2007年                             08/2/18
2007年3月30日、狭山弁護団は東京高裁に新証拠と補充書を提出した。また、5月23日には、3月提出分とあわせて100万筆を越える再審請求の署名を提出した。
一方、2007年には、相次いで警察・検察のでっちあげを指摘する冤罪判決が出された。被害者となった方々には誠に申し訳ないが、<狭山事件> にとっては有利な材料とも言えるかもしれない。
鹿児島・志布志事件、富山・氷見事件は、2009年5月までにスタートする裁判員制度とのからみもあり、取調べの可視化ということからも大きな問題となった。
・・・・・しかし、<狭山事件> である。
1980年2月5日、東京高裁第4刑事部四ツ谷決定。あの 「日付訂正」 を認めた上で石川さんの記憶違いということで片付けた再審請求棄却決定だ。
あの時は、白鳥決定を受け1979年に財田川・免田・松山事件の再審が開始されるという流れがあった。その流れを断ち切り、再審の門を閉ざした。部落問題が背景にある <狭山事件> だったからだ。
だから、鹿児島・志布志事件や富山・氷見事件が直ちに狭山再審に有利に働くとは考えられない。が、有利に働くように活動することはできる。
そこで、ここ数年の冤罪・再審を巡る動向をまとめてみた。ただし、冤罪はここに紹介するほかにも多数あると思われる。が、ここでは最近の注目を集めた3件と、狭山事件を前後する1960年代の3件に絞った。
詳しくは、それぞれにサイトが多数あるのでそちら参照していただきたい。
2000年
00  2・21 宇和島事件、Aさん釈放
02  4・15 富山・氷見事件、柳原さん逮捕
03  4・14 鹿児島・志布志事件、取調べ開始
05  4・ 5 名張毒ぶどう酒事件、名古屋高裁第1刑事部は再審開始
 9・21 布川事件、第2次再審開始決定(水戸地裁)
06 12・26 名張事件、名古屋高裁第2刑事部は再審開始取り消し
07  2・23 鹿児島地裁、鹿児島・志布志事件無罪判決
 3・ 2 袴田事件、元裁判官が 「無罪心証」 と発表
 8・10 最高検は富山・鹿児島事件の検証結果報告書を公表
10・11 富山地裁高岡支部、富山・氷見事件再審無罪判決
08  1・24 警察庁、志布志・氷見事件の捜査問題点公表
 鹿児島・志布志事件
2003年4月の鹿児島県議会選挙をめぐり、曽於郡志布志町 (現在・志布志市) で起きたとされる 「選挙違反事件」 について、警察による一連のデッチアゲ事件を指して言う。
当時、鹿児島県議会曽於郡選挙区は定数3で自民党公認の現職3人が無投票で再選される見通しであった。しかし、志布志町議会議員であった中山さんが無所属で出馬し、激しい選挙戦の末、3位で当選した。
投票日翌日から取調べが開始され、最終的には、当選した中山県議が有権者に200万円ほど配ったとして15人が公職選挙法違反で逮捕され、13人が起訴された。
山あいのわずか7世帯20人の懐集落。自民党所属で当選7回の県議会議員Mが強固な地盤を築いていた。そして捜査を指揮した警部 (当時) はこのMと20年来の親交があった。このあたりが、事件の背景を推測させる。
4月14日、中山さんと親戚で陣営の運動員をしていたホテル経営者Kさんが、中山さんへの投票を依頼し缶ビールを配ったという容疑で志布志署の出頭要請を受け、任意で取り調べを受けた。
3日目には 「お前をそんな息子に育てた覚えはない」 「早く正直なじいちゃんになって」 とKさんの父・義父 (妻の父)・孫の3人からのメッセージに見立てた紙を警部補が椅子に座ったホテル経営者の両脚を持って強引に踏み付けさせる 「踏み字」 を強要。
結局、取り調べは証拠不十分のため打ち切られたが、Kさんは精神的苦痛から体調を崩し入院した。
