夜に舞う女

 厳が待ち合わせの場所に姿を現したのは、約束していた時間の十五分ほど前のことだった。
 太陽は西の空、錆びた手すりの向こう側、はるか彼方、水平線の上。
 真っ赤に世界を照らす様はあの女あいの瞳と髪を思い出させた。
 その焼ける世界の真ん中にあゆは立っていた。
 錆びた手すりを背もたれに、長い栗色の髪を夕方の潮風になびかせている姿を、厳は素直に美しいと思った。
 それは彼女の額に二本のねじれた角が伸びていたとしても、一分も損なわれることはない。それどころか、その角すら美しいとすら感じるほど。
 スクーターを展望台の入り口に止めると、厳は鍵を付けっぱなしにしたままでスクーターから降りた。
 たすき掛けに背負ったゴルフバッグを背負い直して、改めて女の方へと顔を向ける。
 それとほぼ同時くらい、横を向いていた女の顔もこちらへと向いた。
 少し逆光で見づらいと思ったが、彼女は何かに驚いたかのようにその大きな目を一杯に大きく見開いた。
 しかし、それも一瞬だけ。
 すぐにフッと力を抜いた微笑みを浮かべると、彼女は厳が五メートルほどの距離にまで近づいたところで、彼女は口を開いた。
「遅かったじゃない?」
 その言葉に厳は足を止めて答える。
「遅刻はしてないと思うけど?」
「私は二時間前からここにいたの」
「……すげーな、電話が掛かってくる一時間以上前に来いってか?」
「ふふ……あの女は? 赤毛の」
「連れてきてない……あいつ、日のあるうちは出歩けないらしい」
「ふぅん……私は鬼で、アレは吸血鬼?」
「さぁな……それに、あいつがいたら、ろくに話も出来ないだろう? 腕、噛み千切られて、だいぶん、頭にきてるみたいだし」
 厳の言葉に少しまた笑うと、彼女は左手を指鉄砲にして自身の左のこめかみに押し付けた。
「私も頭ががんがんして割れそうだよ……ねえ、おにーさん、名前は?」
「不動沢厳」
「ふぅん……」
 厳の名乗りにあゆは少しの間口を閉じる。口元に手を押し付け、うつむき、考えるような仕草。そのまま、数秒沈黙したら、一つの言葉を言った。
「ゲン君」
「厳君は辞めろ」
 即答すれば女は小首を歩く捻った。
「なんで?」
「辞書を引いたら解るよ」
「辞書? どんな字だよ?」
「厳しいって書いて厳だよ、メモしとけ」
「りょーかい……って、引くチャンスあるかなぁ……? だって、今から、私、厳君に殺されるんでしょ? ねえ、どうやって私を殺すつもり?」
 妙に明るく緊張感のない言葉。
 その言葉に自身が憮然とした表情になるのを感じながら、厳は応えた。
「……ひとまず、話がしたい」
「私はしたくない」
 にべもなく、女は応えた。
 そして、彼女はすっと手を上げ、人差し指で厳を指さし、言った。
「ゴルフバッグ……この後、打ちっ放しに行くって訳でもないんでしょ? アイアン? ドライバー? それとも金属バットでも入れてきた?」
 女の嘲笑うかのような言葉に、青年は背負っていたゴルフバッグを下ろした。
 藤乃が持って来たゴルフバッグは牛革調の合皮で出来た筒に肩紐が付いたような簡単な形だ。その上部にあるジッパーをじっ! と音を立てて開くと、中に入っているのは一振りの日本刀。それを中から取りだした。
「あっ……」
 それを見た女が小さな声を立てた。
 眉をひそめている女を一瞥。左手に鞘を持った厳は、右手で柄を掴んで、ゆっくりと抜いて見せた。
 刃が半分ほど夕暮れの空の下に現れ、西日に照らされた白刃がきらめき、厳の網膜を焼いた。
 そのまばゆい光の向こう側で、あゆは少し皮肉そうに頬を歪ませる。
「それ……見覚えある。あいつが持ってた奴だ。盗ったの?」
「拾ったの、それも友達が。それを借りてきた」
 チンッ……と音を立てて、彼は刃を鞘の中に納める。
 そして、腰のベルトとズボンの間に突き刺したら、改めて、女の顔を見やった。
 逆光に照らされて、女の表情はどこか捕らえにくい。
 おそらくは微笑んでるのだと思うのだが……
 影の中に微笑む女が言う。
「ふぅん……あいつ、それで私の肌を刻みながら犯るのが好きだったよ」
