戦う化け物

 ぶんっ! とうなりを上げてあゆこと赤木佐和子の右拳が愛に向かって振り下ろされる。
 右手による大ぶりな攻撃、上半身だけしか動かない腰の入っていない攻撃だ。それは彼女が武術の類いをろくに学んだことのないど素人であることを如実に教えていた。
 しかし、その拳は鋭く空を切り裂き、余裕を持って避けたつもりの愛の鼻先をかすめ、巻き込まれた前髪が引きちぎられるほど。
 深紅の髪が漆黒の闇夜を舞台に、街頭のスポットライトを浴びて宙に舞う。
 それに意識をとらわれるよりも先に、佐和子の二発目が飛んでくる。
 今度は左、握り拳ではあるが手の平側を叩き付けてくるようなパンチ、いわゆる猫パンチって奴。それが愛の右頬に向かって飛んでくる。
 それは先ほどの右よりも遙に不格好ではあったが、その鋭さは先ほどよりも明らかに上だ。
 びゅんっ! と風を切る音が当たれば、まともな人間ならば首ごと丸ごと持って行かれそうな不吉な予感を想起させた。
 そのどこか笑わせるような不格好さと、一つ間違えば大怪我必至な凶悪さを同居させる佐和子の攻撃をかわしながら、愛はゆっくりと後退していく。
「どうしたの? おねーさん? 殺すんじゃなかったっけ?」
 右に左に、不格好な猫パンチを繰り返す佐和子が尋ねれば、愛はそれを軽やかに交わしながら答える。
「その前に一つ聞いておくの、忘れててね?」
「なに?」
「ラブホの部屋、血まみれに汚して回ってる女ってあんたよね?」
「ああ……うんうん、そうそう。もしかして、おねーさん、掃除のおばさん?」
「誰がおばさん、か!?!」
 それまでバックステップで交わしていた佐和子の攻撃を、今度はしゃがんでかわす。
 頭の上を飛んでいく佐和子の猫パンチ、それが髪を巻き込むことを感じながら、愛は佐和子の無造作に踏み出していた左足首をロングブーツのヒールで蹴っ飛ばす!
 蹴っ飛ばされた左足は無様に地面を滑り、その上に乗っていた身体が大きくバランスを崩す。
 十分な手応え、もとい、足応えを感じつつその場で半回転。クルンと身体を回転させながら、一息に立ち上がると、勢いそのままに愛は佐和子のみぞおちに後ろ回し蹴りをたたき込む。
 もんどり打って転がっていく佐和子の身体。
 高い物でもなさそうだし、派手でもないが、しっかりとした作りのコートが赤土丸出しの地面の上に転がり、真っ白な埃混じりの土にまみれる。
 転がる佐和子の姿を遠巻きに見ながら、愛はゆっくりと公園へと足を踏み入れる。
 そこは少し前に厳が例のサイコ野郎と戦った公園だ。
 この辺りで深夜に騒いでも人が来そうにない場所と言えばここくらいしかない。
 その公園の中に入ると、愛は未だに寝っ転がってる佐和子へと視線を向け直した。
 コインを地面に投げたら、それが地面に突き刺さるほどの怪力を持つ愛が、力一杯に蹴っ飛ばしたわけだ。まともな人間なら口から内臓を吐いて、二度と起き上がれない……
「痛い……」
 が、おでこに二本の角が生えた鬼は“まともな”人間の範疇には入らない。
 小さく呟いて佐和子はすっくと立ち上がった。
「お腹、蹴っ飛ばすなんて、子供が出来ない身体になったらどうするんだよ?」
 パンパンとコートに着いた埃を払いながら、佐和子はほほを膨らませる。
 その言葉にニマリと冷たく、そして、どこか自嘲的な笑みを浮かべて愛は答える。
「心配しなくても、とっくにそう言う身体よ」
「ああ、やっぱり? そんな気はしてた」
 佐和子も自嘲的な表情で笑って見せる。
 そして、佐和子は肩からぶら下げていたハンドバッグをぽいと地面の上へと投げ捨てた。
 ガシャン……と少し大きな音がした。
 その音に、愛の意識が一瞬逸れる。
 そこに飛んでくる佐和子の猫パンチ。
 相変わらず、その拳はなんの工夫もなく、威力こそはすさまじそうだが、避けるにたやすい。
 戦闘経験で言うと愛の方が上……と言うか、昨今の女子大生で殴り合いの喧嘩なんてほとんどしたことのない人の方が多数派だろうし、佐和子もそう言う女子大生のようだ。
 だから、ちょっとしたフェイントを入れれば面白いように引っかかる。
 例えば、右手で殴る振りをして見せてやれば、ビクン! と反射的に動きを止め、避けやすい方に避ける。逃げるのは良いのだが、次の攻撃も回避も考えない、反射にまかせた避け方だ。
