番外編・突撃、浅間山荘
 浅間小夜子は高校時代、影で『山荘』と呼ばれていた。勿論、名字が『浅間』なのと例の『浅間山荘事件』に引っ掛けてのネーミングであることは言うにおよばない。しかし、それだけでなかった。このあだ名の背景にはもう一つの理由が有り、その理由とは一人の青年――同級生が深く関わっていた。
 彼の名は佐々淳行<さっさあつゆき>――
「違う!! 俺は、佐々木淳志<ささきあつし>だって言ってるだろう? だいたい、読み方は全然違うじゃないか!?」
「似てんだから、良いじゃねえか……字面が」
 淳志の怒鳴り声にサラッと聞き流した青年、彼も同じクラスの火野芳樹という。彼が小夜子に『山荘』と名付け、淳志に『警視正』というあだ名を付けた張本人だ。理由が分からない人は、浅間山荘事件で検索すると良いよ。
 坊主頭の顔を淳志に向けると、青年はヘラッと笑みを浮かべてみせる。
「難攻不落の浅間山荘に挑む佐々淳行警視正。かっけーじゃん。映画、見たか?」
「見てない。邦画は見ないんだよ。と、さて、んじゃまあ、第……何次だ?」
 そう言って青年は空っぽになった弁当箱をカバンの中に片付け、代わりに紙袋を取り出す。
「数えてる馬鹿はすでにいないよ……で、今日は何を用意した?」
 半ば以上あきれ顔の芳樹が尋ねると、淳志は紙袋から小さなクラッカーを取り出した。誕生日パーティなんかで良く使うアレだ。それが三つ。それを手の中で弄びながら、不敵な笑みを浮かべる。
「……馬鹿だな、お前」
「なんとでも言え。紙とインクで作られた二次元に負けてたまるか」
 そう言って男は窓際の席へと足を向けた。
 そこには一人の女性……まあ、解りきってると思うが、浅間小夜子が座っている。とっくに食事を終えた彼女は、すでに昼の読書に突入中。ペラペラとめくっている文庫本が随分と薄めなのは、昼休みの間に読破できるように、と言う心遣いらしい。
「おーい、警視正がまた浅間山荘に突入するぞ! 民間人は巻き添え食うなよ!」
 戦地へと向かう淳志を視野の片隅に捉えながら、芳樹が言えば、波が引くように小夜子の周りから人が居なくなる。取り残されるのは、『本を読み始めれば、読み終えるか、火事になって本に火が付くまで、決して動かない』と評される小夜子ただ一人。
「浅間、おい、浅間」
 その小夜子の肩を軽く叩いて、淳志が声を掛ける。
 勿論、小夜子からのレスポンスはない。
 事は、最初から織り込み済み。
 彼はゆっくりとクラッカーを取りだし、構える。筒先がむくのは当然小夜子の整った横顔。
 そして、彼は一気に紐を引っ張る!
 ――三つ、一度に。
 すぱぱぱぱん!!!
 けたたましい音と共に大量の紙吹雪が小夜子の頭の上へと舞い降りる。
 されど、小夜子は微動だにしない。まるで置物だ。
「いや! 今日は動いてるぞ!!」
「……本を読むのに邪魔な紙テープを払ってるだけよ……それより、とっとと片付けなさいよ、紙吹雪」
 勝ち誇る淳志の後頭部を女性との一人がパン! と弾く。その女生徒の言う通り、小夜子は文庫本の上に落ちた紙吹雪と紙テープを払っているだけ。しかも、全て自身の椅子の下に落としているだけだから、彼女の席一帯は紙吹雪だらけ。
「へーい」
 がさごそ……ホウキを用意して、小夜子の周りの紙吹雪やら紙テープやらのお掃除。結構、うるさくやっているつもりなのだが、小夜子はいっこうに気にする様子は見せず、静かに読書を続けるだけ。
 そして、彼の掃除が終わる頃、彼女の読書も終わり、彼女は言うのだった。
「……佐々くん、何してるの?」
「何もしてないよ! それから、佐々じゃない! 佐々木だ、佐々木!」
 不思議そうな顔をする小夜子に、淳志は吐き捨てるように答える。これが二人が所属するクラスの風物詩となっていた。