 どこか他人事のように言う女の言葉に、青年はあの男の顔を思い出す。どこにでも居るような、ただのサラリーマン……って感じの男の心の闇を教えられたというか、なんというか……心底胸くそ悪い男を思えば、我知らずに、言葉こぼれる。
「……サイコ過ぎる……」
「女を痛めつけないとたないんだってさ、ちょっと笑える。ふふ……それでまた切り刻まれるのかな? その前に厳君の頭が私に殴られて潰れるのかな?」
 日はずいぶんと落ちてしまって、もはや、女の表情はこの位置からはよく解らない。ただ、呟く声の調子だけは、どこか淡々としていて、他人事のよう。
 一歩、女が近づく。
 一歩、青年も近づいた。
 少しだけ見えた表情は、能面のように無表情。それでいて、額の角を含めて美しく見えた。
 能面のように整った女がぽつりと尋ねた。
「……紹介したいとか言ってた幽霊は? その辺に漂ってたりするの?」
 尋ねる女に厳は軽く首を振り、そして、答ではなく、質問を返す。
「……なあ、本当に堀田さんの妹を殺そうとしたのか?」
「殺そうと? あの子、まだ、生きてるの!?」
 大きめの声が聞こえた。
 跳ね上がる女の顔、大きな瞳がいっそう大きく見開いていた。
 その表情を睨み付けながら、彼は答える。
「ニュースになってた……意識不明の重体、だから、堀田さんは病院だよ」
 驚きの表情は消え、代わりに浮かび上がるのは能面のような冷たい表情。
「そう……テレビ局だか新聞だかも暇なんだね?」
 そこまで言ったら、女の能面のような顔の口がゆっくりと開いた。
 それはまるで、整った面に浮かび上がった亀裂のようだ。
 その亀裂のように開いた唇で淡々と、彼女は言った。
「生きてたら、今度はしっかり殺して上げるね。女の肉は嫌いだけど、お腹を引き裂いて、内臓ホルモンを取りだして、一つずつ、味わいながら、殺してやる」
「…………」
 ギリッ……と奥歯を青年はかみしめ、拳を握る。
 その青年を嘲笑するかのように女は言葉を続けた。
「あの女に聞いてないの? 私は男を殺して喰らう鬼だよ? もう、十人くらい殺しちゃった。その数が一つ増えただけに過ぎないのよ」
「なんでそんな事するんだよ……」
 ありきたりすぎる言葉でも、吐き出すには苦すぎた。
 そして、女はやっぱり嘲笑うかのように答える。
「女を殺さないと射精出来なくなったら、殺すでしょ? 厳君も」
「殺さねーよ!!」
 思わず叫んだ。
 夕日はほとんど沈みかけ、水平線の向こう側に半分ほど顔を出しているだけ。
 薄暮の中、いっそう暗い闇に沈んだ女はゆっくりと言う。
「厳君がそう言う身体になった時、もう一回聞くよ……もう、良いじゃん、殺し合おうよ。結果は二つに一つだよ、その業物で私をなますに刻むか厳君が私に殺されて屍姦されて喰われるか、結果はどっちかしかないよ」
 そう言って女はもう一歩踏み込んだ。
 大きめの一歩。
 厳が素手で殴ろうと思ったら若干遠い距離ではあるが、彼女が人外であることを考えれば、もはや、彼女の射程距離であると思った方が良いだろう。
 青年は右手を腰の物へと添えた。
 その仕草に反応するかのように女呟く。
「抜きなよ……厳君が抜こうが抜くまいが、私はるよ。殺り合いながらなら話してあげる」
 結局、こうなるのか……と自嘲の念を抱きながら、ゆっくりと刃を引き抜く。
 最後まで白斬を引き抜くのはこれが始めて。
 抜いた瞬間、リン……と小さく鈴の音が鳴り、暖かい手が右手に重ねられたような気がした。
 白刃が残照を纏いて赤く光る。
 その姿にあゆはニマッと頬をゆがめるように笑う。
「素敵……惚れそうだよ、厳君!」
 厳が構えるよりも先にあゆは一歩を踏み出し、その右拳を振るう。
 腰の入った鋭いフック、それは厳本人は知らないが、愛があの時にあゆに見せた物だ。それと全く同じものを、厳の左こめかみに向けて、あゆは振るう。
 細い指を強く握りしめた小さな拳。それが空を切り裂き、見事な弧を描いて、厳のこめかみへと迫る!
 それを厳はかいくぐるように避ける。
 一秒の半分ほど前まで頭のあった空間を拳が突き破る。
 ごっ!!
