姉と弟(1)
 良夜達が喫茶アルトに帰ってきたのは、営業時間も終わって随分経つ頃だった。本当なら夕方前には帰ってくる予定だったのだが、運悪く、島のすぐ傍を台風がかすめるように通過したため、フェリーが昼過ぎまで運休だった。おかげさまで朝一番のフェリーに乗って帰り、夕飯はアルトで、という良夜達の計画は脆くも崩れ去った。結果、夕飯は高速のサービスエリア、飲み物は自販機の余り美味しくないコーヒーと散々。そんなわけだから、
「良かったら、コーヒーでも飲んで帰りますか?」
 と言う美月のお誘いを断る理由なんて、良夜には存在していなかった。
「凪歩さんも来られれば良かったんですけどねぇ〜」
「仕方ないよ、アルトまで来たら時任さんち、凄く遠くなっちゃうしさ」
「コーヒーのためなら艱難辛苦乗り越えなさいって言うのよ、うちの従業員なら」
「無理言うなよな……」
 車を駐車場の片隅に止めると、青年達はそんな愚にも付かぬ話をながら車から降りた。
 すでに喫茶アルトの営業は終了済みで明かりも落とされている様子。半月<はんげつ>を少し過ぎたくらいの月と余り多くない街灯だけが照らす洋館は、明日の営業に備えて眠りについているようだ。
 そんなアルトの裏口へと廻れば、そこには一台の古びた自転車が止まっていた。月明かりの下では黒にしか見えないが、実際にはディープブルー一色で塗り上げられた自転車だ。それは、翼が二研の守銭奴西山恵子からハムスター一匹と合わせて千九百五円という価格で購入した物だ。ちなみに五円というハンパが付いているのは、商談している時、翼の財布のたまたま五円玉が一枚入っていたからと言う理由らしい。勿論、中古車。去年、卒業した学生が使っていたらしい自転車と言う触れ込みだが、それ以前に数人は使っていた人間が居るであろうとは吉田貴美さんのご意見。学生に売り飛ばされ、彼らが卒業したら二研に回収され、メンテを受けて再び売り飛ばされると言う事を繰り返していた代物らしい。通称をブーメラン自転車と言う。類義語にはブーメラン原チャリというのもある。
 そんな自転車をポンと一つ叩いて、美月は、
「まだ、居るみたいですね、翼さんと吉田さん」
 と、言って、裏口からキッチンへと足を進めた。
 美月の後について、良夜もキッチンへと足を進める。薄暗いキッチンの中、美月が壁際を手探りで触れば、途端に頭上に明かりがともる。その眩しい蛍光灯の明かりは、薄暗がりになれた網膜を容赦なく刺し貫く。そのまぶしさに思わず、目を細めること、数秒。ゆっくりと片目を開ければ、そこは見慣れた喫茶アルトのキッチンだ。
 そこは、営業中だろうが営業終了後だろうが、いつも綺麗に掃除されて居て気持ちが良い。
「特に夏休みなんかは暇ですから、掃除がはかどっちゃいますよねぇ〜」
「そこ、喜んじゃダメよ、美月」
「――だってさ。まあ、夏休みが明ければ、元を取るくらい忙しくなるんだろうけど……」
 綺麗に片付けられたキッチンからフロアへと入る。営業終了後、掃除が終われば反省会という名のお茶会が執り行われる一席以外、明かりを落としてしまうのがアルトでのルール。今夜もそのルールは守られているようだ。大半の明かりが消されている中、フロアの端の方、四人掛けのテーブルだけが小さな明かりに照らされ、ぼわっと浮かび上がっていた。
「ただいま帰りましたよ〜お仕事の方はどうでしたか?」
