□ 戦後医学生運動史・年表 の視座

年表は主に1945年から私が退学を届出た1977年まで続いています。
申し上げたいことは、「東大安田講堂」事件が、医学生運動だと思われてはいけないということです。東大医学部全闘委と医学連による第一次安田講堂占拠闘争に至る行程は、戦後20年にわたる実に粘り強いインターン闘争の上になされたものだからです。
東大総長室や国大協本部を含む安田講堂占拠は、医学生の運動を例えば医学生だけでスポーツに親しんでいた「東医体」レベルから社会人を含む「全日本」へと飛躍をさせたようなもので、階層利害と意識の分解をもたらしていきました。大きな批判が新しい団結の質をもたらし、団結−批判―そして世間様との大団結に至る道筋を示したものでした。
安田の事件は当時の政治状況もあいまって、学生運動の表舞台に医学生運動が登場したといえる事件でしたが、課題ははるかにそれまでの医学生の問題を超えていました。私は全人民的闘争を意識する中で雷管のような役割を担った医学生運動であると感じていました。
民青諸君は逆に「医学生運動に分裂をもたらし、医学生運動の権威を失墜させた」と民青らしく「権威」という言葉で批判しました。

年表は医学連の側からみたすでに公表されている事実の羅列開示であります。
民青諸君は昨日までの我々です。我々の運動はただ自治会権力(自治会費も)が欲しいという運動なら、なにも無理をする事はなくて、せいぜい気の利いた一歩前のことをしておればよかったのです。
主に劣悪な労働環境の改善を求めたインターン闘争でしたが、労働力を束ねる青医連運動「バイト青医連」に堕することなく、パンと政治の問題をまったく同時に語り合ったのが医学連運動であったと思います。
日時で間違いがあると思われるものが年表にあります。例えば、スト突入が深夜に及ぶ会議で決定したときなど、決議と実行日とがずれてくることがあり精査しなければ分からないからです。
運動は未完のうちにあります。どうか戦後期の医学生運動を批判的に検証して、諸兄には自らのものにしてくださるように希望いたします。


□ 略字解題

この医学生史年表に見られる略字について述べる。
イ闘争はインターン闘争。国ボは国家試験ボイコット。Mは医学部、Cは教養、Pは医進課程(プレメ)。日医は日本医師会でも日大医学部でもなく日本医科大学。MD・医歯大・医科歯科は全国唯一の医歯両学部の大学であった東京医科歯科大学。東医は東京医大。京府は京都府立大ではなく京都府立医科大学。大学名は通常医学部を指し、主体的な闘争へのかかわりを示す。バリ封鎖は施錠し、或いは物理的に机や椅子などで建物や部屋を囲い、封鎖を人為的になすものだが、ドアの封印封鎖のようなものまであり、めまぐるしく封鎖、解除が繰返された例も多数ある。イ制完廃はインターン制度完全廃止ということだ。トリアス要求は『教育・研修・身分』。当局は闘争を矮小化した「紛争」を使用し、戦う主体は「闘争」を使用。「細胞」は生物学用語ではなく共産党支部の往時の呼称。           (医学生史1947.12.1参照)
1966年三派全学連でも見聞したデモ隊列を表現する旧軍が使用した『挺団』は医学連でも使用していた。京府医大教授会がバリスト時に使ったクラブ活動など休止を求める「大学鎮会」(=大学逆封鎖命令)も興味深い。また蜷川「革新」京都府知事による『鎮圧』というファッショ的表現、蜷川の「暴力学生は野良犬のようなもので鎮圧するが撲殺はしない」という府議会での「野良犬発言」も強烈だ。この発言には府議会社会党からも抗議があった。蜷川は戦前、京都帝大新聞に戦争反対する者は『鎮圧』と同じ表現で書いている。彼もまた、民主勢力に紛れ込んだ権力志向の強い男ではなかったか。       医学生史1968.3.3参照


■ 醫學聯史

記録という分野が大事であることは自然科学を志す方にはお分かりであることなのだが、このようなテーマにおいては、目的が異なるとあえてそれを成し遂げようという努力は限られてくる。
当局においても闘争の渦中においては学生側の資料入手にも努力を払われたのであろうが、それを積極的に編纂して後世のために利しようというものではなかった。
医科大学・医学部での50年史や100年史等の闘争記録も多くは「紛争」として大学を彩るエピソードの記載にしか過ぎない。
当局サイドでは明治大学学費闘争の記録を呼びかけるのは明治大学総長だった宮崎繁樹さんぐらいのものだろう。

醫學聯史を最初に手がけたのは1971年在学中の春、医学連が危機的な組織情況にあるという認識で、資料として残しておこうと手がけたものだ。丁度60年安保にいたる全学連通達などからなる戦後学生運動資料集が三一書房から出されるときで、医科歯科の村田恒有さんから見せていただいた資料が参考になった。
このたびの「医学生史」は、―戦後医学生運動史・年表― という副題が付けられているが、インターン闘争の全期間がすっぽり入るものだ。
実際の医学連はまだ生き永らえた。だから私が在学した1977年頃までは追加作業を続けていこうと思う。戦後の区切りについては判断が出来ない。新しい戦前という時期設定まで出てくる改憲気運の世相、諸兄のご指摘を待ちたい。


■ 国際学連

1966年まで医学連でも国際学生連盟の歌をうたった。隊列の中から誰かが「我が行く手を守れ」と叫ぶとこのロシアの歌声が勢いよく各校の林立する校旗の間に分け入っていった。最後にもう一度「我が行く手を守れ」と祈念唱和、繰返して終わる。2番と3番の歌詞は覚えていなくて1番だけ歌ったような記憶がある。1946年8月23日、国際学生連盟(The International Union of Students)の結成となった。結成当初,36ヵ国150万人が国際学連に加盟しナチへの反帝学生抵抗の地プラハを記念して書記局が置かれていた。60年安保の頃に自治会が加盟していたところにはプラハから70年安保の頃も通達が送られて来ていた。

 1学生の歌声に 若き友よ 手をのべよ
  輝く太陽青空を 再び戦火で乱すな
  われらの友情は 原爆あるもたたれず
  闘志は 火と燃え 平和のために戦わん
  団結かたく 我が行くてを守れ

 2労働にうち鍛えて 実らせよ 学問を
  平和望む人のために 捧げようわが科学
        以下を繰返す

 3砲火くぐり 進んだ我等 血と灰を思い起こせ
  立ち上がれ世界の危機に 平和を守る戦いに
        以下を繰返す

2010年に発刊された「わが青春の国際学連―プラハ1959‐1968」 石井 保男著・社会評論社 によると、ハンガリー動乱で国際学連から西側諸国は脱退してCIAの資金援助で自由学連を作ったこと、西側で唯一国際学連に残ったのが日本全学連であったこと、ソ連の覇権主義にはチェコ・スロバキアなど共産圏の学生達も抵抗をしたこと、1968年「プラハの春」のソ連による軍事弾圧で国際書記局からも逮捕者が出て機能停止に。そして書記局が西ドイツに逃がれたことなどを書き連ねている。1967年3月27日 IUS第九回大会〔ウランバートル〕で全学連(民青同系)代表参加、日本への調査団派遣・書記局員石井保男氏の解任を決議、このとき中国派三カ国とラテン・アメリカ十一カ国代表が不参加。石井保男氏は1969年10月帰国後、本人も知らぬうちに学友の計らいで休学扱いになっていた東大医学部に予期しなかった復帰、担当教授が元学友で一年後に医師免許を取得したとある。


■ 国際ゼミ

「国際医学生ゼミナールは1954年国際学連の後援によりオスロ−で開かれたのが最初であり、その目的とするところは、一、国際交流の一環として各国医学生の経験交流。二、各国医学生生活改善の為の経験交流。三、各国の有名教授の学術講演による最新医学研究の紹介。四、各国医学生間の友情等でありこれに沿って前二回のゼミナールがオスロー、ベルリンで開かれた。各国医学教育を参考として日本の各校で改善がなされており、日本の各校に於ける学生の自主的活動が盛んに成りつつある姿で日本に大きな意義をもたらしている。」
とは、1956年6月発行の医歯大新聞の解説である。
国際ゼミは1954年7月26日 医学連高木代表(東医)、第一回国際医学生ゼミナール(オスロ)参加のため出発。全人類の平和と健康への願い。東大からのスライド、阪大原爆センターからの資料で説明をしたとある。この年11月に医学連結成であるから、同時的に成され発展した医学生の大事業が国際ゼミだ。
1955年5月22日 第二回国際ゼミ日本代表団派遣選出会議が東京医大で行われ、(予防医学)阪大・島津君 (国際協力)京大・江藤君 (医学教育制度)日本医大・藤田君3名の代表が決まった。 (原爆症)岩崎教授。国際ゼミ会議終了後、5月31日ワルシャワの三君は第5回世界青年学生平和友好祭に出席。百数十カ国、約三万人参加。
1956年7月9〜18日 医学連からレニングラードでの第3回国際ゼミナールに参加。菅野(福島医大)、墨田(東邦医大)、上田敏(東大医)が代表。
1957年7月9日 国際ゼミ開催 (於、フンボルト大学)国際医学生ゼミに東大小木君。24カ国参加。
1958年7月9〜18日 医学連・国際ゼミナールに参加。医学的な講演と討議、学生の自主的研究と討論、研究所などの視察がなされた。過去の医ゼミが学生から浮き上がっていることが批判され、つながりを密にする努力がなされた。国際ゼミに対応して国内ゼミがあり、全国医学生ゼミナールと称し1955年10月7〜9日 第一回全国医ゼミを開催・医学連の理論的バックボーンとなった。


