さて、翌日。
厳の寝起きは最低だった。
「痛い……」
頭を押さえて目覚めた源がひと言、ぽつりと漏らす。そして、身体を起こせば、がたん! と大きな音とも似テレビのリモコンが彼の額から落っこちた。
「おはよ、不動沢君、部屋ん中真っ暗だけど、いい加減起きないと、目が腐るよ?」
大きな窓ガラスの傍、遮光カーテンの合わせ目にフヨフヨと浮かんで史絵は笑っていた。その手は背後に回って、いつでもその分厚いカーテンを開けられる体勢。
「……何時?」
「八時、良い天気みたいだよ、外」
クスッと笑って史絵は回れ右。遮光カーテンの方へと向いたら、お尻を突き出し、顔を中へと突っ込む。
それはまるでカーテンから下半身が生えてるような絵柄。笑えると言うか、シュールというか、なんかのエロマンガみたいだというか……
そんなザマに苦笑いを浮かべて、青年は昨夜脱いだ服を拾い上げた。
シャツを真っ赤に染めていた血は渇いたようだ。拾い上げるとぱりぱりと血の塊が割れて落ちる。もちろん、いくら血の塊が落ちたところで、染み込んでいった分まで消えるわけではなく、白かったはずのシャツは三割方が赤く染まったぶち模様になっていた。
もう着れねーなぁ……なんて思いながら、ぽいとシャツを放り捨てる。
そして、スラックスの方。
こちらはまだ被害は小さいようだが、それでも右の太ももの辺りには、表も裏もべったりと血が付いていた。そのまま歩いていたら、注目を浴びること間違いなし。少なくとも、バイト先に着ていくのはもう無理だろう。
それでも、トランクスとタンクトップ姿で一日過ごすわけにも行かず、青年は血で汚れたズボンに足を突っ込んだ。
血が付き、ぱりぱりに渇いたズボンに足を突っ込むのはちょっと気持ち悪い。
それでも、ズボンに足を突っ込み、ベルトを締め上げながら、厳はゆっくりと口を開いた。
「ところでさ、堀田さん……」
「なに?」
「起きないからって、物、ぶつけるのは止めてね」
「ぜんしょしまーす」
と、彼女は厳に尻を向けたまま、明るい声で答えるのだった。
本日は四月二十九日、昭和の日、ゴールデンウィーク初日だ。バイトも休みで朝から晩まで一日フリーデー……と、盛り上がりたいところだが、どうにも、この部屋では盛り上がらない。
昨夜も思ったことだが、この部屋は全ての窓が厳重に遮光カーテンで目隠しされているせいで、部屋の中は日が昇ってんだか沈んでんだかも解りゃしない。陰気くさくて、こんな部屋に住んでたら、性格まで暗くなりそうだ……と思ったが、住んでるのがあの山田愛であることを思いだして、そんな事もないか……と考えを改めた。
愛の寝室の前にまで行けば、彼は軽くドアを二度ほどノック。
「起きてるか?」
控えめな声で尋ねると、中からか細い声が返ってきた。
「起きてる。入って良いよ」
中から聞こえた声に素直に従い、ドアを開ける。
中に入ると灯もついていない真っ暗な部屋……パチンと蛍光灯のスイッチを入れれば、愛が赤い瞳をまぶしそうに細めて見せた。
少し上気した赤い顔がどこか色っぽく見える。
「電気くらいつけろよ」
「ごめん、蛍光灯の灯も好きじゃないんだよ、私一人なら不便もないし」
そう言った彼女は昨日の夜に帰ってきたそのままに、ノースリーブの上着にタイトスカート姿。上半身は起こしているものの、ベッドの上に長い足を投げ出し、座っていた。
「傷は?」
「顔は治ってるでしょ? でも、腕の方はね……」
愛が言うとおり、彼女の顔は奇麗なものだ。折れて潰れてたはずの鼻は整ってるし、折れるか抜けるかしてた前歯は二本とも奇麗に生えそろっている。あっちこっちの腫れも奇麗に引いているようだ。
言われなければ、顔面血だらけだったとは思えない。
しかし、そこから視線を落としてみれば、話は別。
彼女の右腕には、昨夜、厳が置いていったバスタオルが巻き付けられていた。その白くシンプルなバスタオルには、新鮮な赤い色が浮かび上がっていて、傷がふさがっていないことが見て取れる。
「アレ……? 昨日、血、止まってなかったっけ?」
愛のベッドの上、フヨフヨと浮いてる史絵が尋ねると、その血の滲むタオルを押さえて、愛が答えた。
「……先に皮膚と筋肉が治って、ふさがった傷を、伸びてきた骨が突き破ってるんだよ……骨は時間が掛かるから……」