 明るく、それなりに大きな声で美月が尋ねても返事はなし。あれ? とアルト込み三人で顔を見合わせ合って、もう一度、同じように美月が声を掛けてみても、返事はやっぱりない。もしかして、電気が付いてるだけで誰も居ないのか? とも思わせたが、数歩も近付けばそこに二つの人影が座っているのが見て取れた。
「おーい、吉田さん、何してんだ?」
「あっ……ああ……りょーやん?」
 足を止めたまま、今度は良夜が声をかければ、一拍遅れてようやく貴美の声が聞こえた。
「……んっ……おか、えり」
 ついで翼。
 ちゃんと二人の声が返ってきたことに一安心、と言ったところだが、その声に張りというか、覇気という物がまったく感じられない。翼はいつもローテションな人間なのでこんな物かとも思うが、貴美の声がこんなにも力ないのを良夜はこの二年と半年で聞いた覚えがないように思う。
「どったの? なんか、精魂使い果たしたって……――使い果たしてるなぁ……」
 もう少し近付けば、貴美と翼の様子もはっきりと解り、その二人の様子が良夜の表情を曇らせた。
 貴美は背もたれに深く体を預け、力なく天井を見上げ続けているし、翼はと言えば顔をテーブルに突っ伏させたまま、まったく動こうともしない。
「……どうしたんですか?」
「どうもこうも……」
 美月に尋ねられると、貴美が体を起こし、そして、テーブルの頬杖を突いた。目には力なく、心なしか、お肌の張りも悪そう。そんな彼女は、美月に尋ねられ、力ない声で話を始めた。

 話は今日のオーダーストップ直前にまで遡る。
 そろそろ、お仕事も終わりが見えてくる時間帯、そろそろ仕事も終わるなぁ〜と貴美の心も緩み始める頃だ。そんな時間帯にがやがやと店に入ってきたのは、高校生と思わしき集団、十名ほど。
 ローカル新聞に取り上げられたとは言え、基本、暇な夏休み。ディナーの仕込みも普段よりかは少なめ。しかも、オーダーストップ直前とあれば、フロアを受け持つ貴美としては決断のしどころ。断るというのも一つの手だが……
「席に案内して差し上げてください。私も手伝いますから……ね? 他に食べるところもありませんし……」
 そう言ったのは、カウンターの中から様子を見ていた和明だ。彼はツカツカと貴美の方へと近付いてきたかと思うと、そう言い、その集団を店の中に呼び込んだ。
 全幅の信頼を寄せている老店長がそう言えば、貴美が断るはずもない。言われるままに彼女らを席に案内し、お冷やを配り、メニューを渡して、注文を受け……たところで……

「あの爺さん……ぎっくり腰でリタイアしやがった……」
 ぽつり……こぼすように貴美が言えば、再び、シーン! とフロアに沈黙が訪れる。耳が痛い沈黙というか、むしろ、心が痛いというか……なんというか……
「いくら作っても……終わらないかと、思った……」
「いくら運んでも、終わらんかったんよ……」
 こんな感じで十人分のディナーを下ごしらえがほぼない状況から一人で作るハメになった翼と、それのフォローをしつつ十人分の給仕を一人でやることになった貴美、どうにかこうにか客を捌ききり、彼らを追い出した後、なんとか掃除まで終わらせることは出来たが、そこで終了。精魂使い果たして、ただいま、絶賛死亡中。
「……大変だったんだな……」
 良夜が言えたのはそれだけの言葉だった。それ以上、下手な事を言って墓穴を掘るのも嫌だし、そもそも、かける言葉が見つからない。
「……あの爺さん、一回、病院連れて行った方が良いんちゃう? 今日、後から呼ばれて振り向いた拍子にぎっくり腰だよ?」
 美月にいたっては、貴美に真顔でこう言われても――