しかし、ここから県警は7世帯の集落に襲いかかった。中山陣営の運動員から焼酎2本と現金2万円の入った封筒を受け取った容疑で13人の取り調べを始める。そして4月18日、現金と焼酎を配った公選法違反容疑で中山陣営の運動員として活動していた女性を逮捕。
さらに、中山さん本人が集落で4回にわたり会合を開き、出席者に現金を直接配った疑いがあるとして捜査を開始。集落の住民が次々と逮捕され、数ヶ月から半年にも及ぶ拘留・・・自殺を図ったり、救急車で病院に担ぎ込まれる人もでるというような過酷な取り調べが行なわれ、自白が強要された。
こうして、何人もがウソの自白をさせられてしまった。県警は中山さんと妻を6月4日に公選法違反で逮捕。2人は一貫して容疑を否認したが、妻は273日間、中山さんは395日間という1年以上の長期勾留を強いられた。
鹿児島地裁での公判では全員が容疑を否認。供述調書が検察の唯一の証拠であった。しかし、4回とされた会合のうち2回は日時が特定できず、特定された日時には中山さんのアリバイが証明されるという有様であった。
2007年2月23日、鹿児島地裁は
<日時が特定された会合について、中山さんのアリバイが成立する>
<7世帯の集落で多額の現金での買収という話じたいが疑わしい>
というような理由で、被告12人 (13人のうち1人が公判中に病死、公訴棄却) 全員に無罪判決。鹿児島地検は控訴せず、無罪が確定した。
もっとも、1月には、Kさんが  「踏み字」 を強要され精神的苦痛を受けたとする民事訴訟で、鹿児島地裁は捜査手法の違法性を認め、約60万円の賠償を命じる判決をだしていた。流れは <無実・冤罪> にあった。
その後、2007年4月、中山さんは鹿児島県議選に出馬、当選した。6月、県議Mは交通事故で死亡した。
9月、福岡高検は 「踏み字」 事件によりKさんから特別公務員暴行陵虐罪で刑事告訴されていた元警部補 (8月に県警を依願退職) を在宅起訴。この他、国や県を相手どった損害賠償訴訟が行なわれている。
鹿児島県警は、捜査を指揮した警部補 (当時) を減給10分の1、当時の志布志署長を本部長注意、県警本部所属の警部を所属長訓戒と発表。
3月19日、無罪判決を受けて当時の県警本部長が謝罪。しかし、事件が警察によるでっちあげだったのではないかとの指摘については否定。
10月3日、9月の人事異動により就任した本部長が県議会で改めて謝罪。捜査の初期段階から中山さんに買収会合の日時のアリバイが存在する可能性について認識していたことを認めたというから、あきれるほかはない。
しかし、こんなもので、逮捕され執拗に取調べをうけた人々、あげくのはてに 「被告」 とされた人々の無念さや怒りが解消されるはずもない。また、決して金では贖えない屈辱がある。
 富山・氷見事件
2007年10月11日、再審判決公判が富山地裁高岡支部で行われ、強姦などの疑いで富山県警に逮捕され、2年あまり服役した柳原さんの無罪が確定した事件。
2002年4月15日、タクシー運転手だった柳原さん (当時34才) が、3月の富山県氷見市での婦女暴行未遂事件で富山県警氷見警察署に逮捕され、5月には別の少女への婦女暴行容疑で再逮捕された。
4月5日から任意捜査として取調べが行なわれ、15日、「自白」、逮捕。富山地検が起訴。11月に富山地裁において懲役3年の判決。柳原さんは下獄し、2005年1月に仮出所した。
ところが、11月になって、8月に強制わいせつ事件で鳥取県警に逮捕された男が富山での犯行を自白した。柳原さんの冤罪が明らかなり、再審が決定。2007年10月に無罪が確定した。
2006年から2007年にかけて、おどろくべき経過が明るみになってきた。
そもそも、柳原さんには当時の明白なアリバイ (犯行時刻とされた時間帯に自宅から実兄に電話をかけたというNTTの通話記録) があった。また、現場証拠の足跡が28cmなのに対し柳原さんは24.5cmと全く違うことが分かっていた。にもかかわらず立件された。
