三島和明という老人
 を、ひと言で言い表せと命じられたとき、たいがいの知人達は『好々爺』という言葉を使う事だろう。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの内側、芳ばしいコーヒーの香りと共に出迎えてくれるのは静かな言葉。いつもコーヒーを煎れているか、お気に入りのパイプを磨いているか……もしくは可愛い孫娘から隠れて喫煙を楽しんでいて、見つかったら見つかったで――
「この件はご内密に……」
 そう言う時はいつも、老人は人差し指を口元に当てて、柔らかい笑みを浮かべていた。その顔には深い深い皺が刻まれているにも関わらず、どこか子供っぽさが残って、見る者を呆れさせるというか、なんというか…………ただ、そこで見た物を美月に言う者は未だかつて、ただの一人としていないと言う事実だけが残されていた。
 そんな感じで、バイトウェイトレスとして、バイトウェイターとして、そして客として、アルトから旅立っていく若者達を見送り続ける老人を、彼の知人達は――
「まあ、好々爺って所かなぁ……」
 と、評価していた。
 だがしかし! そんな評価に対して真っ向から異論を唱える者がいた。
「なぁにが、善良でやさしい老人、よ!(by辞書)」
 喫茶アルトに住んでいる妖精アルトちゃんだ。
「……また、苛められたのか……」
 面倒臭い姉を追い返して気持ちよくランチでも食べようか……と思ってやって来た喫茶アルト、そこで待ち構えていたのは顔を真っ赤にした妖精さんだった。帰りたくなったけど、すでに凪歩に注文しちゃってるから、帰るわけにもいかない。仕方ないからいつもの席に座ったら、始まるのはアルトの老人への愚痴大会。
「今日は起きたら胸の上に大皿が載ってたのよ!? 大皿!! 安いのっ!!」
「……高けりゃ良いのか……?」
「なんでも高級な方が良いに決まってるでしょっ!」
「……まあ、肌触りが良いかもな」
 ストローふりふり、大声で言うアルトから視線を外して、こっそり嘆息。
 それに気付いたアルトがさらなる大声を上げる。
「真面目に聞きなさい!」
 怒り狂うアルトの言葉を聞くに、どうやら、昨夜アルトはシンクの上に敷いたフキンの上で寝ていたらしい。濡らしたフキンの上にビニールを被せる、さらにその上に乾いたフキンをもう一枚敷くと、ちょっとしたウォーターベッドっぽくなる。熱帯夜でも良く眠れるお気に入りのベッドだ、そうだ。
 で、気持ちよく眠っていたはずなのに、明け方、どーも寝苦しい。霞む目を開いてみれば、胸の上には大きなお皿が一枚。美月が近所のスーパーにて五百円で買ってきた大皿だ。それがどーんと鎮座している。
 余りの事に事情を把握するのにたっぷり一分必要だった。大皿の下でキョロキョロしてみたら、コンロの前でパイプをくゆらせながら調理している老人が居た。
 それを見詰めることしばし。霞んでいた目の焦点が合ってくると、老人の横顔に張り付いた表情が見えてくる。鼻歌交じりに調理をしている横顔だ。物凄く楽しそうなそこには、長い付き合いだからこそ理解出来る何かがあった。その何かと胸の上で存在感を増す大皿との間に一本の見えない線がピーッと産まれてくる。
「…………ああ……」
 脳みその焦点も次第に合ってくれば、それに比例するかのように彼女の唇が大きく開いていく。そして、お腹の底まで大きく息を吸って――
「和明!!」
 と、激昂した瞬間、カチンと言う陶器の小さな音。視線を遠くの老人から、胸元へと戻して、三秒の沈黙。
「……ちょっと、これ、危ないわ……」
 真っ裸で薄い胸の上、危ういバランスを保つ大皿を支えて、そこから体を引っこ抜く。それでもまだフキンの上ではちょっと不安定そう。仕方がないから、アルトから見れば十分過ぎるほどに重い皿を掴んで移動。丁寧にシンクの平らなところに安置する。