「うへ……痛そぉ……」
うぇっと舌を出して肩をすくめる史絵に愛は自嘲気味の苦笑を浮かべて見せた。
そして、愛は厳の方へと視線を向けた。
「こー言う化け物を抱いてたご気分は?」
自嘲的……とでも言えば良いのか? どこか寂しげな笑顔を彼女は厳へと向ける。
その寂しそうな笑みをジーッと見つめること数秒、プイッと視線を外したら、彼は答えた。
「…………堀田さんの居るところで聞くなよ、目、輝かせてんぞ?」
「ちっ」
「舌打ちすんな。それより……すぐに治るのか?」
舌打ちしている史絵を一瞥。眉をひそめてひと言言うと、そのまま、視線を愛へと戻し、彼は尋ねた。
それに愛はバスタオルを巻いたままの腕に手を当て、答える。
「指まで生えてくるのは、三日くらいかな……? それまでは、傷がふさがる、骨が伸びて、皮膚を突き破る……の繰り返し。結構、痛いし、熱も出るんだよね……今も熱が出てるみたいだし……」
自嘲気味にそう言うと、彼女は少し短くなった腕をそっと撫でて見せた。
その腕に巻いてるタオルを染める朱色のシミが大きくなった気がした。
「ちぎれた腕が生えてくるってのもすげーもんだが……一安心か……お前の話はお前の気が向いたときで良いけど、あの女、あゆだか佐和子だかって女はなんなんだ? 話せよな……」
厳が少し強めに言えば、軽くため息を吐いて愛は口を開いた。
「……ほんとはさ、片してから話そうと思ってたんけど……――」
そして、一端言葉を切って辺りをきょろきょろ。
つられて厳と史絵も辺りをきょろきょろ。
しばしの間、三人が辺りを見渡すという奇妙な風景が繰り返された後に、愛が改めて言った。
「ねえ、私のハンドバッグは?」
「知らねえ」
「あの時は持ってなかったよ」
厳と史絵が答えれば、愛は軽くため息を吐きながらに言った。
「派手なことをやるのは解ってたから、車に積みっぱだよ」
言外に取ってこいと言ってる愛に、今度は厳がため息一つ。
「……言われなきゃ、持ってこねえよ……」
と、ぼやいたところで、けが人の愛は行かせられないし、いくらポルターガイストが出来るとは言え、昼間っからそんな事をしたら大騒ぎだし……って事で、取りに行くのは厳しか居ない。
玄関から外に出れば、途端に網膜を焼くまぶしい朝日。立ちくらみがするかと思うような光に目を細めて、青年は太陽を見上げた。
そして、ぽつりと呟く。
「……餃子食って、ニンニク臭い息を吐く吸血鬼って……ねーよな……」
さて、最上階二十二階から地下まで、いくらエレベーターがあっても億劫な道のりを帰ってきても、愛は未だにベッドの上。その赤毛の女にハンドバッグを手渡したら、厳はベッドの片隅に腰を下ろした。
「ほら……」
無造作に投げ渡したら、彼女はその中から自身のスマートフォンを取り出す。
手帳型ケースに入った大きめのスマートフォン、どこのメーカーかはよく解らないがベゼルレスデザインは結構な新型スマホっぽく見えた。
そのスマホを膝の上に置いて左手一本での操作。普段は両手でやってる事を片手、それも左手でってのは難しいようだ。どうにも上手く行かないみたい。痛みなのか、気恥ずかしさなのか、はたまた、いらだちなのか、もしくはその全てなのかで、愛の表情が曇っていく。
そして、彼女はぽいと厳の方へと放り出し、ひと言、言った。
「写真、出して」
不機嫌そうな言葉と共に投げ出されたスマホを拾い上げて、厳は操作を始める。思ってたとおり、最新型のスマホ。厳が欲しかったが予算的に諦めた奴で、なんか腹が立つ。
「……見られて困る写真とかないのか?」
厳が尋ねると愛はひと言簡単に答えた。
「ないよ」
彼女が言うとおり、スマホの中にはたいした写真は入っていない。野良猫の写真とか夜景とか……夜にしか出歩かないからか、そのほとんどが光量不足で真っ暗かそれに近い代物。
むしろ――
「……全部、恥ずかしい写真だよね、ある意味」
――と、史絵が苦笑いするような物だった。
「夜の猫にフラッシュはダメなんだよ……あっ、それ」
写真を順番に表示させて言っていると、不意に愛が大きめの声を上げた。
それまでの出来は悪いが当たり障りのない写真から一転、大きめのベッドがどーんと映し出された。
もちろん、ただのベッドではない。
