3者協議・・・2009年                      10/1/15
2009年で最も大きな動きは・・・やはり、3者協議が行われ、東京高裁から高検に対して証拠開示の勧告が出されたことだ。
5月から裁判員裁判が始まった。さらに、足利事件では再審開始が決定されるという流れがあった。そして、政権交代。
これらを背景にしながら、石川さんを先頭にしたねばり強い闘いが、ついに大きな一歩を切り開いた。2010年は、まさしく正念場となる。
 まず、2009年の流れをまとめる。
 5月21日 裁判員裁判開始
 5月22日 狭山弁護団、齋藤第6鑑定など新証拠を提出
 6月 4日 菅家さん釈放
 6月23日 足利事件再審開始決定(東京高裁第1刑事部)
 6月25日 弁護団、門野裁判長と面会。3者協議開催が決定
 7月31日 弁護団、殺害態様実験に基づく渡辺・松井鑑定提出
 8月17日 証拠開示勧告申立書を東京高裁に提出
 9月10日 3者協議、10月末までに証拠開示に対する検察側の意見提出
10月30日 検察側意見書、証拠開示を拒否
12月 9日 弁護団、検察意見書に対する反論書提出
12月15日 最高裁、布川事件再審開始決定(検察側の特別抗告棄却)
12月16日 3者協議 門野裁判長 検察側に証拠開示を勧告
 5月22日提出新証拠
 齋藤第6鑑定書 (2009年4月10日付)
脅迫状の封筒の宛名、訂正線には、インク切れ、インクむらがある。齋藤さんは、押収万年筆と同型・同種の万年筆にわずかなインクの補充でインク切れせずに書けることを実験で確認。
YNさんが事件当日の朝に書いたペン習字清書はインク切れをしていない。封筒の訂正に使ったものと同じ万年筆とは考えられない。
以上から、YNさんの万年筆にインクが補充され、脅迫状や封筒の訂正に使い、後に石川さんの家の鴨居から見つかったという寺尾判決は誤っているという鑑定。
 齋藤第7鑑定書 (2009年4月15日付)
脅迫状の封筒には水濡れによるにじみがある (事件当日の雨によるものではない)。これが、もし当日の雨により濡れたものとすると、封筒から検出されたような状態で指紋は検出されないことを実験で確認した。
封筒からは3個の指紋が検出されているので、発見時には封筒は乾燥していたことになる。にじみは、事件当日以前に生じたものである。
つまり、事件当日以前にYNさんの父親の名前を知っていて書いた人物が犯人であり、石川さんではないということである。
 元警察官報告書 (2009年5月7日付)
この元警察官は、約27年間捜査に従事した人物で、捜索差し押さえなどの豊富な捜査経験をもっている。
その経験から、鞄と腕時計発見の際の供述調書、実況見分調書の内容には不自然、疑念が存在することを指摘。鞄、腕時計の発見が 「秘密の暴露」 とはいえないことを明らかにした。
 川窪鑑定書 (2009年5月13日付)
川窪鑑定人は、万年筆製造・修理業を営む万年筆の専門家。
石川さん宅から押収された万年筆 (パイロットスーパー100S細字) と同種・同型の万年筆による筆記実験を行った。
この結果、脅迫状の訂正は、中字の万年筆または付けペンによるものと判明。石川さん宅から押収されたものではないことを明らかにした。
 3者協議
 9月10日
いうまでもなく弁護側・裁判所・検察側の3者の協議だ。裁判所が中心となって審理の進行などを協議する。狭山事件においては、1977年第1次再審請求の時以来だ。
2008年、東京高裁第4刑事部 (門野裁判長) の布川事件の再審開始決定もこれをうけての裁判所の開示勧告による証拠開示が決め手になった。
狭山再審の実現のカギは、事実調べと証拠開示である。ところが、検察側は第1次再審で1981年にON証言、第2次再審で1988年に芋穴のルミノール反応検査報告書を開示して以来、再三の開示要求を拒否してきた。
開示した証拠がことごとく石川さんの無実を証明するものになったのに懲りてしまい、無実を証明する証拠の数々を闇に沈めておこうとしているのだ。
弁護団は、2008年5月石川さんの無実を明らかにする新証拠と共に東京高裁に証拠開示勧告申立書を提出 (2009年8月に追加分の申立) した。さらに、門野裁判長に面会。ついに3者協議の道を切り開いた。
9月10日、13人の弁護人・門野裁判長・検察官の協議が行われた。その結果、弁護団の証拠開示請求に対する検察側の回答を10月末までに提出すること、これをうけた3者協議を再度年内に行うことが確認された。