■ 全日本医学生連合

全日本医学生連合(通称、医学連)はクラフトユニオン的(産別組合)性格を持つ。が、一方で政治課題もこなしていた。
All-Japan Federation of Medical Students (Igakuren)
これは実に忙しい話しで、一日のうちに都の王子野戦病院設置反対とインターン運動と両方のデモスケジュールが重なったときもあった。
全学連の下部組織というものでもないし、何度か組織統一の話もあったようだが、医学部活動家にもなにか引っかかるものがあって、心底統一には至らなかった。実際に1957年9月の医学連中央委員会で、全学連の呼びかけによる全ての学生組織の統一『全ての学生運動は全学連に統一せよ』に応えて解散決議をしたことがあったが、下部に下ろすと異論続出で沙汰止みとなった。
医学連の方針を支えるものとしては毎年行われる医ゼミ(全日本医学生ゼミナール)の存在が大きく、社会保障政策を軸に理論的発展が独自課題の追求に役立った。
加盟の医学部自治会には全学連通達と同様に医学連「通達」を発送した。この医学生史には医学連通達からの記載が少ないのは私が幹部ではなかったからです。
革マルは少数で中核派とのゲバは無く、群馬・京大・広島の自治会を持っていた中核3校にはそれぞれ中執が割り当てられていた。(中執は全部で15人)群馬医の中執は「ブントはこう書くのだろう」と分担した議案書を執筆していた。
その医学連には、統一されていた全学連時代より中執1名の医学連枠が割り当てられていた。
GHQによるインターン制度の押し付けから執拗に改善運動が続き、国試ボイコットという身を切る戦術でインターン制度完全廃止に至る1968年まで、医学生運動の屋台を支えたのは卒後研修問題であったことは否めない。
大衆的な公約は果たせたが、イ制度完全廃止になったことを勝利という捉え方は医学連ではしなかった。


■ 全日本医学生新聞

全日本医学生新聞(通称、医学新)は医学連の機関紙であった。1958年4月8日に創刊号が出されて榎本稔氏(MD)が初代編集長になった。私の受け持ったのは51号から103号あたり迄であった。号外は3回ぐらい発行した。編集長は中執のほうから派遣されてきて、関東の新聞会やクラス活動家から5人前後の編集部員を出していた。1968年、編集長を社学同が再建されてからの日本医大星野氏(故人)が務めたこともあり谷中のお宅で編集会議を開き奥さんの手料理の夕食をいただいた。関西支局を京府医大においた期間もあった。私が関与する前の1965年当時には東京医科歯科大新聞会が代行して発行していたようだ。
資金は加盟費(1人30円)からでればいいのだが、そんな金は優先的に闘争資金に消えてしまうから、ただの一度も貰った記憶がなく完全な独立財政だった。一回発行するのに10万何がしか係る費用は、広告とカンパ、小児科医の毛利子来先生などからの購読費で賄っていた。
看護婦をしていた連れ合いのボーナスを充てた事もあった。
京都府医大闘争のときには京都現地まで号外印刷をしに出かけた。皆が病院玄関前の座り込みに出かけたとき、1人で学生課の建物で留守居をしていた。大きな音がしたので、窓の外を見ると機動隊が電車どおりから門を乗り越えてくるところだった。なんの確認事項もなかったので長居は無用と風呂敷に荷物をまとめて鴨川に逃げ、浅瀬を渡って逃げおうせることが出来た。写真家の福島菊次郎さんに非力なら「真っ直ぐ逃げろ」と教えられたとおり、横にはみだして逃げずに東の京大方面に向かった。水かさが無かった鴨川を靴を脱いで渡るときちょっとした都落ちの気分、患者さんが窓から見ていた。
私以外は全員捕まってしまったが新聞を仕上げて東京へ引き揚げた。

福島菊次郎さんは軍人勅諭だけではいくら旧日本軍が死ねといっても兵隊は持たない。実は歩兵操典の方に生き延びる術を書いてあると、読むように薦められていた。福島さんは今尚現役で「福島菊次郎90歳の写真集『証言と遺言』(2013年3月1日(金)発売)がある。

全日本医学生新聞を民青系自治会に送っても配布されないのは常態だった。それでも送り続けた。医学新に批判があれば自分達にも書かせろといって来るのが全うな民主主義だが、いちどもそれはなく、活動報告を送ってくることは無かった。だから医学連の奪取以外には、彼らの頭に無かったといえると思う。

医学連一部自治会に巣くう民青諸君に編集局は抗議する。

私達編集局は全自治会宛に毎号発送していますが、一部自治会では新聞を私物化、隠匿、焚書にしています。このような大衆蔑視の自治会官僚を弾劾します。
全日本医学生新聞編集局 (1968.9.13号外)


■ 高知県高等学校生徒会連合

高知県高等学校生徒会連合(高生連)は全国でも珍しい、県教育委員会により公認され予算措置もついた25000人の医学連(医学部在学当時、現在医学生数は倍増)とほぼ同規模の県下高校生による自発的な全員加盟制単一組織でした。
でしたというのは、私が主体的にかかわった全県的な脱退工作によって1962年の春、50年前にこの世から姿を消したからです。在学したのは勤評―安保―学力テスト反対1959〜1962と言う政治の季節でした。加盟費は一人10円だったと思います。
高校時代の私は慶応義塾の元塾長、東宮御所教育参与として皇太子明仁親王(現天皇)の教育にあたった小泉信三全集を読む平和と民主主義右翼でした。(小泉さんは空襲被爆で焼け爛れた面相でした。)ですから高校生は文化活動に重きを置くべきだと、勤務評定闘争で大きく激突した右側にいました。
学内弁論大会では民社党の持論『世界連邦をつくれ』で三等に、一等は『安保』への疑問を語った女子学生で、選考は日教祖の先生でしたから、そんなところです。
発言が政治的になり、「民青のように闘おう」とか、矛盾したことも言っていましたし、高校生には政治課題は早いとも言っていましたが、マヌーバーであることは自分自身がよく判っていました。決して高校生が政治的な判断が出来ない存在ではなく、大学に入って随分と他県から来た大学生は会議の場では幼稚であるとさえ思ったぐらいですから、「高校生には政治活動は早い」論自体が、政治的な捉え方だったことには間違いありません。生徒総会の議事運営も議長に『緊急動議』とか『議事進行』とかテクニックを行使していました。
在学したのは高生連の書記局校(高知県立小津高校)でしたから、脱退工作にも力が入ります。県下の他校とも連携を図ってあるときは高知八幡宮そばの旅館菊一に集まって脱退工作に当たりました。旅館は独立教組の計らいで金はきっと教育委員会から出たと思います。こうして卒業間際(1962.1.13)に709対216で脱退を果たしました。しかし、学園は自主的な文化的な賑わいを取り戻すことは無く、自主規制された生徒会規則が出来、進学色に包まれていきます。私自身は勉強なんかしていません。
やがて、出入り自体が迷惑がられるようになります。
浪人時代ですが、このようなときに読んだ大佛次郎の『パリ燃ゆ』が人生の転回点になりました。マルクスではなく、史上最初の労働者階級によるパリ・コミューンの闘いを描いた『鞍馬天狗』の叔父さんの著作が私の心に宿ります。
ですから、高校時代に「左翼のやつ等が酷い目にあう」ことも、また全員加盟制組織も理解していました。医学連との出会い後は、高校時代の反省から医学連を守れが私の行動規範でした。産別学連である医学連の組織防衛が自己確認の必須課題でした。


■ ブント

島成郎(しげお)さんがブントの初代書記長をしていて、沢山の医学生が共産党から離脱してブントに飛び込みました。島さんにお会いしたのは精神科医になられてからで、とても優しくアルコール医療のことも話しました。ご自身もかなり飲まれていたようです。
医学部には「ブントでブントの活動」をする塊がいて、「ブントで医学連の活動」をする活動家がいて、そして医学連には沢山のシンパや、ノンセクトの活動家が厚い層でいて、医学連や自治会を支えていました。私はそのような活動家の1人で、医学連の機関紙「全日本医学生新聞」を在学12年間のほとんど担当しましたので、身近に魅力のある幹部の方々をみることが出来ました。
1968年、後にどこそこの教授になられた方のアパートで社学同の加盟届けと決意表明をお預けしました。なにか都合の悪いことがあったのでしょう、届けそのものは上の機関には上げないで受理したことにするということでした。それで全学連の方に行って写真を撮っていてもマスコミと間違われていましたし、俺は社学同だとかも言っていませんでした。医学連書記長だった木野村睦君にヒッピーと言われて、さすがにえっと思いましたが、編み上げのサンダルなんかを履いていたからかもしれません。
医学連がブントの頚木から脱したのは1978年、MD松原君(故人)らによる医学連の再建運動だったと思います。
共産党の諸君が議案書で書いているトロツキスト暴力集団の延命の為のマヌーバーではなかったわけです。