元々は薄いピンクだったのだろうか? 奇麗な色をしていたであろうシーツは真っ赤に染め上げられていて、水たまりのような物までもがその上には存在していた。そして、その水たまりからシーツの上を流れた赤い液体が、ぽたぽたと床に滴り落ちている様が、スティールの写真越しにでも、生々しく、感じることが出来た。
その量たるや、一人の人間から流れ出た血だとすれば、その持ち主がただでは済んでないことを確信できるほど。
「うげっ……」
史絵がうめき声を上げた。
「……ペンキ……じゃねーよな?」
厳が一縷の望みを込めて尋ねれば、愛は皮肉っぽく目元を緩めて、答える。
「そうだったら良かったんだけどね。後でシーツを見せて貰ったけど、確実に血だったし、肉片や骨片らしき物もホンのちょっとだけど付いてた」
そして、膝の上に置かれたスマホへと手を伸ばすと、スイッと画面をひと撫で。すると、今度はアスファルトの地面がぼこっ! とえぐれている写真に切り替わった。
縦長で丸みを帯びた台形の穴……とでも言えば良いのだろうか? 少しくびれているようにも見えて、何処かで見たことのあるような感じ……
その奇妙な写真と愛の顔を、厳が交互に見比べること数回。
もちろん、答えは出ない。
そして、愛がゆっくりと口を開いた。
「なんに見える?」
「……さあ?」
応えたのは厳だった。
すると愛は少しだけ頬を緩めて、言葉を続けた。
「ヒント、長さ約二十四センチ、幅は一番太いところで約九センチ」
「……もしかして、足跡?」
今度は史絵が答える番。
我が意を得たりと愛が首を縦に振り、そして、言葉を続ける。
「私もそう思った。ちなみにさっきの部屋の真下の駐車場、さっきの部屋は地上五階」
「……もしかして、五階から、飛び降りたって?」
厳が尋ねると愛はまた首を縦に振り、ひときわ厳しそうな視線を厳へと向ける。
「監視カメラにはこの部屋の客らしき人が玄関を出て行く姿は映ってなかったそうよ」
「……嘘だろう?」
思わず呟く厳の言葉に愛は少し苦笑いを浮かべ、そして、自身のちぎれた右腕を少し持ち上げ、答えた。
「私の腕を噛み千切るような相手だよ? あの
「……噛み千切られたのかよ……お前のそれ……」
眉をひそめて厳は視線を、愛の右腕からスマホの方へと移した。
「がぶっとね……あのクソ女、次に会ったらただじゃすまさない……」
痛そうに腕をさすり、愛はギリッと歯ぎしりをしてみせる。その掛け値なしにぶっ殺しそうな表情に青年は苦笑いを浮かべて口を開いた。
「……落ち着けよ、傷に響くぞ……まあ、そう言う奴なら五階からでも飛び降りるか……?」
スタンプのように奇麗な足跡、それがあゆ……いや、佐和子の細くて小さな足によって生み出された物かと思えば、背中にぞくっと冷たい物が流れていくのを感じた。
そして、愛が言葉を続けた。
「解ってるって……まあ、それで事件が一件だけならともかく、そういうのが二件三件と続いたところで、私の所に話が回ってきてね。こうなると警察はアテにならないから」
コクン……と厳は首を縦に振った。五階の窓から飛び降りて平気な顔をしている生き物相手に、警官が役に立つとはとても思えない。実際、まともな人間とはとうてい言えない愛ですら、このザマなのだ。
「それで……あの人が犯人だって目星を付けたのは?」
「半分はただのカン。残りは溺れる者が見つけた藁」
厳が尋ねた言葉に対して愛が答えると、その脆弱な根拠に青年は思わずため息を吐いた。
「……根拠なしも同然じゃねーか……それで突っかかったのか?」
その厳に愛はクスッと笑みを浮かべて口を開く。
「餓鬼に殺されたと目されてた人が帰ってきたって言うのは、ちょっと怪しいよ。それで調べてみれば、彼女が帰ってきたのは最初の血まみれ事件が発覚した当日の夜。それまでずっと無断欠勤だったのがひょっこり帰ってきて――」
「今から入れますか?」
「――よ? しかも、それまで店外デートは一切やってなかった子が、その日から急にアフターに客を誘い始めたって聞いたら、そりゃ、怪しさ大爆発でしょ? で、厳に様子を見に行かせたわけ。店の中では問題を起こしてもいなかったそうだし、店でお相手して貰う分には大丈夫だろうって思ったの」
「なんで、俺に?」
「厳、鼻が良いからね。餓鬼の匂いにも気づいてたみたいだし、そしたら、血の匂いがするって言うし、んで、最後の確定が、史絵の言ってた『ドアノブ』」
