姉と弟(2)
 さて、良夜が姉との感動の再会をするだいたい一時間ほど前のこと……
 凪歩は一足先に帰宅していた。
 自宅とインターチェンジ、喫茶アルトとの位置の関係上、アルトまで行っちゃうと三十分以上遅くなってしまう。それも車で。運転手に迷惑をかけないよう、電車で帰れば一時間と言わずに余分に時間が掛かる。
 だから、凪歩は一人、一足先に下車、帰宅という流れになった。
 良夜は美月や妖精アルトと一緒にアルトでコーヒーを飲んで帰るらしい。おそらくは何か甘い物の一つでも摘むに違いない。それを考えると、なんだかガッカリする物があるが、仕方がない。
「お酒でも飲むかなぁ……お父さんのブランデーか何か……」
 呟きながらに自宅の分厚いドアを開く。そこをくぐれば、無駄に広い玄関だ。足下には黒い御影石で出来た玄関のタイルが折り目正しく張られていた。その御影石の上には何足かの靴。その中に、父が愛用している革靴は見当たらない。一応、遅くなると電話は入れてはあるが、厳格な父親がまだ帰宅してないことに安堵の吐息が漏れた。
「ただいまぁ〜」
「おかえりなさ〜い」
 大きめの声で帰ってきたことを伝えると、母の迎える声が微かに聞こえた。
『ただいま』と『お帰り』の挨拶も声を張り上げなきゃいけないのは、母が居るリビングが家の一番奥だから。そこから玄関まで和室が複数あったり、応接間があったり、お風呂場もあったり、なぜか茶室まで存在してたりするのだから、タチが悪い。たまに父の部下だのなんだのが来るためらしいが、家族だけの生活を考えればもっと手狭なところにでも引っ越せば良いのに、と凪歩はいつも思う。どうせなら、ここは仕事用にして生活は手頃なアパートにするとか……
 愚にも付かない思いを心に抱きながら、上がり框へ。凪歩の家は床が少し高いのか、上がり框が結構高い。座るには良い高さ。そこに腰を下ろして、彼女はミュールのホックをパチンと外した。
「あっ、帰ったんだ?」
 頭の上から聞こえたのは、年頃の男子高校生としては少し甲高い声。半ば以上反射的に顔を斜め後方上方へと向ければ、そこにはいがぐり頭の見慣れた顔が一つあった。
「ただいま、灯」
 凪歩はその顔を見上げたまま、応えて立ち上がる。凪歩自身、女性としては長身な方だが、男性の中でも長身の部類に入る灯はそれよりもさらに高い。彼女が立ち上がってもなお、彼女は弟を見上げなければらない
「焼けたなぁ……」
 その灯が凪歩の顔やらワンピースから覗く肩口を見下ろしながら、ポツリと呟いた。
「まぁねぇ〜昨日は丸一日外に居たもん。朝から夕方まで海で、その後はバーベキューだよ」
「楽しそうな研修だなぁ……」
「そんなの、建前に決まってるでしょ? 食後に美味しいコーヒーの煎れ方をレクチャーして貰って、正しい皿洗いの方法を実習するだけよ」
「……清々しく開き直りやがって……」
「これで口封じね」
 肩からぶら下げたボストンバッグに視線を移して、中からビニール袋を一つ取り出す。それを呆れ顔の弟に押し付けると、青年は少しだけ格好を崩した。そして、中から取りだしたのは――
「……干物……」
 アジやら鰯、太刀魚などの干物、十枚セット。それを見た途端、何とも言いがたい微妙な表情になった。
「好きでしょ?」
 すかさず凪歩が言うと灯は「ああ……うん……」と口籠もりながらも軽く首を上下に数回動かす。動かす度に視線は凪歩とパックの干物とを行ったり来たり。
「お母さんに言って、焼いて貰うと良いよ、朝ご飯にでも」
 言い置くだけ言い置くと、凪歩はてくてくとお風呂場方面に向かった。目標は脱衣所、そこにある洗濯籠だ。そこに汚れ物を放り込んでおくと自動的に綺麗になって、洋服ダンスの中に帰ってくると言う素晴らしいシステムである……と、言ったら貴美や翼、良夜にまで冷たい目で見られた。
「毎朝早いんだからさ」
 言いながら、ボストンバッグのジッパーを開く。三日分とは言え、水着やらバスタオルもあって、洗濯物は結構な量だ。それを取り出して、ポンポンと放り込んでいると、背後に付いてきた灯がポツリと漏らした。
「……もう、早くないよ」
「えっ?」
