姉と弟(完)
 喫茶アルトの営業開始ちょっと前。小さな妖精アルトちゃんはカウンターの片隅に浮遊していた。目の前にはカウンターに備え付けられた引き出しがいくつか、背後には彼女の家族、三島和明と美月のお二人。
 そのお二人、事情もしらされずに連れてこられた美月はキョトンとした顔で辺りを見渡しているが、対する和明の方は珍しく苦々しい顔で一点を――カウンターに備え付けられた引き出しの一点を見詰めていた。
「……つべこべ言うと、ここのこと、ばらすわよ?」
 こつこつとストローの先っぽで縦三つ並んだ引き出しの中、一番下の物をこつこつと叩いてみせる。つついてる姿も、ストローが磨き抜かれた引き出しを叩くカチカチという音も聞こえていないはずだが、老人の表情がさらに苦々しい物へと変わる。
「……あの、何があるんですか? この引き出し、開ければ良いんですか?」
 一方の美月はと言えば、アルトに髪を引っ張られ、ここまで連れてこられて少し不機嫌そう。荒れた指先を引き出しの小さな取っ手へと伸ばすと、ついっとそれを引っ張る。
「あっ……」
「……空っぽ、ですよね?」
 ロマンスグレーの老人が小さな声を上げるのと、黒髪の淑女が落胆の声を上げたのはほぼ同時。
 空っぽの引き出しをスポッと引っ張り出すと、美月はその引き出しをひっくり返したり、裏を見てみたり……しかし、そこになんらおかしな点はない。ただのありふれた引き出しだ。それが美月の表情をますますキョトンとさせていく。
「でも、あっさり引き抜いてくれたのは助かるわねぇ〜ねえ、和明?」
 ニマリとアルトは底意地悪く微笑む。
 もし、美月にもう少し注意力があったなら、その引き出しの長さとカウンターの奥行きとの間に大きな差があることに気が付いただろう。もっとも気付かないからこその美月なのだと、アルトは思う。
 本命は引き出しを引き抜かれ、ぽっかりと大口を開けている空間、その奥だ。そこには亡くなった美月の祖母、和明の伴侶、真雪が作った隠し引き出しがある。元は彼女がへそくりを隠していた場所なのだが、彼女の死後、そこの存在を知った和明がパイプやら刻みタバコやらを隠す場所にしていた。
 アルトはこれを美月に――大のタバコ嫌いである美月にばらすと脅しているのだ。まあ、察しの良い和明はともかく、根っこから呆けてる根ボケ姉ちゃん相手にそれは難しいかもしれないが、いざとなれば良夜経由でもかまわない。
 てな感じのことを的確に察したのだろう、和明の両肩ががっくりと落ちた。
「……ああ……解りました、解りました。それじゃ……――」

「てな感じで、覚悟を決めて病院に行ったわよ……って、接骨院だったかしら?」
「……どっちでも良いけど、店長まで強迫するなよな……世話になってんだろう?」
 食後のアイスティを片手に良夜はあきれ顔。クイッと半分ほど一気に飲み干すと、青年はそのグラスをトンとテーブルの上に戻した。普段ならコーヒーなのだが、今日は新人二人と貴美しか居ないのでアイスティを飲んでいた。貴美もコーヒーを煎れることはあるのだが、常連客の間では『微妙な感じがする』というのがもっぱらの評判。好んで飲みたがる者はあまりいない。
「世話になってるから、脅してでも医者に行かせるのよ……ああ、憎まれ役を買って出るなんて、なんてけなげな妖精さん」
 自身の体を細い腕でギュッと抱きしめ、しなを作ってみせる……も、良夜はポツリとひと言漏らす。
「……嘘だろう?」
 冷めた一言を投げかけると、アルトは自身を抱きしめていた手をパッと離して良夜の顔を見上げて答える。
「嘘よ」
 真顔の冷めた表情で青年を見上げれば、彼は小さく嘆息した。
「……店長も大変だ……」