それまで厳と愛の会話を黙って聞いていた史絵が唐突に話を振られて、きょとんと愛の顔を見やる。
「ドアノブ? ああ……確かにあの人らしい人がホームセンターでドアノブを弄ってたって、言ったけど……」
「人間が化け物になるとね、力の加減がしばらく出来ないのよ。その慣れない間にいろんな物を壊しちゃうわけ。その中でもドアノブなんかは典型」
「よくあること……なのか? 人が化け物になるって事」
厳が尋ねると、愛は軽く首を振って答える。
「まさかね……ただね、餓鬼を始めとした化け物に殺された人が、化け物になる事は時々あるのよ……史絵、あなたみたいにね」
「…………」
史絵が視線を逸らす。胸元に手を当て、表情を曇らせる。
その史絵に向けて控えめな音量で愛は言葉を続けた。
「どんな身体になっても、“明日”を捨てる必要はない……でもって言うか、だからこそって言うか……どんな身体になっても誰かの“明日”を奪っちゃダメだよね……」
そう言うと愛は静かに視線を自身の手元、膝の上にかれたスマホへと落とした。
そして、彼女が口を閉じれば、他の二人も声を上げない。
愛の話した内容に現実感はない。
ただ、今までの経験、そして、何よりも……
チラリと視線を愛の右腕へと動かした。そこには巻き付けられたバスタオル、そして、そこに浮かび上がる赤いシミ。それは先ほどよりも大きくなっていて、愛は無意識のうちにその傷をタオルの上から何度も摩っていた。
その白いタオルに浮かび赤い生々しい血痕が先ほどの傷を思い出させ、彼を現実へと引き戻した。
そして、彼は言った。
「とりあえず、片手で着替えも大変だろうから、桃林さん、呼ぼうか? あの人にも説明しておかないと、バレたとき怒るしさ……」
そう言って頭をかきながら、青年は立ち上がった。
何気なく視野に入ったスラックスの血痕もどうにかしないと、帰るに帰れないなぁ……なんて事が頭をよぎる。
「着替えは厳に手伝って貰おうか?」
「不動沢君が手伝うと押し倒されるよ?」
愛が茶化した口調でそう言えば、史絵もことさら明るい口調で答える。
「あはは、それもそうか〜」
「うんうん」
そして、二人は声を上げて笑った。
「お前らね……」
蛍光灯の明かりだけが照らす寝室に青年の苦り切った声と女性の明るい笑い声が響き渡る。
それで少しだけ気が軽くなったような気がした……のは、厳一人だけではないと思いたかった。
藤乃が愛のアパートに顔を出したのはお昼少し過ぎのことだった。
「すぐに来たかったけど、これ、買いに行ってたんだよね、朝から」
ロングスカートに白いブラウス、春物の薄いカーディガン……の可愛い格好なのは良いんだが、その肩にはなぜかゴルフバッグ。その肩紐に軽く手をかけているところを見ると、彼女が言う『これ』とはそのゴルフバッグのことなのだろう。
「ごめん、他に頼れる人もいなくて……所で、何? それ」
厳が思わず尋ねると、藤乃はそのゴルフバッグを下ろしてドライバーを……ではなく、一振りの日本刀を引っ張り出した。黒塗りの日本刀は厳のことが大嫌いな白斬だ。
「これがないと堀田さんと話も出来ないし、むき出しで持ち歩けないし」
「……良く考えるね」
「まぁね〜あと、これ、頼まれた服も買ってきたよ」
「あっ、ありがとう。この調子だと出歩けなくて……」
手渡された紙袋を見てみれば濃紺のスラックスと真っ白いワイシャツ、それからレシートが一枚。ユニクロで良いのに、どーも、わざわざ、デパートにまで行って帰ってきたらしい。金額もそれなりと言ったところの値段が印字されている。
妙に金が必要になるな……なんて思いながら、財布から金を出して藤乃に支払い。
それを受け取りながら、彼女はクスッと小さく笑って、言った。
「後で山田さんに請求したら? こんな良いところに住んでるんだし、お金持ちだよ、きっと」
「はは、そうするかな?」
「じゃあ、私は山田さんの着替えと、後、身体も拭いて置いた方が良いのかな? そー言うのしてくるから、出てくるまでに着替えておいてね」
愛の寝室に入っていく藤乃を見送ったら、厳はリビングの方へと足を向けた。
遮光カーテンで目張りされた部屋に入ると、史絵が所在なさそうな表情でフヨフヨと宙に浮かんでいた。