取調べにあたっては、「『身内の者が間違いないと言っている』 と何度も告げられ、やっていないと言っても信用されるわけがないと思った。言われるままに認めざるを得ない状況」 (柳原さん) に陥った。
また、「『うん』 か 『はい』 以外に言うな。『いいえ』 という言葉を使うな」 と言われ、刑事の言うことが事実だという念書を書かされ署名させられた。こうして、「自白」 が作り上げられていった。
真犯人が現れたことにより、2007年1月17日に富山県警が柳原さんの親族へ経緯を説明し謝罪、1月19日に記者会見で事実が明らかになった。また、1月23日には富山県警、29日には富山地検の検事正が柳原さんに直接謝罪した。
しかし、1月24日には、柳原さんは富山地検に呼び出され、「当時の取り調べ捜査官、担当検事を恨んでいません」 などという内容の調書をとられた。
再審公判において、弁護側は「捜査」 の実態解明のため2度も取調官の証人尋問を要求した。だが検察側は難色を示し、地裁高岡支部は必要ないとして却下した。「ただ単に無罪判決を出す手続きにすぎない」 というのだ。
結局、なぜ柳原さんがターゲットにされ、どんなふうに犯人に仕立て上げられたか、そして誰にその責任があるのかは不問にふされた。警察・検察・裁判所が一体となって自分たちのしでかしたことにほうかむりというわけだ。
柳原さんは、5年半もの間、「被告・犯人」 として指弾されてきた。そして、その影響はその後の生活にも及ぶ。そこに追い込んだ者どもの責任・・・そして、冤罪を生み出す構造そのものにメスを入れなければならない。
 宇和島事件
真犯人が現れたということで思い出されるのは、宇和島事件である。
1998年10月、愛媛県宇和島市内の女性Bさん宅から貯金通帳や印鑑が盗まれた。99年1月下旬になって、Bさんは盗まれていることに気づいた。
後に犯人とされたAさん (宇和島の北の吉田町) と一緒に探したが見つからない。預金先の農協に問い合わせてみると、1月はじめに50万円が引き出されていた。Bさんはあわてて被害届を出した。
2月1日、Aさんは宇和島署の家宅捜索を受け、出頭するように言われた。Aさんは、Bさんとは10年来の付き合いで、Bさんの家の合鍵をもっている間柄だった。これが疑いの 「根拠」 となった。
農協の防犯ビデオに写っていた男と 「似ている」 というBさんの証言をたてに自白を迫られた。実は、BさんはAさんについて、自分が知らないことをあれこれ警察に吹き込まれて不信感をもってしまったのだ。
「そんなはずはない」 というAさんに対して、警官は 「あくまで否認するというなら、会社や親戚に調べを入れる以外にない。周りの人にそんな迷惑をかけてもいいのか」 と責めたてた。
出頭から4時間・・・ついに、「やった」 という自白をさせられてしまった。Aさんは、すぐ釈放となり、周囲には知られることもなく終わると思ったようだが・・・386日の拘留生活の始まりになってしまった。
Aさんは裁判では否認したものの、2年6ヶ月の懲役を求刑され、2000年2月25日に判決公判が予定されていた。
ところが、1999年10月に高知県で窃盗常習犯が逮捕され、取調べの中でBさんの件も自白した。2000年1月6日、宇和島署に連絡が入った。この男の自白は現場の状況と一致、ビデオの人物とも特徴が一致した。
しかし、Aさんはこれを知らされず、さらに1月半も拘留された。検察が裁判所へ改めて再開を要請し論告放棄し、釈放されたのは2月21日であった。その3日前、Aさんのことを心配していた父親が病院で亡くなっていた。
たまたま、真犯人が高知県で捕まったから事実が明らかになった、まさしく冤罪であった。
 最高検の動き (読売新聞から)