 音を聞いただけで、まともに食らえば、首から上がなくなってしまいそうな拳。
 反撃をする余裕はない……と言うか、刃を振るうには近すぎた。
「ちっ……」
 小さく舌打ちをして、厳は地面を無様に転がる。
 りん……
 少し離れたところで鈴のが鳴った。
 音の鳴る方へととっさに顔を向けば、そこではすでにあゆは二激目の段取り。それも愛がみせたローキックと同じ物。低い位置ある厳の顔面めがけて、ミュールに包まれたつま先がうなりを上げた。
「やばっ!?」
 更に地面をごろごろと転がって、あゆの二激目、蹴りを避ける。
 立ち上がる暇もなく三激目も、やっぱり蹴り。
「上手、上手、上手に逃げるね」
 それもなんとか、厳が避けたところで、あゆは攻撃の手を止め、パチパチとのんきに手を叩き始めた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
 乱れた息を整え、厳は白斬を正眼に構える。
 右手に添えられた指先が甲を抓ったような感じがした。
 小さな痛みは”彼女”が怒っていることを如実に教える。
「……悪い」
 小さく答える。
「何が?」
 あゆが首を捻った。
「なんでも……――」
 答えて、一端、言葉を切る。
「ない!」
 叫んで女の胴を狙う。
 厳の実家は元々古武術を伝える家系ではあるが、今では剣道と柔道を近所の小中学生や県警のおまわりさんに教えるだけの農家だ。
 しかも、剣道は兄貴の方で、厳は柔道がメイン。まともに日本刀を握るのはこれが三回目。しかも、そのうち二回は模造刀で、残る一回は真剣ではあったが、握って構えただけ。扱うのはこれが初めてだ。竹刀や木刀では多少は練習している……とは言え、実質的にはど素人と同じだ。
 しかし……
 りんっ……と言う涼やかな鈴の音が、意識が向くべき方向を教える。
 両手を包む温かな手のようなものが、導くかのように自然と、理想の動き――兄の流麗な型や祖父の年齢を感じさせない鋭い動きをそのままトレースする。
 横薙ぎをバックステップでかわしたあゆを追ってもう一歩、踏み込んだら今度は袈裟斬り。胴薙ぎ、逆袈裟から、幹竹割り。
 二度、三度……あゆに攻撃をする暇を与えない。
「凄い、凄い。刀を持ってたらあの赤毛よりも怖いかも!?」
「うれしくねーよ!!」
 短く答えて、次の刃はあゆの左肩を狙っての袈裟斬り。
 それももう一歩後ろに下がってあゆは避けた。
 その背後には錆びた手すり。
 大きめの一歩を踏み出す。
 振り下ろした刃を跳ね上げさせれば手すりに当たる! との予想が脳裏によぎるも、右手に添えられた温かな手がギュッと厳の手を握る。
 それはまるで行けとでも言わんばかり。
 その感覚を信じて厳は横に白斬を振るう。
 きんっ!
 澄んだ音が一つ響いた。
 まるで乾ききった小枝のように手すりは断ち切れた。
 しかし、断ち切れたのは錆びた手すりだけ。
 とっさに宙を見上げれば、そこには自身の頭の上を舞うあゆの姿。真っ白いニットに残照を浴びて宙を舞う姿は、寝床へと帰る鶴のよう。
 体重を感じさせない舞い。
 馬鹿正直に青年は見惚れてしまう。
 瞬間、頭の中で今までに無いほどに大きな音で鈴の音が鳴る。
 リンッ!
 その音と同時に着地を決めたあゆが大きく一歩を踏み出し、右拳を振るう。
 目の端にそれを捕らえた刹那、厳は埃塗れのアスファルトの上を転がるように逃げていた。
 ごっ!
 空気が破裂したかのような音が鼓膜を振るわせる。
 さっきよりも更にシビアなタイミング、中途半端に伸びた髪が、拳が巻き込んだ風に揺れるほど。
 クルン……と埃塗れの地面の上で一回転。
 先ほどよりかは上手によけられたようだ。
 立ち上がり、体勢を整えるのもさっきよりかはずっとスムーズ。
 再び、互いの距離が開いた。
 右手に握る白斬の切っ先が届くか届かないか、一足に飛び込み、その凶悪な力を有する拳を叩き込めるか叩き込めないか……
 太陽はすでに水平線の向こう側。微かに残った残照だけが展望台を赤く照らす。
 潰れたドライブインしかない展望台には、外灯の類いはない。
 日が沈めば頼れるのは月明かり、星明かりだけになる事は、先日の青姦時に知った。
 もうすぐ、ここは漆黒の闇に沈む。
 その沈む夕日に目を細めながら、あゆは言う。
「大学入って、初めての合コンの後にさ……そこで知り合った人にここに連れてきて貰ったんだよね……星と夜景と真っ黒い海が奇麗だった……」
「へぇ……」