「着替えるから、ちょっと出てってくれない?」
「ねえ、不動沢君」
「なに?」
「……わがまま、言って良いかな? 物凄い、わがままだと思うんだけど……」
切羽詰まった、今にも泣きそうな表情で彼女が言えば、彼女のわがままがなんであるかくらい、厳にだって想像することは出来た。
「………………
「解った?」
「相手は愛の腕を噛み千切るくらいの化け物だって解った上で言ってるんだよね?」
厳が言えば神妙な顔が、罪悪感に一気に曇った。
それでもなお、彼女は首肯する。
「……うん」
「………………はあ、とりあえず、着替えた後な」
軽くため息を吐いて厳が言うと、史絵はぺこり……と頭を下げて応える。
「……ありがと」
そして、彼女は部屋を後にする。
その背中を見送ると、青年は藤乃が持って来た紙袋からズボンとシャツを取りだした。ごくごく普通のスラックスにワイシャツ。ネクタイを締めて、エプロンを着ければバイト先の制服その物だが、あいにく、この場にネクタイはない。
そして、彼は一人きりになったリビングでソファーに腰を下ろした。
あの女に会いたいか会いたくないかと問われれば、もちろん、会いたくはない。
しかし、会いたいという史絵の気持ちも、少しは解る。
多分、あの時、あの場に居た二人の女にしか解らないシンパシーって物があるのだろう。それは男であり、殺されてもいない厳には絶対に解らない物だと思う。
(昼間のファミレス辺りで会えば、いくらなんでもその場で押し倒して、噛みついては来ない……よな……)
なんて事をぼんやりと考えながら、青年は脱いだズボンのポケットからスマホを取りだした。
今はまだ一時少しすぎ。上手くすれば三時か四時には待ち合わせが出来るだろうか? ぼんやりと考えながら、スマホの表面を軽く撫で、ダイヤラーを喚び出した。
スマホと一緒に取り出したメモへと視線を落とす。
そこには女性らしい整った文字で十一桁の数字が書かれていた。
その数字をダイヤラーに入力……
プルル……プルル……
呼び出し音が響く。
妙に鼓動が早くなっていくのを彼は感じる。
プルル……プルル……
まだ、出ない。
プルル……プルル……
待てば待つだけ、待たされれば待たされるだけ、『今、切っちゃえば、間に合う』の思いが青年の中で大きくなる。
その思いが、今、まさに破裂しようとした、その瞬間――
『はい……』
女のけだるそうな声が聞こえた。
面倒くさそうと言うのだろうか? 隠しもしない不快感がその声からはあふれ出ているようにも聞こえた。
「あの、昨日、番号を教えて貰った……」
『あっ……ああ……あのお兄さんか……早速電話してくれたんだ……ありがと』
「……今日、時間があるなら外で会わない?」
『ああ……そう言ってくれるのは嬉しいんだけど、今日、ちょっと、調子が悪くて……二−三日もしたら治ると思うからさ、それからで良い?』
「……赤毛の女に殴られた怪我?」
厳が控えめな口調でそう言うと、まず、返ってきたのは沈黙だった。
十秒を少し超える程度の沈黙。
電話口の向こうに人の気配だけは感じられるも、互いに何も言わない時間が静かに、そして、重たく流れた。
『……………………あの女の回し者だったわけ?』
ようやく返ってきたひと言、何らの感情を伺わせない平坦な言葉遣いが、逆に彼女の感情をうかがわせるような気がした。
「……有り体に言えば、そうなる」
『……そう。だったら、私が何者かも解ってて、外で会おうって言ってるんだ?』
「人を食う鬼、だって聞いた。でも、昼のファミレスでいきなり取って食ったりもしないだろう?」
『あの女は? 来るの?』
「……会ったら、それこそファミレスもクソもなく、殴り合うだろう? 連れて行かない」
『二人きりで会うつもり? はは、度胸あるんだね? お兄さん……良いよ、頭が痛くてがんがんしてるけど、会ってあげる。その代わり、そこの支払いはよろしくね?』
「それじゃ……――」
後は待ち合わせの時間を四時に設定したり、場所をお互いに知ってる商店街のドーナッツ屋にしたり……と、約束を決めたらスマホを切って話は終了。
(人食いの鬼って言っても……普通に話が出来る物だな……)
なんて、くだらない事を考える。