「ここしばらく負けが混んでたのよねぇ……何年ぶりかしら? 和明をやり込めたの」
 ため息混じりの呟きを軽く聞き流して、顎の下に指を置いて最近のことを思い出してみる。昨日、一昨日、一年前、二年前、十年前と順番に思い出してみて解ったのは、彼が『老人』と一般的に呼称される年齢になってからずーっと負けっぱなしだって事だった。その事実がアルトの顔をしかめさせた。
「どうした?」
「何でもないわよ!」
 キョトンとした顔の良夜が尋ねると、アルトは吐き捨てるように答える。それがますます良夜の顔を怪訝な物に変えさせるが、青年はそれ以上の追求をすることはせず、代わりにひと言だけ言った。
「さいですか……」
「さいですよ……っと、それより、小夜子と一緒の席に座らないの?」
 そう言ってアルトはテーブルの上から、フロアの方へと視線を向けた。そこは壁からの死角になって見づらいが、まだ一ダースからの高校生達とそれを引率する小夜子が居るはずだ。てっきり、そっちで食事をするのかと思っていたらこっちに来て、ちょっと拍子抜け。まあ、凪歩もパタパタし始めて座り心地も悪くなってきたから、話し相手になってくれているのは丁度良いのだが……
「久しぶりに会ったんでしょ?」
 アルトが言葉を続けると、良夜の視線が壁越しにフロアへと動いた。
「昨日の夜も今朝も少し話をしたし……べつに姉ちゃんと話したいことなんてないよ……」
「ふぅん……」
 呟くような答えを耳にしながら、妖精はそっぽを向く青年の顔を見上げた。怒るでなし、呆れるでなし、勿論、笑っているわけでもない無表情な横顔、そこから彼の真意を察することは出来ない。
「だいたい、事前に連絡もしてこないで、俺が居なかったらどうするんだってんだよ……」
「帰ったら、部屋でゴロゴロしてたんでしょ? 良夜が居なくても良夜の部屋でゴロゴロしてたんじゃないの?」
「……だろうなぁ……」
 アルトの予想を青年もしていたのだろう。窓の外へと視線を向けて、青年は深い溜め息を一つこぼして見せた。
「まっ、嫌がらせだろうとなんだろうと、家族が会いに来てくれるって素敵な事じゃない?」
「……そうか?」
 そっぽを向いていた視線がこちらに戻る。男の割に大きな瞳がさらに大きくなって、妖精を見下ろす。それをアルトは真っ正面から受け止め、頬を緩め、そして形の良い唇が言葉を紡いだ。
「自信はないわ」
「……自信、もてないことを言うな、アホ」
 青年の大きな溜め息が宙に零れる。それは一ダースの高校生達が作り出す賑やかしい喫茶アルトのフロア全体へと広がっていく。それを妖精はぼんやりと見上げて見送った。
 それからも良夜とアルトはアイスティをお供に愚にも付かない会話を続けていた。
「――それで、あの駄猫<だねこ>は?」
「武王なら従兄弟に小遣い銭握らせて、面倒見させてるって。この間もそうすりゃ良かったんだよな」
「猫でもだしにしなきゃ、貴方が帰っちゃうから……――あら、あの子達、もう帰るのかしら?」
 遙か遠く、微かに貴美の声。はっきりとは聞こえないが、どうやら会計をしているようだ。良くある話ではあるが、まとめて払って後で精算すれば良い物を、一人ずつばらばらに精算している物だから、手間が掛かっているようだ。こう言うとき、それこそ引率の教師の出番だと思うが……
 トントン……テーブルの上に投げ出されていた手のひらが踏切台、開襟シャツから伸びる二の腕は中継地点、最終目的地は青年の余り中身の詰まってなさそうな頭。そこにポンと着地を決めたら、壁の向こう側へとひょこっと顔を出した。
「くすぐったいよ」
