| 2審開始 04/7/14 |
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| 控訴趣意書 |
| 1964年9月10日、東京高裁 (久永裁判長) での第2審初公判で、石川さんは 「殺していない」 と真実の叫びをあげる。これには、川越市の部落出身の荻原という人物が大きな力となった。 |
| 彼は、早い段階で、警察による捜査が差別見込み捜査であると考え、独自の活動を行い、さらに、拘置されている石川さんの激励を続けた。そして、第2審冒頭での真実の叫びをあげることに、石川さんを奮い立たせたのである。もし、これがなければ、狭山事件はあまり想像したくない、別の展開になったかもしれない。 |
| 彼は、右翼であった。だから、日本共産党 (以下、日共) 系の弁護団を嫌い、後日、石川さんの父を通して、一時 (1965年3月)、弁護団解任という騒ぎを起こしてしまう。もっとも、これには思想的に相容れないという事情に加え、石川さんの無実を確信しきれない弁護団への不信が働いていた。 |
| 弁護団は日共系の弁護士だった。彼らは、前述のように、なぜ石川さんが不信感を抱いているのか分かっていなかった。なぜ、「自白」 し、それを維持しているのか理解していなかった。 |
| そのため、第2審・控訴趣意書で、「不幸な偶然が重なった結果の犯行」 であると、石川さんが犯人とした上で、死刑は重過ぎるとした 「量刑不当」 を主張した。1審でも、「自白」 の矛盾をつきながらも無実を主張しきれず、2度にわたり精神鑑定を要求し却下されている。 |
| 石川さんが 「自白」 を維持し、弁護団を信頼していない状況のもとで、苦肉の策としてあったのだろうが、無実を確信し、なぜこのような状態になっているのかを真剣に追及し、石川さんとの信頼関係の確立に努めたら、また違った状況になっていたかもしれない。 |
| 当時の弁護団も、部落問題をよく理解していなかった、と言わねばならない。 |
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| 対 立 |
| この 「量刑不当」 の部分は、1973年11月27日、弁護を更新するにあたって、弁護団としては主張しないことになる。また、このころ、部落解放同盟と日共との部落解放運動を巡る対立が抜きさしならぬものとなり、狭山を巡っても対立が表面化していく。 |
| 1974年頃までは、日共も国民救援会を中心に 「石川君を守る会」 という組織で、狭山闘争を支援していたようだ。「ようだ」 というのは、活動をしていたのを見たことがないからではある。 |
| しかし、74年頃には、「狭山は単なる冤罪事件で、差別裁判とかいってたら、支持は広がらない」 ということを、末端の日共支持者の学生たちは言っていた。もっとも、彼らがどこまで狭山事件について真面目に考えていたかは分からない。 |
| 差別裁判だと認めると、部落差別の認識に関して、解放運動を巡る対立に不利になるという計算が働いていたのだろう。もちろん、「冤罪事件」 ということでとことん押していっても構わない。しかし、なぜ、「冤罪」 が生まれたのかということになれば、部落問題につきあったって行かざるをえない。 |
| この 「矛盾」 は、1975年1月11日の 「一般 『刑事事件』 と民主的救援運動」 (機関紙 「赤旗」 ) によって決定的なものになる。 |
| 「・・・革新政党があれこれの刑事事件を取り上げ、『冤罪事件』 としてその救援の課題を提起する場合、問われている刑事事件の内容が重大であればあるほど、その態度表明に関して慎重であるべきことは、当然である。 |
| ・・・革新政党が十分な事実の根拠もなしに、あるいは 『権力』 とその 『犠牲者』 という図式に安易に訴えて、特定の刑事事件について 『有罪』 や 『無実』 ないし 『冤罪』 などの態度を表明することは、国民に対して極めて無責任なことになる。 |
| ・・・革新政党は勿論、民主的救援運動の場合も一般刑事事件に関して救援活動を行うのは、その主要課題に照らしてもよくよくのことである。とりわけ、強盗殺人のような反社会的犯罪に関する事件は、被告が真犯人でないことが諸般の事情によって確認できるのに、不当なやり方で被告とされているときに限って、救援活動の対象とすることができる・・・」。 |
| 要するに、狭山事件は、「反社会的犯罪で、冤罪かどうか分からないから、手を引く」 ということなのである。1974年10月31日の東京高裁寺尾有罪判決をうけてのことだから、寺尾判決を認めたことになっている。これをうけて、2月23日、日共系の弁護士は弁護人を辞めていった。 |
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| 筆圧痕 |
| 初公判での石川さんの爆弾発言をうけて、第2回公判は翌65年7月13日まで開かれなかった。この公判では、被告人質問が行われ、石川さん自身の口から、取調べの様子や 「自白」 が作られていった経過が明かにされた。 |
| 11月9日の第8回公判には、取調べの責任者だった長谷部が証人として出廷。11月25日第9回公判にも同じく長谷部が出廷し、石川さん自身が長谷部を追及した。 |
| こうして、1968年10月1日第29回公判でほぼ審理は終了し、11月14日第30回公判での最終弁論という状況になった。しかし、この過程で、弁護士が警察調書に添付された石川さんが書いたとされる地図に筆圧痕があることを発見した。 |
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| ↓拡大 白くふくらんだように見えるのが筆圧痕 |
