「 自 白 」                               04/5/6
 核 心
狭山事件の核心は、地に落ちた警察の威信の回復 ( 生きた犯人逮捕 ) のために、 地域住民・マスコミを巻き込んだ差別見込み捜査・逮捕・取り調べ・差別裁判を強行したことである。
つまり、公権力の面目回復のために部落差別を利用した (そして、差別をあおった) ことだ。
実際、この事件で石川さんを含む4人が逮捕されているが、いずれも部落青年であり、別件逮捕のうえでYNさん殺害の件で取調べを受けている。
そして、もう一つの核心は、なぜ石川さんがウソの 「自白」 を行い、第1審の間中それを維持したのかという問題である。・・・これこそ、様々な意味において、部落問題そのもの (部落差別の結果) であった。
無実であれば堂々と主張し、自白しなければ良いと一般的には思われる。しかし、孤立無援の容疑者が取調べの中で追い込まれていく精神状態は、そんな 「常識」 が通用するほど生易しいものではない。・・・経験者語る、だ。
・・・「経験者語る」 といっても、狭山事件とは比較にもならないはるかに軽微な件でだったが・・・だから、「黙して語らず」 を貫き、当然、署名押印も拒否することができた。それでも、否応なくいろんなことを考えさせられた。
狭山事件は世間を揺るがす大事件になった。面目丸つぶれになった警察の取調べは、過酷を極めたはずである。石川さんは、凄まじい精神状態に追い込まれていったに違いない。
ましてや、石川さんの場合、差別の中で学校にも満足に行けず、したがって、文字もきちんと覚えることができず、差別によって 「文字を奪われた」 といえる状態だった。法律的な知識もほとんどなかった。
警察はここにつけこんだ。つまり、差別の結果としての非識字 (文字が十分に分からない) の状態、そして文字が分かっていれば身についていたはずの様々な知識や経験の不足につけこんだのだ。
石川さんは、警察によって、本来は味方であるはずの弁護士への不信感を植え付けられ、さらに決定的には、兄が犯人だと思い込まされた。こうして、1ヶ月にも及ぶ過酷な取調べの中で、兄の身代わりを決意し、ついに  「自白」 に追い込まれていったのである。
しかし、「自白」 に追い込まれたとはいえ、1ヶ月も否認を続けたという驚異的な事実がある。たいていの場合、それほど長く否認し続けられないのである。・・・これも、石川さんの無実の証の1つと言っても決して過言ではない。
・・・念のためにだが、たとえ文字を知っていて、それなりの知識や経験があったとしても冤罪の犠牲者にされることはある。石川さんは、文字を知らなかったから犠牲者になったというわけではないのだ。
警察にとっては、つけこみ易い要因にはなっただろうが、それは要因にすぎない。石川さんが犯人に仕立て上げられたのは、威信回復にあせる埼玉県警の部落に対する差別捜査の中で、まさにターゲットとされたからなのだ。
逮捕当時、捜査副本部長の竹内狭山署長は言っている。「これが白くなったらもうあとにロクな手持ちはない」(日本経済新聞)。この署長はまた次のようにも言ったという。「とにかく、最高裁まであることだから・・・」(週刊文春)。
 再逮捕
石川さんは他の件はすぐに認めるが、当たり前のことだが、YNさんの件については強く否認する。
警察はウソ発見器にかけたり、ニセの弁護士やニセの狭山市長まで登場させたりして、執拗に自白を迫った。しかも、逮捕から弁護人選任までの13日間、孤立無援の状態だった。しかし、石川さんは否認しつづけた。
6月13日、別件のみ起訴。弁護人の保釈申請が出され、17日正午に浦和地裁川越支所から保釈決定がでた。だがしかし、警察・検察は17日午後3時過ぎに保釈し、直ちに警察署内で今度はYNさん殺害容疑で再逮捕した。
しかも、当時は使われてなかった川越警察署分室を、新たに有刺鉄線をはりめぐらし、再逮捕のために用意していた。石川さんはこの分室に送られた。逮捕状は浦和地裁川越支所ではなく小川簡易裁判所からとっていた。やっと家に帰れると思っていた石川さんにとって、これは非常にこたえた。