 不平を漏らす良夜には頭へのカカトの一撃だけを与える。その一撃に青年が「イタッ」と呟いたのはマルッと無視。どうせ、そんなに痛くないはずだ。事実、チッと舌打ちだけしてのんきに紅茶を飲んでる。
「多少は痛いよ……お前の木靴、結構、硬いんだからな……」
「大したことないわよ……それより……」
「ん?」
 紅茶が残らず良夜の口内に流れ込む。グラスに残るのは溶け残ったクラッシュアイスだけ。それだけが残るグラスをテーブルの上にトンと戻すと同時に、青年は言葉を区切った妖精の方へと視線を向けた。
「それより……なんだ?」
「大したことじゃないのよ」
「じゃあ、言わなくて良いよ……しかし、美月さん、いつ帰ってくんだ? お昼とか言ってたよな?」
 そう言って青年はテーブルの上のメニューに手を伸ばした。結構な厚さのメニュー、開いたのはデザートのページだ。アルトはそれを良夜の頭の上から一瞥する。ついさっき、ランチを一人前食べたはずなのだが……
「太るわよ?」
「……体重よりも財布の方が不安だなぁ……」
 フロアを覗き込むアルトの足の下、青年がパタンと閉じる音が聞こえた。のぞき見ていたフロアからテーブルの上へと視線を落とせば、メニューはすでにテーブルの片隅に立てかけられている。どうやら、追加注文は辞めた様子。まあ、昨日まで海に行ってたんだから、余り贅沢はしない方が良いだろうとアルトも思う。夏休みはまだ結構あるのに、ここで貧乏になったら、何処にも連れて行って貰えなくなってしまう。
「で、それよりなんだ?」
 視線を窓の外、眩しすぎる太陽とそれに照らされた緑成す山へと向けたまま、青年が尋ねた。それを妖精は視線をフロアへと戻しながらに答える。
「……言わなくて良いんじゃなかったの?」
「気になる……下りてこねーし」
 青年はやっぱり視線を外に向けたままに言葉を重ねた。余り興味はなさそうだ。きっと、話題がないから聞いてるだけなのだろう。と、言う事はここで軽くスルーしたり端的に言ったりすると、会話が途切れてしまうと言う事だ。だから、優しい妖精さんは丁寧に語って上げることにした。
「まず、貴美が平然と一ダースの個別会計に応じてるけど、あれは物凄く機嫌が悪くなってるわね。内心、キレてるわよ、きっと」
 対応自体はいつも通りの貴美だった。しかし、顔は笑ってるけど目が全く笑ってないというか……持っている空気感が遠目で見ても違うのが解るというか……簡単に言うと――
「こんな時に直樹が何かやらかしたら、きっと殺されるわね、八つ当たりで……」
「……大変だな…………直樹」
「そうね、大変ね…………直樹が」
 一応そうは言って見るも、二人とも取り立てて大きな反応は見せなかった。一見破天荒そうな貴美と真面目な直樹というカップルに見えなくもないが、親しく付き合ってみると、直樹の方がタチが悪いと言う事を理解出来る。考えもなく無駄遣いしたり、各種交通法規違反で無駄に税金を支払ったり……なので、最近、アルトも良夜も直樹に対する優しさは品不足になりがちだった。
「吉田さんの稼いだ金、返す当てもなしに借りまくってんだから、サンドバッグ代わりくらいはやるべきだよな……直樹も……それだけ?」
「ううん。他にもあるわよ……結構、重要なのが」
そこまで言っておいて、アルトは一旦言葉を切り上げた。
「ン? 重要?」
 すると良夜が釣り上げられるので、妖精はにっこりと極上の笑みを浮かべる。本人的には誰もが見惚れる愛らしい笑みだと思うが、それを見ることが出来るただ一人の存在はそうとは思わないらしい。
「……お前がそう言う顔をするときは大抵ろくな話じゃないんだよな……」
 見上げたままでそう呟く。その身上げる額にカツンと踵落としを一発食らわせ、彼女は言った。