こうした、一連の流れを受けて、2007年8月10日、最高検は富山・氷見事件と鹿児島・志布志事件の検証結果をまとめた報告書を公表した。
富山事件について、「証拠が不十分だったにもかかわらず自白の信用性を検討していなかった」 とし、主任検察官の経験不足などを指摘した。
鹿児島事件では、威圧的な取調べがあったことや裏付け捜査が不十分だったほか、公判が長期化して被告の拘留が最大395日に及んだことも問題点としてあげた。
こうした反省を踏まえ、報告書は、(1)徹底的に証拠を収集し、容疑者の弁解も踏まえて、捜査当局には不利益な証拠 (消極証拠) がないか多面的に検討する (2)警察から送検された事件にも早い段階から検察官が関与する (3)十分な争点整理を行って早期公判の実現に尽力し、身柄拘束期間の適正化にも留意する・・・など6項目の再発防止策を示した。
その上で、「事件の真相解明のため、自白に安易に頼ることは厳に慎み、幅広く証拠を収集すべきだ」 と総括した。
 警察庁の動き (毎日新聞から)
一方、2008年1月24日、警察庁も鹿児島・志布志事件、富山・氷見事件の捜査の問題点を公表した。
両事件について、証拠の裏付けが捜査が不足し、長時間、強圧的な取り調べが行われたとする報告をまとめた。捜査指揮が不十分だったとも断じた。
再発防止のため、来年4月以降、全国警察本部に取り調べを監督する 「監督担当課」 の新設などを柱とした 「警察捜査における取り調べ適正化指針」 を併せて発表、不適正な取り調べは懲戒処分の対象になるとした。
「取り調べ適正化指針」 は、「監督担当課」 を捜査部門ではない総務、警務部門に新設することなどを盛り込んだ。
監督の対象となる行為は、(1)容疑者の身体に対する接触  (2)直接、間接の力の行使 (殴ったり、机をたたいて脅すなど)  (3)不安を覚えさせ、困惑させる言動  (4)一定の動作、姿勢をとるよう強く要求  (5)便宜供与をしたり、申し出、約束  (6)容疑者の尊厳を害する言動・・・などを挙げた。
さらに全国で約1万1000ある取調室のすべてにのぞき窓を置くことや、深夜や8時間を超える取り調べは、署長らの事前承認を得るとした。
これらの話は・・・
しかし、冤罪の温床と言われる代用監獄があり、密室で行われている取調べの実態がある。結局、身内の中で注意しあうという程度の話でしかない。
求められている取調べの可視化・司法改革とは未だ大きなへだたりがある。
 1960年代
これらの流れは、今でも冤罪は作られるという意味では狭山再審にとって有利な状況と思えるかもしれない。
くりかえしになるが・・・しかし <狭山> である。これまでも十分に石川さんの無実は明らかにされてきた。にもかかわらず・・・現状がある。
富山・氷見事件と宇和島事件は真犯人が明らかになった。鹿児島・志布志事件は、ずさんな捜査というよりも、捜査対象となった事実そのものがない完全なデッチアゲ事件だった。
しかも、比較的最近の事件である。やはり、これらと狭山事件を単純に並べるわけにはいかないように思う。
再審という意味では、狭山事件を前後とするやはり1960年代に起こった次の冤罪事件の再審の動向に注目したい。61年 「名張毒ぶどう酒事件」、66年 「袴田事件」、67年 「布川事件」 である。
 名張毒ぶどう酒事件
1961年3月28日夜、三重県名張市葛尾の公民館分館で、地区の生活改善クラブ  「三奈の会」 の総会が行われた。
この席で女性用に出された白ワインを飲んだ15人が急性中毒の症状を訴え、うち5人が死亡した。ぶどう酒に 「農薬 (ニッカリンT)」 が混入されていることが分かった。
警察はぶどう酒の購入・搬入に関与した者を調べ、3人の男性が捜査線上に浮かんだ。その中で、ぶどう酒を会長宅から公民館まで運んだ隣家の奥西さん (当時35) に容疑がかけられた。死亡した5人の中に妻と愛人がいたため 「三角関係の清算」 のための犯行ではないかとみられたのだ。
