焦 点                             05/4/19・5/21
第2次再審において、石川さんの無実を証明する決定的な新証拠が齋藤保さんによる一連の鑑定である。特別抗告審においても最大の焦点であった。
しかしながら、島田裁判長はこれに真摯に向かい合うことなく、高木・高橋決定を追認し、斎藤鑑定を退けた。
どう言えばいいのか・・・斎藤鑑定を補強した元福島県警鑑識課員の斎藤正勝さん、元大阪府警科学捜査研究所員の奥田さんの鑑定を完全に無視した上で、既に 「そうではない」 と指摘していることを・・・開き直ってくり返した。
 まず、斎藤第1鑑定に対しては・・・
「昭和38年9月27日付け写真撮影報告書添付の試薬処理以前の封筒の状態を撮影した写真 (同年5月2日撮影) により 『少時様』 の3文字を肉眼で観察したところでは、『少時』 と 『様』 の文字が別異の筆記用具で書かれているとは認め難い」 という。
主観もいいとこだ。「少時」 は万年筆、「様」 はボールペンで書かれているとした斎藤鑑定の結論を確認した斎藤正勝鑑定、奥田鑑定には一言もふれなかった。いや、ふれられなかったのだ。
この種の鑑定について、素人の裁判官が 「肉眼で観察」 ?・・・何が分るというのだ。人の一生を左右する裁判 (特別抗告審) における態度がこれか? 不誠実極まりない・・・というより、ふざけた対応としかいいようがない。
さらに、「『少時』 の文字は、『様』 の文字と同様、ボールペンで書かれ、アセトン溶液に浸した際に、『少時』 の文字は、インクが溶解、遊離して流れ去ったことにより、ほとんど完全に消滅してしまったのに対し、『様』 の文字は、溶解、遊離したインクが流れ去るにまでは至らず、元の部分ににじんで残留したものとみるのが自然である」 と強弁した。
根拠としては明確に書かれてはいないが、「ニンヒドリン・アセトン溶液のかかり具合」 ということである。「そんなことはありえない」 と複数の元鑑識課員が言っているのだ。
島田決定は、破綻した論理にしがみついた。そして、それを正当化するために、「肉眼で観察」 したというのである。主観に基づいて、どうとでも言える理屈だ。これを、前提に以下のごとく、斎藤鑑定をことごとく退けた。
 齋藤第2鑑定書については・・・
「前記のとおり、『少時様』 の文字が指紋検査に用いられたニンヒドリンのアセトン溶液により溶解したことから、この3文字はボールペンで記載されたものと認められる」 と、まずもって、傲慢不遜な結論をもってくる。
この認定が間違っていると言っているのだ。それも、齋藤保さんだけが言っているのではなく、齋藤正勝さんや奥田さんも齋藤鑑定の正しさを確認している。それを無視して開き直り、過てる結論から話を展開しているのだ。
軍手によるものと思われる痕跡について、「布目痕等の存在を指摘する点も、指紋検出前後の封筒及び脅迫状の写真を見てもそのような痕跡と認められるか判然としない」 という。「判然としない」 というなら、鑑定人尋問を行うのがスジというものだ。
だが、「仮に、布目痕等が存在するとしても、申立人は、『少時様』 を記載した経緯等を含め犯行の計画性にかかわる事情について供述を避けているふしがうかがわれることでもあり、その成因は様々な可能性が考えられるところである」 と、逃げをうつ。
さらに、「齋藤第2鑑定書は、『少時』 の字画部分と訂正線のほかに、『時』 の周辺に筆圧痕、ペン等による2条線痕が存在するというのであるが、封筒の実物を観察してもそのような痕跡と直ちに認められるものであるか、必ずしも判然としない」 と、いう。
よくよく、物分りが悪いらしい。「判然としない」・・・自分たちには分からない・・・ということなのだから、鑑定人に尋ねてみるというのが、くり返しになるが、物事のスジである。
 齋藤第5鑑定補遺については・・・
「当審で参考資料として提出された 『齋藤第5鑑定補遺』 では、関根・吉田鑑定書中に封筒表面の 『抹消文字』、『潜在文字』 についての記載があることを指摘し、上記筆圧痕の存在を裏付けるものとして有利に援用している。
しかし、関根・吉田鑑定が行われた時点では、『少時様』 の文字は指紋検査により既に溶解しており、封筒の外観検査からは当該文字の判読が困難な状態となっていたのであって、
同鑑定書はこの溶解した文字部分を指して 『抹消文字』、『潜在文字』 と表現したものと解する余地もあり、『抹消文字』 等の記載が 『少時様』 とは別の 『インク消しにより抹消された別の文字』 を直ちに意味することにはならないというべきである。」
