壊れた女

 その日、あゆは朝からずっとベッドの中でごろごろしていた。
 起き上がる気になれないって言うのが、現実。
 蹴っ飛ばされた顔は落ち着いて来ているようだ。潰れた鼻、腫れた目元、裂けた唇辺りは奇麗になっている。言われなければ、あの馬鹿力で蹴っ飛ばされたことなど解らないほど。
 幼い頃から身に負ってきた様々な傷とその直り具合から考えるに、今の身体は冗談のように治りが早い。
 それでも、折れたあばらは痛いし、何より、頭がずきずきする。
 もしかしたら、脳みその方に何かのダメージがあるのかも知れないが、不思議と『ほっとけば治る』という確信にも似た予想をあゆは持っていた。
 そもそも、屍肉を食まなきゃいられないような脳みそ、とっくの昔にぶっ壊れているの決まってる。これ以上悪くなったところで、大して変わらない。
 もっとも、バイトの方は二−三日は休まないとダメだろう。今の状況で男のチンポをしゃぶる気には慣れない。食欲もない……なんて事を考えれば、むしろ、今の方がまともなのかもしれないと思い至り、苦笑いがこぼれた。
 そんな感じのことを考えながら、ベッドに寝転がってごろごろと天井を見上げる。
「○×▲……×××……!! ※△■!!!!」
 外からなにやら声が聞こえた。多分、お隣に誰か来てるのだろう。
 お隣に住んでた大学生、それは帰ってきたその日に殺して喰らった男だ。もう、顔も良く覚えてない。その彼の部屋に知らない男や女がやって来ては、肩を落として帰っていく姿を最近、よく見る。家族か友人が捜しているのだろう。あゆの部屋にも話を聞きに来たが、もちろん、知らぬ損ぜぬを決め込んだ。
 特に罪悪感は感じなかった。
 むしろ、報われない行為に失笑してしまうほど。
 もしかしたら、自分の中に人間へのシンパシーや同族意識みたいな物がなくなっているのかも知れない。
 じゃあ、誰とならシンパシーや同族意識を持つのだろうか? と痛む頭で考えてみる。
 最初に思い浮かんだのはあの赤毛の女だった。あの血のように赤い髪と赤い目を見た瞬間、あれがまっとうな人間、否、まともな生き物ですらないかも知れないと直感した。
 自分と同じ“物”だと理解した。
 確かに同族なのだろうが、むしろ、敵。
 同族かも知れないが、そこにあるのは同族意識よりも同族嫌悪だ。
「ああ! もう、思い出したら、頭、痛くなってきた……寝よ……」
 ごろん……と寝返りを打って、女は目を閉じる。
 頭の痛みは全く納まらない。
 その痛む頭の中で、一人だけ……一人だけ、思い浮かんだ。
 太い眉の、化粧っ気のない、野暮ったい顔の女性……
(もう一回だけ……会いたいな……無事だったら良いのに……)
 そう考えながらも、もう一つの冷静な心が、無理だと教える。
 それが何よりも辛い。
 そして、枕元に転がしてあった電話が鳴った。

 あの客に電話番号を教えたのは、彼を食べたかったからだ。
 昨日の客は外ればかりで、食指の動く男は居なかった。おじさんとか、根暗そうなオタクっぽい学生とか。
 そんな外れの一日、最後のはしに回ってきた予約客だけはそこそこの当たりと言ったところ。
 引き締まった筋肉質な体付き、生命力にあふれた身体は美味しそう。
 特に胸板は仕事中にもかかわらず、噛みつきたくなるのを我慢するのが大変だったほど。
 それからペニスも十分なサイズ、入れながら食べたらきっと素敵。
 妙に緊張してたのも初々しくて、好感が持てる。
 あの手の店に来る男としては精液が薄いような気がしたが、意外と、回数いけるタイプのよう。仕事中は逝けなかったが、騎乗位でまたがって、首を絞めて殺せば、死んだ後もしばらくはったままでいてくれるだろう。そしたら、屍肉を食みながらの屍姦だ。
 それを考えただけで、下腹部が焼けるように熱くなる。
 しかし、蓋を開けてみればあの赤毛女の回し者。しかも、何をとち狂ったか、あゆが化け物であることを知った上で会いたいという。
 自殺志願者なのだろうか? それとも、食人の是非でも問おうとでも言うのか? まさか、自分に惚れたとか、間抜けな話だったりしたら、面白いか?