「小夜子の前の席に美月が座ってるわよ」
 そして、もう一発微笑み。
 きっちり三秒の沈黙の後、青年は叫んだ。
「何やってんだ!? あの人は!!??」
 その『あの人』が小夜子なのか美月なのか、それを妖精が知る術はなかった。

 良夜は小夜子相手に『美月は出掛けているらしいから、帰ったら紹介する』と一応の約束をしていたし、貴美にも美月が帰ってきたら来てくれるよう伝えて貰う手はずを整えていた。が、ちょうど、美月が帰ってきたのは一ダースの個別会計が始まった直後。貴美に対応する余裕はないし、美月もそのフォローに入ろうとした。
 訳だが……
「ちょっとそこ行くりょーや君の彼女」
 気の抜けた声で呼びかけられると、美月は半ば反射的に足を止めた。
「ふえ?」
 対応する声も気の抜けた物、そこにたたみかけるように言葉が重ねられる。
「あっ、やっぱり、そうだった? 黒髪が綺麗な可愛い子だって聞いてたから〜」
 見えすぎたお世辞ではあったが、単細胞な美月はころっと乗って……――
「そんな事ないですよぉ〜吉田さんとか美人ですしぃ〜」
 彼女を呼んだ人間の前にしっかりと腰を鎮座させた。
 その背後で吉田貴美が顔色一つ変えずに、されど憤怒の炎を静かに燃やしていることにも気づきもしないで……

「はーい、美月さん、ちょーっと倉庫に行こうか?」
 貴美がそう言ったのは、一ダースの個別会計を一人で捌ききった時だった。時間にしてだいたい三十分程度はかかっていただろうか? その間、美月はずーっと小夜子と――
「えぇ〜良夜さんってお姉さん子だったんですねぇ〜」
「うんうん、小学校の後半までちょくちょく、怖い夢見た〜とかで私の部屋に寝に来てたよ」
「わぁ〜それは可愛いですよね!」
 等とくだらない良夜の噂話に終始していたのだ。そりゃもう、貴美も切れるというもの。
 一応、小夜子という客が居るのでその場では怒鳴り散らさないものの、比較的人の顔色を読むことが下手だと言われている美月をして、顔色をなくさせるほど。
「出来心だったんですよぉ〜ほら、滅多に褒められないから、外見とか!」
 引き攣る顔で言い訳してみても、貴美は聞く耳を持たない。ガッシと腕を掴んだかと思うと、そのまま、半ば引き摺るように彼女をキッチンの方へ……そして、その奥にある倉庫の方へと連行し始めた。
「言い訳はあっちで聞くきん、とっととこっち来っ!」
 それでも貴美は随分といらだっているのだろう。キッチンへと続く戸を抜けるやいなや、まだ、声がフロアの方へと聞こえるであろう場所だというのに声を荒げた。その後、微かに聞こえてきたのは……
「ふえぇ〜」
 と言う間抜けな声だけ。
「まあ、たまには痛い目に会った方が良いわよね? 美月も」
 頭の上から良夜の顔を覗き込んで言うと、青年も軽く肩をすくめてみせる。そして、青年はまだ美月の温もりも消えぬ倚子に腰を下ろし、一部始終を楽しそうに見ていた姉に声を掛けた。
「呼べば良いだろう?」
「ほら、姉ちゃんいつも言ってるじゃない? 引っ掛けられる方がバカって」
「うるさい……腹黒」
 人なつっこい笑みは大きなメガネとも合わさり、随分と彼女の印象を良い物に変えていた。もっとも目は笑っていないというか、底意がありそうな目つきだというか……見る者――アルトの偏見もあるのかもしれないが、ともかく、その笑みを額面通りに受け取ることは出来なかった。
「でもね、姉ってのはいくつになっても弟のことは気になるんだよ」
「そんなもんかね……」
 小夜子の目が少しだけ緩む。それに良夜は気付いてないのか、ぶすっと膨れてそっぽを向いた。
「子供ね……それより、和明が帰ってきたならコーヒーを煎れさせましょ?」