■ 全学連

日韓条約締結反対と早大学費値上げ反対闘争の年に入学したとき、すでに60年安保は神話になっていました。
並列規制されたサンドイッチ・デモは機動隊がデモをしているようで、夜間などは指揮棒の明かりに照らされた青い乱闘服以外は何も見えず、闘争主体には閉塞感がありました。
それでも医学部は6年制で卒後研修に多くの先輩が学内に残っているところから安保ブントの残り火がちろちろとしていました。
卒業までに70年安保があるところから、私は「無事じゃすまないなー」と思ったのは入学した時、1965年のことです。
全学連デモでは大学ごとの隊列が集会場に到着し、「○○大学の学友が到着しました」と司会者が報告しますと、各セクトの影響下にあるのでしょう、そのたびに拍手の場所が違います。
デモの最後尾に恥ずかしそうに小走りでついてくる女子学生がいたりします。彼女もデモに数倍する同伴学生達の一人だったのでしょう、世間では野次馬という存在ですが、ぞろぞろとデモ隊の横を歩き警官の行き過ぎを咎めます。
例えば1966年、三派のデモでは気がつけば日比谷公園から100メートルも行かないところで機動隊の阻止線に阻まれて国会方面に突っ込んでは押し戻されぐるぐる回っているのでした。私の学生鞄を持った後輩が「大丈夫ですかー」とその度に声をかけます。
明治大六角校舎での全学連大会でしたか、東大医学部の社青同解放派Kさんが味方から野次られて首をかしげながら降壇してきます。医学連大会はこんな場面からみれば和気藹々と言ったところでしょうか。1966年当時、医科歯科Dの革マルキャップがうるさいので、級友が「ここは医学連大会だぞ」とたしなめている場面もあります。
全学連が工事現場から拾ってきたようなヘルを被った姿は日比谷公会堂前の66年10・21集会が最初だったように覚えています。医学連のそれは1967年3月12日の国試阻止闘争の時で質屋から270円のヘル2個を日本医大学友会費で買ってきました。
三派(全学連)の時代、その隊列の多くで医学連の旗は翻っていました。


■ 自治会

自治会、もしくは学友会とか学生会ともいいます。医科歯科や弘前大医学部のようにクラブ主体の学友会と二本立てというところもありました。自治会論は飛ばしますが、自治会は大学自治の構成団体としての地位を常にアッピールする存在で、学友の利益にとどまらない問題提起を実践的に表現しようとしていたように思います。今日のように産学協同が当たり前で、産官学・産軍学とか面の皮の厚い連中が平気で言っている中で原発の安全に対して学者の責任をチェックできない大学自治は恥ずかしく思います。
戦後すぐの軍人の復学阻止とか、新設される防衛医大への教官派遣阻止とか、なすべきことをせねば、戦争の医学「軍陣医学」が平時に満ち溢れてくることでしょう。
従来、医学部の多くでは最少の自治組織として自治会が合法化されていました。闘争時は自治会が闘争委員会を立ち上げていました。インターン委員会はカリキュラム調整機関ではなく闘争委員会であり、これが姿を変えて医学連結成へと大きな力となったと思うのです。
敗北時には自治会が出てきて当局との間で、委員会の闘争を終束します。見方によってはボス交だという批判も出ますが、私は自治会救対論です。
闘争では、国立なら闘争委:秩序派:民青に三分解、私学なら秩序派:闘争委の二分解が主なスタイルではなかったでしょうか。分解が進むと相対的に学外デモ参加者が減りますが、政治デモの隊列は強固となります。東大や医科歯科に対して医学連デモに動員が少ないと未分解の私学が批判している場面も見られました。東大は謝るしかない場面です。
医学部での全共闘は、多くはインターン闘争などで組織された自治会がある学校で、しかも医学部では自治会を握っている中での全共闘結成であり、これは闘争委員会で自治会は救援対策委員会として後方支援で機能しました。1977年、日医大で爆弾容疑のでっち上げ逮捕者が出たとき、クラス会に続き学友会で無罪決議をし、大学側の協力を得て、学生部長や化学の教授が弁論に立ちめずらしく釈放となりました。自治会が機能しえた例証といえます。(後に有罪・猶予)


■ クラス会

医学部は一学年60人から100人、多くても120人ほどの小世帯だったので、教養・進学課程は2クラス、医学科からは1クラスに纏まっているのが普通ではなかったでしょうか。教科は選択授業が少なくびっしりと詰まっていますから、クラス会をするには授業の合間、昼間休みや放課後、どうしようもなければ授業を貰ってするしかなくなります。クラス会議という学生自治の最少の発露でも大学側と折衝をする必要があります。クラス会自体が許認可であったりもします。座席指定制や出席制度反対などのこんな初歩のせめぎあいがクラスの自治意識を高めていくのも道理です。クラスには代議員・中央委員・自治委員と呼称は違っても全学自治会へと送り出し、決議により、自治委員長が選出されます。あるいは「大統領選挙」型のときもあります。クラス会は文化祭や学年対抗スポーツ大会、合ハイ、映画会、時にはダンパ開催、クラス旅行、病気見舞い、謝恩会卒業旅行など多岐にわたり、授業改革や学費値上げ反対、進級制度、施設改善などの諸要求から、経済や政治スト、デモ提起、無能教官のパージ、救援カンパ、他校オルガナイザーの教室オルグ受け入れ如何など、があります。
このような基礎の上に自治会も全学連も存在しえたと思います。
だから、はなから一本釣りで育ったセクトの活動家では学友の機微が分からず、お義理ストでは当局の恫喝にもろくも崩れ去ります。
1969年頃関西から上京していた京府の活動家・星野征光さんご自身のクラス演説を聴いた方が、さぞかし格好良く颯爽と演説しているかと思ったら涙を流さんばかりに泥臭く話していて、外での演説からは思いも出来ないことだったと報告していました。
大概、クラスの意見が盛り上がるときは勢いがあります。1966年のP2・Bクラス、インターン闘争のデモでまだ論議が不十分だから自由参加にしましょうと提起したら、全員参加でやるべきだと叱られて自己批判をし、不肖私が先頭に立ちますと宣言した嬉しい誤算に出会ったときもあるのでした。
1969年の夏、スト中も授業開始のベルがやかましいので、壊して停めようとクラス会で問題提起したら学校の備品を壊してはダメといわれ、電柱に学友がよじ登ってベルに猿轡をかまし、ヘルメットを頂に載せたら皆が拍手したこともありました。


■ 新聞会

戦後混乱期に活字に飢えていた学友がいち早く手がけたのが学生新聞だった。読むものが少なく紙も配給で、カストリ雑誌が飛ぶように売れる敗戦直下の時世。食べることもママならない時代に、まず考えたのが学生新聞だったというのは学生の自由への憧れが如何に強いかということでもある。
新聞会の多くは学友会に組み込まれずに独自の存在として、自治会とも一線を画して新聞会の矜持を保った。自治会を我々が持っているときに民青が新聞会で論陣を張ることもあったし、その逆もあった。また、我々の側であるとしてもなつかないで、独自性を保って批判精神を紙面にぶつけている新聞もあった。活動家を生み出す部活でもあり、サーキレーション理論など、学新論をもっての論争もあった。
医学部の医新連とは別に、全国の全学新に入っている医学部新聞もあって、それぞれ独自の運動をしたが、初期、分裂する前の原水協大会に全学新で共同デスクをくんで取材することもあった。
医学部の新聞会が学内で独自に発行できた経済的要因は門前商店街などの広告の他に、医学図書や製薬会社、医療機器会社などの広告によるところが大きかった。また、私学では予算の都合がつくところもあった。

■ 同窓会

大学同窓会の場合は闘争に入ると大学当局の意を呈して働きを強めるのが一般的だと思うが、体制内反対派(学内反主流派)の暗躍も見られ、思わぬ足並みの乱れを学生は眼前にみることができる。
教授会は学閥や、私学なら理事会との軋轢などで当局のリーダーが変わり、闘争の行方が変わってくることがあるが、同窓会は単一大学の出身者なので、学生や研修生に影響を及ぼしやすい。
大学同窓会でも『名門』東大の鉄門倶楽部や慶応同窓会・三四会など、独自の回転軸を持って運営されている。医学生運動に敵対的でもあった慶応の場合を紹介する。

     本会としては昭和32年に武見太郎会長(内科,日本医師会長兼務,8回,故人)が『三四会ニュース』を別途に発行した。編集責任者は二階堂達弥氏(医化,6回,故人)であった。
 その後、昭和40年台半ばのいわゆる学園紛争時代に『新聞』の内容が左傾となったと判断した武見会長が、石山季彦氏(心外,24回,故人),土屋雅春氏(消内,32回,故人)、石山和夫氏らをご自宅に招かれ、「『新聞』は本会が中心になって発行すべし」という厳命が出された。当時、武見会長は日本医師会長として長年に渡って大活躍され、世間一般からは武見天皇と称されたほどであった。これ以降、『新聞』は現在のスタイルとなり、現在に至っている。学生団体の医学部新聞部は新聞研究会(現在、部長は竹内 勤教授,熱・寄,49回)となり、この間ずっと『新聞』編集の一部を担ってきた。  (同会のHP・歴史より 2013)