 さて、淳志がこんな風に意地になったのには、勿論、訳がある。それは今から一年とちょっと前、入学式の当日の事だった。
 淳志や小夜子が通う高校は、県内において『一流の滑り止め』という評価を受けている学校だ。一流校を目指しながらもその学校に返り討ちにあった敗残者が通う学校と言う事だ。そんな学校だから、入学式もめでたさ半分、残念さ半分。もう一つランク下げておけば良かったとか、もうちょっとだけ頑張れば良かったとか、そう言う後悔を未だに腹の中に抱えた人間が数多くいる。
 そして、それは淳志も同じだった。
 彼よりもずっと頭の悪い奴が、彼の本命高よりかはグレードが低いが、それでもこの学校よりかは高いグレードの高校に入っているのを見ると、忸怩たる物を感じずにはいられなかった。
 そんな中でも、一つだけ救いという物があった。
 隣に座っている女生徒だ。
 静かに本を読んでいる姿、大きなメガネの向こう側に見える瞳はメガネに負けないくらい大きくて、綺麗な色をしていた。真新しいセーラー服もよく似合う女生徒、彼女の隣で授業を受けられるなら、この学校に来たことにも意味があったのではないか? とか思ってしまう。
 チラリと黒板上の時計に目をやる。教師が来るまでにはまだ少々の時間がありそう。だったら、声の一つでも……と、年頃の青年が思うのも仕方ないことと言えるだろう。
 詰め襟のクビ元を弄りながらに、すかさず名札を確かめる。名前は『浅間』と言うらしい。
「ねえねえ、浅間さん。何読んでるの? 面白い?」
 が、当然の事ながら、反応はない。
「おーい、浅間さん? いや、読書の邪魔してるのは解るけどさ……ほら、俺も暇だから……」
 もう一度声を掛けても、やっぱり、反応はしない。
 目を見開いたまま寝てるのかと思ったが、ページをめくっているのでそれはないだろう。
「おい! 浅間! 人が呼んでんだから、顔くらい上げろよなっ!!」
 芽生えた苛立ちが『さん付け』から『呼びすて』へと変える。もし、この時――
「その子、本を読み始めたら他の事が目に入らない子だから……許して上げて?」
 この声がなければ、一発、ぶん殴ったりもしていたかも知れない。
 入学早々の問題を起こないで済んだ恩人、ペチンと小さな手のひらを合わせ、申し訳なさそうにウィンクをしてみせる女生徒へと視線を向ける。
 そして……
「なんだよ……それ……」
 そう声を掛けると同時に、その女子生徒の愛嬌のある仕草に頭に登りかけていた血が引いていくのを青年は感じた。そして、わずかに格好を崩して、彼女の机の前に立つと、座ったままのおかっぱ頭を見下ろした。
 その淳志を見上げて、彼女は苦笑いと共に言葉を続けた。
「火事があっても本が燃え始めるまで動かない人って、前に小夜子の弟君が言ってたよ。それより、どこの中学? 私、飯島結衣って言うの。あの子と同じ共和なんだ」
「あっ、俺? 俺は佐々木淳志、山田二中……」
「へぇ〜じゃあ、結構遠いね……――」
 数少ない友人が読書に夢中とあって、彼女も暇を持て余していたのだろう。二人の間の会はそれなりに盛り上がった……のだが、淳志は、すぐ後でわーわーと楽しそうな会話が成されているのに、一心不乱に読書を続ける小夜子の方が気になっていた。

