加同協ニュース №34     04/11/2
10月15日 加同協 第16会勉強会
10月15日、加茂名小学校多目的室において約90人の参加で勉強会を開きました。
12月24日には、他ならぬ加茂名の地において、徳島で初めて誕生した水平社である加茂名水平社の創立80周年を迎えます。それで、第16回勉強会は、「加茂名水平社80周年を迎えて」 と題して、「加茂名水平社結成の意義、そして今日の課題」 をテーマに講演会ということになりました。
ただ、2時間という時間の枠に、2人の講師という設定にちょっと無理があったかもしれません。時間が足りなくて、少し中途半端になってしまったようです。しかし、加茂名において、水平社結成の意義を探り、今日の課題を探っていくことは、これからも必要で、その意味では、出発点になったと言える勉強会でした。
講演Ⅰ・要旨 「「荊冠旗翻る」
     増田智一先生 (徳島文理高校)
配った資料の3枚目に、今からちょうど80年前1924年 (大正13年) の12月24日の新聞の切り抜きがある。そこには、「市外加茂名に荊冠旗翻る」 という見出しで記事が載っている。
この中で一番注目されるのが決議文というところで、1922年3月3日の岡崎公会堂で行われたものとくらべて2項目違っている。これは後で述べるが、非常に意味があり、県下最初の水平社ののろしがあがったその時の新聞である。
私自身がかつての同和教育主事をさせていただいていたこともあり、加茂名地区で同和問題に取り組まれている人々との出会いがあり、TTさんと知り合った。「ちゃんと調べよ」 とやさしくご指導いただいたり、「こんな資料があるぞ」 と教えていただきながら勉強を進めていった。
いろいろな人と出会えて加茂名には、暖かい思い出がたくさんある。実は加茂名水平社があったということだけは知っていたが、全国水平社60周年や70周年の時期に,調べていくうちに深く興味を持った。
私は、水平社運動は民主主義運動の先頭にたった運動であってほしいという思いを持っていた。水平社のすばらしさを子どもたちにも教えたいし、そういうふうな教材を作ろうと思っていた。
中学校や小学校の社会科の教科書では、水平社はロシア革命に励まされたとか、米騒動以降そういった自覚が高まり特に社会主義の高まりの中で水平社運動が作られたとか書かれていた。
まあ、今はそれほどあからさまに書かれているわけではなく、最近の教科書には若干の修正が行われている。私が調べだした当時、私はデモクラシーとかロシア革命以降の社会主義の影響を受けた文章なんかが、加茂名から出てくるんではないかと思っていた。
私も私なりに徳島県の水平社像を持っていた。そしてその頃、たまたま当時の新聞の大部分が県立図書館で見えるようになってきた。当時の新聞をマイクロリーダーで読んで調べることが可能になった。
世の中を改革する先頭に立った水平社の運動は、実は水平社神話をも作り上げていった。その中には事実とは違うものも入ってきている。今改めて、水平社運動の何がすばらしいかを考えたい。
水平社は民主主義運動や社会主義運動と一緒になっていい社会を作ろうという考え方だった。もしもそうではなかったら、穏健で弱小水平社になるのではないかと言われていた。井藤正一委員長は、当時の水平社は比較的穏健な運動団体であったと言っていた。
水平社宣言では何で 「兄弟 (姉妹ではなく)」 とか 「男らしい殉教者」 とかが強調されなければならないのか。男女共同参画社会といわれている中で、80年前に書かれた問題を言うのはおかしいかもしれないが、しかし、水平社は常に正しいというのは間違いではないか。
本当の意味での水平社のすごさを伝えていくことがこれからの人権教育にはプラスになっていくと考えている。弱小とか弱いといわれている問題について言いたいが、加茂名水平社は決して弱い運動団体ではなかったと考える。
決議文について(資料より)
この決議文の後半ではすごいことを言っていると思う。ここに至るまでの話をごく簡単に話したい。一人は井藤正一さん。彼は加茂名水平社の初代委員長だが、井藤さんの日記によって当時の水平社に至るプロセスがわかる。プリントの後ろにある徳島県百科事典にも載っている。
もう一人が宮本小三郎さん、そして加茂名の人ではなく、徳島県人ではないのだが、栗須七郎さんを今日の話の中で登場させたい。