一方、地域同窓会は大学同窓会に包摂されながらも、任意の活動をしている。学生と当局の双方を呼んで話させる東大の地域同窓会もあった。最後は飲み会になるのだが。
クラス会を軸にする同窓会は、これも大学同窓会に包摂されながらも自由に活動をしている。
東大の70年安保ストクラスが2011年に医共闘・民青・右翼秩序派合同してようやくクラス会を持ったという。内実は知らないし、いいとも良くないともいえない。
日医の学友会(=自治会)の同窓会には一度出席したが、大学同窓会報に参加者名入りで報告が掲載されたのには若手のセンスに少々驚いた。(日本医科大学同窓会報2010.8.25 第360号掲載)場所は上野の東天紅。学部の大学当局が一夜を明かし、市川国府台の医進課程バリ内へ押しかけてくるときの使用ホテルだった。 (医学生史1970.1.18参照)
私はドッペリを繰り返し、中にはストで卒業時が文字通り四分五裂した学年もあったので数えてみると14クラスほどに関与していることになる。そのうちの一つから同窓会に出ないかと案内を頂いたが、今年はゴルフはしないが一次会は日比谷公園の松本楼、二次会は向いの帝国ホテルだと書いてある。松本楼は日露講和を不首尾とする民衆の焼き討ち(1905.9.5)、学生等の日比谷暴動での焼き討ち(1971.11.19)と明治と昭和、二度の焼き討ちにあっている。当のクラス会は歴史の重みに感じ入ってばかりいて欠席の通知をすることとなった。


■ 私立医大

私学オルグは国立大生では歯がたたないと思う。では無理かといえばそうでもない。そもそも私学よりは自治が認められている国立大でも大規模な政治ストをやらかしたら退学処分は当たり前だった。困難な事情は双方にある。例えば、民青の分析一般は願望(抱負)を述べているだけで、実行を伴わず、私学の問題に届かないだけだ。
民青の私学分析だとこうなる、

1973年の鹿児島での民青医ゼミ報告集では「私立医大の問題として特に寄付金についてあげられた。私立医大は莫大な寄付金を納めなければならない。そうした寄付金は結局、父兄、学生、患者に負担として解消されている。そうしたことから私立医大の学生は家や社会に負い目をおっている。だから政治課題・学生運動などはやってはいけないという意識が強い。そうしたことを克服して寄付金問題の真の責任の所在、大学当局の非民主的体質と低文教・低医療費政策と国政を怠った政府の所在を明らかにし、私立医大は連帯して戦っていこう。また学びがいのある大学を作ろうということでは、すべての大学が共通しているし、低文教・低医療費政策の犠牲者ということでは国立でも同じである。そうしたことから私立・国立もともに闘っていけるのではないか」と述べている。

果たしてこの何十年、私立医科大学は少々民主化が必要だが共同してやれる相手だ、そこに存在する君たちは悪くないと口説くだけで、私立医学生の理解や決起が得られただろうか。
そのような働きかけが功を奏していないもうひとつの理由には、民青諸君自身の問題にもある、組織拡大の本心を隠しての学園介入や加盟戦術、統一戦線を掲げた策動が何時の日々にも取られてきたからだ。
日大闘争をとっても1968年の民青が全力で分裂を企てた医学連大会時のように、たとえ一瞬の「猫だまし」がうまくいったとしても、日大の苛烈な現場では民青路線はすぐに捨てられてしまった。医療資本として肥大化した私学の分析からきちんと組み立てていかないと「諸悪は低医療費政策」一般ではすぐにぺちゃんこになるのが現実だ。


■ 私立医学生の広場

私立医学生の広場は同名のタブロイド版新聞と、私立医学生が自由に話し合える場をということでの企画を、医学連の全日本医学生新聞を発行しながら、70年代中期(1976.2.1)に手がけて立ち上げたものでした。
医学連と切り離して、私学生たちが自分達でまずやってみようという企画でした。銀行資本によって全国展開していた徳州会の徳田医師の各校での学生を馬鹿にした連続講演への激しい反撥などに、私立医学生自身の持ち味が出ていたようにも思います。
            (医学生史1980.5.20 1983.10.3参照)


■ 女子医学生

女子医学生といっても男子医学生といわないのは何故だとか、疑問が出てくるのは運動が深化し、問題が重なり合ってくる1960年代が終わり70年代の事象だった。
その女子医学生でも、開業医の子弟には男子の開業医師弟と同じ匂いがした。そして、首尾よく「男子医師」を連れ帰って家業を継ぐにしてもしわ寄せは彼女達の身に降りかかった。家業の病院から夜間などに呼び出しがあったとき、誰が行くのか、現場を考えれば分かる話だ。
そして、悲劇も数々見てきた。
在学時そろそろ美味しい家庭料理を食べたくなると運動部の友とかたらって在京の女子医学生宅に押しかけることもあった。
フルーツも頂き、ピアノを弾いたりショートケーキも頂いたころ、そのお宅のお母さんが顔を出して「うちは慶応の医学部に嫁がすのですのよ」と予防線をはりだした。それで「僕らはそんなんではありません」とお暇したことだった。その後のことはあずかり知らぬことだが、気の毒でとても語れない展開になって仕舞った。
多くの医学部では男女比が一クラス10人ほどから30人ぐらいになってくると、ロッカールームの移動や部屋の仕切り直しが始まり、当局も施設改善要求が出るまでもなくさっさと受け入れ対応をしていったようだ。日医の医進では女子だけが桜が咲く池のほとりの旧軍用務員住宅があてがわれていた。彼女等だけ休憩室があったのはなんだと今のこと気づいたりするが、女子学寮はなかったからやはり問題は有ったと認めるほかない。
70年代に入ると論議も活発で私など散々に論破され、それでも食い下がっていると「下司君、もうヤメナよ」と軽く一蹴された。中核派などは全学連大会が開けない事態になっていたから、下司には理解できないとの温情だったと思う。
その後、日医学友会は副委員長のHさんの提案で学友会費で生理用品の学館内トイレに備品としての備え付けを可決した。女性であるHさんからみれば当然至極の備品であるという認識だったがその類の話は他に聞かない。


■ ガリ版

戦後医学生史を彩る道具の立役者はガリ版だった。私は早刷りで2000枚は原紙を破らないで印刷した。
蝋原紙はふるさと土佐の特産和紙に蝋引きした「土佐原紙」や「四国原紙」製。
渡された原稿用紙から、太字の見出しに用いるへらや文章記載に使う鉄筆と鑢の筆耕板を使い分けてバランスよく一枚のアジびら(伝単)を小一時間もかけて切り、印刷に廻す。
神田の白山通りに面して専門店があったが、その頃は需要も多くてちょっとした文具店でガリの道具を購入することが出来た。
紙は藁半紙、粗紙で毛羽立ち機械刷りには不向きな用紙、今では探してもなく逆に高価だ。
電子化されてガリ切がなくなる頃、学生運動は衰退していった。頭で考え、読みやすく見出しや文章を鉄筆で切り取り、指サックをはめ輪ゴムのバネで、指が入るだけの空間を作りマス刷りをしてゆく行程は受け取る相手へのメッセージを常に考えてゆく作業だった。
今では、ガリ版も、鉄筆も謄写器、原紙も藁半紙も手元には後いくらもない。帰郷後の病院でも少しは使ったし、ローラーで紙版画も作った。1970年代に作ったのでは反帝戦線の赤い表紙絵やアヤメ病院告発パンフのカットが残っている。
すっかり廃れたガリだが、ふるさとではガリ版絵をなさっている方がいて、それもB4を四枚もつないだ大きさで土佐湾の珊瑚取りやかつお釣りを描いていたが、この方も亡くなってほぼ途絶えてしまった。
ところが土佐の企業、高度紙業による加工でこれが絶縁紙に使われだし、全世界の90数%以上の生産を誇ることになった。ローテクと思われたガリの世界最先端技術への華やかな転身になった。