 どれが答えにしても酔狂な男であることに変わりは無い。
 ここ数日で餌以外の理由で、男に興味を持てたのは初めてだ。
 頭は割れるように痛いし、肋骨も軋むような痛みを訴えているが、少しはおしゃれをしてやろう……そう思って、あゆはクローゼットを開いた。
 厳しい生活費の中、爪に火をともすようにして貯めたお金の中で、少し無理して買ったニットのワンピース、白くてふわふわしているところがお気に入り。
 襟元は大きめに開いたVネック、その胸元には小さめのペンダント。ペンダントヘッドが十字架なのは嫌味が効いてる。
 丈はもちろん、マイクロミニと言うくらいだが、これにローライズのホットパンツを会わせてみる。下着は見せてやんない。
 肩から提げるのも、普段使っている安い奴じゃないちょっと良いハンドバッグにしておく。普段のバッグから財布やらスマホやらを移す。スタンガンはどうしよう……? と思ったが、昼間だからって事で元のバッグに入れっぱなしにしておく。鞄その物が一回り小さいから、入りそうにもないし……
 そして、ヒールの高いミュールを履いたら、少し早いけど、彼女は待ち合わせの場所へと向かった。
 いつもの出勤時間よりもずいぶん早いバスに揺られて向かうのは、繁華街最寄りの大きな駅。
 車窓を流れる空は真っ青。気持ちよく晴れていて、どこまで高い。一足早い五月晴れ。
 ずきずきと痛む頭を車窓に押し付けて、あゆは流れる空と景色とをぼんやりと眺める。
 眺めてるうちに少し寝てたのだろうか? 気づけば目的のバス停の一つ前。
 慌てて、ブザーを押すと表示板に『次、止まります』の文字。
 そして、数分……
 プシュッと圧縮空気が抜ける音が聞こえて、ドアが開く。
 慌てて席を立ったら、運転手に定期を見せて、女はバスを降りた。
 思っていたよりも暖かな空気があゆを包む。
 心なしか頭痛も出た時よりかはマシになっているような気がした。
 バス停を降りるとすぐ傍には電車の駅がある。
 繁華街傍と言うこともあって駅は少し大きめ……とは言っても、他の無人駅に比べればマシと言った程度の、地方私鉄のありふれた駅だ。
 少し歩けばすぐに新しく出来た太い国道に出ることが可能だが、ここ自体は車道と歩道の区別もないような片側一車線の県道だ。
 その細い道を、バス停を降りたあゆはのんびりとした足取りで駅、そして、その向こうに商店街へと向けて歩き始めた。
「すいません……すいません……」
 ふと、一人の女性が目にとまった。
 黒髪を丁寧に整え、控えめではあるがしっかりとしたお化粧、年の頃は高校生って所か? そんな子が切羽詰まった表情でチラシを配っている。
 どうも行方不明の家族を捜しているようだ。
(私が食べた人だったりして……)
 もし、そうだったとして、それをこの子に喋っちゃったらどうなるんだろうか? 怒るのか、泣くのか、それとも呆けるのか?
 想像するとサディスティックな快感に頬が緩んだ。
 もちろん、そんな事はしない……が、どんな男を捜しているのか、それだけが少し気になり、女はその女子高生の方へと足を向けた。
 チラシはごくごく自然にあゆの目の前に差し出された。
 そのチラシにあゆの視線が落ちた瞬間、彼女の足が止まった。
 眉毛は全く手入れした様子もなくて太いまま。とりあえず、茶髪にしてみたけどよく解んないからほったらかしてますって感じの見事なツートンプリンカラーの髪。一重のわりには大きな瞳、薄色の唇、化粧っ気もほとんどないみたい。
 そんな調子の顔なのに、なのか? それともそう言う調子の顔だからこそ、なのか? 写真の中で微笑んでる顔は妙に愛嬌があって、人を引き寄せる。
 そんな野暮ったくも磨けば光りそうな女子大生がそのチラシの中で笑っていた。
 その見覚えのある姿に、あゆの手がカタカタと震える。
 そして、あの時のことが……奇麗さっぱり忘れていた最後の記憶が鮮明に頭に蘇った。

「絶対に殺してやる!!!! お前なんて許してやる物か!!!!! 殺されても殺してやる!!! 絶対に!!! 絶対に!!! この人の命の報いをお前に償わせてやる!!!!!!!!」

 彼女は泣きながらそう叫んでくれた。
 それをあゆは遠ざかる意識の中で聞いていた。
 誰かが自分のために泣いてくれて、そして、怒ってくれている。
 それだけで、クソのような人生が、少しだけ、救われた気がした。
「……大声を出さないで……殺されちゃう……」
 そう言いたかった。
 しかし、頭を強く打ったせいだろうか? 口はろくに動かなかった。
 パクパクと打ち上げられた鯉のように口を開けたり閉めたり……それだけが精一杯。
 それすらも時間の問題。
 あの赤眼の化け物――餓鬼に噛み千切られた左足と、突き落とされたときに打った頭から、あふれ出る血が止まらない。体中がドンドン冷たくなっていくのを感じる。
 もしかしたら、頭から流れ出てるのは血以上の物だったのかもしれない。
 そして、階段から男がゆっくりと降りてきて、女の体に血の腐ったような匂いを放つ液体を、また、かけた。
 瞬間、女の身体に無数の牙が突き刺さり、肉を切り裂き、喰らっていく。
 不思議と痛みはなかった。
 もう一人の女性が何か言ってるような気がした。
 でも、もう、何も聞こえない。
(絶対に……死なない……殺されてやらない……殺されてやるものか……! あの子のためにも、生きてやる!!)