開示を要求した主な証拠は、殺害現場とされた雑木林のルミノール検査報告書、1963年7月4日撮影雑木林を撮影した8mmフィルム、X型十字路から雑木林までの目撃証言 (供述調書)・捜査報告書であった。
8mmフィルムは当時の雑木林の見通しがよいことを示すもので、ON証言とあわせるとここが犯行現場ではないということを明らかにする。
目撃証言は、この経路でYNさんや石川さんを見たという証言がないことを示す。そもそもこのあたりのことは警察が作り上げたストーリーでしかない。事件当日、このあたりで仕事をしていた人たちの 「見なかった」 という証言もある。<狭山現調・05・農道>参照。
直接的に最も重要なのはルミノール検査報告書である。YNさんの後頭部には1.3cmの傷があった。本当に雑木林が現場なら、陽性反応がでているはずである。最重要な証拠のはずだ。
そもそも、ここが殺害現場とされたのは、死体発見の翌日 (5月5日)、死体に巻きつけられたものと同じと思われる木綿細引き紐が発見されたからだ。
死体が埋められていた農道からは約163m。しかも、YNさんを縛りつけたとされる松の木と殺害現場とされる杉の木の間であった。ここから石川さんの 「自白」 が誘導されたのだ。ルミノール検査をやっていないはずがない。
にもかかわらず、長い裁判史上一度も証拠として登場してこなかった。寺尾判決では、<検査もしていない> と不備をならされた埼玉県警。実は検査はやっていた。だが、この不当な批判に黙って耐えたのである。なぜか?
1984年、埼玉県警の元鑑識課員が弁護団に 「犯行現場の血痕検査をしたが陰性だった」 と証言している。そして1985年2月、国会で法務刑事局長が 「ルミノール反応検査報告書はある」 と答弁した。報告書はあったのだ。
1986年9月、検察庁は 「反応はない」 という芋穴のルミノール反応検査報告書を開示する一方、雑木林の検査報告書はないとつっぱねた。だが、元鑑識課員は2007年3月にも、殺害現場とされた杉の木も調べたと証言。
つまり、<陰性=殺害現場ではない> ということが分かり、石川さんの無実があきらかになるから開示しないのだ。寺尾判決で捜査を批判された埼玉県警の沈黙の理由もここにある。
9月10日、東京高裁・門野裁判長は 「10月までに返事ができるかは分からない」 と言う検察に対して、弁護側が要求している22項目について 「実在するかどうか」 10月末までに明らかにするように求めたのである。
 10月30日
74年10月31日寺尾判決から35年。検察側の意見書が提出された。明らかに高裁が証拠開示に前向きになっていると感じられる中での対応が注目されたが・・・
「再審段階では証拠開示を求める法的根拠がない」 と主張した。即ち、再審段階での審判の対象は、新証拠の新規性・明白性にかかわっており、「新証拠の新規性、明白性を判断するうえで、関連性・必要性があり、かつ開示による弊害のないことなど相当性も満たされる場合」 に限られるという。
つまり、新規性・明白性や関連性・必要性、「弊害のない相当性」 を検察が判断し、開示するかどうか決めるというのだ。ということは・・・開示しないということを多言を尽くして言い換えているのだ。
もっとも、その他の証拠については、開示の必要もなく、存否も明らかにしないという中で、ルミノール反応検査報告書にだけは言及した。
ルミノール検査報告書は、「・・・いわゆる新証拠であり、赤根鑑定書の新規性、明白性を判定するうえで関連性・必要性がないとはいえないものの、いずれも不存在である」 というのだ。
しぶしぶ、赤根鑑定書を新証拠と認めた上で 「ない」 というのだ。この期に及んでもなお、という感じだが、全くもってどこをどう探したのかも明らかにせぬまま居直った。
12月9日、弁護団は検察側の意見書に対する反論書を提出。同時に、指宿信・成城大学教授による再審における証拠開示の必要性を明らかにした鑑定意見書も提出した。
 12月16日
12月16日、2回目の3者協議が行われた。そして、ついに、大きな一歩が切り開かれた。
門野裁判長は、20点あまりのうち8点の証拠開示を勧告したのだ。しかも、ルミノール検査報告書については、「存在しないというのはおかしい」 と検察側に合理的説明を求めた。そして、次回協議を2010年5月とした。
これに対し、東京高検の大野公判部長は 「裁判所の勧告には重みがある。来年5月予定の次回協議までを目安に適切に対処したい」 と述べたという。
しかし、証拠開示に積極的に見えた門野裁判長は2010年2月退官である。5月はその後任の裁判官で迎えることになる。まさに正念場である。