 カツンとカカトを青年の額に叩きつけて言うと、良夜はチラリとアルトの顔を見上げた。目の前に小夜子が居るからだろう、何か言いたそうな顔だけはしたが、何も言わず、代わりに辺りをチラッと見渡すだけだった。
 和明当人はカウンターの向こう側いつもの定位置、呼ぶには少し遠い。美月と貴美は倉庫の中、翼は休憩以外、決してキッチンから出て来ない。そんなわけで、その辺りにいるのは、大きなトレイに二人前のランチを載せた凪歩だけだった。
「時任さん」
 声を掛ければ彼女はとことこと近付いて……きたかと思うと、彼女はトレイの上に乗っていた三つ目のタンブラーを良夜の目の前にコトンと、小さな音を立てて置いた。
「えっ……頼んでないよって言うか、今から頼もうと思ってたんだけど……」
 キョトンとした顔で良夜はタンブラーと凪歩の顔を何度も見比べる。すると凪歩はクスッと人なつっこい笑みを浮かべて見せた。
「店長が……飲みたがってるだろうからって……」
 一旦言葉を切り、自信の頭を指さす。それはいつもアルトが座っている辺り。ちょうど、ポニーテールの付け根の所。それを椅子代わりにするのが最近のお気に入り。どうやら、名指しで『アルトに』と煎れて持たせたらしい。
「ふん、大きなお世話よ!」
 と、悪態を吐いてみせるが、二人が出掛けてからずっと飲みたかったのは事実。一も二もなく、タンブラーの端に腰を下ろすと妖精はストローでチューチューとアイスコーヒーを飲み始める。良く冷えてて、芳ばしい香りが溜まらない一品。やっぱり、紅茶よりもこっちが、彼女は好きだ。
「ああ、さっきはごめんね? うちの子が変な事、言って」
「ああ……いいぇ……」
 チューチューとストローでアイスコーヒーを吸い上げていると、その頭の上ではにこやかに笑っている小夜子と微妙に頬を引き攣らせている凪歩が言葉を交わしていた。
「ホント、ここはレベルが高いから……ね? りょーや君もそう思うでしょ?」
「……俺に振るなよ」
「あはは……本当、気にしてないので……」
 口調こそ明るい物の、その頬はひくひくと小刻みに震える。隠しきれない動揺を抱いたまま、凪歩は話を打ち切るように背を向けた。そして、アルト達が陣取るテーブルの隣へ……そこには一人の今時珍しいイガグリ頭の青年が座っていた。
「あれ、その人……ああ、もしかして、いつも言ってる出来の良い兄弟?」
 凪歩の行き先を目で追っていた良夜が尋ねれば、凪歩が答えた。
「えっ……ああ、うん。弟の灯。お昼、奢って上げようと思ってね」
「……出来の良い弟とか言うなよ……――あっ、いつも姉がお世話になってます……」
「あっ……いや、俺は全然……」
 凪歩に紹介されると、イガグリ――灯はわずかに腰だけを浮かせ、頭を下げた。それに良夜も半身だけ後を振り向き、ぺこりと頭を下げる。第三者的立場のアルトから見て、両者とも面倒臭そうだ。
 そして、良夜はお尻を倚子の上に落ち着け直すと、もう一度、小夜子の方に向き直り、口を開いた。
「それより、姉ちゃん……なんで美月さんと話なんかしてんだよ……」
 不機嫌そうと言うよりも明らかに不機嫌になっている良夜の言葉を聞き流すように、小夜子の表情は明るい。その明るい笑みと明るい口調で彼女は言葉を続けた。
「ちょっと話聞いただけだよ。それとも聞かれて困ることでもあるの?」
「むしろ、言われて困ることの方が多い……」
「姉ちゃんがりょーや君に何をしたって言うんだよぉ〜」
「……ガキの頃からさんざんな目に合わせといて、良く言うよな」
「あのね、りょーや君、女には弟が生まれた時に弟を苛める権利と心配する義務が発生するんだよ?」