 パキン……と骨が砕ける音が聞こえ、耳の奥で誰かが何かをすする音が聞こえ始めた。
 それがあゆが人間であったときに聞いた最後の音だった。

「姉のことをご存じなのですか!?」
 白昼夢からあゆを引き戻したのは、あの時に聞いた声とよく似た女性の声だった。
 そして、あゆはこの時、ようやく、あの時の女性が『堀田史絵』と言う名であったことを知った。
「あっ……しっ、知らない……」
 うめくように答えるあゆの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
 頭痛がいっそう強くなる。
 割れそうだ。
 そう言えば、あの時に、逃げ出そうとして駆け上った階段、そこから突き落とされた時、階段でぶつけたのも、左のこめかみの辺りで、そこはあの赤毛女にぶん殴られたところであったか……?
「お願いです! なんでも良いから、教えて下さい!!!」
「しっ、知らない……私、急いでるから……人が、待ってるの……」
 あの子の妹を名乗る女性があゆの白いニットの袖にすがりつく。その表情は必死の形相。今にも泣いてしまいそうだ。きっと、なんの情報も得られてないのだろう。
 だって、あの子はきっと殺され、そして、あの赤い目の化け物に喰われてしまったから。
 それを彼女に言えばどうなるのだろうか?
 先ほど感じたサディスティックな快感とは全く正反対の感情があゆの心を満たした。
 同時に、彼女の目からまた涙がこぼれた。
「本当になんでも良いの!! たったひとりのお姉ちゃんなの!! 意地悪しないで!!!」
 そう言った彼女は泣いていた。
 泣いて彼女はあゆの……鬼姫の腕にすがりつく。
「知らない!!! 私は何にも知らない!!!」
 そう言って鬼姫は、腕にすがりついた女子高生を懸命に振り払う。
「本当に! 本当になんでもいいんです!! 姉は!? 姉は生きてるんですよね!?」
「知らないってば!!」
 何度目かの押し問答の後、あゆは彼女の腕をふりほどくことに成功した。
 そして、ほとんど反射的に、彼女の身体をどんっ! とあゆは押していた。
 あゆの手は軽くねじっただけでドアノブすら引きちぎる。
 そんな人外の力で、女子高生の身体をふりほどき、そして、突き飛ばした。
 突き飛ばしてしまった。
「えっ?」
「あっ!」
 彼女の妹――花穂とあゆ、二人の間抜けな声がお昼過ぎの県道に小さく響く……も、それは次の瞬間にはかき消された。
 どんっ!!