開示勧告された8点の証拠は次のとおりである。
①「殺害現場」 とされる雑木林内の血痕反応検査の実施とその結果にたいする捜査書類一式
②捜査官が、「殺害現場」 のすぐ近くで 「犯行時間帯」 に農作業をしていたONさんから第3回目の事情聴取をしたときの捜査報告書もしくは供述調書
③ONさんを捜査段階で取り調べた捜査官の取り調べメモ (手控え)、取調べ小票、調書案、備忘録など
・・・・・実は、1981年7月に証拠開示で出されたON証言には欠けた部分があった。それを全面的に開示させる。
④司法警察員作成の1963年7月4日付け実況見分調書に記載の現場8mmフィルム
⑤石川さんが製菓会社に勤務当時の借用書、筆跡鑑定などのために収集した石川さんの筆跡が存在する書類や石川さんが逮捕・拘留中に書かされた脅迫状と同内容の文書など、石川さんの筆跡が存在する文書
⑥石川さんの取調べについての調査官の取り調べメモ (手控え)、取調べ小票、調書案、備忘録など
⑦1963年5月16日付け五十嵐鑑定人作成の鑑定書添付の写真
⑧1963年5月4日付け司法警察員作成の実況見分調書添付の現場写真以外の被害者の死体に関する写真
 2010年
 石川さんの新年アピールを紹介する。
全国狭山支援者の皆さん、新年明けましておめでとうございます。
私も爽やかな気持ちで2010年の朝を迎え、決意を新たに第一歩を踏み出せることができました。まだ小さな光ではありますが、私の鬱積した気持ちを一気に吹っ飛ばせてくれたのは、昨年暮れの 「開示勧告」 を出した裁判長の勇気ある英断でありました。
それを出させたのは46年に及ぶ皆さん方の闘いの弛み無い努力の結晶であり、支援者各位が心を一つに、再審実現の一点を目指し、闘いぬいて下さったことに、感謝の気持ちで一杯です。
勿論これからが本当の闘いであってみれば、「開示勧告」 されたからといって浮かれているわけではなく、逆に新年の第一歩を心を引き締めて踏み出しつつ、今年こそ 「事実調べ」 や 「証人調べ」 を通して、再審開始をさせねばならず、そのためには、更に全国民的大衆運動に盛り上げていかねばなりません。
私も不屈の精神で闘って参ります。東京高検は 「開示勧告」 に従い、すみやかに証拠を出してもらいたいと思います。
それにしても裁判長の心を動かし 「開示勧告」 を出させた 「要因」 は弁護団の並々ならぬ努力で無実を明らかにする多くの証拠を積み上げてきたことと共に、「公平・公正」 な裁判を求める署名が100万筆を超えたことなど忖度した結果、最早無視できないまでに追い込んでいったものと思われます。
再審の理念とは合理的疑いを超えて証明されている筈の有罪証拠を具に検討され、今迄の裁判所の判断、認定に疑問を持って見直すことであろうと思います。
加えて、幾多の重大な、素人でも感じる問題点に応えないまま、一方的に有罪認定し続けてきた各裁判所の姿勢に今回の 「開示勧告」 は一石を投じ、真相究明に踏み込んでくれたものと解します。
支援者を前にして言及するまでもない事乍ら、裁判とは犯罪事実自体に存ずる疑問を解明する努力をなし、初期の取調べ及び自白に至る生成過程の実態を究明すべき義務を負わされている筈なんです。
ところが狭山事件に限っては、これまで、其の尽くすべき審理をせず、確定判決を無条件に擁護してきました。今迄の裁判は新証拠を蔑にし、私を犯人に決め付けて 「本末転倒」 の論理を用いて 「有罪」 にしてきたわけですが、門野裁判長は 「無辜の救済」 という再審の理念に従ったものと思われます。
最大の山場であることから、新年早々から支援のお願いに終始したことに申し訳ないと思い乍もやはり、私の拠所は皆さん方でありますので、その辺をご理解頂いて、「開示勧告」 をバネに、事実調べをさせるために大きな世論を起こしていただきたい。
是非とも本第3次再審請求で無罪を勝ち取って終結できますよう、昨年以上のご協力を賜りたく切望する次第であります。私も全精力を打ち込んで闘ってまいります。
最後になりましたが、皆さんがたのご健勝とご活躍を念じつつ、ご挨拶といたします。
  2010年1月1日
                                       石川 一雄
この石川さんのアピールにちりばめられた希望・警戒・決意が全てを物語る。まさしく、2010年は正念場である。
ようやく切り開かれた大きな一歩を更に大きく二歩も三歩も前に進ませることができるかどうか・・・実際に再審を実現させられるかどうか、実現させる闘いをやりきれるかどうか・・・
山場となる5月へ向け、いざ進まん!