 ここまで話して、アルトはポンと軽く手を打った。
「冷静に考えて、和明が掃除するんだから、割っちゃえば良かったのよね……」
「……危ないから止めろ……」

 閑話休題。
「……んっしょっと」
 取り除いた大皿をチョンチョンと指先で軽くつついて、触っても落っこちない事を確認。
「これでオッケー……とっ……和明!!! 今日こそ殺してやるわっ!!!」
 大皿に背を向け、彼女は片隅で調理中の和明を見やる。その目は獲物を狙う鷹! のつもり。
 しなやかな裸体をぐいっと屈ませ、一気にシンクを蹴っ飛ばす。宙へと舞い上がる小さな体。普段ならば人の背丈よりも少し高いくらいまでしか飛び上がれないが、今日は怒りが彼女に力を与えたのだろう。天井にまで舞い上がると、くるりと体を半回転。天地逆さまになったら、石膏ボードの天井を力一杯蹴っ飛ばす!
 ストローを強く直胸元に抱いて、老人めがけて急降下!
「アルトちゃんスパイラルアターック!!」
 ちなみにスパイラルとか言ってるが、きりもみとかにはなってません。ただの気分。
 そんな感じでアルトが急降下姿勢に入った直後、軽く俯いていた老人が顔を上げた。顔を向けるのは砂糖や塩などが綺麗に並べられた一角。そこにある胡椒の器に手を伸ばせば、彼の頭が元あったところから半個分ほど右に動いた。
「えっ?」
 その半個分の空間に妖精さんの体が通り抜ける。
「うっそぉ〜〜〜!!!」
 羽を広げて急ブレーキ……も、アルトは急に止まれない! 眼下に迫り来るはちんちんに焼けたフライパンと分厚いベーコンとスクランブルエッグ!

「と、言う訳で危うく今朝のモーニングが妖精さんの炒め物になる所だったわよ……先着一名様」
「……ならなかったんだな……」
「毛先がちょっぴり焼けたわ……食べたの、和明だから良いけど」
 どうやらギリギリで止まれたらしい。と言うか、思わず、体を小さく縮められたから良かったようなものの、伸ばしてたら顔面がこんがりと焼けてしまっていたに違いないというタイミングだったそうだ。
「一つ間違えたら大怪我よ!」
「……火を使ってる人にちょっかい出すなよ……危ない」
 呆れる良夜にツーンとアルトはそっぽを向く。都合が悪くなったら無視を決め込むらしい。その様子に「はあ……」と溜め息。
 それに反応するがごとく、彼女はキッ! と視線を良夜の方へと向けた。
 ついでにストローも。
 びゅん! と大きな風切り音を立てて切っ先が良夜をまっすぐに指し示す。
「ともかく、あれが好々爺だなんて、私は認めないわよ。いつもいつも私の事を苛めるんだから……それに若い女の前に出たら妙に張り切るし、あれの大人げなさはハンパないわよ」
「あっ、誤魔化した……」
「うるさいわねっ! だいたい、今日の一件だって、昨日、私が脅して病院に行かせた事への意趣返しに決まってるわ! いちいち、やる事が子供じみてるんだから!! この間だって……――」
 余計な突っ込みでアルトの短い導火線に火が付けば、あっという間に大爆発。ネチネチと、カフェオレボールの中で寝てたら蓋をされてたとか、寝てるところにタバコの煙を吹きかけられたとか、寝苦しいから熱帯夜かと思って目覚めてみたら分厚いタオルが掛けられていたとか……
「しかも、タチが悪い事に、サラッとカウンターの隅っことかにコーヒーが置いてあるのよ……もう、機先が制されるというか、なんというか……――」
 一旦、彼女は言葉を切ると、今度は斜め下へと視線を向けて「はぁ……」とため息を吐く。そして、その溜め息がアルトのフロアへと広がっていくのを見送り、彼女は言葉を重ねた。
「それで誤魔化される自分が浅ましくて、浅ましくて……」
「ああ、そこは理解してるんだな……」
 呟く良夜にアルトはコクンと頷くも、その視線は斜め下。しばらくの間、彼女の視線が青年のそれと交わる事はなかった。

