50年                                14/1/15
2013年5月、ついにというか、とうとうというか、全くもって理不尽なことに狭山事件は50年を経過することになった。2010年から行ってきた石川さんの高裁前のアピール行動も12月で100回を超えることになった。
50年にあわせていろいろな取り組みが行われた。その一つとして新聞への意見広告もあり、この前後にマスコミ各紙が狭山事件について報道した。
徳島新聞・意見広告 (2013年5月23日朝刊)
10月、映画 「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」 が完成し、10・31狭山中央集会・デモのあと、完成上映会が行われた。これは、金聖雄監督が3年かけて制作したドキュメンタリーである。
今全国で上映運動が行われている。徳島でも12月に4カ所で上映された。石川さん夫妻と金監督が来県し舞台あいさつも行われた。これが今後大きなうねりになってくれることを期待する。
第3次再審を巡っては、弁護団は2013年に16点の新証拠を提出した。3者協議においては次のような展開があった。
1月30日、第12回協議。手拭い、腕時計等に関する19点の証拠開示。
5月8日、第13回。河合裁判長は証拠開示に検察の柔軟な対応を促す。
7月26日、第14回。YNさんの使用していたとされるインクびん、狭山郵便局のインクびん、YNさんの級友のインクびんを開示。存在することの明らかな筆跡資料については開示を拒否。
10月28日、第15回。手拭いをめぐる証拠開示について、河合裁判長は検察に検討を促す。筆跡資料の開示については協議で開示の方向性を検討することになった。
 新証拠・・・手拭い捜査の疑惑
こうした中で、3月27日に開示された26点の中から手拭い捜査にかかわる新証拠が発見された。10月17日、弁護団はこれらを新証拠として提出。
↑縛った状態    広げた状態↓
これはYNさんを後ろ手に縛った状態で見つかったものであるが、五十子米穀店が1963年の正月の年賀用に配った165本のうちの1本だった。この手拭いの捜査の過程と寺尾以降の裁判官の言い分は、このサイトの <手拭い> で既述だが、墳飯物である。
2審段階では、<165本中155本が回収され、3本が使用中を確認された。犯行に使われたのは残りの7本のうちの1本> ということになっていた。
石川さん宅からも1本が回収された。だが、検察は、<石川さんの親戚のSI  からも1本が回収されたが、実は2本配られている (SI は1本と主張)。また、石川さんのとなりのSMは、配られたことになっているのに配られていないといった> と主張した。
寺尾判決はこれを追認。<石川さん宅から回収した手拭いは、SI かSMから都合をつけてもらって提出したもので、石川さんの家にあったものが犯行に使われた> と断じたのである。
5月5日付捜査報告書添付
手拭い配布先一覧表
通常のデジカメ撮影 紫外線撮影
3月に開示された5月5日付捜査報告書に添付された手拭い配布先一覧表の通常撮影されたものは、石川仙吉さん (上記 SI ) への配布が <2> と読めなくもない。しかし、紫外線撮影をすると、<1> が <2> と読めるように後から別の筆記用具で書き加えられたことが分かる。
この証拠の改ざんに対し、弁護団は、吉備国際大学下山准教授作成 「手拭い配布付一覧表記載の数字文字に使われた書記用色材に関する鑑定意見書」 を新証拠として提出した。
2審段階での検察、滝沢検事の言い分はこうであった。「TBSテレビが犯行に使われたと同種類の手拭いを放送した。それを見た石川家が義兄石川仙吉さんか隣のSMから都合をつけた」。(1966年3月8日、第14回公判)
このTBSの報道は、5月6日午後0時2分過ぎから50秒程度だった。(弁護士照会に対するTBSテレビ局長の回答書、新証拠として提出)。
同日、午後0時20分に警官2人が石川さんの家で、のし袋入った1963年と前年の手拭いを現認している (6月20日付捜査報告書)。ニュースを見てあわて、わずか17分で義兄や隣家から都合をつけたなどとは常識的に考えてありえない。
また、5月6日付捜査報告書では、同日、警官2人が義兄宅で1963年配布の手拭い1本を確認している。更に、5月5日付捜査報告書では、手拭い配布先一覧表には義兄宅の配布数は1本と記載されていた。
以上の3捜査報告書も新証拠として提出された。
これらから分かることは、5月11日に警察に提出された手拭いはずっと石川さん宅にあったものであり、義兄か隣家から都合をつけたという警察=検察ストーリーにそって証拠が改ざんされたということである。
 秘密の暴露
秘密の暴露と言えば、とんでもない秘密が隠されていたのかと思ってしまいそうだが、これは 「犯人しか知りえないこと」 で、それを知っていたら即ち犯人ということになる、ということだ。
今回問題となっているのは、石川さんがYNさん宅に脅迫状を持って行ったということを傍証するために作られた 「自白」 であり、そもそもが誘導されたものと考えられ、このサイトでは言及してこなかったものである。
6月21日、石川さんは、(脅迫状を持って行った時) 「YNさん宅の東隣りの家の前の道に小型貨物自動車が東向きに停まっていた」 と 「自白」 させられた。時間は、午後7時半頃とされている。
第1審で 「午後7時過ぎから40分くらいYNさんの家の2軒東隣の家に車を止めていた」 とTOが証言。寺尾判決では、TOの供述調書は6月25日付だから、「自白」 より後で、石川さんの 「自白」 によって初めて捜査官が知った秘密の暴露にあたるとされてしまった。
しかし、2013年1月に開示された6月25日以前の捜査報告書等によると、TOが車を駐車していたのは午後5時半~6時ごろとなっていた。本人や近隣の住民が答えている。
また、別の報告書では、午後7時半ころの道路上の車の駐車などで、この地域の17戸からは 「同時刻ころの駐車について何らの情報を得られなかった」 とある。つまり、寺尾判決が認定した秘密の暴露などそもそもがなかったのである。
ついでながら、似たようなものにSY証言がある。これは、石川さんがYNさん宅に行く途中、鎌倉街道で自動三輪車に追い越されたと 「自白」 させられたのに対し、同日鎌倉街道を自動三輪車で通ったという証言である。
もっとも、SY証言では、3人で車に乗っていたが、自転車で走っている石川さんを追い越したかどうかははっきりしないとなっている。しかし、寺尾判決ではこれも 「被告人の自供によって判明するに至った動かし難い事実」 と認定されてしまった。車に追い越されたかどうかが秘密の暴露とはちゃんちゃらおかしい。
おそらくこれらは事件発生当初の聞き込みでそれらしき話を聞きつけた警察が、それに合わせて石川さんの 「自白」 を誘導したものである。警察としては失敗したが、あのON証言もそういう対象にしようとした。
弁護団は、TOの車の駐車に関わる話が本当に秘密の暴露にあたるのか否かを明確にするため、6月21日 (「自白」) 以前の捜査関係書類など、車の駐車に関わる更なる証拠開示を要求している。
 1月末には第16回三者協議が予定されている。