「で、犯らせるか、ここから歩いて帰るか、どっちでも選べって、言われた」
「…………あんた、本当、男運、悪すぎないか?」
「手すりを握らされて、後ろから犯されてる間中、ずっと、宝石をばらまいたような町の光と、星の瞬く空と、その空との境目の見えない海とを見てたんだよ。冗談みたいに奇麗だなぁ〜って思ってた……んで、素敵な彼氏が出来たら、絶対にここに連れてきて、思い出を書き換えようって思ってたの」
「ご招待いただき、光栄の至り……」
「あはは、うんうん。楽しもう? セックスも殺し合いも変わらないよ、先に逝った方の負け? 勝ちかな? どっちにしても、一緒に逝けたら最高だよね」
 彼我の位置が入れ替わったからか、先ほどよりもずいぶんとあゆの表情がよく見える。
 屈託ない笑み。それは額から角が生えてるのに、そして、殺して食うと言われてるのに、それでもなお憎みきれないほどに美しく、愛らしい笑み……だからこそ、彼女の狂気が透けて見えるような気がした。
 そして、女はまた笑って言った。
「この間、お店でシタ時は逝った振りだからね?」
「そうだと思ってた!」
 迷いを振り切るように大きな声を上げて、厳が踏み込む。
 二度三度、刃を振るう。
 やっぱり、一度も当たらない。
 しかし、あゆのパターンって物も見え始めてくる。
 要するに、二−三回バックステップで避けたら、厳を飛び越して後ろから殴りつける。
 厳が攻めてる限り、この一点張り。
 単純と言えばこの上なく単純。
 単純ではあるが、それでも白斬の警告がなければ頭を吹っ飛ばされてても不思議ではないほどに、その単純な攻撃は鋭く疾い。
 時間が経つほどに残照は薄くなり、空には星が瞬き始める。
 休みなく白刃を振るい続ける腕が重くなってきた。
 息が上がる。
 冷たい夜風を吸い込んだ肺が痛い。
 一方のあゆ。
 厳の方へ悠々と向ける顔は、シニカルな笑みを浮かべたままだ。
 特に疲れているような様子は見えない。
 夜目はどうなのだろう? 愛は効くと言ってたはずだ。
 どちらにしても長丁場になれば不利になる一方なのは間違いないだろう。
 すぅーーーーーーーーと、細く息を吐く。
 肺の中に残ってる空気、最後の一欠片まで吐いたら、同じように息を吸う。
 その様子を見ながらあゆは楽しそうに笑い、そして、言う。
「ふふ……厳君、人間だった頃に出会えてたらさ、ここでデートしたかったね」
「相手にして貰える……って思えるほど、うぬぼれてないよ」
「あはは……大丈夫、今なら骨の一片まで愛してあげるよ」
 言った瞬間、女の身体がぱんっ! と弾けた。
 気づいた時には女の血の香りが鼻腔をくすぐるほどの近距離。
 直後にぶん回すような右拳を避けられていたのは、それが来ることを十分に意識付けされていたから。
 しゃがみ込み、彼女の脇を通り抜けザマに刃を握ったままの右拳で女の脇腹をぶん殴る!
 殴った……と言えば聞こえは良いが、実際には夢中になって振り回したげんこつが脇腹にあたっただけって言うのが実情。普通の人間ならばともかく、化け物相手へのダメージなんて期待出来るはずもない。
 しかし――
「あっ! ぐっ!!」
 うめき声を上げて動きを止めた。
「えっ?」
 当てた方が驚くような反応。
 思わず、足を止め、脇腹を押さえてうめくあゆの姿を見やる。
 あゆが顔を上げた。
 角の生えた額には玉のような脂汗、眉をへの字に曲げて、しかめた顔は苦しそう。
 その顔が、にまぁ……と歪むように笑った。
 りんっ!
 白斬の警告は時すでにおそし。
 顔を上げ、距離を詰めたあゆの右拳が厳の脇腹を狙って振るわれる。
 当たったのは彼女が狙ったであろう脇腹ではなく、そこを庇うように下ろされた左の肘。
 みしっ! と嫌な音が肘とその奥にあるあばらから響く。直撃ではないが、肘よりもあばらの方が激しく痛む。それは、決して小さくないダメージがそこに与えられたことを教えていた。
「あはは、騙されてやんの」
 女が顔を歪め、いやらしい笑みを浮かべる。
 痛むあばらを押さえることもせず、額に脂汗を流しながら、厳は言葉を絞り出す。
「そのわりには、辛そう……だよな?」
「気のせいだよ」
「嘘吐け!!!」
 痛みをふるい落とすかのように大声を上げると、彼は大きく足を踏み込み、胴を薙ぐ。
 それをあゆは幾度目かになるか解らない宙への舞いにて回避しようと試みた。
 だがしかし、それを彼女のあばらが許さない。
「くっ!」
 踏切の瞬間、女の顔が歪み、動きが止まる。
 ざくっ!
