齋藤鑑定                             04/6/13
   2本の万年筆があった!
斎藤鑑定は、第二次再審において最も重要と思われる。第1~第5・第5補遺までを 「斎藤一連鑑定」 という。時間的には3年半ほどの経過があるが、ここではまとめて紹介する。
なお、「2本の万年筆があった!」 は斎藤さんご自身の言葉である。
 指 紋
彼我双方とも犯人のものと認める、ほぼ唯一の物証として脅迫状があることは前述の通りである。が、付け足せば、脅迫状が入っていた封筒もある。
石川さんの 「自白」 ではこうなっている。
<4月28日に、妹の大学ノートを引きちぎり、ボールペンで脅迫状を書いた。家にあった封筒に 「少時様」 と表書きをし、その中に脅迫状を入れ持ち歩いていた。YNさん殺害後、脅迫状を訂正、封筒の宛名も、「少時」 を棒線で消し、「N江さく」 と訂正した。>
なお、実際には、脅迫状は妹の大学ノートではなかったことが分かっている。また、「江さく」 は、正しくは 「栄作」 である。
ところで、「自白」 にあるこれらの行動中、石川さんは素手であったことになっている。脅迫状や封筒から石川さんの指紋が出てこないことは、石川さんが犯人ではないということだと弁護団は公判で争ってきた。ついでにいうなら、かなりある物証から、石川さんの指紋はただの一つもでてこない。
封筒や脅迫状から全く指紋が検出されなかったかといえばそうではなく、封筒の表側から2個、裏から1個、脅迫状の表側から4個の指紋が出ている。そして、脅迫状の指紋2個はYNさんの兄KNと警官のものだった。
第2次再審請求から12年たった1998年2月8日、弁護団は警察の科学捜査研究所の元技師で奥田文書鑑定研究所代表の奥田さんの意見書を提出した。専門家として検討するなら、石川さんの 「自白」 が本当であれば、脅迫状に指紋がないことは疑問である、という内容である。
またさらに、弁護団は栃木県警で29年間鑑識課員であった、齋藤指紋鑑定事務所の齋藤保さんに鑑定を依頼した。齋藤さんは、当時明らかになっていた写真や埼玉県警が作成した指紋検査報告書などから鑑定を行った。その結果、様々な事実が浮かび上がってきた。
 齋藤第1鑑定 (1999年6月10日・東京高裁へ提出)
①紙類からは指紋は非常に検出されやすいので、検出されない場合をすべて考慮にいれても、石川さんの 「自白」 どおりなら、必ず指紋が検出される。検出されないということは、石川さんは脅迫状にも封筒にも触っていないことを示す。
②封筒と脅迫状に軍手とみられる手袋の痕跡がある。
③封筒の宛名の 「少時様」 のうち、「少時」 は万年筆、「様」 はボールペンで書かれている。
④脅迫状の上部の 「少時」 を消した線は万年筆によるもの。
⑤封筒や脅迫状には4日前に作成したとは思えない 「古さ」 が認められる。
⑥封筒の 「少時」 の背景に文字を一度書いて消したあとらしき痕跡が見られるので、赤外線撮影の専門家などの意見が求められる。
封筒の指紋検出には、ニンヒドリン・アセトン溶液に封筒をひたして検出する方法が使われていた。ボールペンインクはこのアセトン溶液に溶解し、万年筆のインクは溶解しない。
下の指紋検出後の写真では、あきらかに 「少時」 と 「様」 の状態が違う。「様」 はアセトンに溶解しにじんだまま色素が残っている。「少時」 はほぼ消滅している。万年筆のインクは年月がたつと色あせて消えてしまう。
指紋検出前 (1963年5月2日) 指紋検出後
写真右 ア・イ は 「少時」、ウ は 「様」。→ は しみあと。
石川さんの 「自白」 では、封筒も脅迫状も全部ボールペンで書いたことになっていた。殺害後の訂正もボールペンでということであった。
第2審で、弁護団は脅迫状の訂正部分の鑑定を要求した。そして、東京高裁が選任依頼した秋谷東大学名誉教授の鑑定書 (1972年1月) が提出され、「一部が万年筆又は、ペンで書かれたもの」 と訂正された。
一部とは、脅迫状では 「五月2日」 と 「さのヤ」 であり、封筒では、「少時様」 の訂正線とYNさんの父親の名前 「N江さく」であるとされている。
普通なら、これで石川さんの 「自白」 は誤っている (したがって無実) ということになるのだが、東京高裁・寺尾裁判長は、この部分は石川さんがウソをついていて、YNさんから奪った万年筆で訂正したというように勝手に 「自白」 をねじまげた (寺尾判決)。
しかし今度は、齋藤鑑定によって、自宅でボールペンで書いたことになっていた 「少時」 が万年筆で書かれていたことが明らかにされたのである。
 第2次再審棄却 (1999年7月7日)
ところが、東京高裁・高木裁判長は、齋藤鑑定提出後、1月もたたないうちに再審請求を棄却した。
指紋が検出されないことは、石川さんは触れていないという齋藤鑑定に対して、「一般に、手指で紙などに触れた事実があり、その分泌物の付着も十分であったはずでも、その触れた個所から、異同の対照が可能な程に鮮明な指紋が必ず検出されるとは限らない」 としりぞけた。
さらに 「軍手痕」 については、「斎藤鑑定書指摘の写真には、縞模様らしいものがその指摘の個所に薄ぼんやりと印象されているかに見えるが (所論にかんがみ現物を検しても、現在では判然としない。)、これを犯人の用いた軍手様の手袋の汚れが付着したものであるとする右鑑定書の指摘は、一つの推測に過ぎないというほかない」 とした。
また、 「少時」 が万年筆で書かれていたということについては、「ニンヒドリンのアセトン溶液のかかり具合によって、『少時』 の文字については、溶解が進み色素が流れてしまい (ボールペンのインク様の青い色素が、極薄く、不定形に広がり、用紙の繊維に付着しているのが見てとれる。)、
ほとんど完全に消滅して読みとり不可能となり、他方、『様』 の文字も溶解したが、色素が流れて拡散してしまうには至らなかった」 と 「溶液のかかり具合」 だというのである。
そして、その他の点には触れもせず、結局、「齋藤鑑定書の右の判定には、にわかに与し難い」 として齋藤鑑定を退けた。ほとんどまともに検討していないことは明らかである。