■ 白衣

白衣が権威の象徴であったり、自らを守る予防衣であったり、白衣論争は学生運動でも討論を経て来ています。
教授に忠誠を誓う医局員はときとして学生のストに襲い掛かる「白衣の暴力団」と化すこともありましたし、1960年の医療労働者による「病院スト」では実際にスト破りもしていました。総体的に50年代に医労連などの組合から医師の白衣は抜けていきました。
1960年代、映画「白い巨塔」の映画名は白衣や病院の白い壁と教授を頂点とする医局ヒエラルヒ―からの命名でありましょう。
1970年頃、衛生面では大学側から街の食堂に白衣を着衣して出てはいけないと通達が出てまいりました。これは至極当然で不潔着で出歩いてはいけないということで、院内食堂でも脱衣するようにハンガーが構えられたりしました。
白衣デモの方はインターン闘争の過程で段々とやめていきましたが、日共系は後々までしていましたね。別に60年安保ではデモの救対をやるから白衣持参という自治会指示もありました。
1970年にはいって防衛医大阻止の現地所沢での市民情宣では白衣着用は市民受けが良かったのですが、学友の方が嫌がっていました。「聖職意識」「象牙の塔」を意識したからですが、防衛医大の問題は階級性を特に強く意識されて、市民の側に立つという立場性から白衣は忌避されていました。
時代が下がって、1978年11月18日に医学連で久々の白衣デモをしています。防衛医大入試反対の市ヶ谷基地に向けたデモで骸骨のお面をつけています。すると、権威をひけらかすデモとは随分異なってみえますね。
同じ白衣でも当局からみれば、医師と看護師では将校として養成されるものと使い捨て兵員の差でしょうか、意識の落差がありました。医師の看護婦に対する60年代当時の意識は大学卒の「学士様など手元で使えない」という4年生看護大学教育への蔑視もありました。実際に医学生のストと看護学生のストでは当局の手心も違っていました。
では、彼女達の白衣デモはどうなんでしょうか、職域を表すには欧米でも制服デモはしています。日本では愛染かつら風な古典的白衣は姿を消して今では余り見られなくなっているようです。
カラー化され、機能化され、旧来のスタイルはコスプレになっていくようです。デモでの白衣は衛生上職場の着衣とは別物を着用すれば全てが悪いわけではないと思うのですが、どうでしょうか。


■ 解剖体慰霊

文京区の大学でも医科歯科は築地本願寺、東大は谷中天王寺、日本医大は駒込吉祥寺、順天は有山登記念館講堂などで例年の解剖体慰霊祭を行っています。
私も学生代表で広い構内を持つ吉祥寺に出向いたことがありました。慰霊碑は新政府軍に函館で抵抗した榎本武揚の墓の傍にありました。
在学時代には京大の教授が献体をしたこと自体が美談となって伝わってきました。医療関係者のそれは余り聴かなかったからですが、実習中に遺体に不都合なことをした学生は除籍処分(復学はありえない処分)で、刑事告発をしないだけありがたいと思えというものでした。今日なら、それも難しいでしょうかね。
私は三体も解剖をさせて頂いたので、せめてもの罪償いにと地元大学へ献体をしています。


■ セツルメント

セツルもまた、学生運動ともからまって発展してきたし、無産診寮所などを通して共産党とも関連して消長してきた。全学連の分裂と時を同じくして全セツ連の分解もあった。
「「セツルメント(Settlement)は、1880年代のイギリスにおいて、知識や教養のある学校教育や学生、教会関係者など中級階級の人たちが、都市の貧困地域(スラム)に移り住み、労働者階級、とりわけ貧困に苦しむ人々に対して直接触れ、生活を共にすることによって生活状態を改善する架橋的運動として始まった。」 
「日本のセツルメント運動は、岡山博愛会(1891年)と片山潜による東京・神田のキングスレー館(1897)が最も早いものとして知られている。米騒動以降には、大正デモクラシーを背景として、キリスト教系および仏教家のセツルメントや隣保館が、大学セツルメントとしては東京帝大セツルメント(1924)が設立された。また、地域福祉が注目されるなかでセツルメントの思想と実践の意義が問い直されている。」
まさしくその通りだと思う。岡大の青山英康教授は近著、『健康寿命は差別用語だ』の中で『明治・大正の頃に貧しい人たちが医療費の捻出に困り、娘を売っていた時代に、貧民街に東大の医学生がセツルメントを作り、医療を提供した歴史があった。この運動を支えた無産者診療所の初代の院長が、徳島出身の岡山医大の卒業生だったことを知った』といっています。
セツルはやがて下火になってゆくが、フィールドワークとして、その後も無医村や工場地帯に入っていく学友は多くいた。私はセツルに行かなかったから聞くだけでよく知らない。

■ アルコール医療

学生運動が与えた医療発展への役割が何もなかったように言う方もいらっしゃる。私はその面での検証作業は出来ないが、35年ほど、アルコール医療の現場からみていると医学連が直接間接に関与した中から、アルコール依存症の問題に取り組む方が沢山出てきたことは確かだし、1960年代、1970年代をそのように総括できる。その1人、京大出身、杉浦勝君の岩倉病院や新阿武山病院でのアルコール医療への取り組みは豊富化されていた。「高槻ぼちぼち断酒したろう会」、のブログに杉浦勝先生の遺影が掲載されている。
 http://www3.hp-ez.com/hp/h738k/page1
東大精神科医師連合の初期のキャップだった宇都宮泰英氏は「消耗」して故郷の愛媛県へ帰られたがアルコール医療に救いを求め、高知酒害サマースクールにも度々患者さんを大洲市の精神科病院から連れて来られていた。
医科歯科出身の池袋でアディクション関連の榎本クリニックを経営する榎本稔先生は医学連機関紙『全日本医学生新聞』を創刊した初代編集長だったし(1958.4.8創刊)、同じく医科歯科出身の岩倉病院元院長、卜部圭司先生もそうだ。(自治委員会副委員長1961.11.8選出) 
私にとってはなだいなだ(堀内秀先生)との出会いがなつかしくあり、紀伊国屋から出されたアルコール依存症を病気として世間に紹介した最初の単行本『アルコール中毒』(紀伊国屋書店)を活用した。先生は後輩の学生間ではアナーキストと噂され、民間病院からは労組を院内で作ると忌避されたとお聞きしていた。なだいなだは高知によく来て下さって、下司病院でも患者さんに即席の講演をよくしていかれた。そのような高知入りの間に自由民権家、中江兆民の中学生でも読める「TN君の伝記」をまとめられていったようだ。私はアル中だから失礼すると国会議員を辞めた中江兆民の物語だ。

1971年3月1日 全日本医学生新聞86号が、東邦大医学部精神科額田教授が世話人をするアルコール関連問題協議会が保安処分を推進していることを糾弾する記事掲載している。
断酒会の1971年全国大会久保講堂(東京)にはビラ入れをした。保安処分反対の要請で二代目の全断連会長大野徹さんの目白のお宅には頻繁に通った。精神衛生連盟に断酒会も加盟していたからだ。
本人は法案成立へやる気だったが奥さんが婦人矯風会で反対だったので曖昧決着、ご飯を頂いて帰った。

戦後期の節酒運動は禁酒会の他は青森健生病院の津川武一(たけいち)医師の取り組みがあげられる。労働者の生活を守る地域に根ざした新生活運動の一環であったが、対象者はむしろ断酒を必要とされる方が多く、節酒治療は沙汰止みとなった。味噌汁に家人が本人の了解なく抗酒剤をいれるような今日から見れば乱暴なこともあった、初期の試行錯誤の時代だったのだ。その後の断酒運動に対しては百歳で亡くなった秋元波留夫氏や阪大の中川米造教授なども好意的で中川先生のお弟子さんの中田陽三先生は今も提言をなさっている。
さて、学生運動の方だが、府医大から放逐され三重高茶屋病院医師が下司病院に見学に来たのが1970年代の初頭だった。そして、三重県で断酒会の立ち上げにいたる。徳島では教授の反対を押し切って3名の医局員が徳島大学で講演会を開催することになり、松村春繁初代断酒会長が高知から出向き講演、断酒会がつくられていった。自民党員の(党費をはらっていなかったが)父ですらも奇人変人扱いされる精神病院の時代だったので、大学での『病者』講演などあるはずもなく、岡大に続く徳島大が日本での酒害当事者による講演場となった。
1973年9月23〜24日 東大で開催された第12回全国医学生ゼミナールの分科会の一枠を取り4例ほど、アルコール依存症関連の発表があった。私も別にレポート『断酒会運動』を提出した。


■ あなたのビールです

戦後の復興期を彩るキャッチフレーズは様々に世に出てまいりましたが、もはや戦後ではないといわれた頃、ビール業界も需要を見込んで広告に工夫を凝らした。
この「アサヒビールはあなたのビールです」もその一つ。

様々な出会い場面に帽子を上げてあなたのビールですと、ささやく。
数多くの雑誌や新聞に出す。
漢字は使わず、いろんな広告媒体に出す。
同じ文言でレフレインして記憶さす。
場面の意外性を演出する。

最近はこのような手法を取り入れる政治家もでてまいります。
昨秋「日本を取り返す」で首相になった方もいらっしゃいましたね。
私などはすぐに、「アメリカから取り戻す」とちゃちゃを入れたくなります。
現実の日米関係は同盟国といってもなかなかに険しいものです。

この一口漫画は、えっと思う絵ですが、どこへでも入り込んでゆく当時のビール業界を描いているようにも思われます。
漫画は現実とのズレを活写して、人々に何らかの意識の揺さぶりをかけるものですが、この漫画は1954年4月28日付東京医科歯科大新聞の広告に出ていたもので、今なら拒否されてしかるべきですが、当時の医学生はどんな想いで掲載許可したものだろうか。(2013.1.3)