 と、手を止め、代わりに思考を働かせること一瞬。
「あっ……そっかぁ〜もう、引退なんだ? どうするの? この先」
「……スタートダッシュには遅れたけど、受験勉強かなぁ……? 兄貴達みたいな名門は無理でも、大学は出ておきたいよ」
「……灯、その手に持ってるもん、返してくれる?」
 ドアを挟んで弟の顔をジトッと睨みつければ、彼はその手にしていた干物を背後に隠して、苦笑いを浮かべた。
「行きたきゃ、行けば良かったじゃん。今の時代、名前書けたら入れる大学とかもあるんだから」
 ガサガサと干物のパックが弄くり回される音を聞きながら、凪歩はしばらくの間、口を噤んだ。
 互いに無言の時間が数秒……凪歩の手だけが動いて、脱衣籠の中に汚れ物を放り込んでいく……
 そして、凪歩はコホンと咳払いを一つ落とすと、指を玄関の方へと伸ばした。
「灯、ちょっとあっち向いて……あっち、体ごと。そうそう、そんな感じ、良い角度」
「なんだよ……干物は返さないぞ?」
「良いよ、それは……ああ、ちょっと足、広げてね」
 明後日の方向、二人が先ほどまで立ち話をしていた方に弟の体を向けさせる。凪歩から見れば、丁度良い具合に体の側面が見える。弟のちょっと凛々しい横顔を見ながら、一呼吸、吸って、止めて――
「ぎゃっ!?」
 蹴り下ろす。膝の横っ腹に向けて。
「どうせ、その程度の学校しか行けない学力だよ! 悪かったわね!!」
「なっ、凪姉! ひっ、膝の横っ腹に斜め上から踏みつけるような蹴りってどこで覚えたんだよ!? 靱帯、切れるぞ!?」
 膝を抱えて悶える弟をぶっ殺しかねない視線で見下ろしながら、凪歩はきっぱりと言った。
「うちの上司!」
 ちなみに吉田貴美さんである。受けて覚えるのは格闘技の基本。
「そんな会社、辞めちまえ……」
「うっさい」
 弟はしゃがみ込んだまま、涙目で姉を見上げる。そして、見上げられる姉は、ポンと青年の頭を叩いた。
「まっ、ともかく、お疲れさん。一区切りだね」
「……誤魔化すなよ……思ったよりも綺麗に入ったんで、自分が一番びっくりしてるパターンだろう? 凪姉……」
「あっ、バレた? まあ、良いじゃん? 明日、うちのお店で奢って上げるからさ。灯、野球部引退記念で」
 苦笑いを一発、舌と右手を差し出せば、のたうってた弟は素直にその手を握った。思ってたよりもごつごつとした手、見た目はスマートなくせにずっしりとした体重を感じるのは、彼の体が筋肉で覆われているせいだろう。
「凪姉のおごりかぁ……立派な社会人だなぁ……」
「まぁねぇ〜自分でも実感がないよ。じゃあ、明日で良いよね? 何時くらい?」
 冗談めかした口調と大げさにすくめられる肩。立ち上がった弟から手を離す。そして、ボストンバッグをひっくり返すと、開いたジッパーから残りの衣類――主に下着がカゴの上に落ちていった。
「気が早くない?」
 最後の一枚は初日に履いてたショーツ、それが山積みになった着替えの上にちょこんと着地を決める。さすがにそれは嫌なので、こんもりと膨れあがった籠の中にずぼっと右腕ごと押し込む。これにて、片付けは出来上がり。ポンポンとひっくり返ったバッグの底を叩いて、彼女は弟の方へと向き直った。
「早く来ないと、給料、全額、服と雑誌と飲み食いに化けるよ? 先月から携帯の引き落とし、私の口座になったし」
「……了解、じゃあ、明日の昼にでも行く……」
 あきれ顔の弟と入れ違いに脱衣所を出た直後、ふと、凪歩は足を止めた。閉められそうになるドア、それを振り向き片手で軽く押さえる。
「あっ、聞き忘れてたけど、何処まで行った? 予選」
「……決勝、準優勝だよ、一応」
「へぇ〜立派なもんじゃん」
「……組み合わせが良かっただけだよ……閉めるよ?」
 褒めたつもりなのに灯の表情は決して明るくない。むしろ、膝を蹴っ飛ばした時よりもなお暗いほど。まあ、『甲子園の県予選なんて優勝とそれ以外』と、言うのが弟君の持論。いくら準優勝でも優勝でないなら、一回戦で負けたのと余り変わらないとでも思っているのだろう。
 でも……
 押さえてあった手を離すと、ぱたりと引き戸が閉じられた。中からは、すぐに衣擦れの音が響き始める。