 両手で頬杖を突いて彼女はニマッと笑みを浮かべる。視線はまっすぐ良夜の顔、ぴくりとも動かさない。それは良夜の方が気恥ずかしくなって逸らすほど。
「そんな権利と義務、どぶ川に捨てちまえ……」
 そう呟くのが精一杯。

 良夜達の会話に耳をそばだてていた、と言う訳でもないのだろうが、これだけ近いと聞く気がなくても聞こえる物なのだろう。灯はパスタを食べる手を止め、顔を上げた。
「と、言ってるけど、そうなのか?」
 尋ねると凪歩もてを止め、半開きの目で弟を見やる。
「……灯のこと、苛めたこととかあったっけ? 私」
「いいや……全然……」
 凪歩の答えに灯は即答。それに満足したのか、凪歩は止めていた手を再び動かし始める。視線は再び、手元、大盛りのパスタとサラダの元へ。そして、彼女は弟の顔も見ずに言った。
「それに、なんで出がらしの私が優秀な弟君の心配しなきゃいけないんだよ、馬鹿馬鹿しい」
 吐き捨てるような姉の言葉に弟は苦笑いを浮かべて、言葉を返した。
「……よう兄やしず兄に比べたら、俺も立派な出がらしだよ……」
 また、凪歩の食事の手が止まる。顔が上がって、弟の顔をメガネの内側から見て行った。
「それでも自慢の弟だよ……」
「……えっ……ああ……どーも」
 詰まった言葉ごと押し込むように、青年は止めていた手を動かし始める。それを見詰める姉は少しだけ頬を緩ませていた。

 で、こっちの声があっちに伝わる距離なんだから、あっちの声もこっちに伝わるのは当然だった。
「ねーちゃんもりょーや君があの高校入ったときは自慢してたんだよ? 特にあの高校滑った同級生に」
 ニヤニヤと笑う姉に弟は苦り切った表情を見せる。口内に広がる苦み成分を洗い流すかのように、グラスに残っていたコーヒーを一気飲み。コトンとグラスを置くと、ひと言だけ言った。
「……最低だな……」
「だけどさ……その同級生、東京の大学に受かったんだよねぇ……」
「……さいですか……」
「りょーや君が落ちた第一志望の所ね」
「姉ちゃん……はるばるここまで喧嘩売りに来たのか?」
「違うよ、りょーや君の彼女に会いに来て、ついでにりょーや君をからかって帰ろうと思ってるだけだよ」
「……もう、帰れよ、頼むから……」
「言われなくても帰るよ、楽しそうにしてて安心したから……彼女もボケ気味だけど、良い子だね。しょうもない女なら、ある事ない事言って別れさせようかと思ってたんだよ?」
「……お願いだから、もう、マジでほっといて……」
 目を褒めて笑う姉にたいして、答える弟の顔は、比喩表現ではなく半泣きだった……七割泣きくらいかも知れない。

「で、あんた、彼女は?」
「ああ? 居ないよ……悪かったな」
 凪歩に尋ねられ、灯は顔を上げた。その視線は姉……ではなく、そのすぐ後に座っている余り良く知らない青年……の、さらに正面に居る人を食ったような表情をしているメガネの女へと向けられたことに、妖精は気が付いた。しかめた顔は露骨に『余計な話を……』と言ってることを察することが出来たし、どうやら小夜子もそれに気付いたような様子。クスッともう一度、頬を緩めてみせる。
 そんなやりとりが発生したことにも気付かず、凪歩は言葉を続けた。
「へぇ〜野球部のレギュラーなんてもてるのかと思ってた……」
「エースとか四番とかはなぁ〜外野になったら『ライトってどっちから見て右側?』とか言われるレベルだぞ……」
「……どっちから見て右側? ホームランの所? 打つ人の所?」
「ファーストの後がライトだよ……」
「へぇ…………」
 そう言って、凪歩は言葉を区切り、食事の手を止め、視線を宙へと投げ出す。
 そんな姉を見詰めて、弟も言葉を区切った。
 そして、十五秒ほど……