 たまたま、通りがかった軽自動車が花穂の身体を跳ね飛ばす。
「きゃぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
 悲鳴を上げたのはちょうど駅舎から出てきた中年の女性。
 他の車が急ブレーキをふむ音。
 真っ青に晴れ上がった高い空の下、アリのように多くの人間がせわしなく動き始める。
 それをあゆはぼんやりと、どこか、他人事のように見つめる。
「救急車!!」
「動かすな!! 頭を打ってるかも!?」
 様々な声が女の周りでわき上がる。
 そして、誰かがあゆの腕を掴んだ。
「おい、あんた! あの子と揉めてたろう!?」
 サラリーマン風の男があゆの腕をねじり上げていた。
「知らない!」
 そう言って、男の腕を無造作にふりほどく。
「ぎゃっ!?」
 短く野太い悲鳴が聞こえたが、それがあゆの耳には届いてない。
 瞬間、女はアスファルトの地面を強く蹴っていた。
 ふわっと身体は浮かび上がる。
 頭から血を流し、赤い軽四の前で倒れ込んでる花穂の姿を足下に見る。
 そして、女は駅舎の壁面を軽く蹴ると、その人だかりから少し離れたところへと着地を決めた。
「知らない……私は知らない……私のせいじゃない……私が悪いんじゃない……」
 そんな事を呟きながら、まるで自分に言い聞かせるように呟きながら、女はしゃにむに走っていた。
 何人もの男をむさぼり食った鬼の姫は、鬼になって始めての罪悪感に涙を流していた。

 愛からの奇妙なメッセージを受け取り、厳が愛の部屋に帰ってきたのは夕方の五時少し前という時間帯だった。
 外は奇麗な夕焼け空だというのに、彼女の部屋は相変わらず、カーテンが閉め切られて陰気くさいったらありゃしない。
「あっ、藤乃も来たの? それじゃ、史絵と一緒にリビングでだらだらしてて。あっ、インスタントで良かったらコーヒーもあるし、欲しければお酒でもなんでも、キッチンにあるものならなんでも適当にやっててくれて良いから。史絵と一緒に! 史絵と一緒にそっちに居てね!」
 なんというか、取り繕っているというか、藤乃と史絵を追い出したいこと丸出しなセリフをまくし立てると、彼女は厳を自身のゲーム部屋へと引っ張り込んだ。
 昨日は奇麗だった部屋の中にはデリバリーピザの食べかすが大量。Mサイズのピザの箱が四つくらいか? それから、煮干しの袋が二つほど……多分、骨を生えさせるためにカルシウムを取ろうとか言う魂胆だろう。しかし、ピザと煮干しって組み合わせは如何なものか……なんて事を思いながら、青年は愛に言った。
「なんだよ? まさか、ゲームでもやる気か? てか、食い過ぎ」
「そんなのは良いから! これ!」
 そう言って、彼女が指さしたのは大きめのテレビ。普段はゲームが主に表示されているのであろうが、今日はパソコンの方。デスクトップには無数のアイコン、ほとんどがゲームってのが凄い。後、その背景画像が鬼平姿で見得を切ってる中村吉右衛門ってのは、趣味が渋すぎる。
「余計なのは見なくて良いの! これ!!」
 そう言って、愛は座卓の上に置かれたマウスを操作した。左手でやるのは慣れていないのだろう、さっきから、なぜか、繰り返し、ポップアップメニューを出している。
「落ち着けよ……」
「落ち着いてるよ!」
 数回の失敗の後、表示されたのは小さな事故の記事だ。
「なんだ……近所の記事だな……交通事故? えっと……突き飛ばされた女性、軽自動車に跳ねられ意識不明の重体……被害者は……堀田……花穂さん……なんだよ……? これ……」
 読むうちに顔から血の気がひいていくのを自分でも理解することが出来た。
「さっき、ローカルニュースでやってたの! それで、テレビのニュースなんて録画してないから、こっちで捜したんだけど……どっ、どうしよう?」
 もう一度、画面の方へと視線を向けた。そこには花穂は病院に搬送されたとの文字。しかし、意識不明の重体の文言と並んでいれば、全く以て、安心は出来ない。
「どっ、どうしようって教えないわけに行かないだろう? どこに担ぎ込まれたんだ?」
「あっ!? 今! ツテを使って捜させる」
 愛が青い顔で答えれば、厳はコクンと小さく頷いた。
 そして、青年はパタパタと部屋の外に出向く。
 向かう先は二人が居るはずのリビングルーム。そこに入れば、ソファーに座ってコーヒーを飲んでる藤乃、膝の上にが抜刀された白斬が蛍光灯の明かりに照らされ、鈍色の光を放っていた。