 そんなわけで、淳志はそれから小夜子が本を読んでいるときに限って声を掛けるようになった。
「読んでないときにすれば良いのに……」
 そんな淳志を見て、結衣は嘆息した物だが、本を読んでないときに声を掛けると普通に返事をするので面白くない。と言うか――
「あの女が本を閉じて、顔を上げるところを見てみたいんだよ」
 そんなしょうもない理由でずーっと読書中の小夜子に、青年は声を掛け続けていた。
 もっとも、普通に声を掛けるのは最初の半年で諦めた。その次の半年は肩を揺すったり、背中を軽く叩いたり、髪を軽く引っ張ってみたりと、若干の強硬手段に出てみた。しかし、結局、反応があったのは本と顔の間に下敷きを放り込んでみたときだけ。それとて、無言のままに下敷きを取り上げ、投げ捨てただけ。しかも、窓の外に向かって、だ。まるでフリスビーのように飛んでいく下敷きに、クラスメイト一同、拍手を送っていたのが、向かっ腹が立った。
 で、段々、その強攻策がエスカレートし始めた。
 二年に上がった辺りで紙鉄砲を鳴らしてみた。次は紙風船を破裂させてみた。それも駄目だから、ゴム風船を爆発させてみた。さらには、徒競走とかに使う鉄砲を何処かからか調達して来て鳴らしてみたり、挙げ句には爆竹を持ってきたり――さすがにこれはクラスメイトに止められた――と、まあ、結構な無茶を一年と半分ほどの間、続けて来た。

 そして、今日のクラッカー作戦も見事に返り討ち。掃除を終えて席に帰ると、そこには結衣が彼の席を占領し、芳樹とだべっている姿が合った。
「お疲れ、見事に返り討ちだったな」
 そう言ったのは芳樹のほう。
 ついで結衣も言葉を繋ぐ。
「今日も浅間山荘は鉄壁でした……と……警視正ってさ、顔も良いし、話せば面白いから、前は結構、女子に人気合ったんだけどねぇ……」
「まぢか!?」
「……まあ、警視正ってあだ名が付いた辺りから、暴落し続けて、今じゃ、ただのお笑い芸人扱いだけどね……」
 そう言って、結衣は静かに嘆息し、言葉を続けた。
「私だって……初めて会ったときは良いなぁ……って思ってたのに……」
「えっ、まじ? じゃあ、つきあわ――」
「お断りします」
 ぺこり。
 深々と頭を下げれば、肩口で切りそろえた髪がふわりと揺れた。
 パクパクと池の鯉のように口を数回、開けたり閉めたり。
 そして、青年のクビがギュンッ! と音を立てて右へと、他人事のように笑っている坊主頭へと向いた。
「お前が変なあだ名着けるからだぞ!?」
「変なあだ名を付けられるようなマネをし続けてっからだ。つーか、用事があるなら、素直にアレが本を読んでないときに声を掛けろよな……授業と授業の間の休み時間は読んでないんだから」
「いや、別に用事はないから」
 ポフッと自身の机の上、今は結衣が占領する机に腰を下ろす。それに結衣は若干眉をひそめるも、それ以上は何も言わない。代わりに淳志のお尻をシャーペン(これも淳志の)で突き始めた。
「痛いよ、飯島」
「まあ、もうちょっとはガンバってよね? 私と火野の二人で警視正がいつ辞表を出すかの賭の胴元張ってんだからさ」
「いつ諦めたら一番損するんだ? その時、辞めるから」
 突くシャーペンを手のひらで奪い取る。すると、彼女は「あっ」と小さな声を上げたが、それは無視し、奪い取ったそれをクルクルと指先で回し始めた。地味ではあるが、淳志の数少ない特技の一つ。
「後になればなるだけ、黒字幅が増えるって所だよ」
「じゃあ、今すぐに、か? それはつまんねぇなぁ……」
 友人の言葉に、青年は鉛筆を回しながらぼんやりと応える。
『キーンコーン、カーンコーン』
 そんな所で昼休みは終了。
 席を立つ二人に会わせて、淳志も机から立ち上がる。
 その立ち上がった淳志の肩を結衣がポンと一つ叩いて言った。
「そー言う訳だから、のんびりがんばんなよ。私のためにね?」
「お前のためじゃねーよ! アホタレ!」
 にこやかに笑ってその場を離れる結衣に青年は罵声を投げかける。しかし、それを坊主頭の友人と肩を並べて歩く女学生は軽く受け流し、代わりにヒラヒラと手だけを振って応える。