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| つまり、あらかじめ何者かが書いた地図をなぞらされたということである。これによって、弁護団は最終弁論をとりやめ、事実調べの継続を求めた。 |
| この筆圧痕の鑑定にかなりの時間がかかり、その間に裁判長も久永 ~津田~江崎とかわり、さらに1970年4月21日、井波裁判長のもとで公判が再開された。 |
| 筆圧痕について先に書いておくと、警察側は 「写しをとるため、カーボン紙を下にしいて上からなぞった」 と主張した。2審での2人の鑑定人は、はっきりした痕だけとりあげ、この主張を支持する形になった。 |
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| しかし、実はこの鑑定人たちがとりあげなかった薄い筆圧痕があった。こちらの方こそ、石川さんがなぞらされたものであった。だが、2審寺尾判決は、この石川さんの主張を 「うそ」 とかたづけた。弁護団は上告審で、荻野京大助手の薄い筆圧痕に関する鑑定を提出し、争うことになる。 |
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| 闘いの拡大 |
| 一方、法廷外では、最初はわずかに部落解放同盟埼玉県連の支援活動が行われていたにすぎなかった。ようやく、1965年10月の解放同盟第20回全国大会で、「公正裁判要求」 の決議があげられた。しかし、すぐには全国的な取り組みとはならなかった。 |
| 筆圧痕の問題が争点になるなか、取り組みが進んでいき始める。69年3月第24回大会で 「即時釈放要求」 を決議、7月 「石川青年救援対策本部」 を設置。 |
| 70年3月第25回大会で 「新たな方針」 を決定。4月公判再開をうけながら、5月には 「狭山差別裁判糾弾要綱」 を決定。 5月18日~6月17日、部落解放国民大行動隊が狭山差別裁判反対を訴えて全国を回った。このとき、「差別裁判打ち砕こう」 が生まれた。 |
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| こうして、徐々に法廷外での闘いも拡大していった。 |
| 70年から71年にかけて、次々と警察関係者が証人として出廷。「自白」 が作りあげられていった経過が明かにされた。また、71年5月には狭山100万人署名が開始される。 |
| しかし、71年11月9日第54回公判で、井波裁判長は、翌年2月の公判で審理をうちきり、11月の退職までに判決を出したいと発言した。 |
| これは、どうみても自分の退官に都合をあわせた早期結審であり、有罪判決を伺わせるものであった。当時の社会党が動き始めた。大内兵衛さんや末川博さんといった学者・文化人も動き始めた。また、宗教界も東西両本願寺が動き始めた。 |
| 72年2月7日第56回公判、10日第57回公判にそれぞれ5000人の部落大衆・労働者・学生が公判闘争に参加した。こうして、15日第58回公判で井波裁判長に事実調べの継続を約束させ、ついに2月結審を断念させた。 |
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| 2月・・・東京 |
| ボクはこの2月、東京高裁のまん前の日比谷小公園 (日比谷公園の中にあった) にいた。当時、全く別の目的で上京したのだが、ついでにということで訳もわからないままに小公園に連れて行かれた。今から思うと、連れていく方もいく方だが、連れていかれる方もいかれる方だ。 |
| しかし、これで初めて 「狭山」 と出会い、以降のボクの人生に大きな影響を与えてくれたという意味では感謝しなければいけないのかもしれない。 |
| 何日の公判だったかは記憶がない。雪がちらついていたのは覚えている。南国育ちなもので、足元から凍える極寒の東京の印象がある。資料を見ると、10日に雪が舞っている。この日だったかもしれない。 |
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| 2月10日 右に石川さんの両親 |
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| ついでだが、この日は5000人の参加となっている。この種の集会は、当時はたいていどこの集会でも主催者発表は大きくサバをよんでいた。ボクは、気持ちは分かるが、やっぱりサバなんかよんだりしてはダメだと今も思う。 |
| 当時、ざっと人数を概算する術を身につけていたわけではないが、それでも1000人を切っていたという印象がある。印象は印象でしかなく、正しくないかもしれない。5000人の方がより正確なのかもしれない。 |
| グダグダ書いているのは、人数の正確さがどうのこうのといいたいからではなく、質の問題を言いたいからだ。この当時は、おそらく狭山を闘わなければいけないと感じた人たちが、組織的な動員ではなく、主体的に参加していた時期だと思う。 |
| 狭山闘争では、これ以降、うなぎのぼりに参加人数が増えていく。1974年9月26日には11万人が参加したことになっている。それはそれで、運動の広がりという意味では大きな成果だし、力である。 |
| しかし、寒さに震えながら、鳥肌の立つような一体感を覚えた、2月の1000人を切る (印象の) 集会があったればこそ、あの時期に主体的に参加していた部落大衆・労働者・学生がいたればこそ、拡大できたのだと思う。 |
| つまり、数も力ではあるが、質も力である。質・量ともに不可欠である。74年10月31日へいたる過程でつくづくそう思った。 |
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