伊予の小京都と言われる大洲 そこに素晴らしい山荘がありました。 噂で聞いていたのですが、なかなか訪れる機会もないままで数年たった頃、大洲に出張のチャンスが! この機会を逃してはならず、っと閉館間際に訪れました。 当時の管理をされていた上田さんが閉館時間を延長して山荘の様々な趣向の説明してくださいました。 そして、感動~ この素晴らしい山荘を埋もれさせてはならじ! |
全体の写真は次のサイトを参考に (http://www.skr.mlit.go.jp/oozu/hijikawashucchousho/tambou/shiseki/garyuu/sisekigaryuu.htm ←素晴らしい説明のサイト)
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庭の井戸⇒一見普通の井戸に見えるが、大きな石をくり貫いて井戸枠にしている。周りは四角、中は丸。すごい! 石灯篭の傘は自然の石でその上には非常に成長が遅いぼたん苔が成長している。 |
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縁側の切落とし部分⇒ただ組み合わせているだけでなく、切落とし部分の木目が見えないように1mm程を先端部分まで伸ばしている。![]() ![]() |
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![]() 床下の見えない部分も土台の石のカーブにピッタリと基礎の木材が密着している。まるで石に木材を埋め込んでいるように見える。 |
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石垣部分⇒門を入ってすぐの土台の石垣。流れ積・乱れ積・末廣積と壁面毎に積み方を変えている。 壁面に川の流れと映る月と船をあしらった面はお洒落でした。 門の作り方、続く壁面、植栽、全てが創り込んでるのです。 ![]() |
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入ってすぐの蔵の壁と屋根⇒舟板を壁面に使っている。屋根は茅葺屋根を竹で支えているように見えるが外に見えているのは飾りの竹で実際はテコの原理で隠し柱で屋根を支えているらしい?←説明聞いたけどうる覚え。ヾ(^^; ![]() |
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厠横の手水の下⇒カエルの石が水を受ける場所に。縁も高く、落ちたら怪我しそうな廊下でした。(^^A; 手水鉢自体も「安全橋」と書いてある橋の欄干を使ってる。 高山にしか生えてない岩松も密かにはえてます。 奥に厠とお風呂があるのですが、扉や天井や壁まで凝ってありました。 おいそれと入れないよ~。 |
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茅葺屋根部分⇒南と西の屋根のひさしの高さが違うので、茅葺屋根の端が緩やかに彎曲している。西側の飾り壁も緩やかに彎曲しており茅葺なのに色気を感じるのが不思議。 |
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西側飾り壁部分⇒外から見ても趣向を凝らしているのがすごい。 内側から見ると、中の障子に川の流れに浮かぶ筏と川面に散る桜の花びら(楓だったかなぁ?)が夕日でオレンジ色に映るように設計されている。 感動ものです。 ![]() |
一番有名な「不老庵」の捨て柱! 何がスゴイって、生きてる木を柱に使ってるのです。屋根を支える柱から枝も葉も出ているのが判ります?![]() |