 そんな四人の高校生活は大きな山場もなければ、深い谷もなく、ただ、日々が穏やかに過ぎ去って行っていた。
 もっとも、小夜子は修学旅行先ですら読書をし続けて、帰ってきてから感想文を書かせたら読書感想文になってたとか……文化祭で『図書室の本コンプリート女が選ぶジャンル別お勧め書籍』をやったら、やたら盛況だったとか……高校三年になった辺り、いっこうに返事をしない小夜子に淳志が切れて、ついに禁断の爆竹使用、危うく停学になりかけたという事態があったりとか……細かなイベント事は結構沢山あったりもした。
 が、全体的には平々凡々とした日々だった。
 そして、ついにやって来た卒業式の日。その日も淳志は朝一番、窓際の席で本を読んでいた小夜子に声を掛けてみた。さすがにクラッカーだの爆竹だのを卒業式の朝からやるわけにも行かず、青年はごく普通に――
「浅間。おーい、浅間」
 たったそれだけ、余り大きな声にも出さずに投げかけた。
 そして、それに小夜子からの返事はなし。
 いつも通り。
 卒業の日までもいつも通りだったかぁ……と思うと、寂しくも思うと同時にこれで良かったような気もした。
 そして、踵を返した瞬間――
「なぁに? 佐々警視正」
「……誰が、佐々警視正か! って……うおっ!? 浅間が本を閉じた!!!」
「なぁにっ!!!!」
 読み終えたのかと思えば、小夜子の細い指はしっかりと読みかけのページを押さえている。それに気付いたクラスメイトはてんやわんやの大騒ぎ。
「みんな……失礼だよぉ……さよちゃん、泣くよぉ? それより、佐々はなんの用だよぉ?」
「佐々じゃなくて、佐々木だ、佐々木。えっ……えっと……あ……と……」
 ぶすっと膨れた小夜子が淳志を見上げる。
 それを見下ろす淳志の脳内はまっ白だった。
 と言うか、もはや、目的は返事をさせる部分であって、返事をした後の事なんて何にも考えてなかった……ので、彼は初心を貫いた。
「何、読んで――」
 言いかけたところで『ゴッ!』とえぐい音を立てて、芳樹の右拳がめり込んだ。同時に別の女生徒が淳志の腕を握って教室後部へと一気に拉致る。
「小夜子、ちょっと、アイツ、絞めてくるから! その本、開くんじゃないよ!? 良いね?」
「くすっ、うん、待ってるよ。ああ、読んでるのは『連合赤軍あさま山荘事件』って本だよって教えて上げてね」
 パタパタと駆け出す結衣を見送りながら、小夜子はにこやかな笑みと共に言葉を投げかけた。

