真 実 04/5/8 |
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ストーリー |
石川さんは、「3人でやった」 と言ってしまったが、自分は脅迫状を書いて届けただけだとあくまで殺害は否定した。 |
そもそも警察は複数の犯行と考えていた。石川さんの 「3人共犯」 という話にとびつき 「共犯者」 について追及を始めた。しかし、最初からそんな事実はないのだから、いろいろとつじつまの合わない話になってしまった。 |
警察の追及に困ってしまった石川さんは、6月26日以降にとうとう 「単独」 でやったと言ってしまった。警察としても、別件で逮捕した他の部落青年たちのアリバイが成立し、石川さんを含んだ 「共犯」 をでっち上げることは無理な話になっていた。 |
これ以降、警察の描いたストーリーによって石川さんの 「単独犯行自白」 が作られていく。だが、この 「自白」 は実は非常に矛盾に満ちたものであり、かえって石川さんの無実を証明するものになっている。 |
また、あとで見るように、このストーリーにそって物証が作られていくのであるが、同じように石川さんの無実を明らかにするものになっている。 |
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一 審 |
7月9日、石川さんはYNさん殺害容疑で起訴された。7月12日、浦和地裁で狭山事件を担当することになった内田裁判長は 「世間を騒がせた大事件だけに慎重に審理を進めるが、集中審理で年内には判決にこぎつけたい」 と語った。 |
そして、この言葉どおり、検察・弁護側の申請した証拠・証人の大部分を却下した。しかし、その中でも検察側証人は144人中45人を認め、弁護側には35人中4人だけというありさまだった。 |
地に落ちた警察の面目の回復のために、最初から石川さんを犯人と決めつけ、そうした判決を出すための裁判が強行された。 |
1964年3月11日、内田裁判長によって死刑判決が出された。判決文にはこうある。 |
「被告人が、判示のごとく小学校すら卒業せずして少年時代を他家で奉公人として過ごし、父母のもとで家庭的な愛情に育まれることができなかったことは、その教養と人格形成に強い影響を及ぼしたであろうこと、そしてそれが、家庭貧困の理由によるものであって、必ずしも被告人だけの責に帰することができない」 |
部落で生まれ育ち、貧困の中で成長したから、こんなひどい犯罪を犯すような人格になったと言っているのである。差別判決以外の何ものでもない。 |
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真 実 |
しかし、石川さんは平然としていた。「10年で出してやる」 という 「約束」 があったからである。拘置所に帰った石川さんに同房の人たちが心境を尋ねてきた。そこで石川さんは 「約束」 のことを話した。 |
すると皆は 「警察は信用できない」 と言った。そして翌日、他の房の人たちにも同じことを言われ、多少動揺し始めた。 |
4月30日、東京拘置所へ移送された。ここで三鷹事件の竹内さんに出会った。 「約束」 のことを話すと、「それは大変だ。早く弁護士に相談するように」 と言われた。こうして、徐々に事の重大さと現実、置かれている立場を理解するようになっていった。 |
9月10日、ついに沈黙を破り、石川さんは東京高裁での控訴審第1回公判で発言する。 |
「お手数かけて申しわけございませんが、私はYNさんを殺していません。このことは弁護士さんにも話していません」 |
差別見込み捜査・取り調べ、でっち上げを暴露する真実の叫びであった。 |
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経 過 |
こうして狭山事件をめぐる闘いは徐々に狭山闘争として取り組まれるようになり、さらには戦前戦後をとおした部落解放運動史上で最大最長の闘いとして展開されることになる。 |
ここでは、簡単にその後の経過について触れておく。詳しくは年表参照。 |
1974年10月31日 |
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第2審東京高裁 無期懲役 |
1977年 8月 9日 |
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最高裁第2小法廷 上告棄却 |
1977年 8月30日 |
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第1次再審請求 |
1986年 8月21日 |
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東京高裁第4刑事部に第2次再審請求 |
1994年12月21日 |
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31年7ヶ月ぶりに仮出獄 |
1999年 7月 9日 |
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東京高裁 再審請求棄却 |
7月12日 |
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東京高裁第5刑事部に異議申し立て |
2002年 1月23日 |
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東京高裁高橋裁判長、異議申立棄却 |
1月29日 |
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最高裁に特別抗告の申し立て |
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