よくもまぁ、これだけ捻じ曲げて 「解する余地」 があるものだ。
関根・吉田鑑定は、「封筒表面の抹消文字についての検査・・・封筒表面の 『少時様』 状に記載された文字の部位について、赤外線、紫外線等の特殊光線およびグリーン、ヒルター等を使用し、撮影のうえ、潜在文字の画線を検査したが不明瞭のため、文字の判読は困難である」 となっている。
つまり、「少時様」 は読み取れているのである。また、指紋検出前の写真だってあったのだ。当然、「抹消文字」 「潜在文字」 はその他のものとみるのが、自然である。
 齋藤第3・柳田鑑定について・・・
「脅迫状の欄外のかき消し線について、文字判別の基準、根拠等は鑑定書に抽象的に記載されているとはいえ、その具体的な作業過程が検証可能な形で明らかにされているわけではなく、鑑定内容から直ちにその指摘するような文字が存在するとは認め難い」
・・・「検証可能な形で明らかにされていない」 ということは、裁判所としては分からないということである。ならば、鑑定人尋問が必要だったはずである。
次の一文は意味不明に等しい。第3鑑定では、「鑑定内容から・・・文字が存在する」 という鑑定結果を提示しているのである。「認め難い」 というのは、分からないと言っているに過ぎない。こんなものが最高裁の決定となることに何とも言えない悔しさを覚える。
しかし、さすがにこれだけでは説得力がないと思ったのか、苦しい言い訳を続ける。曰く・・・
「封筒の 『少時』 の周辺に存在するという文字も、該当箇所に筆圧痕らしきものが存在すると仮定しても、指摘する痕跡の形状等からは、それが文字として書かれたものか、かき消した線の組合せからたまたま文字を形成するように見えるものか、必ずしも明らかではない。
なお、仮に、脅迫状の欄外のかき消し線中に所論のいうような文字が隠れていたとしても、申立人がどこかの時点で上記の文字を書き得なかったとはいえないから、この点の齋藤第3・柳田鑑定書の指摘は申立人の自白全体の信用性を左右するものではない」
・・・・・「仮に」 ということではあるが、封筒に抹消文字があり、万年筆で書かれていたということを事実上認めた上で、なんとなんと、石川さんが書いたものかもしれないと言いだすのである。
 KI の供述調書 
その根拠として、ここでも ID養豚場の経営者KI の供述調書 (6月8日付) をもちだしている。
<石川さんが家へ来てから字を書くところは見てない。石川さんの書いたものも見たことはないが、家へ来たとき、青インクの小瓶を箱に入ったまま持っていた。万年筆も持っていて、1回石川さんとジョンソン基地へ残飯上げに行ったとき、入門証を書くとき、石川さんから万年筆を借りて書いたことはあった。石川さんがボールペンを持っているかどうかは知らない>
筆跡鑑定のところでも書いたが、やはり公判での事実調べが行われていないことである。まさに、反論できない状態での一方的な認定である。
KI 自身、別件で逮捕され、YNさん殺害事件で厳しい取調べを受けている中での供述調書である。
警察・検察は、おそらく封筒に万年筆で書かれた部分があることは分かっていたに違いない。だから、石川さんと万年筆の関係を聞かれ、しゃべったものと思われるが、取調べに迎合した供述であった可能性もある。
新たに事実認定をするというならば、事実かどうか事実調べを行ってから、事実認定をすべきなのだ。弁護団が何ら反論できない状態での一方的な認定とは、卑怯にもほどがある。
しかし、この部分は、よく読めば、脅迫状のところで、石川さんには脅迫状を書く力があったという根拠として、KI の調書が使われていることに対する反証ともなる。つまり、KI は、石川さんの書いた文字も、書いているところも見たことがないということである。
だが、島田決定は、石川さんの6月9日付けの検察官に対する供述調書までもちだす。・・・「私は、KI さん方に居た際、万年筆で蓋のない物を入曽で拾って持った事がありますが、1回も使いませんでした。インクと万年筆を揃えて持っていたことはありません」 
その上で、「犯行を全面的に否認していたこの時期に、申立人が万年筆の所持の事実自体は認め、部分的とはいえKI の前記供述調書に沿う供述をしていたことは、同供述調書の真実性を裏付けるものといえる」 というのだ。
この調書は、全体としては 「字は読めない」 「脅迫状に使われている漢字は書けない」 というものなのである。しかし、前ページに書いたように、こういった内容は無視し (事実上否定し)、万年筆の部分だけ 「真実性」 を認める島田決定とは、一体全体、何なのだろう?