 その閉じられたドアを、凪歩は二−三度拳で軽く叩き――
「甲子園、行けなかったのは残念だけど、県で二番目に強いって凄いよ。誇りなよ」
「……ああ」
 控えめな相づちが衣擦れの音と共に聞こえた。
 数瞬の沈黙。衣擦れだけが聞こえる。
 そして、もう一度、凪歩はトンッと引き戸を叩き、中の弟に声を掛けた。
「灯」
「何?」
「お疲れさん。あんた、私の自慢の弟だよ」
 瞬間、衣擦れの音が消えた。
 それが凪歩には少しだけ嬉しかった。

「げっ……」
 さて、翌日、久し振りの勤務を凪歩はこの一言から始めた。
「なんよ……人の顔見て、いきなり『げっ……』って、さすがにムッとするよ?」
 久しぶりに会う後輩のご挨拶が『おはよう』でも『お久しぶり』でもなく、『げっ……』だった事に、眉をひそめるのは喫茶アルトフロアチーフ吉田貴美だ。ストゥールの上で膝を組んだ彼女が手にしているのは、開店以来『なんとなく格好いい』という理由だけで取り続けられている英字新聞だ。日本語の新聞は置かれていない。英字新聞ならカウンターとかにほったらかしになってても絵になるが、日本語の新聞だとだらしなく見えるだけ、と言うのが今は亡き初代フロアチーフ三島真雪さんのご意見。
「あっ、いや……あの、今日、お休みじゃ……」
 凪歩の記憶によると、今日、貴美はお休みのはずだった。だから、今日、弟君を食事に招待したのだ。
 弟に言った『早く来ないと給料が消える』という理由は半分だけ正しい。しかし、アルトでの仕事がある以上、給料を使えるのは休みの日だけで、その日はまだ少し先の事。だから、資金面で言うならば今日だろうが明日だろうが明後日だろうが、大差はない。そもそも、スタッフだから灯の食べる分くらいなら来月の給料から天引きという方法だってある。
 彼女が持っていた英字新聞がポンとカウンターの上に投げ捨てられる。ルビー色の液体を湛えたティーポットの横に、横書きの新聞が無造作に置かれる。言われてみれば、確かにそれは絵になるような気がした。
「居たら迷惑なん?」
 そして、それを投げた張本人はストゥールの座面を回して、体ごと顔を凪歩の方へと向ける。ジトォ〜と見上げられる貴美の視線は、見透かされているようでなんだか居心地が悪い。お尻の辺りがむずむずするような物を感じながら、彼女は視線をぷいっと逸らして呟いた。
「別に迷惑って訳じゃ……」
 と、答えるものの、今日だけは本当に迷惑だった。
 資金面に不安がないのなら、なぜ、弟を昨日の今日でアルトに招待したのか? それは、予定通りならこの面倒臭い上司が休みだったから。凪歩はこの面倒な上司に弟を、と言うか、家族を紹介するのがなんとなく嫌だった。怒鳴られてるところとか見られでもしたら、なけなしの姉としての威厳という奴が霧散してしまう。
 ヤだなぁ……と言うのが半分に、どうしようというのがもう半分。今更、来るなと言うのも姉としての威厳に傷が付きそう……等と思い悩んでると、背後からポツリと小さな声が聞こえた。
「チーフ……店長、病院に連れていった?」
 囁いたのは、事の成り行きを見守っていた翼だ。今日も今日とて、同じ電車に乗って、同じく自転車でご出勤していた。
 その思いも寄らぬ台詞に、凪歩は「えっ?」と慌てて背後を振り向いた。
「病院じゃなくて、接骨院ね。どうも結構な時間が掛かりそうだからって、私が美月さんの代打。キッチンは私が手伝うから、なぎぽんはフロアを一人で回すんよ?」
「んっ……了解……」
「えっ? なっ、何? 店長、どったの?!」
 貴美の言葉に翼はいつもの無表情でコクンと頷く。二人の間には何やら意思の疎通が行われているようだが、その間に挟まれている凪歩にはちんぷんかんぷん。貴美と翼の顔を見比べながら、頭の上にハテナマークをいくつも飛ばして右往左往。
「はぁ……つばさん、説明して上げて」
「……メンドイ……」
 貴美はため息を突いて、翼はプイッとそっぽを向く。取り残されるのは、事情をまったく知らない凪歩ただ一人。
「ちょっと! 説明してよ、説明! 店長、どったの? 盛大な仲間はずれは辞めてよ!?」