「付き合って……くだざいっ」
 淳志は告白をした。その顔には、目の下に青たん、鼻からはダラダラと鼻血が溢れて、唇はぷっくりと膨れた挙げ句に、黒かったはずの詰め襟が蹴り跡がまっ白。クラス全員(含む教師)からの袋だたきに合った結果だ。
『浅間が本を閉じる相手なんて、今後二十年、決して出て来ないに決まっている』
 と言うのがクラスメイトの総意だった。
 まあ、当人も三年も呼びかけ続けていたんだから、当然憎からず思っていたのは、間違いない。が、他人に言われて告白というのが嫌さにゴネていたらこのザマである。
 前の席、椅子の背もたれを跨いで座る青年をじっと小夜子は見詰める。そして、その半ば強制的な告白に対し、小夜子はぼんやりとした口調でこう答えた。
「佐々って、やっぱり、私のことが好きだったんだぁ……」
 その告白を見守っていたクラスメイト達の口がポカンと開く。
「二年の終わりくらいから視野の隅をうろちょろしてるなぁ……やけに目に付くなぁ……どうしてかなぁ……って思ってはいたんだよ?」
 と、小夜子は言った。そして、淳志および聞き耳を立ててる奴ら、全員が思った
『そこに行くまで二年かかったか……』
 と。
 そんな風に誰も彼もに呆れられているとも知らず、小夜子はニコニコと底意の見えない笑みを浮かべて言葉を続けた。
「それでこの本を読んでたら、私が『浅間山荘』で佐々木くんが『佐々警視正』って呼ばれてる意味がやっと解ったんだぁ……」
 誇らしげに彼女は自身が読んでいた分厚いハードカバーを持ち上げた。それはその噂の『佐々警視正』が浅間山荘事件の顛末を書いたノンフィクション小説だ。どうやら、小夜子は浅間山荘事件なる物は知っていたが、それの陣頭指揮を執ったのが今でもちょくちょくテレビに出てくる『佐々淳行』だと言う事を知らなかったようだ。だから、自分が『山荘』と呼ばれている件と淳志が『佐々警視正』と呼ばれていることとが結びつく事はなかった。
 ゴールデンウィークの暇つぶしにこの本を読むまでは。
「……ごっ五月かよ……」
「うん」
 メガネの向こう側で大きな瞳が糸の様に細くなり、美しいアーチを画く。
 一瞬それに見惚れた。
 同時に小夜子の言葉も一瞬だけ止まった。本当に一瞬。気にしてなかったら、息継ぎ程度にしか感じないほどの一瞬。だけど、その目が少しだけ動いたような気がした……のは、小夜子の笑みに見惚れていた淳志だけだった。
 その一瞬が過ぎ去れば、彼女はすぐに言葉を紡ぎ始めた。
「それで、卒業式まで懲りずに声を掛けてたら、返事して上げようって思ってたんだぁ〜長かったね?」
 にこやかな笑みを浮かべて小首をかしげる小夜子の周りで、誰も彼もがパクパクと口を開けたり閉めたりの、池の鯉。
「って……事は、あれか? ロケット花火を飛ばしたのも……」
「ああ……あれはさすがにびっくりしたよ〜危うく悲鳴を上げるかと思っちゃったぁ〜」
「目の前でインスタントラーメン啜りながら……」
「インスタントラーメン、たまに食べたくなるよね。食べられないときは特に。危うく『一口ちょうだい』って言いそうになってたよ〜危なかったよ。アレが一番危なかったんだよ?」
 小夜子がニコニコしながら応えれば、応えるだけ、男の顔から血の気がざーっと音を立てて引いていく。背中に冷たい物がダラダラと流れる。上がっていく鼓動の意味は告白の場に相応しい物ではなくなっていく。
 出来れば聞きたくないし、聞かなくても、多分、答えは分かっているのだが、それでも聞かずにはいられない疑問を、彼は震える唇で尋ねた。
「だっ、では……えっと……あの、むっ、胸を……」
「ああ、あの時言えなかったこと、言っておくね?」
 そこまで応えて、小夜子は言葉を切った。メガネの向こう側で大きな二重の瞳がにっこりと微笑む。零れるような笑み。歌うような言葉で紡いだ言葉は――
「このド変態」
 だった。
 死にたくなった。なお、本人の名誉のために行っておくが、本当にほんのちょっとです。触るか、触らないかくらいです。その後三日ほど凹んだし……本当だよ?
(だから、お前ら、俺をそんな目で見るな……)
 主に女子からの汚物を見るような目に耐えきれず、青年はがっくりと机の上に突っ伏した。そして、両手が頭を覆い隠す。
 その頭の上にトンッと小夜子が本を置いた。
「まあ、楽しかったよぉ? いつになったら、鉄球持ってくるのかな? って」
「どうやって持ってくるんだよ……」
「知恵と勇気?」
「……お前……Sか?」
「腹黒とは良く言われるよ? 特に弟には」
 本の下敷きになった男と、その男をニマニマと底意の見えない笑みと共に見下ろす女、淡々と会話が続く。
「……今、解ったよ……で、返事は? つーか、この期におよんで断るなよ? 責任取れよな、一年近くも弄びやがって……」
「断りはしないけどぉ〜〜〜」
 淡々とした会話が小夜子の言葉でわずかに滞る。
「……なんだよ?」
「だってぇ〜佐々くん、H大でしょ? 私、地元のK大。遠いよ? 日帰りは無理だよ? 遠距離は保たないって、この間読んだ恋愛小説に書いてたよ?」
 小夜子がいつもののんびりとした口調で言うと、淳志はガバッと体を起こした。そして、頭の上に乗っていた本をバンッ! と机の上に叩きつけると、
「それでも読んで、待ってろ! 四年で帰ってくるから!」
 と言って、とっとと教室を出て行った。
 気が付けばもう卒業式のお時間直前。慌てて見入っていたクラスメイト達も教室を出て行く。
 その背中に小夜子が言葉を投げかける。
「私は本読んで待つけど、佐々くんはどうするのぉ?!」
 その言葉に淳志は足を止め、振り返り、言葉を投げ捨てる。
「佐々木だ、佐々木! もう、女にかける情熱なんて残ってねえよ! お前に振られたら一生独身だ!」
 それに残っていた連中が思わず吹き出し、そして、一斉に、淳志の跡を追うように教室を後にする。そろそろ、式場になっている体育館に行かないと全員遅刻だ。
 最後に残ったのはいつまでも自身の席に座っていたままだった小夜子だった。
 彼女は誰も居なくなった教室で静かに立ち上がると、机の上に置かれた本をポン! と一つ叩いて、呟いた。
「好きでもない人に、胸なんて触らせるか……バーカ」
 ほんの少しだけ赤くなった横顔を見ている者は、誰も居なかった。