4月2日、警察の厳しい取り調べで奥西さんは、 「公民館でひとりきりになった時に自宅から持参した農薬 (ニッカリンT) を、ぶどう酒の王冠を口で開けて混入した」 と 「自白」 した。
公判で奥西さんは、「自白」 は厳しい取り調べで強要されたものだとして無実を主張する。1964年津地裁は無罪。
目撃証言から導き出される犯行時刻や、証拠とされるぶどう酒の王冠の状況等と、奥西さんの 「自白」 との間に矛盾を認めたためである。
だが、1969年名古屋高裁は、犯行可能な時間はあったと判断、王冠に残った歯形の鑑定結果も充分に信頼できるとして死刑判決をだした。
1972年、最高裁は上告棄却、死刑判決が確定。以降、74年、75年、76年、77年、88年、97年と6次にわたる再審が棄却された。ただし、第5次再審では現場検証と証人尋問も行なわれていた。
2002年、第7次再審を請求。2005年2月、毒の特定で弁護側鑑定人を証人尋問し、4月5日、名古屋高裁第1刑事部は再審開始を決定した。
王冠を傷つけずに開栓する方法が見つかったことや、自白で白ワインに混入したとされる農薬 (ニッカリンT) が赤い液体だとわかったこと、残ったワインの成分からも農薬の種類が自白と矛盾すること、前回の歯形の鑑定にミスあったこと、などを証拠の新規性と認めた。
4月8日、名古屋高検は異議申し立て。2006年12月26日、名古屋高裁第2刑事部は、上記の新証拠について  「再審を開始するほどの明白性」 を否定し、やはり 「自白の信用性は高い」 とどこかで聞いた台詞回しを使って再審開始決定を取り消した。
「明白性」 を主観的に否定する手口は狭山でも使われてきた。どうとでも言えるのだ。こういうヤツラが裁判官とは・・・ホントにどうしてくれようか・・・。
2007年1月4日、弁護側は最高裁に特別抗告した。
 袴田事件
1966年6月30日深夜、静岡県清水市の味噌製造会社の専務宅から出火。焼け跡から一家4人の死体が発見された。死体には刃物による多数の傷があった。
警察は7月4日、味噌工場の2階の寮に住んでいた元プロボクサーの袴田さん (当時30) の部屋から微量の血痕のついたパジャマを押収。8月18日に、放火で使われたのと同種の油も付着していたとして逮捕した。
1日平均12時間 (最長16時間以上) の取調べが行なわれた。そして20日目、9月6日に、ついに 「自白」 させられてしまった。
公判では、45通の自白調書のうち44通は証拠として採用されなかった。あまりにもひどい違法な取調べが明らかだったからである。普通なら、これで無実となるはずだが、裁判所というところはそうではない。たった1通の調書を証拠として、死刑判決が出された。
1審公判中の1967年8月31日、工場内の味噌タンクの中から、「5点の衣類」 (ズボン、ステテコ、緑色ブリーフ、スポーツシャツ、半袖シャツが麻袋に入ったもの) が発見された。
以降、犯行時はパジャマを着ていたはずの袴田さんだが、これが犯行着衣とされ 「決定的証拠」 にされてしまった。だが、このズボンは袴田さんにはきつくて到底はけないものであった。
しかし、1968年、1審静岡地裁は死刑判決。1976年、東京高裁は控訴棄却。1980年、最高裁上告棄却。
1981年再審請求。1994年、静岡地裁は再審請求棄却。2004年8月27日、東京高裁は即時抗告を棄却。9月1日、弁護団は最高裁に特別抗告。
こうした中で、2007年3月2日、衝撃的な元裁判官の話が明らかにされた。
静岡地裁で死刑判決を書いた熊本元裁判官が、「無実の心証を持っていた。無実を主張したが1対2で敗れ、判決を書いた」 というのだ。