 その避けるであろう方向を読み、そこに蹴りを放り込んでやれば、あっさりと当たる……なんて、甘いことはない。
 次の回避も攻撃も考えてない、単純な避け方のはずなのに、彼女の恐るべき反射速度と身体能力はバランスを崩しながらも、無理矢理にその体を中へと跳ね上げさせる。
 ターンと空中へと逃げたかと思うと、軽やかにバック宙。奇麗に両足同時に地面へと着地を決める。
 それを彼女はどうも反射神経だけでやっているらしい。
 その証拠に――
「あはは、出来ちゃった」
 やって見せた本人が一番びっくりしてる。
 その軽業師のような真似に、愛も内心舌を巻く。
 どうやら、身体能力は愛よりも佐和子の方が上のようだ。
 この調子で戦闘経験を下手に積めば、止められなくなるかもしれない……そんな思いが愛の脳裏をよぎった。
 そんな愛へと視線を向けて、佐和子は落ち着いた声で尋ねた。
「ねえ、おねーさん、一つ聞かせて。なんで、私を殺すの? 私が化け物に成り下がったから? それとも私が人を食うから?」
 眉をひそめ、その表情を曇らせる。それはまるで、自分を振った男に理由を尋ねている女のよう。
 その佐和子の顔を見ながら、ふぅ……と一つ大きなため息を、愛は吐き出した。
 そして、改めて彼女の顔を見やり、勤めて軽い口調で答える。
「あんたが私の知り合いのラブホを回って、毎晩、部屋を血まみれにするから……って言うのも大きい理由よ」
「もしかして、それが本命? でも、昨日はちゃんと浴室の方でやって、流して出たよ?」
「血餅で排水溝が詰まってたわよ」
「ああ……そうなるんだ? 初耳」
 軽い言葉を二人は交わす。
 深夜過ぎの公園、照らすのは薄暗い外灯、見ているのは闇夜に目を光らすアオダイショウくらいの物。
 静寂な夜に控えめな声が二つ、無駄に明るくいったり来たり。
 そして、愛は控えめな声で呟く。
「……まあ……あんたの人生には色々同情してるけど……」
「何が同情だ……同族の化け物のくせに……」
 吐き捨てるように佐和子が応えた。
「……あんたみたく、誰彼かまわず喰いまくってる節操なしに同族呼ばわりはされたくないわよ」
 その佐和子に愛は淡々とした口調で言葉を返す。
 返しつつも相手の出方をうかがい、相手の隙を捜す。負けることはない……と思うが、逃げられる可能性は決して低くない。
「はんっ! だからなに? 食人の是非でも問いたいの? 化け物のくせに」
 鼻でせせら笑う佐和子に、愛はやっぱり静かで、極力抑えた口調で対応した。
「是非は問わない……人を逸脱したあんたは私がる」
「あんたが私の何を知ってるって言うわけ!? 人から逸脱した!? 人らしい生き方なんて、したことあるか!」
 初めての絶叫。魂の底から絞り出したような叫び声は、今夜、始めて佐和子が露わにした感情であった。
 ぶんっ! ぶんっ! と無軌道に振り回される拳。
 その切れ長のまなじりには涙が溜まって、彼女が拳を振り回す度に流れて弾ける。
 それを的確に避ける。
 酒ながら、あいは淡々と言葉を紡ぐ。
「今まで人らしい生き方が出来なかったのは生まれのせいかもしれないけど、今、人でなしの生き方をしてるのはあんたの選択だよ」
 その言葉に再び、佐和子は絶叫するした。
「そうだよ、やっと、選択できたんだよ、誰と寝るか、誰を喰うか!」
 血反吐を吐くような女の絶叫、まなじりが外灯を受けて光る。
 そして、愛はその滲んでるであろう視野の端っこを狙うように、鋭いフックを佐和子のこめかみへとたたき込む。
 がつんっ!!!
 自身の馬鹿力と硬い頭骨との間で拳が悲鳴を上げる。
 相手がまともな人間なら手首まで頭蓋の中にめり込むような、そして、自身もまともな人間なら指の骨が何本かは砕けるような衝撃が、拳から腕、肩へと響く。
 それでも相手の頭蓋は砕けてないし、自身の指の骨も折れてはない。
 しかし、相手の頭蓋も自分の指も、ただではすんでないであろう確信が愛にはあった。
 だから、小さく呟く。
「終わりだよ……」
「そうだね、終わりだね……」
 佐和子も呟く。
 瞬間、佐和子の左腕が跳ね上がり、愛の右手首を無造作に掴んだ。
 爪が深く食い込み、ふりほどくことは出来ない。
 まずい!
 そう思っても後の祭り。
 がぶりっ!