KI が6月8日、石川さんが6月9日。警察も検察も、封筒には万年筆で書かれた部分があることは分かっていたはずだ。これは、偶然の一致ではなく、一挙に万年筆の存在を確定させようとしたに違いない。
だが、おそらくウラがとれなかったのだろう。それに、5月23日、6月18日の家宅捜索でもそんなものは出てこなかった。だから、最終的には、全部ボールペンで書いたという石川さんの 「自白」 になったのだ。
しかし、島田決定はいう。曰く・・・
「以上の証拠関係からすると、申立人は、本件前の近接した時期に自分自身の万年筆及びインク瓶を所持していた公算はかなり高いものと認められる。もしそうだとすると、申立人が万年筆と無縁であったことを前提として申立人と脅迫状との結び付きを否定する弁護人の上記主張は、その前提において採ることができないこととなる。
したがって、仮に、齋藤鑑定が指摘するように 『少時様』 の 『少時』 がペン等で記載されており、また、その周辺に2条線痕を含む筆圧痕が存在するとしても、そのような事情は、いずれにしても、犯人性についての確定判決の認定を左右する決め手となるものとは認められない。」
「公算はかなり高い」 というのは、仮定の上に推測を重ねた島田裁判長の勝手な思い込みである。そもそも、KI の供述が事実かどうかも分かっていないうえでの話なのだから。
それに、いたるところで石川さんの 「自白」 の中で、都合の悪いところはウソをついてるといいながら、この部分はどうして採用できるのであろうか。採用するとするなら、「1回も使っていない」 「インクと万年筆を揃えて持っていたことはない」 という部分はどうなるのか。
だが、島田決定は、齋藤鑑定に敗北を表明したとも言える。ことごとく、開き直りながら退けてきたはずなのに、「仮に、齋藤鑑定が指摘するように・・・筆圧根が存在するとしても」 と書かざるをえなかったのだ。
しかしながら、「そのような事情は、いずれにしても、犯人性についての確定判決の認定を左右する決め手となるものとは認められない」 と再び開き直る。「そのような事情」 は、石川さんの 「自白」 が誘導されたことを示す決定的な 「事情」 であるにもかかわらず・・・。
 鴨 居
島田決定は、さすがに、高木決定が展開した珍論=<捜査官に何ら予備知識がなかったから万年筆が発見できなかった> とは言えなかった。
そのかわり、1977年8月9日上告棄却決定あたりに舞い戻った。
上告棄却決定、曰く・・・
「捜索されてしかるべき場所ではあるが、鴨居の高さや奥行などからみて、必ずしも当然に、捜査官の目に止まる場所ともいえず、捜査官がこの場所を見落とすことはありうるような状況の隠匿場所であるともみられる」
島田決定、曰く・・・
「本件鴨居上の奥は、視点の位置や明るさによっては見えにくく、意識的にその場所を捜すのであれば格別、さっと見ただけでは万年筆の存在が分かるような場所とは必ずしもいえず、見落すこともあり得ると認められる」
事実調べもせずに、よくもまぁ言えるものだ。珍論が破綻し (最初から破綻しているが) 、行き着いた先が使い古された 「見落とし論」 とは!
だが、上告棄却決定が、「捜査官の目に止まる場所ともいえず」 となっているのに対し、「さっと見ただけでは」 となっている。つまり、「見たかもしれない」 と認めざるをえなくなっていることを、期せずして告白している。
しかし、家宅捜索が、「さっと見ただけ」 なんてありえないことを知らないのだろうか。最高裁の裁判官たるもの、まさかそんなはずはなかろう。
ここからする結論は、2回の家宅捜索の時には、石川さん宅の鴨居には、万年筆など存在しなかったということである。発見された万年筆は、3回目の家宅捜索の前に、何者かが鴨居の上に置いたのである。
 指 紋
ここで、齋藤第4鑑定についてふれている。曰く・・・
「齋藤第4鑑定書は異議審で提出されたものであり、これを再審事由として主張することは、もとより不適法である」 と、まず大上段に構える。
「原決定が指摘するように、指紋の付着は、犯人の体質、印象物体の材質、気候等の複雑な条件に左右され、犯人が手を触れたであろうところに指紋が印象されていないことも珍しくないことは裁判所に顕著な事実である。
また、脅迫状の作成前後に脅迫状等が具体的にどのように取り扱われたのか、鑑定書の実験の前提となる諸条件自体が不確定といわざるを得ない。さらに、申立人の自白には出ていないからといって、申立人が指紋付着を防ぐ処置を講じていなかったとも決めつけるわけにはいかない。
そうすると、上記各証拠は、異議審で提出された齋藤第4鑑定書を含め、申立人の自白の信用性を左右するものとは認められない。」
結局、寺尾判決の 「指紋は常に検出が可能であるとはいえない」 論にまいもどる。第2次再審での高木・高橋決定は、この寺尾判決を踏襲している。
齋藤第4鑑定は、これに対する反証の鑑定であった。これを否定する根拠としては、「指紋の付着は、犯人の体質、印象物体の材質、気候等の複雑な条件に左右され」 と、ここでも抽象的な言葉の羅列を行う。
つまり、「検出されない」 という主張に対し、「検出される」 という実験結果を見せ付けられ困ってしまい、具体的な根拠を示すことができず、「検出されないったら、検出されないんだ」 と開き直っているのである。