 心地よい音共に白斬の切っ先が女の身体を捕らえる。
 胴体ではなく、右の肘、そして、左の手のひら……
 右の肘が胴を庇い、左の手が肘に刺さった刃を掴む。
「捕まえた……あはっ、男の人に言う方が良いよね?」
 そう言って女はニマッと笑った。
 がっちりと骨に食い込んでいるからか? それともあゆが刃を掴む力が強すぎるからなのか? いくら柄に力を込めても刃は引くことも押すことも出来ない。
 それどころか、下手なことをしようものなら、白斬を奪われてしまいそうなほど。
「くっ……」
 声が漏れる。
「……楽しい」
 女もぽつりと漏らした。
 答える余裕はない。
 引くことも押すことも出来ないなら、中途半端なことをするよりも力一杯押してやる。
 そう決めて、青年は全身の力を刃に込める。
 その判断を正しいと言うかのように温かい手にも力がこもる。
 ぴしゃっ! と女の左腕から生暖かい血があふれ、厳の服を赤く染める。
「くっ……」
 痛みに女がうめき声を上げた。
 互いに一歩も引けない、命がけの押し相撲。
 すでに当たりは当たりは真っ暗、西の空、水平線のほんのわずかばかり上の辺りにだけ、残照が残っていた。
 長い均衡……
 ふと、それまで厳を捉えていたあゆの視線が彼の頭上へと動いた。
 それと同時に、ミチッ……と嫌な音と嫌な感触と共に刃が女の骨へと食い込んだ。
 そして、響く、小さくも良く通る声。
「……うちの妹、起きたよ」
「えっ?!」
 あゆが呟いた瞬間――
 さくっ……まるでつっかえ棒が外れたかのように厳の体が前へとつんのめり、全力を込めていた刃があゆの腕と胴を薙いだ。
 薙いで、しまった。

 肘を切り落とされた女の右腕がピシャッ! と血の音を立ててアスファルトの上へと落ちた。
 厳の全身全霊の力を受け止めていた骨が真っ二つに両断されれば、ため込まれていた力が一気に解放される。
 そして、解放された勢いのままに、その切っ先は深々と女の体内へと切り込み、内臓をえぐる。
 手の中に生まれるイヤな感触、反射的に止めようとするが止まる物じゃない。
 切っ先がざっくりとあゆの少し太めの胴に深々と食い込み、そのまま、真一文字。
「かはっ!!」
 あゆがうめき声を上げた。
 真一文字に切り裂かれた胴体から、ぼたぼたと肉の塊があふれ出し、アスファルトの上に飛び散る。
 それが内蔵だと気づくのに数秒の時間が必要だった。
 訳も解らず、後方、斜め上へと顔を上げれば、史絵が冷め切った表情で厳とあゆの二人を見下ろしていた。
 その見上げた視野の下部ギリギリ辺りにきらっと光る物が見えた。
 愛の愛車、ハイエースのヘッドライトだ。
 大きなライトバンはヘッドライトをこちらに向けて、入り口付近、厳のスクーターの隣にその足を止めた。
 そして、愛が後部座席、スライドドアーから飛び降りてくる。
 運転席側からは藤乃だ。彼女が運転してきたのだろう。それは良いけど、バイトはどうしたんだろう? とか、余計なことをぼんやりと考える。
 りんっ……と鈴の音、それと同時にドサリ……と背後で何か重たいものが崩れる音がした。
 慌てて振り向き見れば、あゆが腹から大量の血を流して崩れ落ちていた。
 群青色のアスファルト、狭い範囲をヘッドライトが照らし出す。その照らされた範囲に赤い血がゆっくりと、広がって行っていた。
 その血の海の中、跪いたあゆがポツポツと呟くように喋る。
「あはは……負けたぁ……でも、お店の時には私が逝かせたから……一勝一敗……」
 跪き、血の気の失せた顔で、あゆは厳を見上げる。
 ざっくりと切り裂かれた腹を両手で押さえているが、そんな事であふれ出した血まみれの大蛇のような内臓が納まるはずがない。そもそも、押さえてる腕だって無傷ではないのだ。右腕は肘から先がなくなってるし、左の方も手のひら真ん中くらいまでしかなく、残りは内臓の海の中に転がっている。
 そして、どこかに忘れていた肘とあばらの痛みを、厳は思い出した。
 その痛みの中、これ以外になかったのか? と厳は今更ながらに考える。
「よくも、うちの妹にあんなことをしてくれたね?」
 静かに史絵が呟いた。
 その史絵をあゆが見上げる。
 どうやら、今のあゆには史絵の姿が見えているらしい。
 いびつに頬を緩めて、鬼姫は幽霊に言った。
「あんな所じゃなきゃ、もっとしっかり殺してやったのに……」
「…………」
 史絵が厳の隣へと着地した。
 するりと冷たい霊気の指先が厳が握ったままの白斬を掴み、奪い取る。
 有無を言うことは出来ない。
 ちゃきっ……と小さな音がして、あゆの首筋に刃が押し付けられた。
「花穂はあなたのせいで死にかけたの。身体から魂が抜けて、危うく、あっちに逝くところだった」
 無表情のままに史絵はそう言う。
「残念」
 嘲笑うかのようにあゆが答える。
 愛と藤乃も厳のそばへと近づいた。
 しかし、三人とも声を発することは出来なかった。
 ふっ……史絵の目元から力が抜けて、彼女の顔が笑みに変わった。
「……おかげで沢山話が出来たよ……」
「えっ?」
 きょとん……とした表情を見せるあゆに史絵は少し楽しそうな笑みを浮かべて、言葉を続ける。
「花穂のバカがあんな車通りの多いところで、あなたの腕を掴んで押し問答したのも悪いよ。突き飛ばしたところに車が来たのはただの偶然だし」
 史絵はどこか楽しそうに話を続けるが、あゆはすぐに顔をうつむけ視線を逸らす。
 鬼が視線を向けた先には、彼女自身の真っ赤な血液。たらたらと流れて止まる所を知らない。
 そして、あゆは苦々しそうに言葉を絞り出した。
「………………許してなんて要らない」
 しかし、史絵はやっぱり笑みを浮かべて答える。
「うん……許さない。許さないから、うちが止めを刺す。そして、一緒に逝ってあげる……」
 冷たい風が一陣舞った。
 あゆの長い栗色の髪が夜風に舞う。
 そして、あゆが顔を上げて、尋ねた。
「……ねえ、あなた、名前、堀田……史絵だっけ?」
 尋ねた顔はどこか穏やかで晴れ晴れとした物になっていた。
 それにやっぱり穏やかで晴れ晴れとした顔の幽霊が答える。
「うん、そうだよ。あなたは赤木佐和子さんだよね?」
「親の名字も親が付けた名前も嫌い。だから、自分で決めたあゆって呼んで欲しい……源氏名、だけどね……」
「ありがとう、あゆ。最後の時までうちのこと、気にかけてくれてて……」
「ありがとう、史絵。私のために怒ってくれて……ああ……でも、私、きっと地獄行きだから、史絵とは一緒の所に行けないな……」
「うちも謝ってあげるよ。食べちゃった人にも閻魔様にも」
 そう言うと、史絵は首だけを振り向かせ、厳に微笑みかけた。
「――って訳だから、不動沢君はあゆの命になんの罪悪感も持たなくて良いよ。そもそも、うちもあゆもとっくに死んでる人間だし……」
 あゆは顔も上げず、呟くかのように言う。
「……ありがと……」
 誰に言ったのか解らない礼の言葉、そして、あゆはもうひと言だけ付け加えた。
って……」
 史絵の握った剣がすっと音もなく、あゆの首筋を切り裂いた。
 ぷしゃっ!