 その隣にはフヨフヨと浮かんでる史絵の姿もある。
「どったの?」
 気安く尋ねたのは史絵の方。
「あっ、えっと……堀田さん? 良く落ち着いてね?」
「地に足は付いてないけど、落ち着いてるよ?」
 なんでこう言うときに冗談を言うんだ? この人は! と言う理不尽な怒りが頭の中をよぎるも、深呼吸で心を落ち着け、彼は言う。
「妹さんが怪我をしたみたい。今、愛が入院先を調べてる」
 がたん……と小さな音がしたかと思うと、藤乃が手にしていたマグカップを床に落としていた。
 肉厚なカップだったからか割れてはいないようだが、残っていた褐色の液体が床の上に広がっていく。
 それは厳や藤乃の足下、靴下にまで流れてきて、二人が履いてる靴下をその色に染めていく。
「どっ、どうしてかなぁ? どうして、花穂がけっ、怪我、しちゃってるのかなぁ?」
 凍り付いたままの表情で彼女は言葉を呟くように尋ねる。どこか笑っているような、泣いているような、驚いてるような……様々な感情が入り交じった複雑な顔をしていた。
 その顔をまっすぐに見つめながら、青年は努めて冷静な口調で答える。
「どうも、彼女は堀田さんのチラシを配ってたみたい」
「だっ、だって、帰るんじゃなかったの!? 週明けから、学校に行くって!!!??」
「だから、だから……祝日きょう土曜日あした日曜日あさってまで……ギリギリまで、チラシを配りたかったんじゃ……」
「なんで、そんなバカな事するの!? それで、なんで、怪我したの?! どうして!?」
 顔色をなくした幽霊が、生きてる青年に詰め寄り、そして、矢継ぎ早にまくし立てる。
 その史絵から視線を逸らして彼は答えた。
「理由は分からないけど、誰かに突き飛ばされたみたい。女と揉めてる所を見られてるって。今、警察がその人を捜してるみたい」
「……許さない……絶対に……絶対に、許さないから……」
 小さな声で呟く史絵の言葉に厳はぞくっとした物を感じた。
 怒気を孕んだ大声を出してるわけでもない、地団駄を踏んでるわけでもない、目つきが恐ろしくなったわけでもない。ただただ、彼女が纏っている空気が冷たい物に変わっただけ。
 もしかしたら、これが殺気という奴なのかもしれない。
 肌を切るような空気に声をうわずらせ、言葉を続ける。
「落ち着いて! ともかく、落ち着いて……ね? 今、愛が搬送先を調べ――」
 必死に紡ぐ言葉が別の声によって途切れた。
 発したのは開けっぱなししてたドアから飛び込んできた愛だ。
「中央病院! 市役所の横のとこ! ICUに入ってるって!」
「行ってくる!」
 ふわっ! と史絵の身体が消えた。
 そして、部屋にしばしの沈黙……
 最初に声を上げたのは、訳も解らずに凍り付いていた藤乃だった。
「……あっ、ごめん、山田さん、マグカップ、落としちゃった……」
「ううん、それは良いんだけど……」
 ソファーから立ち上がる藤乃に愛が「雑巾なら脱衣所」とひと言声をかけた。それに藤乃は軽く首肯し、その場を後にした。
 そして、厳は藤乃が立ったばかりのソファーへと腰を下ろす。
 彼女の温もりがほんのりと残るソファーの座面、もっとも、それを意識するほどの余裕はない。
「それで……あの女とは会えたの?」
 不意に愛が尋ねた。どうも、すっぱりと忘れてしまっていたらしい。
 もっとも、それは厳も同じ。左右に首を振って、彼は答える。
「いいや……連絡もなしにすっぽかされた。携帯にも出ないし」
「あら、すっぽかされたんだ? お疲れさん。それが良かったのかもね? 藤乃もお疲れ様。厳の面倒ごとに巻き込まれて大変だね」
 部屋に入ってきた藤乃に愛が声をかけた。
 彼女の手には白い雑巾とプラスティックの小さめなバケツが一つ。
「久しぶりにドーナッツを堪能できたのが嬉しかっただけだよ……でも、花穂さん、大丈夫かな……?」
 ソファーに座り込んだ厳の足下、四つん這いになって藤乃が床を拭き始めた。
 邪魔にならないように足を持ち上げると、靴下の裏が少しコーヒーに汚れていることに、改めて気づいた。その靴下を脱いだら、彼はソファーの上に体育座りをするような座り方をする。
 そして、四つん這いの藤乃を見下ろし、呟く。
「大丈夫なように祈るしかないよ……」
「そうだね……」
 話をしているうちに床は奇麗に拭き終わった。
 そこに藤乃がぺたんと腰を下ろし、愛もそのすぐ近くに腰を下ろした。
 そして、愛が藤乃に声をかけた。
「これから、どうするの?」