井藤さんの日記の中や、またTTさんの話にはKMという人物の名前も出てくる。またASさんという方も出てくる。そういった人の多くは青年団の方だが、結構そういう青年団の人がいたようだ。
青年団についていまさら語る必要もないが、日露戦争あたりから編成されていくが、多くはかなりコントロールされていた。誰がコントロールしたかというと、ある時は、学校の校長であったり警察の人であったりした。加茂名では稲塚逸次という人 (校長) がいた。
井藤さんというのは、大変な勉強家で通信教育で早稲田大学文学部の卒業資格を取っている。二十歳すぎの青年だが、本当に勉強熱心だったと聞いている。すごくまじめで向上心の強い人であった。
自分たちが差別されないように自分たちを正すという運動をしている。しかし、そういう努力をしているにもかかわらず差別される。日記によるとその頃から、大阪水平社の栗須さんと連絡を取り合っているのがわかる。
四国での水平社創立の流れ
四国で一番最初に水平社ができたのは愛媛県。一週間後に高知にできる。イメージとしては加茂名にできた水平社が一年ほど早く愛媛・高知でできたようなもの。高知の場合はすごい指導者がいてパッとできたのに対して、愛媛では積み上げるように水平社ができた。
その指導者が松浪彦四郎という人。松山に帰って愛媛新報という新聞社に入った。水平社活動をしながらやってもいいかと聞いて、入社している人。徳永参二さんという人と組んで愛媛の水平社はどんどん広がっていく。県下の西へ東へ南へと広がった。
愛媛の流れの中で、その強い意向を受ける形で香川県観音寺公会堂での水平社設立がおこなわれる。このときも徳永が立役者になる。高丸義男という人が香川では中心になる。朝鮮の衝平社との連携の話を、その人がまとめていく。
【注・・・衡平社 (ヒョンピョンサ) は、朝鮮における被差別民衆である 「白丁 (ペクチョン)」 に対する差別撤廃を求めた運動団体。1923年の創立】
徳永参二が中心になって1924年の9月20日に四国水平社を設立しようとした。徳永は国粋会と話をつけている。これはすごいことで、そのおかげで四国水平社は無事に結成された。その後、四国に水平社を作っていない人々の為に巡回宣伝部が作られた。愛媛新報の記事に載っているが、これは未確認だが徳島にも来県したという。
12月24日に加茂名水平社が創立される。それまで青年団とは別に青年雄弁大会が行われているが、徳島の水平社設立の根底にあるのは青年団と弁論ではないかと思う。井藤さんと宮本さんがここで登場する。
新しい意識に目覚めた四国の仲間や大阪の栗須さんと連絡をとって運動を起こすわけだ。公会堂において打ち上げられたと書いてある。出席した人は学校の稲塚先生、町会議員を含め200人あまりとある。
その中に愛媛・香川の4人もいる。しかし私は、井藤・宮本をはじめ、先ほど言った若者が村の中で格闘しながら水平社運動にたどり着いたということが、なにより大きな意味があると思う。
加茂名水平社の運動
では、できた徳島水平社はいったい何をしたのか。差別事件糾弾が一つ。もう一つは今の言葉で言うと啓発活動。当時の言葉では宣伝と書かれている。一番多い活動は実は講演会と演説会。初期の運動は、農民運動でも社会主義運動でもない。
だから、初期水平社の中心の具体的な運動としては、糾弾運動になる。ご存じでしょうが、「大阪水平新聞」 の記事では学生の差別問題と書かれている差別事件がある。列車通学途中の徳島中学 (現・城南高校) の学生が、思い上がったエリート意識で差別事件を起こしていった。
井藤さん宮本さんが一番最初にとりくんだ問題がそれ。徳中の校長や当時の教育委員会に言いに行く。一番最後に栗須さんの記事があるので、読む。・・・資料参照
栗須さんの人となりに関しては時間がないようなので、資料を読んでいただきたい。とにかく演説に引きつけられるものがあったようだ。初代の大阪水平社の委員長。偉大な演説者でほとばしるような演説をする。
一見、徳島水平社や栗須さんは民族主義に見え、保守的に見えるが、しかしぎりぎりのところで欺瞞や嘘があったところでは徹底的に差別糾弾のエネルギーをぶつけていった。かなり過激な言葉を時として話す栗須さんだが、井藤さんや宮本さんも熱意は同じではないかと思う。
労働農民党 (当時の非合法下の共産党の公然部門) と一緒に活動しようと水平運動が言い出したのが1926年あたり。無産者同盟が水平社の主導権をにぎると水平社はかなり社会主義的な色合いが強くなっていく。
