ID養豚場 05/7/4 |
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「気がつかなかった」 ? |
石川さんは、佐野屋脇で30分から1時間も待っていたことになっている。 |
この間に、佐野屋前の道を、徒歩の男、自転車、バイク、車が通った。ところが、石川さんは 「気がつかなかった」 と 「自白」 の中で述べている。 |
30分から1時間も、今か今かと身代金を持ってくるはずの女性を待っていたというのだ。当然、道の方に注意が向けられているはずである。TNだって目の前を通って佐野屋前に立ったはずなのだ。 |
TNやHM、張り込みの警官たちが気づいた徒歩の男、自転車、バイク、車に気がつかなかったはずがない。 |
「1人で来い」 と指定 (正確には、「金二十万円女の人がもッて」) してはあるが、女性は歩いてくるか、あるいは自転車やバイク、車を使うか・・・これは、分かっていない。当然、それらが通るたびに確かめていたはずである。 |
また、もしかすると既に通報されていて警察関係者が動いているのではないか、と注視していたはずだ。気づかないはずがない。 |
「気がつかなかった」 というのは、実際にはその現場にはいなかったことを示しているのだ。 |
また、石川さんは、「おばさんのような人」 が来たと言っている。しかし、弁護団の天候や気象を同一にした再現実験では、立っている人の性別や身長などは識別できないことが分かった。 |
「自白」 はここでも間違っているのだ。・・・<狭山事件・真実/音声> 参照 |
では逆に、TNの側からはどう見えたのか・・・なんとも奇妙な供述がある。5月3日には、「雨降りにきるコートのように見える白っぽいものを着た男1人が、畑の中を南の方に走って行った」 と言っている。 |
しかし、第1審公判では、要約すると、<白っぽく人影が動いたのを記憶している。北側から南側へ。2mぐらいだったと思う> と述べている。 |
5月3日の方では、走っていくのをずっと見ていたという印象がある。しかし、公判では 「2m」 。25mほど離れているはずで、そこから 「2m」 というのは、ほんのちらっと動いたという程度のはずである。 |
どうして、供述が変化していったのであろうか。5月3日は 「佐野屋前」 の当日で、こちらの方が記憶としては鮮明なはずだ。TNは、立ちすくんだまま、犯人が逃げていくのを黙って見ていたというのだろうか。 |
それはともかくとして、当夜、石川さんは、薄緑色の長袖オープンシャツにジーパンといういでたちであったとされている。ならば、暗がりの中では、「白っぽく」 見えるどころか、反対に黒ずんで見える。 |
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写真中央の人物にポインター |
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写真は、1983年国保労組 (徳島) の現調時のもの。茶畑に潜む白い服を着た人物に薄緑のゼッケンをつけてみた。明度をさげると、白いところは白っぽいまま残るが、薄緑が黒っぽくなっているのが分かるだろうか。 |
・・・TNは、ただ 「見えた」 と思っただけなのだろうか。それとも、実際に 「白っぽい」 服を着た犯人が逃走したのであろうか。しかし、こんな夜の現場に、「白っぽい」 服を着ていく犯人なんて本当にいるのだろうか。 |
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逃 走 |
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佐野屋付近からの犯人逃走方向 |
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結局、犯人は逃走した。朝になり、佐野屋脇の畑で犯人の足跡らしきものが見つかり、警察犬に追わせた。警察犬は赤い矢印の方向に向かい、不老川という小さな川の近くまでいって方向を失った。 |
その先には権現橋があり、その向こうに ID養豚場があった。捜査本部は、この時点で、
ID養豚場に目をつけた可能性がある。 |
5月6日、捜査本部は ID養豚場からスコップ紛失届けを出させた。これが、この事件の大きな転機となった。すなわち、<スコップ→
ID養豚場→犯人は部落民> という図式が作られていくことになったのである。 |
この日は、また重要参考人と考えられていたGOが死亡した日でもある。これも、もう一つの転機となってしまった。 |
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養豚場の跡にできた製材所の跡 |
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権現橋から見た ID養豚場跡 (青い屋根の車庫付近) |
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捜査本部は、犯人が ID養豚場の方向へ逃走したと考えていた。そして、石川さんを逮捕し、上図の 「佐野屋への道」 の 「自白」 を強制した。しかし、思わぬ抵抗にあう。 |
石川さんは、別の道を言うと、またああだこうだと言われるので、もと来た道を逃げたと言って変えなかった。つまり、警察犬の方向とほぼ反対方向に逃走したというのである。 |
そうすると、少なくともC地点では張り込みの警官に出会わなくてはいけない。今度は、張り込みにつくのが遅かったという言い訳は通用しない。 |
だが、現実には出会わなかった。ここに配置されていた警官もまた、右往左往していたというのだろうか。 |
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佐野屋の夜 |
40人の警官で張り込みながら、現れた犯人を取り逃がしたことによる威信の失墜。これを回復するため、 「生きた犯人の逮捕」 という成果を課せられた埼玉県警。 |
これが、<狭山事件> を産みだした。佐野屋の夜が、始まりだった。 |
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