 食人鬼らしく掴んだ右手首の少し上、肘との間に佐和子の鋭い牙が捕らえた。
 佐和子の鋭い牙が愛の腕、その骨にまで食い込む。
「がっ!?」
 思わず、うめき声を上げれば、腕に食らい付いたままの佐和子が言う。
「つか、まえ、た」
「こっちのセリフ!!」
 痛みを無視して、愛は佐和子の横っ腹に膝を二発たたき込む。
 腕に噛みつかれたままの体勢だ。決して、万全とは言えない蹴り方ではあるが、それでも腰を入れた膝蹴りは軽い痛みではないはずだ。
 しかし、佐和子は噛みついた腕を放しはしない。
「離して……やる、物、か!」
「さいですか!!!」
 叫んで愛は右膝を折りたたみ、自身と佐和子の間に無理矢理ねじ込んだ。
 崩れそうなバランスは佐和子が噛みついてる腕に預けることで、どうにか帳尻を合わせる。
 まるで佐和子の口に自分がぶら下がっているような感じ。
「絶対に、離すな!!」
 叫んで、全力を持って彼女の脇腹を足の裏で、蹴っ飛ばす!!
 一度では引きはがせないし、引きはがれて貰っても困る。
 二度、三度、その度に佐和子の牙が食い込む骨から、嫌な音が響く。
 メキッ……パキッ……
 割れるような音、激痛が――脳みそが蒸発するような激痛が腕から全身へと駆け巡る。
 気を失うことすら出来ない強烈な痛み。
「ふ・ざ・け・ん・な!!!」
 四度目、火事場のくそ力からとでも言う物が愛の足で爆発した。
 ばきっ!!!
 っという嫌な音が二箇所から響く。
 一つは愛の腕。
 肘の少し先からプラン……と皮一枚でぶら下がっている始末。二本の骨はどちらも噛み千切られてしまったようだ。
 そこからはぴゅっぴゅっと射精するかのように大量の鮮血が吹き出し、地面を朱に染める。
 そして、もう一箇所。
 引きはがされた佐和子が胸を押さえてうずくまっていた。
 多分、あばらは逝ってるはずだ。上手くすれば折れた骨が内臓の何かを傷つけてるかもしれない。それほどの感覚が足の裏に、間違いなくあった。
 しかし、致命傷ではない。
 たとえ、骨が肺辺りに刺さっていても、利き腕が千切れ掛かってる自身の方がダメージは大きい。
 瞬時に愛は彼我の状況を計算する。
「はぁ……はぁ……くそっ!!」
 痛みは忘れる。気にしない。どうせ、すぐに治る。私は人間じゃない。
 頭の中で呪文のように繰り返しながら、愛はうずくまった佐和子の方へと意識を向ける。
「人間らしくしてんな!!」
 うずくまったままの佐和子を怒鳴りつけ、彼女の方へと大股で近づく。
 彼我の距離は二歩ほど。
 その距離を愛が詰める間に、佐和子はなぜか、彼女が放り出していたハンドバッグを引き寄せた。
(盾にでもする気か? 舐めんな!)
 一瞬で判断を下す。
 あばらを折ったとは言え、相手は鬼だ。いつまで痛みに悶えてるかは解らない。
 たたみかけるは今しかない。
 一気に距離を詰めたら、そのしゃがみ込んだ顔面に蹴りを入れる!
 めきょっ!!
 嫌な音がまた夜の公園に響いた。
 つま先に広がるイヤな感触。
 跳ね上がる佐和子の整った顔――否、整っていた顔。
 その余り高くはないが形の良い鼻は見事にひしゃげ、赤い鼻血があふれ出し、口からは白く堅い歯が折れて飛ぶのが、外灯の明かりに照らされていた。
 それでも、佐和子はニマリと笑った。
 ぞくっ! と愛の背中に冷たい物が流れた。
 瞬間!
 ばちんっ!!!
 軸足にこれまでの長い人生で味わったことのない衝撃が生まれた。
「あはは……ザマぁ……」
 ぼたぼたと鼻血を出しながら、佐和子は立ち上がった。
「しっかし、まずい肉ね? 腐肉みたいな味」
 ゴクリ……と噛み千切った骨と肉を飲み干しながら、佐和子は呟く。
 その右手には四角い、手のひらサイズ箱のような物が一つ。それは佐和子の操作でバチバチと軽やかな音を立ててスパークを生み出す。
 それを見上げ、膝を突いた愛はうめき声を上げる。
「スタンガン……化け物のくせに……」
「あはは、過去の反省って奴。あの時、これを持ってれば、こうなってなかったのにってね?」
 そう言って笑ったたかと思うと、愛の方へと一歩踏み出し、佐和子は足を振り切る。
 ごっ!!!
