた時間、時計の時間を生きる。
 ②自分で決めた(必要とする)時間を作り、その時間を生きる。
 ③自分には支配できない生と死、他者の意思、動物・植物の時間をともに生きる。
 ④宇宙が支配する時間を生きる。
 幼い子どもたちは、多くの場合、生活の中で徐々に①の「時計の時間」に従うように訓練が始まる。そのような時、子どもたちは、どのような種類の時間をベースに時計の時間(感覚)を身に付けてゆくのだろうか。附属幼稚園の場合、保育は子どもの自発的な遊び活動が中心であるため、「②自分で決めた(必要とする)時間を作り、その時間を生きる」が、まず、優先的に保障される。遊びの中で、自分が主人公であることの感覚と、時間を自分で創ることの大切さを学ぶ。それゆえ、子どもたちは、主体的な遊び活動が育む心理的・物理的時間(感覚)を獲得し、次いでそれを手掛かりに時計の時間を計り始める。時には失敗したりはみ出したりしながらも、徐々に時計の時間感覚を身に付け始める。
 子どもたちは、環境が整っていて毎日の生活が規則正しいカリキュラムで進んでいることが理解できているので、今日はここで終わっても「明日には続けることが出来る」と確信が持てる。保育者の側も今日の子どもたちの遊びが、明日にはどう展開するのかを考え環境を準備する。それゆえ、子どもたちは「まだ動きたくない」「もっとしたい」と思っても、明日への見通しが持てるためすんなりと終えることができるのだ。さらに言うならば、3歳児であれば、自らの現在の遊びが、4〜5歳と続くことも見通せているだろう。年少の子どもたちは、絶えず年長の子どもたちがどのような遊びをし、幼稚園生活を送っているのかを憧れを抱きつつ、日々観察しているからである。
 もし、子どもたちが遊びを自分でうまく終えることができないならば、それは、明日への遊び活動の継続が保障されていないからではあるまいか。次の日、幼稚園に行くと環境はがらりと変わっていたり、今日の遊びが続けられるかどうかが分からなければ、誰だって不完全燃焼で終わってしまうだろう。基本的には教育課程の連続性がうまくつながっていないことが原因だと思われる。

2. 保育活動中、園内にバラバラに広がるが保育者の位置は、どのようにして決まるのか?
 この種の質問は、附属幼稚園では何年(何十年)にもわたって様々な参観者から投げかけられる類のものである。担任の保育者が不在の状況での子どもたちの活動を観察していた参観者から、「Aちゃんが砂場でトラブルに遭遇していたが、知っていましたか」「先生は、なぜ、あのタイミングであの場所を離れたのですか」などである。
 担任は園舎に散らばるクラスの子どもたちを追いかけて、絶えず、園内を移動する。担任が不在の折に引き起こされた興味深い活動や行為について、担任はどこまで把握していなくてはならないかという質問である。附属幼稚園では、遊びは原則として子ども自身の意志に任されていて、しかも豊かな環境の構成により、子どもたちの選択肢は時空を越えて無限と言っていいくらい広がる。時空を超えるとは、外から観察できる遊びの場合、表面的には同じように見えていても、子どもたちのイメージは「ごっこ遊び」のようにどこの世界を漂っているのかわからない場合も多いからである。
 子どもたちに選択の自由と多様性が委ねられると、当然のことながら全ての情況に担任の目が届くわけではない。全ての子どもの活動と行為を物理的に「くまなく平等に」観察できる保育が望まれるならば、必然的にテーマも活動も保育者により定められた「一斉保育」という形態をとらねばならない。そのような論理で押して行くと、究極の「公平で平等な保育」とは、裏を返せば管理が徹底された画一保育ということにならざるをえない。それは規格が統一された商品が、AIでコントロールされた工場で大量生産されることにも似ている。その完成品は、同一の規格品となる。
 これを保育活動に当てはめようとすると、見えないところは「監視カメラ」で補い、子どもたちの全てを把握し尽くしてしまう(出来ているつもり)ということになるのだろうか。物理的な平等で作られた規格品としての子どもが誕生する。
 附属幼稚園では、朝のスタッフミーティングで、当日の予定されているクラスの活動を各担任が伝え、相互確認がなされる。2クラスある4、5歳児では、クラス担任の連携は日常的に行われている。絵本の部屋やおやつの部屋の調理指導者、養護教諭などの保育スタッフとも連携する。保育は、月水金のリズムで活動の流れが異なり、子どもたちもそのリズムに慣れている。保育者以外のスタッフもすべての子どもを観察していて、それらの保育スタッフからも多くの情報がもたらされる。つまり、子どもたちに多くの選択肢が与えられると同じように、保育者にも担任以外の子どもたちへと目配りをすることが課されているといってよい。そのことは担任という一つの眼鏡で子どもを意味づけるのではなく、他の保育者という複眼を取り入れることで、子ども理解に幅を持たせることにつながる。複眼の視点は、子ども理解に多様性をもたらし子どもの可能性を広げることになるだろう。
 子どもたちは物理的に担任が不在でも、その姿勢(言葉)はいつも心に響いているだろうし、また、その不在は自分たちで自己決定する機会でもあり、それは新たな創造性や冒険が促される機会にもなるだろう。保育の過程はすべてが流動的な「いま」を現しているに過ぎず、いまの「失敗」や「思い違い」は将来の大きな果実をもたらす可能性を秘めている。もし、保育者の援助を得られないまま「困った事」が生じたとしても、それはその後の的確な対処により、次なる大きな飛躍へとつながる教育課程を作成すれば良いだけだ。必要ならば、子ども自身の口から聞けば良い。彼/彼女らもその状況を語ることにより、さらなる明確な自己認識に至るだろう。
 この論争に終着点はなく、幼稚園教育の基本的なパターンを「クラスの教師vs.クラスの子どもたち」という伝統的な学校の原型とするのか、「園全体の教師たちvs.園全体の子どもたち」とするのか。それに加え「同じクラスの子どもたち同士」「異年齢の子どもたち同士」「異年齢の教師たち同士」などの組み合わせを、どのように保育に生かすのかが問われている。
 これは、保護者と子どもの関係の距離の取り方にもつながる。子どもたちが自律すると言うことは、保護者(担任)から徐々に離れて行くことを意味するわけだから、この問題は、教育というもののダイナミックス(効果)として集団保育の場でもっと語られて良いと思う。
 保育者不在の場所での子どもたち同士の活動の特徴、子ども自身に任せる時間と空間のバランス。この問題点については、まだ十分にカンファレンスの対象にはなっていないので、いつか語り合ってみたいものである。子どもたちは保育者の目の届かないところで、どのような発達を遂げているのか。少なくとも伝統的な「クラスの教師vs.クラスの子どもたち」の集団構成のパターンを重視する姿勢は、すでに平成元年の「幼稚園教育要領」からは消えているはずだ。


HOME[ 1 ][ 2 ][ 3 ][ 4 ][ 5 ][ 6 ]

Copyright(C)2019 Sasaki Hiroko All Rights Reserved