 そんな感じでランチが届けられるまでのちょっとした時間を、二人は適当な話で費やしていく。割とありふれた日常風景。
 その日、良夜の元にランチを届けたのは最近、めっきりフロアに出てくる頻度が減った美月だった。しかも、そのトレイには二人分のランチ。それを良夜の座るテーブルにちょいちょいと手際よく並べていく。
「あれ、もう、お昼休憩?」
「ええ。折角ですから……」
 少し早いかなと思う良夜が素直に尋ねると、彼女は答えながら席に腰を下ろした。
 今日のランチもパスタ、暑いからとトマトとモッツァレラチーズの冷製パスタ。細いカッペリーニに良く冷えたトマトソースが絡んで美味しそう。
「頂きます」と軽く挨拶をしてから、早速一口口に運んだ。
 想像通りの美味しい味に良夜もアルトも頬がほころぶ。付け合わせはボイルしたイカとサニーレタスにバルサミコ酢のソースがかかったサラダ。さわやかな酸味はレモンを少し搾っているかららしい。夏にはどちらも美味しい料理だった。
「それでですねぇ……ちょっと相談がありましてぇ……良夜さんに、と言うよりかはアルトに、なんですけど……」
 同じ料理を食べていた美月の手が止まり、青年の顔を覗き込む。
 それに良夜はテーブルの上、ストロー一本で器用にパスタを食べるアルトへと視線を落とす。どうやらアルトも心当たりはない様子。食事の手を止め、フルフルと長い髪ごと首を左右に振った。
「昨日、お祖父さんが接骨院に行ったのはご存じですか?」
「ええ、まあ、一応、聞きました」
 神妙な面持ちの美月に釣られるように良夜も神妙な顔つきになる。
「それでですね……実は接骨院の先生がお祖父さんに運動不足をどうにかしないと、早死にするぞ……って」

 さて、三島和明氏のある日過ごし方。
 太陽が目覚めた直後くらい、大きな音で鳴る目覚まし時計にたたき起こされる。だいたい、美月が起きる二時間ほど前。
 手早く服を着替えたら、フロアーでまずは一服。ゆっくりとパイプに刻みタバコを詰め込んだら、これまたゆっくりとくゆらせる。起き抜け、生まれたての空気をタバコの煙で汚すのは、まるで新雪の上に第一歩を刻むようで気持ちが良い。
 一時間ほど掛けての一服を終わらせると、換気をしながら朝食の用意。ベーコンエッグとフレッシュサラダ、それにフルーツの盛り合わせ。それと勿論、煎れ立てのコーヒー。ベーコンエッグがハムエッグになったり、ポークウインナーと目玉焼きになったりする事もあるが、まあ、だいたい毎日、似たような感じ。
 用意が終わる頃には孫娘が下りてくるので、窓際隅っこの席でパイプを磨きながらに出迎える。
 彼女が目の前に座ったら、二人で朝食を取りながら簡単なミーティング。夏休みは暇も多いが、ディナーの予約客は毎日コンスタントにあるので要注意。
 そして、ここからが本番。
 カウンターに入る。
 隙を見つけて隠してある丸椅子に座る。
 客が来たら立ち上がってコーヒーを煎れる。
 煎れたら座る。
 時々、パイプを磨く。
 貴美や凪歩達フロア組や馴染み客と雑談したり、スタッフ達の休憩用にコーヒーを煎れてあげたり……翼が練習代わりに作るまかない料理を頂いたら、制作者が味の感想を聞きに来るのでちょっとしたアドバイスを上げたりもする。抽象的で要領を得ない美月のそれに比べると解りやすいそうだ。
 そんな感じでのんびりダラダラ……ラストオーダーまでカウンターの中で過ごす。
 それが過ぎたら、他のメンツが掃除をしたり、レジ精算をしたりしている間にお風呂を洗って、一番風呂を頂いたら、お休みなさい。
 以上。