 凪歩が半泣きになって尋ねると、貴美がもう一発溜め息。やおら説明をし始めた。まあ、もったいぶられた割に、その説明は聞いてみれば簡単な事だった。
「なんだ……店長、また、ぎっくり腰?」
 そう言って凪歩は肩から力が抜けていくのを感じた。老店長のぎっくり腰は今に始まった事じゃない。凪歩が入社してからだけでも数回はぎっくり腰でリタイアをし、昨日もまたリタイアしたそうだ。んで、病院だか接骨院だかに強制連行されたという。だったら、心配する必要もないだろう。
「そう言うわけで、私はキッチンの方に居るからね。私の目が届かないからって、ダラダラしてたらいかんよ?」
「解ってますよ〜」
 きつい言葉を浴びながら、凪歩は苦笑いを浮かべて椅子に座る。苦笑いしかでてこないのは、貴美の居なかった研修旅行前半中のアルト内は、夏休みの閑散期である事を良い事に、美月も凪歩もだらけきっていたという素晴らしい"実績"があるから。
「夏休みは暇……」
 それに続いて翼も貴美を挟んで凪歩の反対側に腰を下ろす。
「暇な時は仕事を探しなって、いつも言ってるっしょ? つばさんも……――ああ、飲みもんはセルフだかんね?」
 自分だけはきっちりアイスティをキープしている貴美が言うと、挟んだ二人は顔を見合わせ、手を突き出す。握りしめられた凪歩の拳に対するは、大きく開かれた翼の手。
「……ちぇ……コーラで良いよね?」
「……んっ、なぎぽんのコーヒー、泥水だし……」
「……翼さんのも変わんないよ」
 握りしめた拳を見詰めながら、凪歩は立ち上がる。本当は凪歩自身も、コーラなんかよりコーヒーが良い。始業前にコーヒーを飲まないと一日が始まらないような気がする。しかし、店長も美月も留守だし、貴美は煎れてくれそうにないし、凪歩がこの間入れて見たらみんなして『インスタントの方がマシ』とか言うし……
 ……自分でもそう思うけど……
 嫌な事を思い出しながら、キッチンへと滑り込めば、トンと頭に小さな振動。
「……あっ?」
 小さな声を上げて頭ごと視線を上に上げる。すると、そこには何も見えないけど、ギュッと少し強めに髪が引っ張られるような感覚が与えられた。
「アルトちゃん?」
 小さな声で尋ねてみれば、頭の上から優しい合図が一回。
「おはよ」
 その合図に応えると、もう一度合図が一回。ついでごそごそと髪が引っ張られたり、頭の上を何かが動くような感じがし始める。ここで働き始めた頃には、毎回びっくりしていたものだが、半年も経てばいい加減慣れると言うものだ。
「てっきり、美月さんや店長と病院に行ってるのかと思ってたよ。もしかして、今、起きたところ?」
 アルトに言葉をかけながら、凪歩はジュースサーバの注ぎ口の下に、タンブラーを置いた。そして、スイッチを入れるとクラッシュアイスで満たされたタンブラーに、サーバーから心地よく泡立つ液体がタンブラーの中に注ぎ込まれる。立派な物だが、使用頻度は少なめ。
 その様子をぼんやりと眺めながら、凪歩は頭の上にいる妖精へと声を掛けた。
「アルトちゃんは嫌いだろうけど、コーラで我慢してね。私だと、コーヒーの豆、無駄にするだけだしさ」
 冗談めかした口調で言うと、アルトは髪を一回だけ引っ張った。どうやら、コーラで妥協してくれるようだ。それにひと言礼を言うと、アルトはもう一度髪を引っ張った。
 二つのタンブラーをトレイに乗せてフロアに戻る。相変わらず、まだ、客は来ていない様子。これから落ちついてジュースの一杯くらいは飲めるだろう。
 凪歩は翼の前にコースターとグラスを置くと、自身もストゥールに腰を下ろした。
「アルトちゃんはこっちに居るみたいだよ」
 戻った凪歩が言うと、貴美も美月達について行ってたと思ったらしく、少しだけ意外そうに「へぇ〜」と一言だけ言った。それに対してアルトは取り立てて、何かの反応を示す事はなかった。ただ、頭の上でまたちょっとした振動があったかと思うと、彼女の気配というか、動いている感覚とか言う物がなくなった。どうやら、彼女が凪歩の頭の上から下りたらしい。
 それから三人、いや、四人でコーラと紅茶で朝のお茶会、真面目な話は三分と掛からずに終了。凪歩が持ち帰ってきた海での土産話に花を咲かせた。そして――