もっとも、幽霊とも話しが出来るし、なんだかよく解らない吸血鬼もどきとも普通に話せるんだから、世の中ってのはそういう物なのかもしれない。
座り込んでいたソファーから立ち上がり、窓を多う遮光カーテンをサッと開く。
南向きの窓から差し込むまぶしい光に目が焼ける。
窓の外は少し広めのベランダ、その向こう側は遠く海まで見える見晴らし、さすがは二十二階って感じの景色だ。
そして、カチャリと開くドアの音。
それと同時に――
「ぎゃっ!?」
色気のない悲鳴が一つ上がった。
振り向き見れば呆然とドアの外、廊下側を覗き込んでる史絵と藤乃の姿。
「カーテンは意味があって閉めてんの!! バカ!!!」
開け放たれたドアの向こう側、壁の影から愛のひときわ大きな声が響き渡る。
「あっ……悪い……」
小さく呟くように詫びると、青年は開けたばかりのカーテンを閉めた。
カーテンを閉めれば、安心したのか、ドアの影から愛が姿を現した。
出てきた愛の格好は薄桃色のパイル生地で作られたパジャマの上下。ただ、ズボンの方は普通に履いているが、上着の方は肩に引っかけてるだけで、袖は通して折らず、白いTシャツが丸見え。それに、先ほど同様、バスタオルで傷口を覆った腕が三角巾でぶら下げられていた。
「……顔が痛い……」
と、ぼやく、その顔は真っ赤。鼻の頭はまるで日焼け跡のようにうっすらと皮が剥けるほど。
「……本当に吸血鬼だな」
「うるさい。体質にとやかく言うな……ふぅ」
そう言って愛はどっかとソファーに腰を下ろした。
どこかしんどそうに息が上がっているように見える。顔が赤いのも単に陽の光を浴びただけではなく、彼女が朝のうちに言ってた『熱が出る』って話の影響もあるのだろう。
「それより、あの女に電話したでしょ? すんな、つってたでしょ? 私」
ソファーに腰を下ろし、つったままの厳の顔を赤い顔で見上げて、愛はそう言った。
その顔を見下ろして、青年は答える。
「したよ。四時からドーナッツ屋でデートだ」
「あっ、あの……私が頼んだわけで……」
厳がぶっきらぼうに応えると、愛はため息を一つ吐き、そして、慌てて庇おうとするし絵にぴしゃりとした言葉を与えた。
「……史絵は黙ってて」
静かではあるが強めの口調で言い切る愛の顔を見下ろし、厳はやっぱりぶっきらぼうな口調で言った。
「ゴールデンウィーク初日の昼間、人の沢山いる繁華街のドーナッツ屋で何が出来るんだよ?」
ソファーに座ったままで厳の顔を見上げる愛とその愛を見下ろす厳、視線を絡ませ続けるも、どちらも言葉は発しない。
その横である意味言い出しっぺの史絵が右往左往し、藤乃は白斬を右手にぶら下げたまま、ニコニコと三人の様子を眺めていた。
その沈黙の中、最初に口を開いたのは藤乃だった。
「私が付いてくから、山田さんもそんなに目くじら立てないでね?」
「なんでだよ!? 話聞いてた?! 相手、化けもんだよ!?」
厳が大声を出すも藤乃は馬耳東風とでも言わんばかりにしれっとした顔で受け流し、そして、笑顔を讃えたままであっさりと言い返した。
「『ゴールデンウィーク初日の昼間、人の沢山いる繁華街のドーナッツ屋で何が出来るんだよ?』、だよ? あと、私もドーナッツ食べたい」
「うっ……」
思わず、言葉につまる。
その彼をよそに、先ほどまで厳のことを睨み上げていた愛は、軽くため息を吐きながらも、その背をソファーの背もたれに預け、肩から力を抜いて、言った。
「はあ……まあ、藤乃がそう言ってくれるんなら、少しは安心かな……?」
「なんで!?」
愛の吐く言葉に厳が噛みつくも、やっぱり、愛はソファーに背を深く預けたまま、言葉を発した。
「藤乃には白斬も付いてるし、何より、藤乃が傍に居れば、女に誘われてノコノコと
「……そこまで馬鹿じゃない」
プイッと吐き捨てるように厳が言うと、逸らした視野の外で愛が諦めきったような口調で呟いた。
「そこの一歩手前程度のバカだよ、厳は……」
女連れの二人組で行けば佐和子を刺激するかも知れないから……って事で、藤乃は一足先に行くことにし、それに史絵も付いていくことになった。
十五分ほど早めに出ていく藤乃と史絵を見送り、厳は愛の座ってるソファーの足下へと腰を下ろした。
「で、何を話す気? まさか、人を喰うのは止めろとか、説教しちゃう?」
短くなった腕を押さえたまま、愛が呟いた。
「……さあ?