 で、四年以上経ったけど……
「……そろそろ……りょーや君の部屋、私の本で一杯だよ?」
 とあるクリスマスの当日。小夜子は家で明石家サンタを見ながら、コードレスフォンを肩に引っ掛け、電話をしていた。
『……いや、えっと……転勤願いは出してるんだよ? マジで……』
 相手は淳志。いる場所は東南アジア某国。
 淳志はちゃんと約束通りに地元の企業に就職した……が、赴任地は国外だった。製造機器プラントの保守点検および工場監視の仕事をやっているらしい。
「……一年が可愛いんだよ?」
『……お願いだから、犯罪だけは辞めろよ? 振られた上に元カノが淫行教師とか、死にたくなるから』
「同窓のみんなになんて呼ばれてるか……知ってる?」
『何?』

「一人よど号グループだよ……出て行ったきり帰ってこないから」

『たまには帰ってきてるだろう!?』
 そんな叫びは不機嫌一直線な小夜子には勿論届かなかった。

 で、こういう電話をした数日後に――
「じゃぁ、ねーちゃんはどうなんだよ……どうせ、クリスマスだって仕事してたか、部屋で本を読んでただけだろう?」
 弟、浅間良夜がこう尋ねたのは、この電話の二日後。自宅から飛行場へと向かう車の中のことだった。詳しくは『里帰り(4)』参照。
 その時、良夜は勿論、前後の事情なんて物は知らなかったが、その前後の事情という物を知ったとき、青年は――
「すげーな、俺……地雷探させたら日本一かも……」
 と、思わず呟いた物だった。

 その前後の事情という物を知ったのは、淳志が日本に帰ってきた二年後、二人の結婚式の場だった。

 追伸、良夜が小夜子を飛行場に送って半日ほど経った頃……
「来ちゃった」
 両親のいるオーストラリアに行く……と言って飛行機に乗ったはずの小夜子は東南アジア某国某製造機器メーカー単身者寮にいた。
「うわぁっ! 出た!!」
 アポなしで……

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