 頸動脈を的確に白斬が薙ぎ、大量の血が流れる。
 大きく広がるアスファルトのシミ。
 ゆっくりとあゆの整った顔から血の気が抜けていく。
 それと呼応するかのように彼女の額に延びていた角が干涸らびるように細くなっていき、最後にはコロン……と二本とも抜けてしまう。
 抜けた角を厳が拾い上げると、それはまるで朽ち木のようにぱらぱらと砕け、粉となって、冷たい夜風に流れていった。
 それは角だけに留まらず、あゆの身体その物にまで及んでいくようだ。跪いたままのあゆの身体がぱらぱらとひび割れ、崩れ、そして、夜風に舞って流れていく。
 まるで、彼女の存在をこの世界がかき消そうとしているかのように。
 砕け散るあゆの身体を見下ろして、愛が小さく呟く。
「……良かったね……」
「不動沢君……」
 振り向きもせずに史絵が厳を呼んだ。
「なに?」
 答えると史絵は白斬を握った手をすっと肩までまっすぐに上げた。
「……花穂に退院したら連絡を取るように言ってるから……その時はよろしく。長い間……って言っても一週間くらいかな? すっごく楽しかった」
 白斬を受け取りる。
 切っ先から血が滴り落ち、そして、血煙と化して蒸発する。
 濃密な血の香り……
 そして、厳は鞘に収める。
 チンッ……と小さな音が夜の展望台に響いた。
 その音を合図に、史絵は振り向き、言う。
「お盆には帰ってくるかも」
 やっぱり、野暮ったいけど、どこか惹かれる笑み。
 そのまぶしい笑みに頬を緩めて、彼は答える。
「来なくて良いよ」
「これも連れてくるから!」
 そう言って彼女は崩れかかっている茶髪をペチン! と軽く叩いた。
 瞬間、微笑みを浮かべて崩れようとしていた顔が跳ね上がる。
「ちょっと!? なんで!?」
 真っ青に血の気が引いてるのは、腹と首からあふれた血が血煙となって蒸発しているから……ではないだろう。
 そのチアノーゼ気味になった上に、おそらくはどんなリップクリームでも修復不可能なほどにひび割れた唇が言葉を紡ぐ。
「わっ、私、関係ないし!!」
 されど、その隣に立つ幽霊は平気な物。
「せっかく、地獄の蓋も開く初盆だよ? 毒親の所に帰りたいの?」
「それだけは絶対に嫌! って、あっ!? ちょっ、ちょっと!!」
 ぱらぱらと崩れ落ちる身体は止まらない。
「じゃあ、二人で不動沢くんちにやっかいになろうよ。って訳だから、お彼岸の精霊馬は二組お願いね!」
 軽い口調で言う史絵に、厳は「またか……」と不思議な気分で苦笑い。
 そして、軽く肩をすくめて、彼は言う。
「へいへい……仏花と陰膳も二組な……」
 されど、史絵の性格を初めて知ったあゆはそれどころではない。身体はドンドン崩れ落ちていくし、あたふたと慌てれば慌てるほど、言葉は出なくなっていってるようだ。
 そんな彼女がなんとかこの世に最後に残せた言葉は――
「史絵のバカ!!!!!」
 ――だった。
 そして、完全に崩れ落ちるあゆの身体。
 最後に見せたのは泣いてるような、笑ってるような、怒ってるような……どうとでも取れて、そして、今まで一番魅力的な表情……
 その顔もポフッと小さな音を立てて地面に落ちると、粉々に崩れて、冷たい夜風に舞って消えた。
 その灰の中から小さな光の玉が一つ……
 ニコッと笑って、史絵はその光の球を胸に抱くと、そのまま、厳に背を向けた。
 そして、彼女もまた、小さな光の玉となって、夜の空へと消えていく……
「お疲れ様……」
 その光の球の行く末をいつまでも見ていた厳に、藤乃が声をかけた。
「……ありがとう……それと、愛……悪かったな、心配、かけた」
 応えて厳は納刀した白斬を藤乃に手渡す。
「例は白斬と山田さんに……私は何にもしてないよ」
 そう言ったのが藤乃、帰ってきた白斬をその大きな胸にギュッと抱き締め、目を閉じる。
 そして、愛がぶっきらぼうに応える。
「…………悪いと思うなら懲りろ…………」
 そう呟く愛の視線はじゃれ合うように夜空の何処かへと消えていく二つの光に向けられていた……

 花穂が退院したのはその日から一週間が過ぎた日の事だった。
 医者はもう少し経過を観察したがったようだが、どうやら、本人が早く退院して学校に行きたいとごねたようだ。
 それで結局、ゴールデンウィーク開け五月六日の退院が、実家に戻っても定期的に通院するという条件下で認められた。