呟くように厳も応える。
「何も考えてないんだ? 本当にバカだよね」
細いつま先があぐらをかいた厳の頭を軽く蹴っ飛ばす。
「よく言われるよ」
後頭部に押し付けられたつま先から逃げるように首を動かすと、愛のつま先が厳の右肩にトンッと音を立てて乗っかった。
シャワーも何も浴びてないからだろうか? 少し、汗のにおいがする。
嫌な物ではないから、少し不思議。
そして、愛がまた、口を開いた。
「身の程を知れ」
「よく言われる、主にお前」
「史絵に頼まれたからってだけ? 会う気になったの」
「そうだなぁ……昨日、確かに血の匂いがして、訳も解らないくらい怖くなったんだけど……別に何かされてたわけでもないしって言うか、むしろ、色々シテ貰ったわけだしなぁ……」
「それ、仕事だからね、勘違いすると、ただのイタイ人だよ?」
また、足が動いて、厳の頭を軽く蹴っ飛ばした。
「うっさい、バカ女」
吐き捨てるように言うと青年は立ち上がった。
女は相変わらず、ソファーに偉そうに座って、厳の顔を見上げていた。
その女を見下ろして、青年は言った。
「少し早いけど、行くわ。歩いてスクーター取りに行かないといけないし」
「車、使って良いよ。ぶつけたら、ただじゃすまさないけど」
「良いよ、怖いから。今夜はバイトも休みだから、こっちに顔を出すわ。明日は週末だし」
「フレンチクローラーとポンデリング、後、カスタードクリーム、よろしく」
「……太るぞ?」
「ここに行くのよ」
そう言って、愛はなくなった右腕をかかげて見せた。
「…………こえーよ」
「はは、行ってらっしゃい。私のドーナッツ、潰しちゃダメだよ?」
「へいへい」
後ろ手に手を振り、青年はリビングを後にした。
薄暗い愛の部屋を出ると外はまだまだまぶしい真っ昼間。強い日差しに目が痛い。
そのまぶしい光にも上手くを焼かれるのを感じながら、青年はエレベータを一階にまで降りた。
そして、背後を振り向く。
気持ちよく晴れ上がった空に起立する二十二階建てのタワーマンション、もちろん、最上階にある愛の部屋が見えることはない。
(おかげで遮光カーテンが見えなくて良いんかね……?)
ぼんやりとそんな事を思いながら、愛のアパートから例の風俗店へと向かう。
凄く遠い……と言うわけでもないが歩けば結構な距離。
その結構な距離を急ぎ足で歩ききり、昨日から止めたままのスクーターの元へと足を向ける。
「おい! お前か!? そのスクーター!!!」
どすの利いた声に身をこわばらせ、振り向けば、そこには昨日の黒服。
「あっ……あの女の……」
小さな声を上げたかと思うと、男はバツが悪そうに視線を逸らした。
「すっ、すんません」
「あっ、いや……すぐに動かしてくれれば……」
なぜか、置きっぱなしにされていた側がぺこぺこと何度も頭を下げるって言う異様な光景に、下げられている加害者の方は途端に居心地が悪くなる。だからと言って、明らかに堅気ではないお兄さんにすごまれたいわけもなく、青年はぺこりと頭を下げたら、とっととその場を後にした。
風を切って待ち合わせ場所のドーナッツ屋へと厳は急ぐ。
時間はちょっとギリギリ。余裕を持って出たつもりであったのだが、愛の家から風俗店までが思ってたよりも遠かったおかげで、予定外に時間が掛かってしまった。
待ち合わせの店は商店街から少し離れたところにある国道沿いにある店だ。繁華街傍の店らしく駐車場はほとんどなく、代わりに駐輪場だけは多めに取られていた。
ガラス張りの店内を覗けば、藤乃が退屈そうにドーナッツをちびちびとかじっている姿が見えた。
そのすぐ傍には史絵の姿もある。
もっとも、白斬は傍らに置かれたゴルフバッグの中で、藤乃の手にはない。おかげで、藤乃に史絵の姿は見えないようだ。二人はすぐ傍に居ながらも、ろくに言葉を交わしている様子もなく、互いの視線も交わっている様子がない。
他には女子高生らしき集団とOL風の女性達が二人組が一つ、余り多くないテーブルは残り二つだ。
(座れなかったら困るかな……?)