「今日? バイト。ホントは史絵さんが戻ってくるまで、待ちたいところだけど、そういう訳にもねぇ……」
「厳は休みだっけ?」
 藤乃の拭き掃除が終わったのは良いのだが、その足下に藤乃と愛の二人が座り込んだせいで、足の下ろし場所がなくなってしまった。
 その行き場をなくした素足を指先で軽く撫でながら、厳は愛の言葉に答えた。
「休みだよ……一端、帰るかな……?」
 厳がぼんやりと応える。
 と、その時、胸ポケットに押し込んであったスマホが小気味良いポップソングのインストゥルメンタルを奏で始めた。
 半分無意識のうちにスマホをポケットから引っ張り出して、青年はディスプレイの表示に目をやった。
 そこに書かれているのは『あゆ』の文字。
「あっ……あの女だ……」
 ぽつりと呟いた瞬間、愛と藤乃に緊張感が生まれ、厳の方へと視線を向けた。
 その二人が口を開くよりも先に厳が耳元にスマホを押しつける。
「はい」
『おにーさん? ごめん。ちょっと事故やっちゃって……』
「あっ……大丈夫?」
 あゆの言葉にほとんど反射的に厳が答えると、電話の向こうから、少し自嘲気味の笑い声が聞こえた。
『あはは、大丈夫もクソも私、鬼だよ? おでこから二本の角が生えて、おにーさんの彼女の腕を噛み千切るような化け物相手になんの心配をしてんだよ?』
「あっ……いや……そうなんだろうけど……じゃあ、なんで来れなかったんだ?」
『うーん……まあ、ちょっと、色々……』
 言いづらそうに言葉を濁しているのが、電話越しにもはっきりと伝わってくる。
 それを追求することもなく、青年は言葉を発した。
「ふぅん……じゃあ、別の日にする?」
『……別の日……ねえ、おにーさん、なんで、私にそんなに会いたいの? セックスしたいの? でも、食われるよ?』
「……なんでそういう話になるんだよ……人を紹介したかっただけ」
『人?』
「ああ……あゆさん……いや、佐和子さんだっけ? 本名、赤木佐和子さん」
『あゆでいいよ。親の名字も親に付けられた名前も嫌い』
「じゃあ、あゆで……あゆさんってさ……拉致られて、レイプされて……それで、殺された……のか? 殺されて、鬼になったんだよな?」
『……なんで知ってるの?』
「色々……込み入った事情があるんだけど……――」
 厳はそう前置きすると、史絵にもしたのと同じ話をあゆに語って聞かせた。
 相変わらず話すのは余り上手ではないが、それでも史絵にも同じ話を一回しているだけあってか、若干はスムーズに話をすることが出来た。特に話しちゃいけないような話を引っ張り出さずに済んだのは上出来と言えるだろう。
 そして、一通り話し終えると、最後に史絵にはする必要の無かった話を付け足した。
「……――それで堀田さんは死んで幽霊になって帰ってきたんだよ……あんたも鬼になって帰ってきたんだから、似たような物だろう? その堀田さんはずっと、あの時、自分の目の前で殺された人のことを気にかけてたんだよ。せめて手を合わせて、冥福を祈るときの名前だけでも知りたいって……」
 青年がそこまで話すも、彼女からの返事はない。そもそも、話してる間も相づちすら打たない感じで、時々、聞いてるのか、聞いてないのか、不安になるほど。電話が切れたのかと思ったくらい……だが、不安になるタイミングで「聞いてる」とだけ小さく返事をしてたから、聞いてるはず。
 しかし、今回の沈黙は今までよりもちょっと長め。
「おい……」
『……聞いてた』
 か細い、そして、妙に遠い声であゆが答えた。
 されど、それ以上の言葉はない。
 そして、更に一分ほどの待ち時間……の後に彼女は――
『あははははははは!! バカみたい!』
 声を上げて笑った。
「なんだよ!? 堀田さん、あんたのこと、ずっと気にしてたんだぞ? 家族にも弔って貰えないって!! あんたのこと!」
『余計なお世話なのよ!! 家族!? あの淫売どもが?! 私の!? ああ、家族かもね! 私も売女ばいただし!! そー言えば、あの子の妹が駅前でチラシを配ってたよ!! ぶっ殺してやったけど!!』
「お前が!?」
『そーだよ、私には家族なんて居ないのに、あの子にだけ家族が居るなんて、ズルいから、ちょっと突き飛ばしてやったら、車、来て、跳ねられてやんの!!! どんだけどんくさいのよ!!?? あはは、ねえ、堀田さんとやら、そこに居るの? あんたの妹は頭から脳みそあふれ出させて死んじゃったよって伝えておいてよ!!!』