 そして、退院したその日の夜、花穂は厳の元に電話を掛けてきた。
 もちろん、番号を教えたのは史絵だ。
『あっ……本当に不動沢……』
 ってのが第一声だった程度には疑って掛かっていたようだ。
 その電話で、厳は翌日に花穂と会うことにした。
 二人きりというのはさすがに気が咎めるし、藤乃も話がしたいというので、彼女も同席。
 待ち合わせ場所はバイト先のすぐ傍にある喫茶店。例の男に追いかけられた時、藤乃が逃げ込んだ店だ。
 夕暮れ時。花穂が史絵の部屋を引き払い、荷物を実家へと送り返す手はずを取り終え、そして、自宅に帰るための最後の電車が出るまでの短い時間を、三人はそこでの話し合いに当てることにした。
 隅っこの余り目立たない席に座ると、開口一番、藤乃が花穂に頭を下げた。
「お姉さんの話、あの時、本当のことを話すべきだったんだけど……」
「良いんです……まさか、姉が死んだだけじゃなくて、幽霊になってふらふらしてたなんて、未だに半信半疑どころの騒ぎじゃないくらい信じられませんから。でも、あの夢の中で姉が教えてくれた番号に電話をしてみたら、本当に不動沢さんが出て、姉のことも知ってたってなると、信じるしかないですよね」
 そう言って、花穂は少しだけ寂しそうに笑って見せた。
 あの夜、彼女は一度脳死に近い状態になったらしい。
 その時、身体から抜けた彼女は史絵と出会ったそうだ。
 そして、誰も居ない病院の屋上で二人だけの対話。
 何を話したかは姉妹だけの秘密……幼い頃からのどーでも良いけど、どうしてもわだかまっていたことを互いにぶちまけてみたり、文句を言い合ったり、礼を言い合ったり……他者から見ればくだらなかったり、馬鹿馬鹿しいであろう話を、ずいぶんと長くしたらしい。
「体感的には何日も話し続けてたような気がするくらいです」
 でも……
「結局、姉が何を考えてるかなんて、解らないんですよね……自分が一年も不登校してたのは棚に上げて、私には学校に行けってうるさくて……解ったのは、姉が私を凄く愛してくれてたことと、私もそれに負けないくらい姉が大好きだって事くらい……」
 落ち着いた声と口調でそう言うと、藤乃も静かな声で尋ねた。
「これから、どうするんですか?」
「姉が死んだことはまだ受け入れられないです。でも、姉が死んだことを受け入れないと、あの時、話し合ったことがただの夢になってしましますし……ね」
 そう言って言葉を切ると、彼女は手元に置かれていたアイスコーヒーのグラスを手に持った。
 うっすらとリップを塗った唇にグラスの薄い飲み口を当てて、多めのミルクとガムシロップが入れられたアイスコーヒーを喉へと流し込んだ。
 そのカップをペーパーコースターの上に戻すと、彼女は再び、口を開いた。
「姉が死んでる……とはまだ思えません。でも、姉を捜すのも辞めます。夢の中の姉が望むとおりに学校に行って、勉強して……大学に……姉と同じ大学に行こうかと思っています」
 花穂は複雑な表情を浮かべてそう言った。この短期間で起こった事への現実的な対応がしきれていないのであろう事が見て取れた。
 それでも、前向きに生きようとしている姿勢は、幽霊になってもどこか明るかった史絵を思い出させた。
「ああ……その時は大学を案内するよ。大学の傍に美味いイタリアンの店があるんだ」
 コクン……と小さめに頷き、厳が言えば、隣に座る藤乃は茶化すような口調で言葉を続けた。
「うちの方が公立で偏差値も上だよ?」
 藤乃の冗談に花穂は少しだけ頬を緩めて答えた。
「あはは……でも、姉が通いたかった学校に通ってみたいです……」
「そうね。もう、三年生でしたっけ?」
「はい。大事な時期なのに……って姉にはずいぶん言われました。自分はゴールデンウィーク明けに始まった生理痛が二学期の期末まで治まらなかったくせに」
 頬を膨らませて花穂がぼやくと、厳も藤乃も声を出して笑った。
 そして、最後に花穂が尋ねた。
「……不動沢さん……不動沢さんと暮らしてる間の姉は……どうでしたか?」
「泣いたり、笑ったり、贅沢言ったり、わがまま言ったり、楽しそうだったよ。幽霊のくせにいつも表情豊かでさ。ああ……でも、家族のことになるとずいぶん取り乱してたかな……」
 迷うこと無くそう答えると、花穂は満足したように笑みを浮かべて見せた。
 そして、深々と頭を下げると、彼女は二人に言った。