「ファーストって、打つ人から見て右だっけ?」
「……凪姉、そんなに興味がなかったんだ……?」
 尋ねれば、ウンウンと凪歩は何度も大きく頭を上下に振る。それにイガグリ頭の青年は深々と大きなため息を突いた。

「えっと……んっと……」
「……姉ちゃん、無理矢理野球の話題を考えようとしなくても良いからね。野球なんてろくに知らないくせに……」
 腕組みをして深々と考える小夜子を良夜は頬杖をついて見上げる。しかし、小夜子はその声を無視したまま、考え事を続けることだいたい三十秒。良夜の上から眺めていた妖精さんもそろそろ飽きたなぁ〜と思い始めるころ、ポンと彼女は手を打った。
「あっ、もしドラは読んだよ? 話題作だったし」
 と、小夜子が言った瞬間、良夜の背後ではリアル野球部青年が苦い顔をしていた……
「うちの部……『もしも野球部のキャプテンが『もしドラ』のアニメにはまったら?』だったんだよ……」
「……どうなったの?」
「そこから他の深夜アニメにもはまって、キャプテンの朝練出席率が悪くなった……ビデオに録れよ……あの馬鹿」
 凪歩の質問に灯は深い溜め息と共に答えた。
 そして、その場にいた連中、全員が思った。
『『『『甲子園、行けなかったの、それが原因じゃ……?』』』』

 さて、そんな感じで二組の姉弟がくだらない話をする事、小一時間ほど。最初に話を打ち切ろうとしたのは、良夜だった。
「じゃあ、俺、出掛けっから……頼むから美月さんとかに余計な事言うなよ?」
「えっ? りょーや君、出掛けるの? どこ?」
 腰を上げながらに言うと、小夜子はメガネの内側の目を大きくして尋ねた。
「どこでも良いだろう……?」
「教えてくれないと、美月ちゃんに『電話がかかってきたかと思ったら、そそくさと出掛けちゃった』って言っちゃうよ? 物凄い、こそこそしてたって言うよ?」
「……あんた、マジで最低だ……買い物だよ、買い物。一週間、家を留守にしてたから、冷蔵庫、空なの」
「じゃあ、今夜はりょーや君の手料理だね〜」
「……あんた、まだ、居る気か……? あと、バイトあるから、晩飯、十一時だぞ」
「明日だよ〜帰るのは。朝一で帰るよ――うん、待ってるよ」
 良夜は苦り切った顔で立ち上がると、いつもの席から持ってきた伝票に手を伸ばした。しかし、それよりも先に小夜子がその伝票をひょいと取り上げる。
 小さなバインダーに取り付けられた伝票をヒラヒラと振ってみせると、小夜子は――
「払っておくよ」
 と、言った。
「えっ? ああ……さんきゅー」
「ありがとう……日本人なんだから、日本語を大事にしなきゃ駄目だよ」
「……ありがとう」
 伝票を団扇にニコニコと笑う姉から視線を逸らしてポツリと良夜は答える。ほっぺたを指先で掻く仕草は、青年が照れているときの証拠。
「ありがとうって言う方が照れる?」
 頭を覗き込んで尋ねてみるも、青年は頭の上の蠅を追うがごとくに手を振るだけ。振り落とそうとしているのは一目瞭然だ。それに従うのはちょいとしゃくだが……
「暑いから、今日はパスするわ」
 そう言って、彼女はひらりと良夜の頭からまい追い下りる。着地する先は凪歩のテーブルの方。小夜子の方はどうせ、本でも読み始めるからこちらの方が面白いだろうという判断だ。
「あっ、ねーちゃん、今夜は和食が良いな。ご飯とおかず的な感じでお願いね」
「……作れる物と作れないものがあるけど……」
「じゃあ……――」
 と、夕飯の献立を話し合い始めたが、さすがに食べに行くつもりのない食事の献立に興味はわかない。立ち上がった良夜が、テーブルに手を突き、小夜子と話しているのを横目に、アルトは時任家姉弟の方へと視線を向けた。