一息に告げたせいで喉が渇いたのか、美月はお冷やを一気飲み。ほふぅ〜と大きく息を吐いたら、空っぽになったグラスをテーブルの上に置いた。
「なお、お手洗いに行くというのは割愛してます。すぐそこですし」
「……いちいち言わなくて良いですよ、美月さん……」
 ちなみにタバコ云々の部分はアルトの補足説明。美月が思って居る和明の起床時間は実際のそれよりも一時間遅いし、美月が今言った『お手洗いに行く』という物の中には、お手洗いの中でタバコを吸っているというのもあったりする。そこは勿論、トップシークレットだ。
「しかし……見事に動いてないわね……」
 呆れかえっていたアルトがポツリと呟く。
 元々、和明は喫茶アルトの中では置物傾向であった。しかし、それでもランチタイムなんかになれば、和明が注文を取りに行ったり、出来上がった物を運んだりしないと店が廻らないと言う事も決して少なくなった。
 それが凪歩と翼の入店以来、ほとんどその必要がなくなった。
 おかげさまで、和明の置物傾向は加速する一方。そして、良く考えてみるとそれに比例するかのようにぎっくり腰になる頻度も上がっている……ような気がする、とは喫茶アルト女性従業員および妖精さんの総意に近い物だ。
「とりあえず、軽くウォーキングでもさせたら? 美月さんが朝ご飯を作る様にして、その間に……とか」
 そう言う提案を良夜がすると、美月は「はぁ……」と大きな声でため息を突いた。
「良いアイデアだとは思いますが……それ以前にですね……」

「明日死んでも早死にって訳でもないと思いますが……」

「と、開き直ってまして……」
 告げる美月の言葉に良夜は思わず絶句する。
 それにつられて美月も溜め息と共に絶句。
 唯一言葉を発しているのは――
「ほら見なさい」
 と、『和明大人げない大人説』を主張していたアルトだ。
「こういう所が子供じみてるって言うのよ。自分が歩くのがかったるいだけの癖に。ね? 私が言った通りでしょ?」
 彼女は薄っぺらな胸をグイと反り返らせて言う。腰に手を当てる姿が随分と偉そうだ。
「まあ……それはともかくだけど……でも、ほっとくわけにも行かないよなぁ……」
「そーなんですよ〜それで、何か良いアイデア、アルト、ないですか?」
 そう言って美月は視線を良夜からテーブルの上、良夜のお皿が置かれた辺りへと落とす。だいたい、アルトが居る辺り。
「って……言われても……あのタバコの隠し場所は多分、もう、変えられてるでしょうし……」
 尋ねられるとアルトはパスタの乗った皿の片隅にちょこんと腰を下ろした。そして、テーブルの上にカツンカツンとリズムを取るようにカカトをぶつける。腕組みした胸元に乗る顔は珍しく真面目な物。しかし、何度も何度も首を捻りながら「うーん」と唸っている姿を見るに、良いアイデアがひねり出される様子は全くなさそう。タバコの隠し場所も変えられているだろうし、それを探して……って言うのは難しいだろう。意外とそう言う所は抜け目がない……と言うのがアルトの弁。
「……何か言ってます?」
「えっ……あっ……かっ、考え込んでるよ」
 聞こえない美月に尋ねられて、思わず良夜は言葉を噛む。うわずる声での誤魔化しであったが、美月は「そうですか……」とだけ言ってあっさりと引っ込んで一安心。
「恋人に嘘は良くないわよ?」
 そう言って、右目だけで良夜を一瞥。その一瞥に良夜も一瞥だけ返せば、彼女は組んでいた腕をぐーっと伸ばす。そして、少し芝居がかかった仕草で首から肩にかけてを何度も揉んで見せながら、口を開いた。
「和明って昔からスポーツとか嫌いなのよね……見るのもやるのも……サッカーのワールドカップどころか、王の七百五十六号とか東京オリンピックも札幌オリンピックも全部スルーよ!? 日本人としておかしいでしょう!? と言うか、私が見たかったのっ!! 世間の人と一緒に盛り上がりたかったのっ!」
「……思い出し怒りは止めろ、面倒臭いから……」
「……良夜さん? ちゃんと通訳してくれないと、そのランチの社員割引、なくしますよぉ?」
 良夜が産まれるよりはるか以前の話を思い出して、アルトはぶち切れ。ビュンビュンとストローを振り回す妖精の姿に冷たい視線を送っていたら美月が膨れるので、その様子を伝える。
「……歴史の生き証人ですよねぇ……」
「……むしろ、歴史の生き証人になり損ねたからイラッとしてるのよ……って、伝えて」
「……――って言ってる。まあ、そんな話はどうでも良いけど……どうしようか?」
 そう言って良夜は腕を組み、頭を捻る。
 美月も同じ。
 アルトも同じ。
 そして、数分流れて、不意に美月がぽん! と手を叩いて言った。
「あっ! そーでした」
 大きな目を大きく見開き、ピンと右手の人差し指を立てる。
 も、アルトは冷たく応える。
「大した内容じゃないわよ……」
 そう言うアルトを一瞥、すぐに美月に視線を戻す。そして、良夜が何? と尋ねると、美月は満面の笑みで言った。
「カッペリーニは伸びやすいので、早く食べましょうね」
 まあ……正論だし、ある意味大事な事だった。