「……いやぁ……あの……お祖父さん、この歳で病院に行くと、出てこれなくなる……って、検査にも行かない人で……」
 冷や汗と苦笑い混じりにこう答えるのが精一杯。そんな美月を貴美と翼は冷たい視線で見上げるし、見上げられるとそっぽを向いて「えへへ……」といつもの調子で笑って誤魔化すだけ。
 その誤魔化しにまた翼と貴美はため息を突き、視線をそらす。一連の話を説明し終えた貴美と翼は、説明してるうちに疲労を思い出したのか、良夜達が帰ってきた時よりも顔色が悪いように思えた。
 そんな嫌な沈黙が三十秒ほど続いた。
「はぁ……あの馬鹿……」
 その沈黙を破壊したのは、良夜の頭の上に座っていたアルトだった。
「あの馬鹿……」
 もう一度、確認するかのようにしみじみと言ったのは、良夜の頭の上で話を聞き続けていたアルトちゃん。
 彼女は大きくため息を突くと、頭の上から良夜の頭を覗き込んだ。
「あれが女の前でかっこつけようとすると、大抵、上手く行かないのよ……もうね、半世紀以上前からずーっとそんな感じなのよ。真雪に指さされて笑われてた頃から、全然、変わってないんだから……」
 そこまで言った時点で彼女の言葉が止まった。プラーンと頭の上から天地逆さまになって覗き込みながら、彼女は視線を斜め上――良夜から見ると斜め下――へと揺らしながら、思考にふける事、だいたい、十五秒。
「……あれ? 私の前じゃ、余りミスしてないわね……」
「知ってるか? 女と幼女は別の生き物なんだぞ」
「知ってる? 口は災いの元って言うのよっ!!」
「ぎゃっ!」
 短い悲鳴と共に良夜は頭を押さえてしゃがみ込む。はらはらと宙を舞うのは良夜の頭から生き別れの黒髪達。
「あの……良夜さん、夜も遅いので騒ぐのは自重してくれないと……」
「……りょーやん、今夜はりょーやんとあるちゃんの漫才に突っ込む気力もないからね……」
「……うざ……」
 美月、貴美、そして、翼。冷たい言葉に良夜の心にだ多大なダメージ。てか、「うざ」のひと言はないと思う。しゃがみ込んだ一から三人の美女をジトッとした目で見上げるも、それ以上の反応を返さない。それどころか美月もテーブルについて、三人頭を突っつき合わせての会議中。
「いや、無理ですよ〜お祖父さん、あー見えて、頑固ですから〜」
「……駄目……通院、させる、べき」
「そーだよ? 良い機会だから、病院、行かせなって……協力すっから」
 ボソボソ、ごにょごにょ……一人、良夜は蚊帳の外、心は寂しさ一杯。
「……悲しいわね……」
「うるさいよ」
 髪の抜けた辺りをさすりながら起立。誤魔化すようにコホンと一つ、咳払いをして見せたが、やっぱり、彼女らから反応はない。辺りを見渡してみても、コーヒーを入れてくれそうな誰かさんも居ないようだし、帰っちゃおうかな? と言う気になるのも仕方のないことだろう。
「あっ、そうそう。忘れてた」
 急に貴美の顔が良夜の方へと向いた。
「ん?」
「いやさ、その高校生の一団に一人だけ、大人の女の人が居たんだけどさ、その女がりょーやんのこと、探してたよ?」
「「「えっ!?」」」
 貴美の言葉に良夜だけではなく、美月、そしてアルトまでもが素っ頓狂な声を上げ、そして――
「良夜さん、どこのどちら様ですか?」
 ユラッと体を揺らして美月が立ち上がる。ツイと一歩、足を踏み出し、彼女は良夜の顔をじーっと見上げる。顔は笑っているような気がするのだが、目はまったく笑ってない。風もないのに彼女の美しい髪が、フワッと大きく膨らんだように見えたのは、良夜の気のせいだったのだろうか?