 狂ったように笑ったかと思うと、女は一息にまくし立てる。それは厳に口を挟む余裕すら与えないほど。
「お前、一体、何者だよ!?」
『化け物だよ!! あんたの女よりもずっとずっとずっとずっと何倍も何億倍も!!! 人間辞めた化け物だよ!!!! だから、どうしたって言うのよ!! 弔いなんて要らない!! 私は生きてる! 生きて死を振りまいき、屍肉を食んでる!!!』
「じゃあ、俺がぶっ殺してやる! 弔いが必要なようにしてやる!!!」
りなよ! 望むところだよ!!! 青野山あおのやまの山頂!! 展望台!! 六時!! 待ってるから!!!』
 そう言って、女は一方的に電話をたたき切った。
「はぁ……はぁ……」
 通話が終わり、SFアニメの戦闘機が宙を舞う壁紙と数個のアイコンが表示されるホーム画面に戻った。
 そのスマホの表面を厳は肩で息をしながらに見つめる。
「何に……怒ってたの?」
 藤乃がおそるおそる尋ねた。
「……堀田さんの妹さんを突き飛ばして、居なくなった女……ってのはあの女らしい。自分でそう言った」
「なっ、なんで?!」
「……さぁな……?」
 藤乃が上げた素っ頓狂な声に厳は軽く首を振るだけで応える。
 そして、愛が尋ねた。
「あの女、どこに居るの?」
 いつの間にか床から立ち上がった愛が、ソファーに座ったままの厳を見下ろして尋ねた。
 赤い瞳が細く冷たく光って、厳を見下す。
 妙に落ち着いた頭が、キレてるな……とどこか他人事のようにささやく。
 そのキレた愛を見上げて、厳は答える。
「聞いてない……が、六時に待ち合わせ……」
「六時だと私、付いていけない!!」
 愛が悲鳴にも似た声を上げた。
 そう言えば、六時だとまだ残照が残ってるなぁ……なんて事をぼんやりと考える。
「せめて、八時にして貰ってよ!!」
「今更だろう? そもそも、付いてこいとか、言ってない」
「ふざけないで!! この腕、見なよ! 私でこれよ!? 厳なんて、骨一本残さず、喰われるのがオチじゃない!!」
 そう言って愛はタオルに包まれた右腕をかかげて見せた。タオルは変えたようだが、新しい血痕が滲み出ていて、それだけでも十分に痛々しい。
「大声、出すなよ……いや、なんか、様子もおかしかった気がするし……多分、なんとか、なる気がする……」
 うすらぼんやりとした口調で、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしている愛の顔を見上げながら、厳は言った。
 特に根拠があるわけでもないが、消え入るような声とその後の沈黙、そして狂ったような高笑い……どこかおかしい気がした。
 しかし、それはとてもではないが、愛を納得させられるような物ではなかったらしい。
 彼女は厳の胸元を左手で掴むと、無造作に、そして、無理矢理、ソファーから立ち上がらせた。
 持ち上げられる荷物の気分。
 ソファーの上で持ち上げられたら、床に足が付く高さ。逆らうことなく、厳は愛の目の前に立つ。
 そして、厳の胸と愛の胸が触れあうほどに密着したら、互いにまっすぐに目を見つめ合った。
 静かに沈黙が続く。
 先に声を出したのは愛の方だった。
「……出掛けられないようにしてやろうか? 足の骨の一本でも折れば、出掛けられないでしょ? 大丈夫、腕の良い外科医を知ってるし、治るまで上げ膳据え膳に下の世話まで全部してあげるから」
 淡々とした口調はそれが決して嘘でも冗談でもないと判断するに十分な代物。
 しかし、厳は静かに答える。
「ふざけんな、バカ」
 再び、愛が厳の胸ぐらを掴んだ。
「バカはあんただ、ふざけてんのもあんただ。片手一本でも厳には負けないから」
 厳も負けじと愛の腕を掴む。
「やれよ。這ってでも行ってやる」
 そして、横から第三者の声が響く。
「山田さん、不動沢君」
 声の方へと顔を向ければ大上段に白斬を構えた藤乃の姿。
「さーん、にーい、いーち」
 どう聞いてもカウントダウンの言葉に喧嘩してたことも忘れて、愛と厳が同時に同じ間抜けな声を上げる。
「「えっ?」」
 呟き、二人は一とゼロのわずかな隙間で、あの白刃がどこを狙っているかを理解する。
 瞬間、愛は厳の胸ぐらを掴んでいた手を離し、厳は愛の腕を掴んでいた手を離す。そして、張り付くほどにひっついていた二人の身体も飛び退くほどの勢いで離れた。
 もっとも、飛び退いたのは愛だけで、厳の方はソファーの上に尻餅をつくような感じ。
 と、そこに――
「ぜろ!」
 びゅんっ!