 美月の休憩が終わるまで、雑談を交えた話し合いが持たれた。しかし、良いアイデアという物があっさりと出てくるわけもない。結局……
「何か、考えておいて下さいねぇ〜」
 と、人任せな台詞を残して、美月はキッチンへと消えていった。
「……で、思い付く?」
「付くわけないでしょ……」
「だよなぁ……」
 それを見送るアルトと良夜がポツリと呟く。
「しかし、店長、なんでそんなに運動とか嫌なのかね……」
「……じゃあ、貴方は何かしてるの? 運動」
「……一年の前期じゃ体育の授業、取ってたぜ? 週一回、体育館に集まってドッジボールやってただけだけど……」
「……どこの小学生よ……? 要は面倒臭いだけよ。腰が痛くなるのも年だから仕方ないって思ってるんじゃないのかしらね?」
 食後のアイスコーヒーをストローでチューチュー吸ってる妖精が言うと、良夜は「そんな物か……」と相づちを打った。
「でも、筋肉が弱いと何かあったとき、それこそ、あっという間に寝たきりよねぇ……」
「運動しないと、骨も弱くなるって……その体育の授業で言ってたなぁ……」
 そう言って二人はまた黙り込む。
 そして、次に声を発したのは、案の定というか、やっぱりと言うべきか……
「だぁぁぁあぁ、もう、なんで、私が和明のために悩まなきゃいけないのよ!?」
 ぷっちんと、アルトの大事な何かがぶち切れ、彼女はヒステリーを起こす。そして、ぴしっ! と良夜にストローの切っ先を向けると彼女は言った。
「あれが早死にしたって私は困らないわっ!」
「……その場合、コーヒーを煎れるのは時任さんになるぞ……キッチン組はキッチンから出て来ないし、吉田さんもいつまでここに居るか解らないし……」
「えっ、あっ、ちょっと待って……それは困るわ……凪歩が煎れると本気で不味いよ。店が潰れちゃう!」
 良夜の冷静な言葉にアルトの顔色がなくなり……そして、良夜の額に冷や汗が流れる。そこが一番心配なんだぁ……と思うと、昨今、老店長のアルトへの風当たりが強いのも仕方ない事なのだろうと、思えてくる。
 とは言っても、そうそう簡単にアイデアは浮かばない。結局、二人してコーヒーをチビチビ飲みながら、ウンウンとうなり声を上げ続けるだけの時間が無為に過ぎていった。
「どうしたんです? そんなに唸って」
 そんなときに顔を出したのは、最近、姿を余り見なかった直樹だ。確か、自動車の免許を取るために海から帰った後は朝から晩までずーっと本屋でバイトしているとか言う話。もう少ししたら、自動車学校にも通い始めるとか……
「ああ、大したことじゃないよ……それより、免許の資金集めは順調か?」
「ボチボチですかねぇ……給料は良いんですけど、お金が出来ると妙なところでお金が必要になったりもして……」
 良夜が声を掛けると、青年は向かいの席に腰を下ろしながら、苦笑いで応える。
「また、お巡りさん?」
「……――ってアルトが……そうなのか?」
「今回は違いますよ」
 アルトと良夜が直樹に視線を向けると、彼の苦笑いがさらに困ったような物へと変わった。
「足下……靴が破れちゃって……」
 そう言って直樹はテーブルを……正確に言うならば、テーブルの下にある自身の足を指さした。
 普段の彼はスニーカーを履いていて、そのスニーカー、左のつま先にはプラスティックのパッドをつけていた。つま先でギアを操るバイクにはそう言う物が必需品……なのだが、オートバイに乗り始めた高校の頃から、ずーっと同じパットを使い続けていたものだから、寿命が来てしまったようだ。硬化しきってしまったプラスティックパッドは、バイト先の本棚の角にぶつけた拍子にパキンと割れてしまった。
「それでも、バイトが忙しくて新しいのを買いに行く暇がなくて……ほったらかしにしてたら靴の方まで穴が空いちゃって……」
 で、仕方ないから久し振りに取った休みの今日、朝から靴屋で靴を買って、バイク屋で新しいパッドを買って……帰ってきたらこの時間、と言う訳だ。
「はは、そりゃ、ついてなかった……――ああ……そうだ……」
「何?」
「どうか……しました?」
 直樹の話に笑っていた良夜が、ふと声を上げると、アルトと直樹の顔が一斉に青年の方へと向いた。
「ああ、直樹は聞いてないだろうけど……」
 と、童顔の青年に今までの話を説明すれば、彼もやっぱり苦笑い。
 一方、さっきまでしていた話題をもう一度聞かされるハメになった妖精さんは、ほっぺたを膨らませて――
「ちょっと……直樹は良いから、早くしゃべりなさいよ」
 と、ほっぺたがぱんぱん。その頬を軽く突いてやると、また、膨れる。フグだな、コイツ……
「もう! 余計なちょっかい出さないで、さっさとしゃべりなさいよ!」
 膨れるアルトの額をもう一度突いたら、話を再開。
「だからさ、靴でも美月さんにプレゼントさせたら、店長だってちょっとはやる気になるんじゃないのか?」
 良夜としては凄く良いアイデアだと思った。孫娘からのプレゼントなら、それを死蔵するというのも良心がとがめるのではないか? と言うか、良夜だと物凄く使わなきゃいけない気がしてくる事、請け合い。
 だがしかし、二人の反応はイマイチだった。
「ああ……僕も吉田さんから誕生日プレゼントにジャージを貰いましたが、見事に死蔵してますよ」
「なんか、一息足りない感じがするのよねぇ…………あと、直樹、それを自慢しないで……」
「――って、アルトが言ってる。前半はともかく、後半は俺もそう思う」
 直樹が屈託のない顔で言ったら、即座に二人から突っ込み。あぐっと青年は言葉に詰まったかと思うと、テーブルの上にのの字を書き始める。男だが童顔だからちょっと可愛いので、よしとする。
「ああ……でも、基本的なアウトラインは悪くない気がするわねぇ……もうひとヒネリ……」
 そう言って腕組みをしつつ、悩む事、数分……
 そうこうしているうちに、貴美がいつもの営業スマイルを貼り付けた顔を喫茶アルト窓際隅っこの席に出した。彼女のトレイに先ほどまで良夜と美月が舌鼓を打っていたランチセットがワンセット。
「お待たせしました、本日のランチです」
 トントンとテーブルの上に並べる貴美を、アルトはしばらくの間、無言で見上げて居た。じーっと見上げ、大きな金色の目だけが貴美の手を追いかけるように動き続ける。監視して居るみたい。そして、貴美が一通り全ての食器を並べ終えたところで、ポン! と手を叩く。
「あっ……うん、これなら和明の事だから、きっと大丈夫……ちょっと良夜、貴美に伝言! えっとね……んっとね――……」
 わざわざ、良夜の方にまで飛び上がって、妖精は耳打ちをする。他の誰にも聞こえないだろうがと思うが、この辺りは様式美らしい。そして、彼女の悪巧みが耳元で囁き終える。
「吉田さん……」
 小さな声で貴美を呼んで、「何?」と尋ね返す茶髪のウェイトレスを手で制する。そして、少しだけ口を閉じて、その口の中でアルトから伝えられた言葉を咀嚼。自分の言葉に消化し終えると、少し不機嫌になりかけていたウェイトレスに計画を伝えた。
 言葉が伝えられるがごとに、への字になっていた眉が平らになっていき、眉と眉の間に刻まれていた渓谷が埋め立てられていく。
 そして、最後まで言葉を聞き終えると、彼女は大きく縦に首を振る。上げた顔は満面の笑み、どこか色っぽい唇が紡ぐ言葉は……
「……良いよ。面白そうだし」