「不老庵」の縁側は肱川に張り出してます。不老庵の1/3が肱川の淵に張り出しています。庵の床を支える柱は数メートル下の河原から数本の杉が生えているままに(のように見える)使っています。このは実際は死んでるのですが、河原の部分には根が広がった状態で使っています。 他にもこの不老庵の見所は沢山! 室内の写真は撮れないのが残念ですが、竹を編みこんだ天井はドームの用に曲面を作り、川面に映った月の光を天井の竹に反射させて室内の薄明かりを取る工夫まで驚くばかりです。 ![]() ![]() |
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案内してくださった上田さん 他にもたくさんの素晴らしい物がありましたが、写真に撮るのを忘れてしまいました。 生きている槇の木(葉が茂っている木)が柱に使われているのが一番驚きました。 竹の使い方も様々で、日本建築の粋の集合体みたいな山荘でした。 上田さん たくさんのお話ありがとうございました。 |
臥龍山荘の記(上田和道さん著)
昭和三十一年九月三十日亀山公園と共に市の名勝地として 市の文化財に指定している 又昭和六十年三月愛媛県有形文化財に指定される 山荘の自然の景勝は四季に亘って夫々の風趣があり 時には絢爛華麗に 或いは明淨閉寂の気をたたえる等 筆舌では尽きない景致である。
城下町大洲東端の清流肱川畔随一の景勝地である、臥龍の淵に臨み神楽山を背景とした約三千坪が臥龍山荘である 東と南に冨士山 亀山公園 梁瀬山 肱川 如法寺河原を借景とした典雅な景観を展開している 臥龍の歴史については詳らかではないが 文禄年間に藤堂高虎の一族である渡辺勘兵衛は 私宅にして此処に庭園を作った 後に三代藩主加藤泰恒公は天資風流を好んでこの地を愛し吉野の桜とか龍田のかえでを移植して風情を加えたという その後歴世の藩主は時に臨んで遊賞したが、補修することもなく次第に荒れていった。
明治三十年頃河内寅次郎氏は この地を購入して現在の如く建築と庭園等の格好を整え昭和五十三年三月二十日二代目河内陽一氏が市に寄付され現在は市において管理している。
臥龍山荘は木蝋と絹の交易で富を得た河内虎次郎が明治四十年に完成させた 設計は京都の茶室建築家八木甚兵衛氏の手になるもので その施工には京都千家十職が参加している 全体の構成は神楽山 梁瀬山 亀山公園 冨士山 肱川をうまく借景しながら不老庵 臥龍院 知止庵が配置されている借景庭園である。
臥龍院は茅葺寄せ棟の草庵風の風情があるが 内部は書院風で装飾をも取り入れて花数寄の典型的な作風 肱川の景をとりいれ、その水面の反射を天井に反射させる不老庵の天井や、庭の自然木をそのまま土台や柱に利用するなどまさに自然と共生する傑作といえる。 桂離宮や修学院のおだやかな庭園と異なり臥龍山荘はきわめてけわしい自然の景観の中に建っている。自然の岩山、積み上げた石積みといった半自然とそうして塀や建築といった人工物をたくみに融合して すばらしい自然と建築を生みだしている。勘兵衛のつくった庭園は大幅に改造されていると思われるが その庭園の石材などの材料をそのまま利用している。
臥龍山荘の建物は明治中期以降のもので時代的には古いものではないですがわが国伝承の建築の上から見ると臥龍院は書院造りの格調を失わずしかも数奇屋造りの風雅さを保ち両者を巧みに調和させている 名工たちの技工と相埃って 地方稀なる名建築である。不老庵は卓抜な着想のもとに建てられて自然と建築の相互をはかり見事に成功したものであると思われる。わが国建築学の権威黒川紀章は 臥龍院については桂離宮にも修学院離宮にもないもうひとつの日本建築の典型で、それは多分に民家の要素をもっていることからくる力強さであろうと、不老庵については 利休の草庵を超えるもう一つの数奇屋の傑作といってもよい、侘数奇屋に対して花数奇屋と呼んでもよいような力が溢れていると絶賛されている。 数寄屋建築の多い中にあって臥龍山荘は真の技術的に高度で美学的に価値の高い建築であると市の文化財として永く保存したいものであると黒川紀章さんは云っておられる。
臥龍山荘の庭園は神戸の庭師 植徳さんが十年を費やして築庭したもので植徳さんは大洲の地において他界されたと聞く