■ 教授からのゲバ

激しく学生から追い詰められる中で、教授が教官や学生を殴打する事件も起きてくる。1968年大阪市大・M4クラス会で病理学教室の神戸教授と中島助教授が講義中、講義担当をめぐって激しく口論し、取っ組み合いまで発展した事からM4クラス会は教授会に事態の真意を問う公開状を出し10月24日に医学部長名で回答、市大医学部闘争の発端となった所謂「病理学事件」である。
教授が医学生に暴行を働く場面は徳島大学と、東大で春見医局長が学生に暴力を振るう「春見医局長事件」が1968年、九州大学で1969年にみられた。
教授の「教壇デマゴーグ」は普段におこなれたが、暴力は闘争が沸点を超えたときにみられたのだ。
ただ、多くは「教壇デマゴギー」が学生に刷り込まれていた。例えば、東大闘争時に日医では東大出身の教授が「こんなに大きな石を投げてくる」などといっていたが、調べてみるとそんな事実関係は見当たらないようなことが多々あった。
日本医大から学生全員が退学して作り上げた東京医大でも『我々はやったが、お前達はしていけない』という論理が教授連にあったようだ。親心、すなわち医局ヒエラルヒーの貫徹である。


■ 上からの医局解体

70年代に入り、新設医大ラッシュで沢山の教授や教官が必要となり、ジッツ(派遣先支配病院)も増えて一時的に青年医師の不満は吸収されていった。私立医大は各地に附属病院を進出させて医療資本として覇を競った。
60年代までの固定化されていた46大学が80大学(医大・医学部・医学校)にまで膨れ上がり、民主的運営の教室と従来どおりの医局運営がまだらにみられた。医局権力の奪取は大学当局の脳裏にもあり、1960年代医局ごとの検査室から中検化もその現れであったろう。
ところが、21世紀に入り、小泉政権の新自由主義政策により、医師労働力の自由化が新しい研修体制として施行され、医学生が下から試みた医局解体を事もなく上からしてしまった。
そのため、研修生の大学残留は半減、都会などの大病院は安い労働力を手に入れ、地方病院などは配給ルートを断たれ、今で言う『医師不足』となった。


■ 旧帝大

1945年、戦争が負けと決まったとき、民間の医師は6万人、軍の任務を解かれた医師数が2万人、新卒が6800人、やがてGHQによりインターン制が布かれて国家試験が導入され、無給医局員は1万人にも登った。インターン闘争は医学生運動の急進性のみ脚光を浴びるものではなく、クラフトユニオン的に深く根をはった存在であった。
もっとも多くの無給医局員を抱えたのが旧七帝大であり、多くの無給医からの経済収奪があったわけだ。ここにインターン闘争がこれらの大学を拠点として戦われた根拠がある。
しかし、これ等の旧帝大には多くの植民地大学もジッツ(派遣先病院)もあり、自己展望も開けやすい。旧帝大の横にそれほどは自己展望のない大学が存在し、旧帝大闘争のブレを修正していた。北大の横の札幌医大。東北の横の福島と弘前。東大の横の医科歯科。名大の横の名市。京大の横の京府医大。阪大の横の阪市。九大の横の長崎などがそれであろうか。
医学連拠点の医科歯科・京府・阪市はブント「親藩」として良く闘ったと思う。
70年代の新設医大ラッシュは旧帝大下積み層の不満の解消捌け口となった側面がある。


■ 黒澤明の「天国と地獄」

1963年黒沢明監督の「天国と地獄」は横浜市を舞台にした「誘拐」劇なのだが、犯人をインターン生においているのが注目されるところだ。将来を嘱望された医師の卵が犯罪に走るのは今なら設定に無理があると考えるのが普通だが、映画では横浜市日の出町の安アパートから高台の豪邸を見上げる中で事件は起きる。
インターン闘争が盛り上がってくる1967年当時の横市大病院でも350名の医師のうち85名が横浜市の職員で有給。残りは無給医、当時の国立大も診療要員の三分の二は無給医。大学病院は無給医の無賃労働の上に成り立っていた。
さすがにバイト日は確保されていて、市中で稼ぐのだから、最低生活は出来ていて「99%の側から1%を告発する」意識の飛躍は運動的には60年代後半のこととなるだろうか。
映画は共犯の薬物依存症者を殺害するインターンとしてラスト場面を迎えていく「罪と罰」仕立ての展開だった。


■ 私が棄てた女

医学生運動にも任意の風紀委員の存在がみられた。私の知る限りでは、看護学生に手を出したら責任をとらせ、医学生間ならば不問のようだった。そしていずれの場合も、責任を受け入れるとかは分かれるところである。
映画の「私が棄てた女」(浦山桐郎監督)は60年安保の挫折を1969年に描き、しばらくお蔵入りをしていた映画だったから、安保を描いているとして、映画界が棄てた映画ともいえる。
知り合いの牧師にお聞きすると、「私が棄てた女」はキリスト教そのものの展開で、ミツはマリアだと解釈をしているのだという。原作がクリスチャンの遠藤周作だからそうなのかも知れない。
さて、私にとって医学部は「私が棄てた学部」か「私を棄てた学部」かだが、主体的には前者だと総括している。
医学部では「学生運動崩れ」などといっても生活が破綻しているのではないのです。大方は医師になっておられるのですから、私はこの「医学生史」年表も活用されて、『総括が出来ない』といわれる方こそ自己総括に役立てていただきたいと願っています。


■ 消耗

「消耗した」は当時の流行語。当時の学生運動は前途が見えず疲労困憊した有様をそう語っていた。自己洞察が足りない私には、それは無縁の言葉できたが、遂に1968年、私にも「消耗」がやってきた。
具体的には学生運動のあれこれではなく、全日本医学生新聞の広告取りを巡ってである。学生にとって、企業巡りで営業をするのは今日の就活(就職活動)にも似て、疲れ果てる行いだ。
日本橋の日研化学に行った時、「このような過激な内容では」としぶるので、「いや、多くは卒業すればいい医師になって御社の顧客になりますよ」と言ってしまい、「それもそうですね」と担当からお言葉を戴き、私自身は消耗してしまったのだ。
ただ、1968年までは医学生運動は学生運動の中ではめずらしく統一が保たれていたので、日共寄りの大月書店に行っても広告は戴けた。「統一」はとんだところで真骨頂を発揮した。
三一書房では現金がないというので書籍を貰ってきて販売した。朝鮮人民の戦いから三一と書房の名をつけた出版社だが、編集は新左翼、販売は日共といいところをとった出版活動をしていると聞いていた。ただ今は倒産を経て労組管理で経営をしているとのこと。
70年代に入り、製薬企業への批判が強まり、製薬会社の広告は医学部新聞から姿を消した。
結局、医学生運動で消耗したのは金と人間の問題でこれは社会人となった今もまったく変わらない命題だ。


■ 東医体

東医体は今、国体、西医体に次ぐ規模というから驚く。この東日本医科学生体育大会をめぐって、かつて主管する慈恵では学生会と、教授連に煽られた体育部学生の間にイザコザがあった。昭和が主管した東医体では全日本医学生新聞会連盟(医新連)の共同デスクによる新聞が東医体を批判していると当局側から非難され、1966年9月1日昭和大学当局の手で焼却される事件があった。堅実な運営を続ける西医体に比して予算規模の膨張、総得点主義など、総じて大学の枠組みに組み敷かれることを記事はついていた。新聞焚書は東医体で自治活動がつぶされた事例で昭和は女子医とともに全医学部46校中、唯二校インターン闘争(国試ボイコット)へ合流できなかった大学となった。冨士裾野吉田での進学課程無菌教育、学部では東医体役員には公用欠勤を与えてまでの全面的な後押し、愛校主義乱舞の悲劇である。
東医体の他に問題がなかったわけではない。医学連の毎夏行事である1966年鳥取大主管・「医学生サマーキャンプ設営」を自衛隊に頼んだことは否定的に問われ以後やめることと成ったが、1965年、弘前大主管の東医体でボート・レガッタの設営を大湊海上自衛隊基地の助けを借りて設営したことは不問で終わっている。
東医体へ防衛庁が管轄する防衛医大を入れるな、の運動が医学連によって1970年半ばに取り組まれた。何回か押し戻したが、今は加盟が認められている。
1967年、日医大の研修協約闘争時に大学当局は東医体加盟費30万円を出さぬとして学友会破壊を試みてきた(同大では体育部も学友会に含まれている)。
1971年、東京医大主管時には学生の負担能力を超える2000万円の金を出費、オリンピック施設を使うなど西医体に比しても段違いに毎年豪華になっていた。
「部長に教授がいる現在の体育部システムを否定して学生運営によるシステムを創りださねばならないだろう。それを考えねば夏合宿で上級生に一方的な押し付けや、教授の肩たたきに闘う力を失っていくだろう。」日医大医進スト記録・『69国府台CBS』誌より。
よく学生間で言われた『医局の酒を飲んだらおしまいだ』の説の延長である。

