日付訂正                             04/8/19
                      脅迫状の日付訂正
 再 審
刑事訴訟法435条に 「再審を許す判決・再審の理由」 として7項目が挙げられている。が、証拠が偽造されたものであったとか、鑑定が虚偽であったとか、誣告によって有罪になったとかいう場合に限られている。
しかも、第6項において 「有罪の言渡を受けた者に対して無罪若しくは免訴を言い渡し、刑の言渡を受けた者に対して刑の免除を言い渡し、又は原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき。」 とある。
これが証拠の 「新規性」 「明白性」 と言われるものだが、そんな証拠などそうそう都合よく発見できるものではない。だから、再審は制度としてはあるものの、「開かずの門」 「針の穴にラクダを通すより難しい」 と言われてきた。
しかし、1975年5月20日、最高裁第1小法廷で白鳥事件に関する再審請求に対して 「白鳥決定」 がだされた。
白鳥事件とは、1952年1月21日、札幌市の路上で、札幌市警白鳥警部が拳銃で射殺されたという事件で、当時の日本共産党札幌市委員長が事件の首謀者として逮捕され、1963年最高裁は上告を棄却し、懲役20年の刑が確定した。1965年10月、再審を請求していた。
白鳥決定は、「 刑訴法435条6号にいう 『無罪を言い渡すべき明らかな証拠』 とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いを抱かせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠をいうものと解すべきであるが、
右の明らかな証拠であるかどうかは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、果たしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきであり、
この判断に際しても、再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、『疑わしいときは被告人の利益に』 という刑事裁判における鉄則が適用されるものと解すべきである。」 とした。
要するに、明らかな証拠かどうかは、新しく提出された証拠だけでなく他の全証拠と総合して判断し、確定判決の事実認定に合理的な疑いを生じさせるものならOKということで、再審開始にも 「疑わしいときは被告人の利益に」 という刑事裁判の鉄則が適用される、という決定であった。
これにより、1976年に財田川事件の差し戻しが決定され、ほんの少しだが、「開かずの門」 がこじ開けられようとしていた。こういう状況のもとで、1977年8月30日、東京高裁に対して狭山再審請求が行われたのである。
 日付訂正
1979年5月23日、決定的な新証拠が東京高裁に提出された。5月16日に明らかにされた脅迫状の日付訂正にかかわるものであった。
脅迫状では、身代金受渡しの日時を指定した箇所が消され、「五月2日」 に訂正されている。この消された箇所について、これまで 「4月28日」 とされてきた。石川さんの 「自白」 もそうなっている。しかし、弁護団が赤外線写真で分析した結果、「28」 ではなく 「29」 であったことが判明したのだ。
なお、「自白」 では、「4月28日」 というのは脅迫状を書いた当日ということになっていた。
各写真にポインターをあててみてください。
なぜ、「29」 が 「28」 とされてきたのか。石川さんは、殺人を 「自白」 をさせられているのだから、いまさら日付でウソを言う必要などさらさらない。これは、警察が 「28」 と読んだからである。
1963年5月4日の朝日新聞・サンケイ新聞は 「脅迫状の日付は4月28日を5月2日と訂正」 と報道している。これは、警察情報に基づく報道だから、警察は早い段階で 「28」 と思い込んでいたことが伺われる。
つまり、石川さんの 「自白」 は 「4月28日」 と読んだ警察の誘導によって作られたものであることが明らかになったのだ。難しい、専門的な鑑定によらず、誰が見ても分かるはっきりわかる証拠の発見だった。
 再審棄却
しかし、1980年2月5日、東京高裁第4刑事部・四ツ谷裁判長は再審請求を棄却した。日付訂正問題については認めざるをえなかったが、石川さんの記憶違いということで片付けてしまった。曰く・・・
「右塗消以前本件脅迫状には、金員持参の指定日として 『4月29日』 と記載されていたことが判明するにいたって、右の点に関するかぎり請求人 (石川さん) の供述内容は誤っており、また・・・4月28日であると認定した確定判決の判断が、この部分に関する限度で事実を誤認する結果となっている・・・」
しかし、「しかしながら・・・4月28日とされていたかあるいは同月29日とされていたかの1点にかかわるものであって・・・」、4月29日を28日と 「・・・読みかえたとしても、その前後にわたる自供内容に格別矛盾が生じたり、不合理な部分が出たりすることは考えられない。」 と続く。
そして、脅迫状を書いた当日を身代金の受渡しの日付とするほうが不自然で、4月28日に29日を受渡しの日付とする脅迫状を書いたが、29日は実行できなかったという 「経過であったとすれば、この間の日にち前後と請求人の行動とは矛盾なく理解することができる」 と想像をたくましくする。
さらに、「犯行から2ヶ月近く経過したのちの取調にさいして.、過去の犯行に関連する日にちの記憶に1日程度のずれのあることは、往々にしてみられる現象である」 とし、続けて、「本件の場合は、当初の計画の日取りを変更したために結局塗消されるにいたった日付の記載」 と断定する。
そして、そういう 「・・・日付の記載に関する問題であるから、なお一層記憶違いの可能性は大きく」、「取調官の誤った誘導に起因するものとは認められず・・・」 と 「可能性」 を主張する。
ところが、続けて、「・・・日付の記載・・・この点に関する自供の一部に誤りのあることが明らかにされたが、結局この誤りは供述者である請求人の記憶違いに由来するもの」 と勝手に 「可能性」 から 「記憶違いに由来」 と話を飛躍させ結論づけている。
記憶違いと言うなら、なぜ石川さんに尋ねないのか? 本人に聞きもしないで、なぜ 「記憶違い」 と断定できるのか? よほど事実調べなどやりたくなかったとみえる。実際には、<2ヶ月前のことだから記憶が間違っている> などという推測が通用するような状況ではなかった。
そもそも、1963年6月20日 (日付には疑問がある) 付けの調書の  「自白」 では、犯行後・つまり5月1日に脅迫状を書いたことになっている。これが6月23日付けまで続き、22日付けの調書には 「書いた日は間違いないか」 という取調官の言葉まで書かれている。
6月24日付け調書から、「4月28日の午後、テレビを見ながら書いた」 ということになる。「5月1日」 という石川さんに対して、たまりかねた警察が、「4月28日」 と誘導したことは隠し様もない事実である。
四ツ谷裁判長は、白鳥決定を受け1979年に財田川・免田・松山事件の再審が開始されるという流れに背を向け、「日付訂正」 に秘められた明らかな事実を 「記憶違い」 という言葉の中に押し込め、再審の門を閉じてしまったのだ。