 心地よい音を立てて、白刃が振り下ろされた。
 厳の膝上三センチでぴたりと止まる白斬。
 背中に冷たい物が流れるのを感じながら、厳は言う。
「こえーよ! 桃林さん!」
「何考えてるのよ!? 藤乃!!」
 そして、愛も顔色をなくして言った。
「喧嘩は止めようね?」
 厳と愛の悲鳴にも似た声をにこやかな笑みだけで受け流すと、藤乃は左手に持った鞘にするりと日本刀を納めた。
 美しい所作。扱い慣れてる……とは聞いてないが、妙に堂に入った動きに厳は思わず見とれてしまう。
 その納刀された日本刀を厳の方へと、藤乃が差し出した。
「話は付いてるから」
白斬こいつと?」
「うん、だから、多分、静電気は来ないよ」
 言われて厳はソファーから立ち上がる。
 そして、彼は白斬の鞘に手をかけた。
 指先だけで触れても大丈夫だし、左の手のひらでギュッと握っても静電気は来ない。
 そして、最後に柄に手をかけ、刃を十センチほど引き出しても問題は無い。
「……ありがとう……」
 チン……と鍔鳴りをさせて刃を納め、厳は藤乃に向けて礼を言う。
 そして、藤乃が部屋の隅っこにほったらかしてたゴルフバッグを拾い上げたら、その中に納刀された白斬を丁寧に納めた。
 その背後で愛の怒声が響く。
「藤乃!!」
 その怒声を無視するかのように藤乃は厳の背中に向けて口を開いた。
「不動沢君、場所、どこ?」
「青野山の山上展望台……って言ってた。どこ?」
 ゴルフバッグを背負いながら藤乃に答える。
「……史絵と初めて会った潰れた展望台の事よ……」
 答えたのはどこか諦めたかのような表情の愛だった。
 期待してない返事に拍子抜けを感じながらも、厳は小さめの声で礼を言った。
「……なんだ……教えてくれるのか?」
「……教えなくても、どうせ、スマホで調べて行くでしょ……?」
「あはは、そうだな。じゃあ、行ってくるわ……日が沈んでから、ゆっくりと来れば良いよ」
「……この手で運転できるわけないじゃない……」
 そう言って、愛は短くなった右腕を差し上げた。
 赤く滲んだタオルが痛々しい。
「タクシーでも使えよ。じゃあ、後でな。桃林さんもありがとう。バイト、がんばってね」
「うん。それ、絶対に返してよ? 大事な物なんだし」
「うん」
 そして、厳はきびすを返し、薄暗い蛍光灯だけが照らす部屋を後にした。
 カーテンで目隠しされてた部屋から一歩出れば、すでに夕暮れ前の大きな太陽が西の空に見えていた。
 夕日……と言うにはもう少し時間が必要だが、それでもずいぶんと大きく見え始めた太陽が廊下を照らしていた。
「……見栄、張っちゃったかな……」
 呟きながらも、彼は引き返すことなく、エレベーターに乗り込んだ。

 女だけが取り残された薄暗い部屋。その中で赤毛の女が怒声を上げた。
「何考えてるの!?」
 その怒声を軽く受け流すように茶髪の女は平然とした言葉を返す。
「女の後ろに隠れてる男が魅力的か? って話だよ」
 そう言うと、藤乃は先ほどまで厳が座っていたソファーの上にすとん……と腰を下ろした。
 三人掛けのゆったりとしたソファー。左の端の方に座れば、厳の体温が残ってる部分を外して座ることになる。
 座った藤乃を見下ろし、愛はいっそう大きな声を上げる。
「私は、女みたいなナリしてても、化け物なの! ちぎれた腕も生えてくるような、化け物なの! 人間と同じ枠にはめないで!!」
 その青年の温もりが残る座面をそっと撫でて、藤乃は言った。
「でも、不動沢君と寝てるんでしょ?」
「それがどうしたの!?」
「女みたいなナリして、男と寝りゃ、それは女でしょ? 体質がどうであろうと」
「あっ……ぐっ……」
 途端に愛が言葉につまる。
 その愛を見上げることなく、厳が座っていた当たりを手のひらで優しく撫でながら、藤乃は言葉を続けた。
「少なくとも不動沢君はそう思ってるよ」
 藤乃の言葉が終わると、途端に部屋には沈黙が訪れる。
 チクタク……チクタク……どこかに置かれた時計の秒針が微かではあるが、妙に耳につく音で奏でる。
 そして、愛は絞り出すように言った。
「…………厳に何かったら、責任、とんなさいよ……」
 顔も上げず、藤乃は静かに答える。
「その時は私が白斬でその女、なますに刻んで、もう一回、餓鬼の餌にしてやる……」
 その言葉に愛が静かに応える。
「……手伝う……」

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