石積は(流れ積)(乱れ積)(未広積)と適所随所に施工していて 山荘は大名庭園的要素も含んでいて現代人の好みを蒲足させてくれる。 それは庭に語りかけるものが多いところにあるものと思われる 尚山荘の建物と庭園とは密接な関係のもとに建設されていると思われる。 庭の飛び石には 大阪の淀屋雁五郎の庭石で手まり石、十ヶほどあるげんだ石とか銘石ぞろいと云われている。 苔は十種類ほどあり京都も苔寺に比し劣らぬものがある。
毎年 二、三月頃萌え出ずるころは美しい。 また牡丹(ボタン)苔は100年ほどの年月を要するが山荘では七、八十年で生育する。
苔にも蘚苔類の科は日にも水にも強いと云われる(蘚苔類:茎のあるミズ苔とかスギ苔)と云われる。
臥龍院の入口の軒下に揚げてある額は宇治萬福寺二代目住職昂非箏(花は開く太平の春)入り口は農家の土間を思い出す 。入り口から土間への竹を敷きつめた縁を経て迎礼の間を通ずる縁側は文庫に通じ迎礼の間の正面の襖戸は濡れ縁を経て食堂に通じる(壱是イッシの間)は書院をもつ格式のある表現となっている。庭の景色も十分に計算され(借景)ている。 壱是の間の天袋及び袋棚の引き手は九世中川淨益の作品、 床の間は藩公を迎えるため一段と高く そうして広く作ってある 書院の透彫の鳳凰は 十五代駒沢利斎の作 両側のそで板は屋久杉で約三千年生のもの化石となっており削るのに二年の歳月を要した 固くて鉋の刃がすぐに折れるという
床下には三味線の胴のように漆喰で四方を塗り備前焼の壺が四方に三個づつ全部で十二ヶ埋めてあって音の反響をよくし能舞台となっている(清吹セイスイの間)夏の部屋で水を象徴し涼しさをあらわすように工夫してある 天井は高く欄間の細工は花筏 水玉 菊水といずれも透かし彫り十五代駒沢利斉の作
始定の間(仏間)との境に雪輪窓があるさやの間と廊下の境に巾一メートル五十センチの大戸がある 杉板に芭蕉にバラの花と山雀ヤマガラの絵 又裏絵は竹に雀の絵が配してある 鈴木松年画縁塗りは中村宗哲引き手は中川淨益 、 廊下は桂離宮の様式をとりいれ飾り釘は銅製で高麗止め障子戸 天井板も桂離宮のは横一線である 明かり窓は桂離宮のは 臥龍山荘は日月火水木金土の内大きく火水木金は小さく散らしてある
(霞月カゲツの間)この部屋は 利休七人衆の筆頭の古田織部の弟子京都大徳寺の塔頭タッチュの一つ玉林院にある小堀遠舟の作品を模したと云う、 仏間の横に円窓があって明かりをともすと月をあらわし違い棚が三段あって霞を表現 これを名付けて霞月カゲツの間と云う 襖は鼠色 引き手は蝙蝠 暮色の感を出す。
(知止庵)知止の由来 中江藤樹が家老 加藤玄藩へ年賀の挨拶に行ったおり 庭の枝木に鶯が止まっている情景を見て知止、 人は止まるところを知らないのは不幸となる止まるを知る人生を歩むようにとの教えである。 知止の扁額は十代藩主泰済公の筆による。知止庵の茶室、二畳の間の部屋の壁の下張りには茶方日記の一部が張ってある。 三代藩泰恒公が皇室の名代(知恩院の門跡)を徳川家で迎えるとき接待役を命じられた、そのときの接待が記されている。
山荘から臥龍島に橋がかけてあった(籐雲橋)欄干の橋の名書 神戸治和号の主人の幹旋で当時在住の中国人中随一の能筆家が書きしもの潜龍洞も同人
(不老庵)不老庵は 肱川を望む傾斜地に建つ自然木を柱に利用し また自然木を枝付きのまま捨柱として軒を支える 切りぱなしの縁甲板 網代天井(竹)は肱川の水面から反射した光を利用して室内を明るくする意図であるという 欄間の隅を曲線とする工夫がきわめて現代的な感覚を感じさせる。
不老庵は敷地の端 肱川を眼下に眺める位置に巧みに作られている 乱石積みの石垣から半分迫り出して配置されている。
不老庵の横のお水屋は三畳の間で 洞床の床柱は桜の皮付きで 落掛は南天のねじれた古木を用いている。
(以上、H16年11月に上田さんから戴いた説明書を転記しましたので、誤字などお許しを。 協力者:小豆島在住大工の伊谷さん)