東医体で他に議題に上ったのは小規模大学だが医科歯科の歯学部学生の参加をみとめるかどうかの議論だった。歯学部を入れると強くなることもあり、枠組みを超えることへの論争が常にあった。医ゼミも歯学生や看護学生に開放をしていたから運動面では常に枠は壊され突破されていったものだ。
1969年安保時には群馬大医学部のサッカー部は安保粉砕とグラウンドに掲げて練習をしていたというし、67年当時の東医では練習をしていたラグビー部がデモ隊に「勝ってこいよ」と声援をおくっていた。サッカーなどメジャーになる前、のびのびとプレーを楽しんでいた時代の話だ。キャプテンが全共闘とかいうのはいくらでもみられ、慶応の医学部ではアイスホッケー部で主将を勤めた黒部真一さんは東日本医学部体育大会アイスホッケー部門優勝。東京都アイスホッケーリーグ3部では3位だった。
医学部で体育部が体育会系にならなかったのは、卒後展望がそこにはなく、医学部での体育会系とは医局ヒエラルヒーであったからだ。


■ クラブ活動

クラブ活動は受動的な授業と違って能動的である。人気があり、体育クラブが20数団体もあると医学部では学生の数が足りず、冬のアイスホッケーと夏のラグビーとか掛け持ちをする学友も普通にみられた。ボート部なら競漕艇の椅子は部員の何倍もあったろう。学内に公認団体の部活(クラブ)と非公認のサークルが並び立ち、部室有無や活動費支給の点で異なった。非公認サークルは気楽で小回りが利き、その反面事故への対応に問題が残る場合がある。学生会館や部室の防火・防犯面からの自主管理をめぐる当局とのせめぎあいにクラブも無関係ではいられない。クラブ活動が硬直化すると、例えば「精神医療研究会」とかいうクラブよりも「精神医療を考える会」とかいうようにサークル的集まりに人気を呼ぶ場合もあり、体育部でも山岳部と酒もオーケーのワンゲル部のようなニュアンスの違いが出てくる。クラス会が沈滞したとき、学生自治を支えるもう一方の柱がクラブや学生寮の存在であった。民青主導の全寮連は2006.3解散して今は無く、クラブの全国組織もどうかという時代だが、ネットによる昔ならインターン委員会のような試みも医学生間にはあり、時代は変遷している。
1969東大闘争の後、医学連は公害・薬害・医療被害や防衛医大など基地問題、1970年には早くも東北電力の女川原発阻止に取り組み、市民運動との連携を深めたが、自治会というよりクラブ・サークルによる地道な取り組みから自治会運動を支えていたようだったと記憶している。
民青は現象面だけをとらえ、これをサークル主義だと批判したが、現場に学ぶ運動のダイナミズムを知らない批判だと思うのだ。


■ 学園祭

それが焼きソバ屋台と芸能人のイベント企画しかない学園祭だとしても、運営に携わって得られる成果は学生にとってはじめての経験だからそれなりに社会性を得られて社会人になったときにも役立つと思う。
大学祭か学生祭かの論議は、学生自治の視点を高めていく段階では大切な討論だ。学生の多くと密着して企画していく、また当局と日程をすりあわせをしたり、広告とりで地元との接点を始めてもつ運営経験は得がたい。
ほとんど学生運動とはいえないものだけれども、ものごとのはじまりは自治の大切さを学び、思うようには行かない現実を知り、領収証をもらう社会人としての癖をつけ、学友と触れ合う喜びを知ることだろう。映画が総合芸術だとすれば、学園祭は学生の「総合学生生活」的なお祭りだと思う。
学園祭も、有名教授の登場と顧問教授とのコンパで終わる大学祭的なものから、学生の自主的なクラスごとの研究や、サークルの成果発表、実行委員会の問題提起を含む統一企画などが取り入れられた学生祭としての性格まである。フェス的なものか、シンポ的なものか、毎年論議をしたものだ。
ストに入ると、スト中の非日常の空間を祭りとして執り行われるスト座や自主講座も学園祭の一形態といえようか。よく遊べ、よく学べの中には戦いの視座も含まれていると思うから学園祭を自由な空間として獲得できればいいなと思う。
春の小運動会のようにプレ学園祭や、連続性を持たした企画で一過性にしない工夫もあってしかるべきだ。
私たちの時代、民青を「歌って踊って」と批判する学友も多数居たが、私はそれで闘えばいいではないかと言っていた。1967年の10・8(ジュッパチ)羽田闘争のとき、アカハタ祭りに全員行って闘争をネグレクトしたのはまずいが、果たして祭りそのものがいけないことだろうか。
次の年、私は狭山湖で行われたアカハタ祭りを追体験してみた。別にゲートがあるわけではないので参加者と湖畔に来た方とが別エリアにいるわけではない。何万人が一日を楽しむ祭りとして納得し得たことだった。むしろこのような祭りが衰退する今日のほうが問題があると思う。
医学部の学園祭はかつて、戦後焼け跡から1960年代ぐらいまでは市民の見学も多く数万人に達することもあった。学園祭に市民との共同の視点を入れれば、賑わいは得られた時代だ。
中村錦之助主演の『祇園祭』(1968年)あたりのイメージで再考してはとも思う。


■ 遠藤参謀の語る細菌戦の話

ポスト千駄木祭(日医大)で遠藤三郎元陸軍中将(旧関東軍副参謀長)を階段教室にお呼びして731部隊秘話を1973年11月10日にお聞きした。
遠藤先生は国民服に身を包み、81歳とも思われぬ足どりであらわれ『私は戦犯被告席にいる人間です。』と立ったまま講演をおはじめになり、大正8年に小泉軍医正から軍陣医学を教わったこと、昭和7年に満州事変を起こした石原莞爾大佐により、極秘裏に石井軍医正の面倒を見るように申し送りを受けて、関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した事などを話されていった。
「2年間、石井四郎の世話をしたが昭和9年、内地に引き揚げました。昭和14年、ノモンハン敗戦処理の為再度、満州へわたりました。竹田の宮をハルピン飛行場へ見送りに行ったときに石井四郎と出会い、『研究所が立派になったので見に来ないか』と誘われていきましたが、実に立派な建物でした。ソビエトと会戦するか、否かで任を解かれ、6ヶ月で任を離れましたが石井には軍の機密費から20万円を私もやっており、もし米軍が石井の利用を決意せねば、当然私も東京裁判で死刑台へ追いやられていたでしょう。」
と、お話しいただき、石井が細菌戦を行った証をこの耳ではっきりとつかんだ。すでに731部隊員が防衛衛生学校の校長をしていたりする今日である。細菌戦を防衛医大が準備しない保障がどこにあろうか。尚、このポスト千駄木祭の企画である講演会には同窓会より頂いた5万円を使わせていただいた。(全日本医学生新聞1973.12.1 第100号)

遠藤中将のお宅を狭山にお尋ねしたとき、戦後一切の公職を自ら退き農業で生計を立てている同中将は、狭山差別裁判の石川青年をアルバイトに雇用したことがあると話された。不思議な因縁である。ただ、遠藤さんが石川青年の犯罪たと思うとみずからの感想を述べたのは心外だった。
著書に『日中十五年戦争と私 - 国賊・赤の将軍と人はいう』日中書林、1974年。


■731細菌戦部隊

70年代に入り、防衛医大設置阻止闘争が「731部隊から防衛医大へ」のキャッチフレーズで取り組まれた。ある日、学友の父親が731であると書斎から同窓会名簿を持ってきてくれた。名簿には『精魂会』とあり、内科学教科書で医学生誰しもが習った吉村寿人京府医大学長の名前もある。
そのほかにも存命の学者や教授の名前が多々見られ、医学部の隅々に入り込んでいることが分かった。
学術会議でも7部の医学そして農学部は戦争責任を明らかにしていない部所であった。
そればかりか、秘匿を言いながら、学会誌や「医事新報」誌等に公然と掲載さえされているから、追及のなさが今日の原発の事故を誘引したと同じような結果を医療被害やモラルの低下というかたちで引き起こしていた。例えば、内藤良一氏が作った製薬会社ミドリ十字は私の知る限りでも2年に一回は何か問題を起こして、最後に他の製薬会社に吸収されていった。
問題は、731部隊を追及すればいいという話しではなく、医学・医療の側に深く入り込んでいて、例えば活動家の医学生を軍陣医学の論理で語らせ、多くの医学生に論破をさせようとしたとき、難しい問題が起こったのである。


■ つぶせ防衛医大

「つぶせ防衛医大」は「731部隊から防衛医大へ」と並んで医学連の叛軍スローガンだった。単なるスローガンに終わらず、医学連・防衛医大入試阻止闘争は1973年12月22〜23日の入試阻止で一期生の募集80名定員に対して、入学者は40名と半減さす成果を収めた。
当時の運動詳細はまだ医学生史年表に上げていないが、粘り強い全国の戦いが組めたからだった。
12月22日、医学連は受験生として市ヶ谷自衛隊基地内での受験にのぞみ、22日昼休みにかつて三島由紀夫がバルコニーで演説した広場で決起、受験生にチラシ撒きと構内デモ。防衛医大側はデモ隊を取り押さえたものの、受験生を逮捕してはまずいと判断して、釈放し尾行した。
呼応して市街デモは市ヶ谷基地に向かった。
朝日紙が報道した他、月刊誌の「現代の眼」74年春号に報告記事が医学連の名で掲載された。
私はこのような日に限って設定された基礎系教授宅での懇親会によばれ、当日朝まで飲んでいた。
準備は終えていたからかまわないのだが、日医学館から地下へ東大生の医学連委員長佐賀宗彦君が転落事故というアクシデントを起こさせてしまった。
未だ、細菌戦部隊員も健在な頃で、学友のアパートに追い出てもらって、生の話も伺うことが出来た時代だった。