「んじゃ、美月さんも店長も居ないけど、どうせ、暇な夏休みだよ。のんびりしつつ、締めるところは締めて、今日も頑張るんよ」
 古株の貴美がそう言ってストゥールから立ち上がると、凪歩と翼も立ち上がる。そして、アルトまでもが凪歩の頭にちょこんと着地を決めた。
「一緒に働く?」
 頭の上でモゾモゾ動く気配に言えば、ちょいちょいと二回の合図。その合図に凪歩はクスッと控えめな笑みを浮かべる。
「じゃあ、頭の上でだらだらしてれば良いよ」
 凪歩の言葉にアルトは、今度は一回だけの合図。その合図が今日の仕事の始まりの合図、凪歩はぐーっと体を大きく、精一杯に伸ばし気合いを入れる。
「でも、暇な時の方が意外としんどいんだよねぇ……ダラダラするにも限度があるし……」
 などと思っていたのはお昼前まで……

「ああ、腹減った、腹減った〜〜」
「腹も減ったけど、肩も凝ったよなぁ〜」
「昼からはオープンキャンパス? サヨちゃん、もう、飽きたよ」
「成績厳しい人は、ポーズだけでも真面目な格好、見せておくんだよぉ〜」
 ドカドカと入ってきたのは、昨日の夜、オーダーストップ少し前に入って来たのと同じ高校生の一団……と言う事は、昨日はまだ休みだった凪歩は知らない。ただ一人、先頭に立つ青年にだけは見覚えがあった。喫茶アルトの馴染み客、浅間良夜だ。その青年の隣には年若い男女の一団にあって一人だけOL風のスーツをピッと着こなしている女性が居た。
「浅間くん、これ、何? あと、その女の人、誰?」
 出迎えの挨拶もそこそこに尋ねれば、良夜はバツが悪そうに頭に手をやった。
「こっちは俺の姉貴だよ……それとあの一団は姉ちゃんの教え子、キャンパス見学とオープンキャンパスだってさ」
「初めまして、りょーや君がいつもお世話になってます」
 そうってぺこりと頭を下げる女性、彼女の第一印象は「おっとりした人」だった。糊の良く効いた濃紺のスーツをピッと着こなしてこそ居るが、大きな眼鏡は主を実年齢よりも幼く見せるし、しゃべり方も間延びしてて少し頼りない。悪く言えば、就職活動中の学生みたい。
 そんな事を考えながらも、表情にはおくびも出さない。この辺りは寝てても働ける吉田貴美の教育のたまもの。いきなりの事に少々ペースは崩れた物の、彼女は居住まいを正すとぺこりとポニテを揺らして頭を下げた。
「いえ、こちらこそ……何名様ですか?」
「えっと……十三人かな? りょーや君は別席に行くんでしょ?」
「ああ……俺はいつもの席で……」
「はい、少々お待ちください」
 短く言って踵を返す。頭の中は十三人の団体様をどう座らせよう? と言う事で一杯。勿論、それだけが一度に座れるような席はない。あらかじめ予約でもしてくれてれば、作っておいたのだが……ばらばらに座らせるか、席を作り直すか……キッチンに戻って貴美と相談しないと……
 などと考え始めた思考にするりと滑り込みひと言。
「昨日のウェイトレスのが美人じゃん」
 決して大きな声でもなかったのだが、そう言う余計なひと言という物は良く耳に届く物だ。
 ぴたりと止まる足、首だけがくるりと振り向くと――
「……俺じゃないし、俺に当たられても困るからね」
 困った顔をしている良夜とそのお隣で、緩そうな笑顔のままでひと言……
「ごめんね、うちの子、正直だからぁ〜」
 姉の間延びした声が響いた時、良夜は頭を抱えた。

「お待たせしました。お席に案内します」
 一分後、フロアでそう言ってたのは吉田貴美@昨日のウェイトレスだった。

 そして、同時刻。キッチンでは――
「ああ、ムカツク、ムカツク、ムカツク!!!」
「……皿に当たるな、なぎぽん……」
 フラストレーションを皿洗いにぶつける凪歩とその姿を冷たい目で見ている翼の姿があった。

 そして、やっぱり、同時刻。クソ長い坂の下では――
「……来なきゃ良かった……」
 その坂をうんざりとした視線で見上げるいがぐり頭があった。

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