「そろそろ、駅に向かわないと……母も待ってますし……」
 そう言って、彼女は三人分のコーヒー代が書かれた伝票を持って彼女は席を立った。
「あっ、払いますよ」
 藤乃が腰を浮かせば、花穂は軽く首を左右に振ってみせる。
「今朝、姉の部屋で姉のへそくり、見つけたんです。場所は姉が教えてくれたんですけどね」
 そう言って彼女はハンドバッグの中からよれよれの封筒をちらっと出して見せた。
 諭吉さんが一人。どうも、史絵が『いざという時のため』にベッドのマットレスの裏にガムテープで貼り付けてたそうだ。
「だから、姉からの傲りで……良いと思います」
 花穂の言葉に厳と藤乃は互いの顔を見合わせ、コクン……と小さく頷き合った。
 そして、三人は店を出た。
 ゴールデンウィークも最終日、日の長さはずいぶんと長くなっていて、夕方と言っても良い時間帯なのにまだまだ外は明るい。商店街を行き交う人々もどこかのんびりとして足取り……
「それじゃ、今日はありがとうございました」
「ごちそうさま……また、何かあったら、連絡、下さい」
「ううん、こちらこそ……お母様によろしく」
 花穂の言葉に厳と藤乃が一言ずつ返して、互いに頭を下げ合った。
 そして、花穂は振り向き、商店街の出口へと足を向ける。
 厳と藤乃は、彼女の後ろ姿が人混みに紛れ、消えるまで静かに見送った。
「まあ……俺も今でもひょっこり帰ってきて、頭の後ろをふらふらしてそうな気がするんだよね……」
「あはは……お盆に帰ってくるって言ってたんでしょ?」
「……そうだった……」
 小さく言葉を交わして、二人はきびすを返し、バイト先の本屋へと向かう。

 そのバイトが終わった夜……厳は愛の車にゆられて、例の展望台へと向かっていた。
 今夜は愛だけではなく、藤乃も同乗。普段は潰してある後部座席に座って、開け放したカーテンからぼんやりと外を眺めていた。
 あの日以降、ここに来ることがなかったのは、折れたあばらが辛かったから……ってのが半分で、残り半分はやっぱり、史絵がいなくなったことを厳自身、今ひとつ、受け入れられずにいたからだ。
「あの人のことだから、ひょっこり、顔を出しそうな気がするんだよなぁ……」
 駐車場に止まった車から降りると、あの夜と同じく、満天の星を見上げてぽつりと呟く。
 その手には小さな花束。
「なんで、桜なの? ちょっと時季外れでしょ?」
 そう言った愛の右腕はすっかり治って、言われても彼女の右腕が肘から先がなくなっていたなんて事は解らないほど。その右手で夜風になびく赤毛を押さえていた。
 その愛の顔を一瞥、軽く肩をすくめて厳は答える。
「来年、桜を見に行こう……なんて、言ってたんだよな、あの人……来年まで居座られてもたまらないけどさ」
「……量が少なくない? なんか……寂しいよ」
 眉をひそめて藤乃が言えば、厳はそっぽを向いて、ぽつりと答える。
「思ってたよりもずっと高かった……時季外れだし」
「……罰が当たるよ?」
「あゆのはきつそうよね」
 気恥ずかしそうに言葉を漏らす厳を、史絵と愛が口々にはやした立てれば、厳はちょっと切れ気味に言う。
「うっさい! 二人とも理解してくれるに決まってんだろう!?」
 深夜の暗い展望台に二人の女性の賑やかな笑い声と、青年の憮然とした怒鳴り声が響き渡る。
 そして、彼らは錆びたフェンスの傍へとやって来た。
 ちょうど、フェンスの縦軸が奇麗に三本、斜めに断ち切れてる辺り。厳が白斬でたたき切ったところだ。直す人はおろか、壊れてることを知る者すら余り居ないであろう事が想像出来た。
 その傍に立つと厳は花束の根元に巻かれてあった紐をほどき、ビニールの包装紙を剥がした。
 花の咲いた桜の小枝が五本ほど。
 それをフェンスの向こう側に差し出したら、満天の星が輝く夜空へと顔を向けて、彼は言う。
「それじゃ、堀田さん、あゆさん……あっちで仲良く……相変わらず、二人とも行方不明扱いで、お墓も位牌も作って貰えないと思うけど、たまにはここに手を合わせに来るから、勘弁してよ……」
 そう小さな声で呟いて、パッと桜の小枝を手放す。
 真下から吹き上げてくる夜の海風に桜の花びら巻き上げられ、満天の星が輝く空に踊る。
 いつまでも……
 

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