■ 白い巨塔

全日本医学生連合の機関紙である全日本医学生新聞の46号に大映映画『白い巨塔』の三段二つ割の大広告が掲載された。中執は生真面目にこの映画を全面的に支持するものではないと医学連通達とかに書いたようです。
モデルには岡山大学から阪大教授に移った某教授ではないかとか聴いた記憶があります。視聴覚による暴露や宣伝が今のように潤沢にある時代ではないので、山崎豊子の同名小説の映画化はインターン闘争にも影響を及ぼし、庶民に対しての一大啓発となっていったと思うのです。
小説発表はインターン闘争が広範に着火した1963年、軌を一にしてサンデー毎日に連載開始され、イ闘争が青医連を生み出してゆく1966年に映画化、反響の大きさに再度「続・白い巨塔」がイ闘争の最終局面1968年まで続いています。


■ 日本春歌考

1967年2月3日に研修協約闘争で関西医大学生7名の処分が出て、守口市文園町の関西医大正門で医学連関西ブロックによる現地アジト泊まりがけでの一週間ビラ撒きをしました。
日共系の東田教授による処分ということで皆は憤っていました。東田先生は昔、全国医ゼミにお呼びしたことがあります。
一緒にビラ撒きをした大阪市立大医学生の上田さんは処分撤回闘争の中で処分者の実家を訪ね、おばあさんに「貴女は鬼じゃ」と追い返されたそうです。彼女は市大を中退し、全逓の三多摩反戦でがんばっていたと記憶しています。本郷の本富士署に捕まったとき、彼女は沢山のバナナの差し入れをしてくれ、それをぺろりとたいらげました。1968年当時は生ものの差し入れも可だったのです。
自分が同じ一連の研修協約ストで処分されたのは関西医大弾圧の5ヵ月後でした。
関西医大前は門前市のような商店街が連なっていた下町風景で日大医学部付近に似ていました。映画館もあり「日本春歌考」(1967年)をやっていて暇な時に入りました。映画は大島渚の脚本、荒木一郎と小山明子が出演し、祖国を奪われた朝鮮人売春婦の悲哀が歌われていました。

「日本春歌考」で歌われる「満鉄小唄」

 あめのしょぽしょぽふるぱんに     さわるはこちせんみるはたた
 からすのまとからのそいてる      さんえんこちせんくれたなら
 まてつのきぽたんぱかやろう      かしわのなくまてつきあうわ


■圧殺の森

1970年に至る学生運動には文化運動やスポーツ面から迫るものが少なかった。
映画にしても同様で、1967年4月28日 日本医科大学の研修協約無期限ストでも7世代スト中の自主カリ・スト座でお定まりの『戦艦ポチョムキン』『キューポラのある街』を上映という次第だ。
少し変わったものでは医進中央委員会主催で1956年のインド映画『大地の歌』上映、確か『アルジェの戦い」も上映したが総じて文化政策は出遅れていた。
そのうち、小川紳介監督(1935年6月25日 - 1992年2月7日)が呼んでいるというので、デートも放り出してお伺いをした。強い要請があり、こちらはストの処分要員で無期停学中だったので「圧殺の森」の製作手伝いをする事となった。フィルムの受け取りに金払いが遅れている神奈川の現像所に行かされたり、各医学部で上映と引き換えにカンパを出させたりしていた。
闘争を主導した中核が映画のラストに我が派の巨大な隊列を入れろとか言ってきたりして、監督がはねのけた結果、中核が得するいい映画に仕上がった。中核の映画への無理解、それはハリウッド経営陣の何でも筋書きをハッピーエンドで終わらせろとする、同じような水準の要求だったと思う。
その中核派にしろ新左翼はどの党派の機関紙にもコラムが無かった。聞くとコラムなどを入れると党が疑心暗鬼になって分裂するからとか言うものだったが、コラムもなければしたたかな政治も無いものだと思った。赤旗の文化欄が時々、いい文章を載せることがある。党系列の文化評論は好きだったが、少し毛色が違ったようでお取りつぶしになった。中核派の『前進』は比較的読みやすい機関紙だったのだが、ブンド系からみると「中核だましい」とか、私には記述手法が情念的に思われた。
次に第二次羽田闘争を描いた『現認報告書』製作に秋から携わった。京大から上京してきていた羽藤医師に、第一次羽田闘争での山崎君死亡にいたる証言依頼を実現させたことぐらいしか思い出せないが、岩波映画労働組合の腕章を渡され、朝早くに羽田付近に到着した。


■ 戦旗社

白山通り裏、日大近くの戦旗社地下室へは東京医科歯科大学・歯学部出身で編集長をしていた岡野さんに人手が足りないからと呼ばれて、医学連からの『出向』というかたちで伺った。
毎日、大組みや埋め原稿を書いた。ある日、下駄を履いて出社したら、編集長から自己批判を求められた。大学でも学生部長からも下駄をはいてくるなといわれていた頃だった。素足ではなく足袋をはいていたから活動に格別の事はないのだが姿形から正されたのだ。
情況派―叛旗派―赤軍派と分派していく時代で、新聞を担いでどこへでも売りにいった。叛旗派の構える竹ざおの鼻先、休店日のウニタ書舗の店頭、法政大での労働者集会、一部30円ぐらいだったか、お金がないというと差し上げたし、お釣りをカンパとしてもらったりもした。護衛なしの無防備販売で何かあれば放り出して逃げるしかないと覚悟を決めていた。
1970年の3月31日、日航機よど号ハイジャックの報道を戦旗社のラジオで知った。今日の日比谷公会堂での赤軍派政治集会は大入りだろうなと考えたのだが、聞いた直後に集会禁止となった。世に言う赤軍派には権力は何をしてもよいという『赤軍罪』の始まりだった。
機内には東大小西隆裕君(医学連前中執 25歳)を含む赤軍派学生9人。4月3日、乗客ら103人を解放し,山村運輸政務次官を人質に『我々は明日のジョーである』と声明を残し、共和国へ旅だった。日本初のハイジャック事件でフェニックス作戦とのことだ。乗客には福岡の内科学会総会に出席する学会ボス連の姿もあり、ボス達は後では勝手なことをいっているが、震えていたと彼らは平壌で証言しているのを聞いたことがある。機内には聖路加病院の日野原重明氏の姿もあり、同氏はハイジャッカーから『カラマーゾフの兄弟』を借りて読んだ。
ハイジャックの報復はすぐさまあった、九大青医連が内科学会闘争で前方に陣取る背広機動隊からさんざんにテロられたことだった。

イタリア・アナーキスト団体からSENOKI(戦旗)宛ての手紙(1970)

戦旗社では、私は小さい頃から切手を集めていたから、郵便物から外国切手を頂いた。そんな趣味のことを話すとプチブルだとか言われて面倒なのでそっとポケットに収めた。
戦旗社では救対(救援対策部)の方々にはただただ頭が下がった。やがて復学処分になり円満に戦旗社を辞め、一ヶ月もしない後期試験が終わった12月時には、またも分裂をして日向氏の戦旗派が誕生、疎遠になった。(医学生史1971.4.1参照)


■ 白土三平

1950年代、中学の頃、外科医の叔父の家で長編劇画『忍者武芸帳」をめくっていた。農民一揆と鎮圧による殺戮が延々と繰返される漫画で、唯物史観にもとづくなどという講釈は大学に入学してから聞いた話だ。終焉の場面に郷里、四万十川下流域で奇病のエピソードとして種明かしに出てくるのがツツガムシ病、実際にこの地にあった風土病で汚染地帯での暗闘だった。
漫画雑誌ガロにカムイ伝(第一部)が掲載された頃は大学生活とダブル。
私は学生の戦いは残念ながら一揆のようなもので、何回も決起を重ねるしかないと思って被処分を重ねた。
それを一揆主義だと言うのは易いが、確かな展望や勝算などあるから一揆していたはずは無く、民青とは互いに「展望が無い」とつっぱりあった結果が今日だ。


■ イレブンPM

主に日本テレビ系列で人気深夜番組、大橋巨泉の「11PM」が放映されていた。宮本共産党委員長のポルノ番組批判で女性軽視と槍玉に上った番組でもあった。
この11PMに東京女子医大のHさんが出演したことがあり、スタジオに立ち会った。「現代版強制連行『韓国からの看護婦導入を許さぬ会」という医学連も取り組んだ市民運動からの発言で、短時間ながらそれ自体はまじめな企画だった。
そのような自由が許されたのも巨泉が稼ぎ出すマネーとの力関係のようだった。
山田洋二監督が『男はつらいよ』で稼ぎ、『学校』シリーズをつくっていたようなものだろうか。
Hさんの韓国からの看護婦導入を告発する論文は新日本文学会の今はなき「新日本文学」1976あたりに掲載されている。ちなみにこの新日本文学会も婦人民主同盟や医学連同様に共産党の不当な干渉を受けた存在だ。


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