当時、使われていなかったこの分室に特設の取調室が・・・
弁護士が13日に石川さんに説明していた <保釈かまたは18日の拘留理由開示裁判> といったことと違う事態になってしまっていた。自分はまた逮捕され、さらに裁判もなくなったということについて、18日の朝の接見では弁護士から十分納得のいく話を聞けなかった。
<拘留理由開示裁判> とは、裁判所が被疑者を拘留する必要があるかどうかを判断するために開かれる。普通に生活している人々にとっては、逮捕と送検~警察の持ち時間が何時間で検察が何時間でとか、<保釈かまたは拘留理由開示裁判> とか言われてもよく分からないだろう。
弁護士は、事態について一応は説明していた。しかし、残念ながら、法律的な知識などほとんどなかった石川さんにとって、納得のいくような説明ではなかった。弁護士も石川さんの状況を十分に理解していなかったのだ。
弁護士の役割も十分に理解できていなかった石川さんの中で、弁護士への不信感が生まれてしまった。しかも、警察・検察は弁護士の接見を妨害しておいて、石川さんには 「弁護士は会いに来ないじゃないか。そんな弁護士は信用するな」 と弁護士への不信感をあおった。
  「自白」
19日、石川さんは食事がまずいと抗議し、刑事の 「それなら食うな」 という挑発に怒ってハンストに入った。しかし、これは結果的には体力の消耗につながった。取調べはお構いなく続いたのである。
そして、「別件だけで10年の刑だ。YNさん殺害を認めたら、合わせて10年で出してやる。弁護士と違ってウソはつかん」 と長谷部という県警刑事部長で取り調べの責任者が大ウソをついた。
長谷部警視らに自白を迫られる石川さん
また、石川さんが犯人でないとすると、「犯人は兄だ。家から押収した地下足袋と犯人の足跡が一致した」 と兄を逮捕すると脅した。当時、石川さんの家を支えていたのはその兄であり、もし兄が逮捕されたら家がメチャメチャになることが分かっていた。
石川さんは、5月1日の夜、ずぶぬれになって帰ってきた兄に対する不安を抱いた。もしかすると・・・。実際には、警察は兄のアリバイをつかんでいたのであるが、石川さんはそれを知る由もなかった。
さらに、21日から25日まで接見禁止にして石川さんを孤立させておいて、関巡査部長が登場するのである。この巡査部長は石川さんたちが草野球をする時に審判として参加しており、顔なじみであった。また、狭山署に留置されていた時に何かと世話をやいていた。
連日責めたてられ、身も心もズタズタの状態の石川さんにとって、まさに 「地獄に仏」 であった。しかし、この 「仏」 は 「長谷部警視の言うことを聞いてればまちがいない。うちあけてくれ」 と涙ながらに自白を迫った。
6月23日、石川さんはついに関に 「3人でやった」 という 「自白」 をさせられてしまった。「10年で出してやる」 という約束を信じ、また兄の身代わりになることを決意して。逮捕から丁度1ヶ月が経過していた。
この関巡査部長は、これ以外にもこの狭山事件全体を通して、実に重要な役割を果たしていると考えられる。証拠のデッチあげの 「実行犯」 という意味においてではあるが。
・・・・・ 資料によっては、石川さんが 「共犯自白」 を始めたのは6月20日、「単独自白」 は6月23日になっている。
これは、警察調書によるものと思われる。しかし、これには警察側の日付の改ざんの可能性がある。
なぜなら、20日には拘留尋問で裁判官に対して犯行を否定しているのである。この日に 「自白」 を始めたとは思えない。
また、22日には、ハンストが取り調べに支障がないかどうか、川越署の嘱託医の診察を受けている。「自白」 させられたのはその後である。
実際、2審・東京高裁での公判において、石川さんは、6月23日に 「共犯自白」 をさせられたことを明らかにしている。