当然、四国もそれに編み込まれる。栗須の大阪が編み込まれ、四国もそれに続く。労農党との連携支持を出していくわけだが、あえて強調していきたいが、水平社は差別をなくしていく組織なのである。部落差別をなくすことを初発の意志として持っている。
社会主義になって差別はなくなるのかとある人 (高橋貞樹) は葛藤している。社会主義運動との葛藤がある。香川県の高丸なんかは決別というか除名されている。
その後の宮本さんと井藤正一さんの命運は大きく分かれていく。戦後に同和会の副会長になり、徳島市議や農協の会長になるのが井藤さん。一方宮本さんは、3.15事件で検挙される。社会主義運動に進み、農民運動とも協力していく中でと逮捕された。過酷な弾圧がなされている。ただ、彼は1952~3年までは生きておられたことは確認している。
私が最後に言いたいのは、徳島水平社の設立が誰であっても (井藤さんであっても、宮本さんであっても・・) そのこと自身は同じように尊い。大切なのはその意志を受け継いでいくことではないかと考える。
内外で葛藤に悩んだ人々、つらい思いをした人々など。その二人をともに同じように評価していく必要があり、その意志を継承していくのはこれからの私たちの課題ではないかと思う。
講演Ⅱ・要旨 「同和問題は、今」
     入谷喜久雄さん (徳島市人権教育講師団・部落解放同盟)
私は、運動する立場からお話しさせていただきたい。
同和対策事業特別措置法が実施され、徳島における解放運動が行われてきたわけだが、今日までの運動の中で、環境改善事業についてはほぼ完了、後の完了されていない部分については一般対策を利用してやっていこうというふうになっている。
法失効後、すぐに終了されていくものと経過措置を通してやっていくものもあった。私の立場で感じていることを自分なりに判断して話させていただきたい。
法失効後における学校での人権教育の中で、同和教育もその一つとしてやっていくというのが県の方針。学校では、同和教育主事から人権教育主事になった。そして、仕事の量もふえ、担任も持ちながらで現場でかなり忙しくなっている。
先生の立場からも質問というか疑問のようなものがあり、県の教育委員会の方で 「人権教育のQ&A」 というのを出した。その中に 「人権教育の推進に当たり、これまでの同和教育はどうなりますか?」 というのがあり、その答えが「これからは、これまでの同和教育で培ってきたものを人権教育のなかで・・・同和教育という言葉は使わないように・・・」 というので現場でも混乱が起きていると聞いている。
県の教育長さんとお話をしなければと思い、お話させていただいた。同和教育というのは法が制定される以前からもがんばってきたし、四国の中でも先進的な取り組みを徳島県はやってきた。
しかし、「これからも人権教育を進める中でいろいろな問題があるが、国連人権教育10年の中で示されている個別の課題を取り扱う。差別の本質的なものを学習していく中で同和教育をことさら取り上げなくても問題は解決する」 という風に言われたが、それは少しおかしいと思う。
徳島県の同和問題の解決に向けての基本方針という本の中では、法執行後の問題について審議して問題を解決していくということが書かれている。時間的なものもあるので、詳しくは後で目を通していただきたいのだが、同和問題の啓発とか同和教育とかについて、人権教育・人権啓発に再構築し、その中で同和問題を人権問題の重要な柱として捉え、積極的に推進すると書かれている。最初の基本計画も出されており、徳島県もそれに準じて中間まとめを出している。
私たちの運動の中でずっと言っているわけだが、何が重要なのかということだが、同和問題という言葉が使われることがない。人権擁護法の中では憲法14条の言葉を引用して社会的身分を一番最初に持ってきているが、社会的身分というのが一番に書かれているのには意味があると思う。
県もそれをうけて動いてきているわけだが、学校教育における現状と課題というのがあるが、学校教育活動全体を通じて学習が知的理解にとどまり、教職員に人権尊重の理念が行きわたっていないなどの問題が言われている。教職員の研修などにも言及している。
学習会の問題がこれに関わってくると思うが、学習会は今年いっぱいで終わりたいというのが県の意向で、厳しい県の対応があるようだ。学習会の保護者の会が、県に対していろいろな要請をしているが、なかなかスムーズにいっていない。
