アリバイ                                04/7/5
 アリバイ
前述のように、狭山事件に関連しては4人の部落青年が逮捕されている。その中で、アリバイがはっきりしなかった石川さんが犯人にでっちあげられていったのである。     
警察によって作られた 「自白」 は既にみた。では、石川さんの当日の実際の行動はどうだったのであろうか。
5月1日、午前7時半、仕事に行くと言って弁当を持ち、家を出た。しかし、仕事には行かずに、西武線入間川駅から西武新宿行きの電車にのり、村山で降り西武園に行き、9時半ころまでそこにいた。
それから、所沢のパチンコ屋で2時くらいまでパチンコをしていた。その間に、パチンコ屋の前の銀行脇で弁当を食べた。
2時頃パチンコ屋を出て、入間川駅に帰ったが、仕事に行くと言った手前、家に帰れず・・・ここから、「自白」 と実際の行動が分かれてゆく。
「自白」 では、駅前のすずやという店で牛乳を買う。それから荒神様という小さな神社の祭りの方へ向かう。しかし、石川さんを見たという人は誰もいない。・・・そしてさらに、 「出会い地点」 の方へ向かうことになっている。
実際は、駅正面の道に向かう。道沿いにある八百屋の前で、顔なじみの店の息子にあった。さらにパチンコ屋の前を通り、南下しタバコ屋でタバコを買った。それから入間川小学校への方へ歩いて行った。
小学校で一休みしていると雨が降ってきた。それで、入間川駅の近くの荷小屋に入り雨宿りをした。午後3時半か4時ごろであった。そこで時間をつぶし、7時に家に帰った。
石川さんの記憶では、4時ごろ、10人以上の中学生と先生が自転車に乗って前を通った。実際に、当日、「学徒総合体育大会狭山市予選会」 が行われており、狭山市立東中では野球の試合があった。東中から荷小屋へむけて中学生の一団が通ったというのは事実なのだ。
また、駅の時計を見に行ったとき (5時3分)、ID養豚場の車が通ったのを見ている。いつもより早めだったので変に思ったという。実は土日や休日などは早くしていた。そしてこの日はメーデーだったのである。
 差別の影
だが、残念ながら、石川さんの当日の行動を証言してくれる第3者がいなかった。・・・ここが、狭山事件において、部落差別が大きく影を落としているところと言えるだろう。
もし、石川さんが普通に学校にいけて、普通に仕事につけて、労働組合にでも加盟していたらメーデーだから集会に参加して・・・アリバイはいくらでも証明できたであろう。
石川さんが学校に行けなかったのは、石川さんの家が貧しかったためであり、それは紛れもなく部落差別のためであった。
家計を助けるため、7~8才のころにはもう畑仕事に出ていた。4年生ごろからは、父親について百姓仕事に出た。仕事のないときには学校へ行くが、仕事があれば早退した。
傘がないため雨がふれば欠席。PTA会費などを集める日も欠席。払えなかったからだ。
5年の途中からは農家に住み込みで子守り奉公に出た。家が恋しくて逃げ帰ったりもした。さらに、母の兄がやっていた靴屋に働きに行った。6年生では、再び農家に住み込みで畑仕事についた。
こうして、石川さんには小学校の1・2年生 (へたすると1年生どまり) の学力しか身につかなかった。狭山事件の犯人に仕立て上げられていく遠因がここにある。部落差別の結果なのだ。
小学校の卒業名簿では、なんと石川さんは 「住所不明」 となっていた。その時、石川さんの妹や弟がその学校に通っていたにもかかわらず。また、同様に 「不明」 とされた生徒が同級生で10人ほどいた。「不明」 で済ます教師の感覚ってなんだろう。これが、当時の差別の実態であったといえる。
15才では漬物屋で働いた。16才になって家に帰り、18才ごろまで土方仕事をした。仕事のないときは農家の日雇いなどをした。
1958年から1961年の間、東鳩製菓に勤めた。そこで、仕事振りが認められ、部署の責任者になった。しかし、これが仇になった。伝票をかかなくてはいけなくなり、文字の読み書きができないことが分かってしまった。翌日から会社には行けなくなった。
その後、再び土方をし、1962年10月末から ID養豚場に勤め、63年2月にやめた。それから、兄とともに トビ職の手伝いをやっていた。が、5月23日未明、寝込みを襲われる形で、不当にも逮捕されてしまったのである。
このような石川さんの生い立ち、生き様は、識字学級の同世代のおばちゃんたちの生き様に重なる。文字が分からないために安定した仕事につけず、一生懸命に働きながらも、なかなか安定しない生活。悔しい思いや恥ずかしいと思わされる数々の出来事。
石川さんはその上に、「死刑」 で命まで奪われようとしていた。確かに、2審では 「無期」 となり、結果的には32年で仮釈放となった。だが、32年なのである! 24才から32年・・・想像を絶する期間だ。まさに、差別によって青春を、人生の中でも最も輝かしい時代を奪われたのである。