裁判官には 「評議の秘密」 というのがあるらしい。しかし、「袴田君の年令を考えると、この時期にはっきり私の意見を述べておかなければならないと思った」 という。
更に、袴田さんの姉に 「私の力が及ばず袴田君をこんな目にあわせて申しわけありませんでした」 と涙ながらに謝罪したという。いまさらなぁという気がしないでもないが、熊本元裁判官にも苦悩の日々であったのだろう。
このことが、袴田事件再審への流れに力になればいいのだが。
  布川事件
1967年8月30日朝、茨城県利根町布川の一人暮らしの大工 (当時62) が自宅で殺害され、室内が荒らされているのが発見された。
捜査は難航する。手詰まり状態の中で、警察は10月10日に桜井さん (当時20) を窃盗罪で、10月16日に杉山さん (当時21) を暴力行為等処罰に関する法律違反でそれぞれ別件逮捕。
警察は二人を犯人と決めつけ、死刑をちらつかせて恫喝し、自白を強要。二人は否認と自白を繰り返したが、最終的には自白をさせられ、12月28日に強盗殺人で起訴された。
第1回公判で否認、二人は法廷で無実を訴え続けたが、第1審判決は 「無期懲役」。73年、東京高裁は上告棄却。78年、最高裁上告棄却。
1983年、水戸地裁土浦支部に第1次再審請求。87年、再審棄却決定。88年、東京高裁・即時抗告棄却。92年、最高裁・特別抗告棄却決定。
1996年11月12日、杉山さん、11月14日、桜井さん仮出獄。
2001年、第2次再審請求。そして2005年9月21日、再審開始決定 (検察側が東京高裁に即時抗告)。ともかくも、再審開始が決定されたのである。
もともとこの事件では物証が少なかった。二人の自白だけが証拠とも言える状態であった。
金銭目的の強盗殺人とされているが、実際に何が盗まれているのか明確になっていなかった。二人が物色したはずの金庫などから43個の指紋が採集されたが、二人の指紋はないことなどが指摘されていた。
再審開始決定では、「自白の中心部分が死体の客観的状況と矛盾する」 とされ、「捜査官の誘導に迎合したと疑われる点が多数存在する」 と認定された。目撃証言についても、「周囲が暗くなっている当時の状況などから2人と特定できない」 とされた。
にもかかわらず、検察は即時抗告をした。狭山でもそうだが、検察は自信があるなら再審で、事実調べで争えばいいのだ。本当に卑怯なヤツラだ。
 しかし <狭山> である。
これらの事件では、みんな一度は 「自白」 させられている。そして、それを 「根拠」 に有罪判決が出されている。
「拷問」 といえば殴ったり蹴ったりということが思い浮かぶが、長時間の取調べも体力を消耗し、精神的に圧力をかけ続ける拷問である。狭山もしかり。
1960年代は、(悲しいかな現在もだが) こんなことはどこでも当たり前だったのだろう。そして、「自白」 においこんでいくという手法がまかり通っていたのだろう。
決して元には戻せない年月がある。が、再審は、せめてものその間違いを正すことだ。しかし、ヤツラはそれさえも拒否しようとする。
名張毒ぶどう酒事件では、いったんは再審開始が決定された。しかし、名古屋高検が異議申し立て、名古屋高裁第2刑事部が取り消すという有様だ。布川事件でも水戸地裁土浦支部は再審開始を決定。しかし、検察は東京高裁に即時抗告。
思えば、上級審になるほど反動的な決定がでる傾向にある。予断は許されない。だが、一つだけいえるのは、再審開始決定も出るには出るようになっているということだ。
しかし・・・三度だが・・・しかし <狭山> である。決定的な新証拠に勝利を予感し、何度も何度も高裁・最高裁に突きつけてきた。が、その度に煮え湯を飲まされてきたことを決して忘れない。
そのことを肝に銘じつつ、他の冤罪事件の再審の動きとも連動し、再審の狭い狭い門をこじあけるというよりも、門そのものを打ち壊していけるような闘いが必要なのだと思う。