「修羅場かしら? 修羅場なのね?」
 そんな美月の顔と、思わず半歩後ずさった良夜との顔を見比べながら、妖精は喜色満面。
「いっ、いや、知らないよ、心当たりないって……だっ、誰?」
 救いを求めるように貴美の方へと顔を向ければ、貴美は「うーん」と少し視線を右斜め上にそらしながらに答えた。
「えっと……しばらく来店してないって答えたら、『ふぅん』って返事して、後は文庫本読み始めてさ……いくら声を掛けても反応しないんよ。ありゃ、周りが火事になっても本を読み続けるタイプやね」
「……なんだ……馬鹿馬鹿しい……小夜子じゃない、それ」
 貴美が答え終わると、あるとは「ふぅ……」と大きく息を吐いた。乗り出していた身も下げられて、良夜の頭に座り直す。一気に興味を失ったようだ。直接、良夜からは見えはしないが口調からすると肩もすくめているように思えた。
「……マジかよ……何しに来たんだ? あの女……」
 アルトと同じ人物を思い浮かべた良夜は、その顔から一気に血の気が引いていくのを感じた。恐る恐るというか、一縷の期待を込めて貴美の方へと視線を向ける。
「……あのさ、吉田さん、その人って、髪の毛ソバージュにして、こんな大きな眼鏡を掛けた、泣きぼくろのあるOL風の女?」
 良夜の顔を見上げる貴美に、青年は目の所に大きな輪っかを作って尋ねてみた。首が横に振られることを期待して……
 だがしかし、甘かった。
 尋ねる良夜に、彼女は「ウンウン」と大きく何度も首を上下に動かした。
「知り合い? てか、やっぱ、浮気相手なん?」
「……浅間くんの分際で……」
「……ふぇ……」
 貴美がどこか嬉しそうに尋ねると、翼がポツリと呟き、美月の顔が一気に泣きそうな物へと早変わり。三者三様に反応こそ違う物の、良夜へと向けられる視線には一様に非難の色が含まれているのは間違いないように思えた。
「あっ、いや、違う、違うって、その人、俺の姉、姉貴、姉ちゃんだから!! あと、分際ってなんだよ、分際って!」
 慌てて、良夜は頭を振り、ポケットから携帯電話を引っ張り出した。二つ折りの電話をパカッと開くと、電話帳から姉の番号を探し出し、コール……するも、反応は無し。呼び出し音ばかりが流れ続けるだけ。
「どっかで本でも読んでやがるか……?」
 家が火事になっても本を読み続けるであろうと言われている小夜子だ。隣で携帯電話が鳴ったくらいで読書を中断するなんて事はあり得ない。読み終えた時に気付けば、かけ直してくるのだろうが、この時間だと携帯を確認せずに寝てしまう可能性も高い。
「本当にお姉さんなんですか?」
「本当だよ……閉店近くまでアルトに居たんなら、まだ、こっちに居ると思うけど……」
 ポリポリと頭を掻きながら、どこか不安げな美月に言葉を与える。そうすると、良夜の言葉を信じた……訳ではなくて、いつの間にかちゃっかりと美月の肩に止まったアルトが、ちょいと一回合図、信用したのはそちらの方。彼女はアルトが乗ってる肩口に向け、ニコッと安堵の笑みを浮かべて見せた。
「そうですか〜ああ、良かった」
「……なんで、アルトの方を信用するかな……」
「だってぇ〜浮気してる人が浮気してるって言うはずないじゃないですか〜」
 ピッと人差し指を立てた美月がしたり顔で言うと、「そりゃそうだけど……」としか、言い返す言葉が見つからない。青年はバツが悪そうに頭を掻きながら、携帯電話をポケットにねじ込み、彼女が続ける言葉を聞いた。
「良夜さんのお姉さんってどんな人なんですか? 今度来たら、ちゃんと紹介してくださいね」
「多分、明日にでももう一回、来るんじゃないかな……そんな時間からは帰れないだろうし……」
 と、思ってたら……――

 ペラ……ペラ……
 姉は予想以上に近くに、居た。
「……おい、クソ姉貴……」
 予想通りに本を読んでいた。
 良夜のベッドの上で……
 ペラ……ペラ……
 ちなみにこのペラペラ言ってる音は彼女が分厚い文芸書をめくっている音だ。なお、その本にはビニールのカバーが被せてあって、良夜の大学の図書館が所蔵することを示す判が押されている。部外者には貸し出さないはずなのだが、それがなぜか小夜子の手元にあり、良夜の部屋にやって来ていた。不思議すぎる。
 そのお姉様――一度本を読み始めたら火事になっても本を手放さないと言われているお姉様が、その本を読み終えるまで、だいたい、二時間ほど。
「ああ……面白かった」
 その二時間。読み終え、彼女がそう言うまでの二時間を、良夜はベッドの片隅に佇み続けるという方法でしか、消費することが出来なかった。
 ちなみに部屋の鍵は、前に帰郷した時、テーブルの上に放置していた物をホームセンターでコピーしていたらしい……
「きっと、いつか、利用出来ると思ったのぉ〜」
 姉のほわぁ〜んとした緩そうな笑顔を見ながら、青年は鍵をほったらかしにするのは止めようと反省した。

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