なんて心の片隅で不安に思いながら、レジに並ぶ。
愛が頼んだ奴は帰りで良いか……と思って、頼んだのはフレンチクローラーに生クリームが挟まってる奴とオールドファッション、それからコーヒー。
そして、なんとか空いてたテーブルを確保したら、相手が来るまでに食べきらないようにちびちびとのんびり食べる。
藤乃の席とはちょうど女子高生グループを挟んだ形。
厳が座る直前に藤乃はチラリとこちらに目配せこそしたが、それ以上の反応は示さずじまい。
史絵の方は暇なのか、ふらふらとこちらに飛んできたかと思ったら、目の前の空き席にストンと腰を下ろした。
「……来たら、退けよ?」
小さめの声でぽつりと言えば、史絵はコクン……と小さく頷いた。
もっとも、佐和子に会いたがってるのは史絵の方だから、まるっきりいなくなられても困るのだが……
「花穂も週明けからは学校に行くらしいし、これであゆさん……佐和子さんって言った方が良いのかな? あの人と少し話が出来たら、もう、思い残すこともなくなっちゃうかな……」
ぼんやりと史絵がそう言うと、また、厳はスマートフォンを取りだし、耳に当てた。
そこに話しかけるような格好で、厳は言葉を紡ぐ。
「そうだな……あっちに逝けそう?」
「ふふ……それはどうかな? HUNTER×HUNTERの最終回を読むまでは死んでも死にきれない的な物が……」
「……逝く気ねーだろう?」
照れ隠しのように笑う史絵につられて厳も少しだけ頬を緩めた。
その瞬間ピンポ〜ン♪と耳をつんざくメッセージの着信音。
「うぉっ?」
ちょっぴり素っ頓狂な声を上げると、隣で座っていた女子高生がチラリとこちらに視線を向けた。
その批判がましい視線から顔を逸らして、スマホを見れば、そこには藤乃からのメッセージ。
『堀田さんと話してるでしょ? 暇なのはこちらも一緒なんだけど!』
そのメッセージの最後にはなんのキャラクターかは良く知らないが、可愛いマスコットがぷんぷんと怒っているスタンプまでもが添えられている始末。
ちらっと顔を上げれば、澄ました顔でスマホを弄っている藤乃の姿。別に怒ってるような様子もなければ、こちらを見ている様子もない。落ち着いた表情でスマホを弄っている姿は、出来る女ってものを体現しているようにも見えた。
そして、送られてくるメッセージ。
『もう、さっきから、ドーナッツが進んで溜まらないんだけど……太ったら、ダイエットに付き合って貰うよ? ホント!』
そんなメッセージがひっきりなし。
「緊張感ないね、藤乃さん」
手元のスマホを覗き込みながら、史絵が言えば、厳も新しいメッセージを作りながら頬を緩める。
「まあ、周りに女子高生もいるし……緩みもするよね……っと」
『待ち合わせまであと十分もないよ』
このメッセージを作ったら送信。
藤乃からの返信が一端途切れる。
女子高生達の笑い声が大きくなった……ような気がした。どうやら、ゴールデンウィークの予定を立ててるようだ。そう言えば、もうゴールデンウィーク……藤乃は何処かに旅行に行くとか言ってたような気がする。いや、店長から聞いたんだっけか? そんな話をしたのが、もう、ずいぶん前のような気がしてくる……
『桃林さん、GW、どうするの?』
『りょこー、おんせーん! ジーク! スパ! 温泉を讃えよ!』
『なんだよ、それ??』
『温泉同好会女子部の合い言葉! なんだけど、ばたばたしちゃってて、計画も立ててないんだよねぇ……』
『近場一泊とかは?』
『近場なんて全部行った』
アホなメッセージのやりとりでゆっくり、ゆっくりと時間が流れ……――
その日、待ち合わせの時間から一時間以上が経っても佐和子はその場に姿を表すことはなく、しびれを切らした厳が電話を掛けてもそれを取ることはなかった。
そして、代わり……と言ってはなんだが、愛から一通のメッセージが届いた。
『史絵 居る? 居るなら連れて帰ってきて でも 余計なことは言わないで良い 余計なことは言わなくても良いから これを見たら 早急 うちまで帰ってこい』
その奇妙なメッセージは波乱を呼ぶ種になるのだった。
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