| 10月31日 04/7/20 |
|
| 6通の鑑定書 |
| 1972年8月29日、第66回公判、検察側が弁護団の6通の鑑定書の提出に渋々同意。石川さんの無実が余すところなく明らかになった。 |
|
| 「死斑について」 の上田・京大教授の鑑定 (上田鑑定) |
| ①逆さ吊りした痕跡は、死斑をみるかぎりない。 |
| ②死因は幅広い兇器での絞殺。あるいは幅広い鈍体 (手、足等) で圧頸。しかも、索状物あるいは鈍体は圧頸後取り除かれ細引き紐等を用いて死を確実なものとしたのではないか。 |
| ③ 「自白」 のような手で締めたという所見はない。 |
| ④胃の内容物からして食後2時間位で死亡。 |
| ⑤ 「自白」 どおりなら足首に痕跡が残るが、そういう痕はない。 |
| ⑥死亡直前に暴力的性交があったとは断定できない。 |
|
| 「脅迫状における表記能力および句読点」 大野・学習院大教授 |
| これについては既述してあるので省略。 |
|
| 「脅迫状における文章構成および用語」 磨野・京都市教委指導主事 |
| 「脅迫状本文は、小学校5年修了程度の学力、能力を有する者の既述したものとは考えられない」。 |
| 石川さんは、一応5年まで学校に行ったことになっているのでこういう表現になっているが、実際には小学校1・2年くらいの筆記能力しかなかった。つまり、脅迫状は石川さんが書いたものではないということである。 |
|
| 「脅迫状における筆跡」 綾村勝次 (書道家) |
| 本物の脅迫状 と、石川さんが警察で脅迫状を見て書かされた物 を比べて、「同一人の筆跡とは断じ難い」。 |
| 「『玉石・棍棒』 について」 和歌森・東京教育大教授、上田・京大教授 |
| 玉石・棍棒を当時の狭山市周辺の埋葬形態との関係で考察したものである。被害者と犯人との関係についても推測する手がかりとなる。しかし、これについては簡単に要約できないので、別に後述することにする。 |
|
| 「残土について」 八幡・東大教授 |
| ①現場の土の中に 「玉石」 と言われるような石が自然に混入することはありえない。 |
| ②死体が埋められていた穴と同じ穴をほり、土をいれ表面を踏み固めれば、石油カン16杯分の残土ができる 。 |
| 上は何も埋めない場合で、死体を埋めたとすると、さらに3杯分増える。つまり、これだけの残土の処理を雨の中、一人でやれるわけがないのだ。 |
|
|
|
| 寺尾登場 |
| 井波裁判長は、とうとう結審できないまま退官した。1972年11月28日、代わって登場したのが寺尾正二裁判長である。審理が再開されたのは1年後、1973年11月27日、第69回公判であった。 |
| 1974年3月22日、寺尾は第74回公判で10数冊の部落問題関係と狭山事件関係の本をあげ、「そういったものを読んでおります。両陪臣裁判官においても程度の差こそあれ、かなりの分量のものを読んでおられます」 と発言した。 |
| さらに、雑誌 「部落」 の 「狭山事件と部落問題」 に言及し、「立証趣旨にも適合していて、大変参考になるかと存じます」 とまで言った。しかし、一方では弁護団申請の現場検証、証人調べを却下し早期結審の方針を示した。 |
| 5月23日、第75回公判で最終の被告人質問が行われ、事実調べ終了。9月3日第76回以降6回の弁論。9月26日第81回公判で弁護団は最終弁論、石川さんは被告人最終意見陳述を行った。判決公判は10月31日と決まった。 |
|
| 10月31日 |
| 1974年10月31日、ボクはやはり東京高裁前の日比谷公園にいた。 |
| 72年以降、さすがに毎回というわけにはいかなかったが節目節目の公判には、日比谷公園にいた。参加人数もうなぎのぼりに増えていった。 |
| なぜ増えていったのか。前述のように狭山を主体的に闘おうという人々がいたからだと思う。そして、事実が明らかになるにつれ、差別に対する怒りと石川さんの闘いへの共感が広がっていったからであろう。 |
| 石川さんの生い立ちは、同世代とそれより上の世代の部落大衆にとって特別なものではなかった。石川さんは、どこにでもいる部落の青年だった。多かれ少なかれ、同じような状況にあったのだ。 |
| こんなこと (差別捜査・差別裁判) を許してしまったら、どこでもいつでも部落は権力の生贄にされてしまう。怒りだ。また、獄中においてそれこそ必死に文字を獲得し、火を吐くような文章を発しつづける石川さんの闘いへの共感も広がっていく。「石川命、我が命」 を合言葉に部落大衆は立ち上がる。 |
| それとともに、労働組合、政党、文化人や宗教界などが動いた。350万近い署名が集まり、「公正裁判・無罪判決」 を要求する数多くの地方議会の決議も行われていった。 |
|
|
|
|
| こうして、9月26日には、実に11万人が日比谷公園に集まった。日本の裁判史上、これだけの人々が集まったのは例がないのではないだろうか。もちろん、ボクもその中の一人であった。 |
|
|
|
| しかし、こうした闘いの拡大とともに、楽観論が徐々に大勢を占めていったように思う。つまり、無罪判決か、悪くても 「疑わしきは罰せずとする灰色無罪判決」 が出るのではないだろうか、というのだ。 |
| 6通の鑑定書が出された。脅迫状の訂正も 「自白」 とは違い万年筆で行われたことも分かった。また、筆圧痕の問題は、「自白」 が誘導されたものであることを明らかにした。それに、寺尾裁判長は部落問題に理解を示す態度を見せている。 |
| どこをとっても無罪判決以外ありえない。確かにそう思える状況ではあった。 |
| 一方、これに警鐘をならす動きもあった。よくても 「灰色無罪」、へたをすれば有罪判決ということを警戒しなければいけないというのだ。 |
| 「灰色無罪」 という点に関しても、「よくて」 と考えられるのかどうかという議論があった。これは、結局、差別捜査・差別裁判ということは認めないということに他ならないからである。 |
| ボクは、警鐘に賛成だった。もっとも、個人的には 「灰色無罪」 でも、石川さんは出獄でき、そこからまた闘いを始めることができるとも思っていた。しかし、国家権力が、無罪と認めるだろうか。 |
| この時点では、もはや、敵は東京高裁・寺尾裁判長という 「個人」 の枠をこえた、国家権力であった。権力対部落解放運動の対決に舞台は移っていたと思う。権力が膝を屈するだろうか、ボクはそれが心配だった。 |
|
|
|
| 第1報が伝えられた。はたして、「無期」。公園内は騒然となった。あちこちでシュプレヒコール。「東京高裁に突入し、石川さんを奪還しよう」 というアジテーション。 |
| 実際、解放同盟のいくつかの県連青年部なんかは、突入も辞さないという構えを見せていた。また、新左翼諸派、いくつかの労働組合の青年部なども機動隊の壁に突入する動きを見せた。 |
| この時、今は亡き解放同盟奈良県連合会の米田富さんが宣伝カーの上から訴えた。荊冠旗か何かの小旗をふりふり・・・正確ではないが、今も耳に残る言葉・・・「・・・必ず、解放同盟自身が武装して闘う時が来る。しかし、今日は自制してほしい・・・」。 |
|
|
|
|
| もちろん、これ以降も解放同盟が武装して闘うなんてことはなかった。米田さんも、本気で言ったのかどうか・・・それは分からない。しかし、そうでも言わなければおさまりがつかないような状態だと見て取ったのだろう。それほど、日比谷公園には13000人の怒りが渦巻いていた。 |
|
|
|
|