そういうことに関連して、新聞に差別事件が載った。9月14日の徳島新聞だが、徳島県教委は県内の女性教諭を懲戒免職にしたと書かれている。
~以下新聞の記事を読む~・・・・・・・。
県議会でもこの話題が出ており、大きな社会問題となっている。保護者の方に名前を言わず、「おたくの子どもを学校に来させないように」 と電話で言っている。また、子どもに対し、「学校へ行くのをやめてください。・・・(被差別部落の子どもである) さんたちさえいなくなってくれたら、○○学校はすばらしい学校」 というような内容の手紙をだしている。これは保護者が見つけて、子どもには知らせていない。
母親が保護者会の副会長だということもあり、保護者会と学校が一緒になって取り組もうという話をしている。話を進めていく中で、学校の方でもかなり努力はされていて、いろいろと注意をはらっておられたようだ。ところが、県の委員会としては犯人さがしをするようなことをしないでという意向で、保護者や現場としてはそれではいけないのではないかと言われていた。
新聞では担任を持たしてくれないのでやったと書いていたが、採用になる前には臨時の時代から問題があったように聞いている。赴任の先々でいろいろな問題が起こって、学校でもそれなりの対応をしていたようだ。
前任校に勤めていた時に、耳元で大きな声でしかられたことで耳が聞こえにくくなったと言っているようだ。○○学校に、そのしかった先生の妹さんと結婚した方がおられたようで、人権教育の担当をしていた。それで、困らせてやろうと思ってやったというのだ。本当にあってはならないことが現実に起きた。保護者の方を含めて県に申し入れをしている。
裁判所や先生、自衛隊、警察など公的な立場にある方々の研修を充実していこうというのが出されているのだが、自衛隊の中で差別事件が発覚した。皆さんも、新聞をごらんになったかもしれないが、自衛官Aさんが元同僚を提訴と書かれている。
自衛隊の中でいろいろな差別があったのは、私も自衛隊におったのでわかるが、今回は自衛隊員の夫婦BCの12項目にわたる差別発言が確認されている。Aさんは部落出身であるといって差別発言に対する謝罪を求めた。
夫婦の方はCの地元の高知の県会議員に解決を頼んだが、「100万円で許してもらえ」 と言われた。Aさんは 「金の問題ではない」 と拒否した。夫婦は呉の総監部に 「恐喝をされた」 と訴え、Aさんは一ヶ月にわたって取り調べを受けた。
容疑が晴れた後、司令官は 「容疑が晴れたからもういいじゃないか」 と納めようとしたが、Aさんは 「業務上の上司の命令であれば従わなければならないが、プライバシーに関わる問題なので拒否」。
すると、4月に呉の総監部の方へ異動になった。こうした対応に怒りに燃えたAさんは提訴した。その後、差別事件が起こりだいぶたってから私たちの方に言ってきた。
Bは、発言した内容は、自分は福島県の出身でよく知らないのだが、高知出身の妻Cから教えられたと言っている。Cは否定している。詳しくはまだ明らかになっていない。裁判の中で明らかにしていかなければならないと思っている。
最近、私たちが運動している人権擁護法・救済法でも考えていかなければならないが、Bは法務局から 「説示」 を受けている。法務局としては 「重い対処」 らしいが、これだけだ。Cは認めていないから 「啓発」。これが実態である。
私たちは、国連のパリ原則で確認されている独立した人権委員会を求めている。政府は法務省の中に人権委員会をおくという。しかし、法務省が管轄する刑務所や入国管理局など人権侵害が起こっている部署がある。身内が身内をということになり、人権委員会が法務省の中であるのはどうしても信用できない。
人権は、部落問題だけではなく、いろいろな被差別の立場の人々の人権を守る内容でなければならないと考えている。お渡ししている資料もよく読んでいただければと思う。私たちが運動を展開していく中でも、本当に、幸せに生活をおくれるような人権教育ができるような県や国の方針が立たないと、新聞に載ったような問題がまた起こるかもしれない。
皆さん方の中には、二つの運動団体があって対立していて困るという方もおられかもしれないが、既に、厳しい状況を前に協力できるところでは協力してやっていこうということになっている。
問題提起のような形で終わるので申し訳ないが、質問があればそこでお答えしたい。きっちりと運動をやっていかないと21世紀は人権の世紀にならないと考えている。