「灯は? 今日、一日予定がないんだっけ?」
 尋ねたのは凪歩の方。その質問に灯が答える。
「俺の予定はないけど……凪姉は仕事中だろう? 凪姉の休憩が終わったら帰る……その前にピザ取って良いか? ハーフで良いから」
「……それで終わりだよ? って、注文の処理、私かな……?」
 キョロッと凪歩の頭が数回、右に左に動く。すると――
「あっ、翼さん、ミックスピザ――」
「……なぎぽん……休憩、代わって……」
 見つけた翼に注文を伝えようとするのを、翼自身が遮る。その手にはまかないのランチが載ったプレート、顔はいつもの鉄仮面だが、心持ち不機嫌そう。凪歩は慌てて腕時計に視線を落とすと、その目をメガネの内側でパッと大きくさせた。
「わっ……ごめーん。すぐに代わる。灯、そう言う事だから、ピザは後で届けるから、ゆっくり食べて行きなよ」
「あっ、じゃあ、もう良いよ……」
「良いから……もう、伝票も書いたしね? ほら、座って……」
 立ち上がりかけた灯をせいする。そして、彼女がサラサラと伝票に一文を書き加えれば、灯も諦めるしかない。素直に腰を落ち着けると、弟は苦笑い混じりの笑みを浮かべて姉に答えた。
「ごちそうさん……妙なところで押しが強いんだから……」
「まっ、最初で最後かも知れないじゃない?」
 くるんと凪歩が背を向け、それを確認した翼も隅っこの席へと顔を向け、良夜も帰り支度。お開きの空気が漂う中、発せられる一つの声。
「何言ってるの〜社会人でしょ? 弟が学生だとぉ〜お年玉、取られるよ?」
 全員の動きがぴたりと止まる。
「そー言えば……両親プラス小夜子で諭吉、三人だったわね?」
 テーブルの上から呟く。そして、良夜に睨まれる、も、余り気にしない。ツーンとそっぽを向いて思い出すのは、あのお金、なんに使ったんだろう? と言う事。あのお金を貰ってしばらくは、良夜といっしょに居たから……――
「ああ……壊れた天井と照明器具の修理費だったわね……」
 ついでにあの日の食費も、あそこから出てた気がする。
「……えっ? 私、灯にお年玉出さなきゃいけないの? ヤだよ……洋兄だって、何年も前から働いてるのにくれたことないもん」
 そう言って凪歩はブンブンと大きく首を振った。が、小夜子はニコッと笑って答えてしまう。
「うーん、他の家は知らないけど……私、りょーや君に一万円、上げたよ? ね? りょーや君」
 すると、青年の顔に集中する皆の視線。
 そして、良夜の顔からさーーーと血の気が引いた。
「いやっ、ちょっと、待って? みんな、何? その冷たい目、いや、ねーちゃん、あん時はほら、家から空港の送り迎えしたじゃん? それも……」
「うんうん、あの時はありがとう……行きと帰り、会わせて半日仕事って所だけど、すごーく感謝してるよ?」
 両手で頬を押さえて、零れんばかりの笑み。眼鏡の奥で姉の眼が細い弓を画く。
 その柔らかい口調のお言葉が喫茶アルトの天井へと拡散していくよりも早く、良夜に向けられた視線の温度が下がった。
「朝から晩まで働いて一万円、ならないよね……私達……」
「……お姉さん……欲しい……」
「しーらない」
 凪歩、翼、そして、アルトまでもが冷たく言い放てば、良夜は小さな声で……――
「……らっ、来年は……遠慮します……」
 と、呟くしかなかった。

 この後、良夜は語る。あのイガグリ坊主の青年が、
「くれるんなら……貰いたいけどね……俺も」
 そう言った瞬間、凪歩に側頭部をぶん殴られているのを見て、彼とは友人になれそうな気がした、と……

前の話   書庫   次の話

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