 そして、数日後……
「テーンチョ! なんか、一念発起してウォーキング始めるんだって?」
 朝、出勤してきた貴美が満面の笑みを浮かべて和明に声を掛けた。その手には大きなビニール袋が一つ。
 しかし、老店長は貴美の言葉に「えっ?」と小首をかしげた。
「……いいえ、そんな事、しませんが……」
「でも、接骨院で運動不足だって言われたらしいじゃん。美月さんがやらせるって言ってったよ?」
「ああ……でも、もう、年ですからねぇ〜」
「ンな事ないって……まだまだ、若いって。だからさ――」
 一旦言葉を区切って、彼女は手に下げていた大きなビニール袋からこれまた大きな箱を取り出した。某有名スポーツ用品メーカーのロゴが入った箱だ。それを半ば押し付けるように彼に渡す。
「これ、美月さんと私とそれからなぎぽんとつばさんがお金出し合って、買った奴だから……ゼーーーーーーったい、使ってね?」
「あっ……いや……その……」
「そのサイズ、誰も合わないって言うからね? 捨てるんなら、自分で捨ててよね?」
 ぎゅーっと押し付け、反射的に老人が手でその箱を押さえると、貴美はパッと手を離す。そして、サッと両腕を後ろに回してしまえば、もう、和明がそれを返す場所はない。
 中身は勿論、某有名スポーツ用品メーカーのウォーキングシューズ。軽くて履き心地も良く、足への負担も小さいという優れもの。それを胸に抱いて、老人の額には一筋の汗が滴る。

