| 第2次再審請求 04/8/30 |
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| ONさん新証言 |
| 1986年8月21日、弁護団はONさんの新たな証言や新たな筆跡鑑定書などをもって東京高裁第4刑事部へ第2次再審請求を行った。 |
| 第1次再審の特別抗告棄却後のONさんの証言 (1985年10月18日) は雑木林が 「犯行現場」 ではなかったことをより一層はっきりさせている。 |
| 「それは、悲鳴とかはっきりした人の声だとかいうものではなく、特に気をとめていませんでした。作業終了後、自宅に帰ってからも、そのことについて夫婦で話したりしたこともありませんでした。 |
| 5月頃になって、警察の方が毎日のように聞き込みに来られ、人の声を開かなかったかと尋ねられ、5月1日作業中、誰かが何かいったかなあという話をしたのです。 |
| それが悲鳴でなかったことは断言できますし、人が襲われたような気持ちで開いたものでもありません。人が襲われた感じがしたのであれば、その時、周囲を見まわしたり、付近を探したりするはずですが、そういうことはしていません。 |
| 警察の方が聞き込みに来られるまでは、まったく気にもとめていなかったのですから、私の桑畑の南側と接する雑木林で事件が起こったような状況は全くありませんでした。 |
| 私は、当日、私の桑畑の南側と犯行現場とされている雑木林との境界付近まで散布作業をしているはずですし、境界付近の桑畑は、雑木林の日陰となって生育も遅く、桑の木も低くなっているのですから、もし雑木林に人がいたのであれば私の作業している姿は見えたはずです。 |
| 雑木林は毎年下草を刈り取っていましたから、雑木林のほうからも、私の桑畑のほうからも、見通しは悪くありませんでした。境界付近からは雑木林の真ん中付近まで見えるような状況でした。私は当日作業中、悲鳴も聞いていませんし、人影も見ていないことは間違いありません。」 |
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| 元刑事7人の証言 |
| 11月12日、<万年筆> のところで前述しているが、1963年当時家宅捜索にかかわった小島警部ら元刑事7人の証言が明らかにされた。 |
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| 内容は、<捜査は徹底的に行われ鴨居も調べた。捜査責任者の小島警部が鴨居の穴のボロ布を引っ張り出し、「こんなとこも調べないとだめだ」 と部下をしかった> というものであった。 |
| 弁護士に対して小島元警部は言っている。「いやねーもう、死ぬ前と思うと全部話すけど、もう力が、体力が続かないですよ。バチあたっちゃった。バチあたっちゃったよね。全く・・・」 |
| 「何にもねえけどなー。ふし穴があったんですよね。かなりでっかいね。そのふし穴から、陸足袋のね、足袋の親指ののびっちゃったボロだとか、軍手の古だとか、ひっぱってね、こんなして、こんな松の穴っこがあったやつを覗き込んでみて、担当の刑事に、『天井なんかやったか』って、私がおこったの、記憶があるんです」 |
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| 鴨居の右端のネズミ穴 (小島元警部は 「ふし穴」 という) |
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| さらに、1992年7月7日には、先の7人のうちの1人から次のような証言が得られたことが明らかにされた。 |
| <踏み台のようなものをおいて、それに登って捜索した。奥まで見えたが、鴨居には何もなかった。あとになって、鴨居から万年筆が発見されたと聞いて、本当に不思議に思った。大きな事件でさしさわりがあると思ったのでいままで言えなかった。> |
| 家宅捜査をした本人たちが、「鴨居は捜した、何もなかった」 と証言しているのである。しかも元警察官たちである。その意味するところは、十分承知の上での証言である。それだけに信頼性があり、万年筆発見のからくりを暴いている。 |
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| また、1988年9月2日、東京高検が芋穴のルミノール反応検査報告書を開示した。YNさんの頭部には生前の裂傷があって、もし芋穴に 「自白」 どおり逆さ吊りされていたら、血痕があるはずだった。 |
| 寺尾判決では、「捜査当局において、本件の殺害現場、芋穴の中及びその問の経路等につき血液反応検査など精密な現場検証を行っていたならば、本傷による外出血の存否は明らかになったことであろう。しかるに、被告人の着衣や披害老の着衣に血痕が付着していたかどうかについてすら鑑定がなされていない。」 となっている。 |
| しかし、少なくとも芋穴と雑木林のルミノール検査は行われており、芋穴については結果が陰性であったことまで分かっていた。その報告書がしぶしぶ開示された。やはり、芋穴での逆さ吊りはなかったのである。 |
| これ以降も、弁護団は鑑定書や意見書などを次々に提出、東京高裁に事実調べを迫っていった。 |
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| 仮出獄 |
| 1994年12月21日、石川さんは仮出獄によって故郷の狭山にもどった。実に31年7ヶ月ぶりであった。・・・が、すでに、両親は亡くなっていた。 |
| 刑法28条 「仮出獄の要件」 に、「懲役又は禁錮に処せられたる者改悛の状あるときは有期刑についてはその刑期3分の1 無期刑については10年を経過したる後行政官庁の処分を以って仮に出獄を許すことを得」 とある。 |
| 刑務所長からの申請で地方更生保護委員会が調査・審理して決定することになっている。石川さんの場合、1977年8月9日の刑の確定後、17年が経過していた。未決拘留期間を含むと32年間になろうとしていた。 |
| 問題は 「改悛の状」 であった。石川さんは無実であり、改悛することなど何もなかった。それに、石川さんには、<無実にもかかわらず 「仮出獄」 で獄から出る> ということには抵抗感があった。 |
| 実際、2000年8月9日、鮎喰識字学級でも 「『仮出獄』 というのは無実なんだから拒否してきた、仮出獄にあたってはやはり無実なんだから 『二度と悪いことをしない』 という 『誓約』 などは拒否した」 と話してくれた。 |
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| 冤罪の 受刑生活解かれども 故郷に立てど われは浦島 |
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| 1996年12月21日、長い間狭山を闘ってきた徳島の早智子さんと結婚し、再審の実現に向けて、二人で全国を駆け巡るようになった。 |
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| 斎藤鑑定 (1999年6月10日・東京高裁へ提出) |
| こうした中で、栃木県警で29年間鑑識課員であった齋藤保さんの画期的な鑑定 (斎藤鑑定) が明らかにされ、1999年6月10日、東京高裁へ提出された。内容を端的にまとめると・・・ |
| <石川さんの 「自白」 どおりなら、必ず指紋が検出される。検出されないということは、石川さんは脅迫状にも封筒にも触っていないことを示す。> |
| <封筒の宛名の 「少時様」 のうち、「少時」 は万年筆、「様」 はボールペンで書かれている。> |
| 指紋については以前から言われてきたことだが、今度は、自宅でボールペンで書いたことになっていた脅迫状の 「少時」 が万年筆で書かれていたことが明らかにされたのである。 |
| 「自白」 が間違っていることを明らかにする、したがって石川さんが無実であることを示す画期的な鑑定結果であった。 |
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