「まあ、女の前ではかっこつけたがる男だもの。四人、全員がお金出してるって聞いたら、多少は気を遣うわよ」
 そう言うアルトとの読み通り、老人は翌日から、渋々ではあるが、早朝のウォーキングを始めた……もっとも、四十分かけて駅まで行って、そこの喫煙コーナーで三十分タバコを吸って、そして小一時間かけて――上り坂だから時間が掛かる――帰ってくると言う非常にのんきなものなのだが……

 そして……――
 キッチンの片隅、シンクの上。丁寧に畳まれたフキンの上で眠る妖精の上には、フカフカのタオルがごそっ! とかけられ、その上にはご丁寧にも使い捨てカイロが鎮座ましましていた。
「って、暑いわよっ!!! 物凄く暑いから!!! てか、暑いじゃなくて、熱いよ、熱い!!!!」
 そして、和明のアルトへの風当たりが物凄く悪くなった。
 なお、誤魔化すためのコーヒーはちんちんに涌いたホットコーヒーである……毎日三十度越えの日々だというのに……
「いちいちやる事が子供じみてるのよっ!! ばかーーーーー!!!」
 そう叫ぶ妖精の声が、まだまだ暑い喫茶アルトのフロアどころか、外にまで響き渡っていた。

「……あっ……飲むんですね。これだけ暑くても……」
 そして、ほんの少しだけ中身の減ったカップを片付けながら、老人は独りごちるのだった。

 追伸……
 真冬になったら、凍結一歩手前のコーヒーシャーベットでも出てくるのではないのか……と言うアルトの不安は思いっきり的中する事になる。

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