 嫌な音が愛の眼前に響き、顎が跳ね上がる。
「!!!!!」
 鼻が潰れて、唇が切れる。前歯も何本か折れて地面に転がる。
 口いっぱいに血の味が広がった。
「痛ったい!」
 そのセリフをなぜか、佐和子の方が口にした。
 それを見上げて、愛が絞り出すように呟く。
「……そっ、それ、私のセリフ……」
「折れたあばらに響くの! はぁ……火傷は何回もやられたけど骨折は生まれて初めて……ふふ……じゃあ、私、行くね? 同情してくれたお礼に殺さないであげるし、おねーさんの顔を立てて、もう、ラブホで食事はしないよ。だから、もう、私を襲わないでね……バイバイ。こんなに痛いの、もう、こりごり……」
 背を向け、ひらひらと数回手を振り、佐和子はその場を後にする。
 言ってることは余裕綽々……ではあるが、左脇腹を押さえて歩く姿は、夜目にもふらふらしているのが見えて、とても勝者の姿とは言えない。
 もっとも、スタンガンの衝撃と顔面への蹴りで膝を突いてる愛の方は、どう考えても敗者のそれ。
「ちっ、ちくしょー……逃げんな!!! このドブス!!!!」
 そう叫ぶのが、イタチの最後っ屁……って奴だった。

 さて、話戻って、不動沢厳が例のお店を出た直後の頃。
 彼はスクーターにまたがらず、ぶらぶらと夜の街を歩いていた。
 繁華街とは言え、この時間帯になれば営業の終わってる店も決して少ない。むしろ、終わってる方が多数派。歩いている人もまばらで、車の交通量も減っていた。
 街全体の営業が終わってるかのように見えた。
「どこ、行ってんの?」
 頭の後ろで史絵が尋ねた。
「……ラーメン屋」
「……愛さんに言われて食べたくなったんだ? 単純」
 呆れかえった声で史絵に言われるが、食べたくなった物はしょうがない。時計を見たら、まだ、ギリギリでラストオーダーには間に合いそうな時間帯。サッとラーメンと餃子を食べて帰ろう……
 なんて事を考えながら、県道から商店街、更に細い路地を一本入ったところにあるラーメン屋へと向かう。
「そー言えば、不動沢君、昼間もラーメン食べてなかった?」
「インスタントラーメンはラーメン的な何かであって、ラーメンじゃないからなぁ〜」
「……いや、インスタントラーメンも立派にラーメンだよ……日清に怒られるよ?」
 あれこれとくだらない話をしながら、ラーメン屋を捜す。行ったことのない店ではあるが、毎度おなじみスマホの地図アプリを使えば迷うことはない。
 商店街から、路地を一つ入って、そのどん詰まり。
 腰くらいの高さのスタンド看板は古くて、その看板を内側から照らしている蛍光灯の明かりもなんだか薄暗い。店構えは小さく、のれんもすり切れかけた古くさい代物。
 大丈夫なんだろうか? なんて思いながら、店内に入った。
 そして、三十分後。
 その小汚い古い店から出てきたとき、青年は非常に満足していた。
 多分、醤油ベースのタレを鶏ガラベースの出汁で割ったスープは濃厚な旨味と、最後の一滴までサラッと飲めるさっぱりさ加減とが絶妙なバランス。細めのストレート麺は腰が強くてのどごしも良い。そこにシンプルなチャーシューとメンマ、それから細かく刻んだわかめがアクセントになっている具材も非常に素晴らしい。
 ラーメンって言うよりも、中華そばって感じの逸品。こてこてが流行の昨今では懐かしくも、逆に新しいと言っても良いかも知れない素晴らしい物であった。
 そして、サイドメニューはニンニクたっぷりの餃子とじっくり煮込まれたおでん。特にふわふわに柔らかく煮込まれた焼き豆腐が最高すぎ。
「いやぁ、マジ、美味かった!」
「……それは何よりで……」
 心底満足している厳の背後には、仏頂面の史絵の姿。まあ、美味しそうにラーメンを食べてるのをジーッと見てるしかないってのは辛いのだろう……と思ったら――
「……女連れてラーメン屋は許せても、そこで餃子とか、マジで信じられない、しばらく、うちに話しかけないで」
 ――って事の方に切れてたらしい。
 放っときゃ、そのうち、あっちの方から話しかけてくるだろう……と思って、苦笑いと共に、先ほどよりもいっそう人の減った道をぶらぶらと青年は歩く。
 と、思っていたらその時は意外とあっさりやってきた。
 路地から商店街へと入った所で、不意に史絵が厳に声をかけた。
「ねえ、不動沢君」
 背後から聞こえる史絵の言葉に厳は足を止めた。
「なに?」
「あの人」
 言って、史絵が厳の首元から手を伸ばす。
 言われて視線を左側へと向ける。
 一つの例外もなく全ての店の入り口にはシャッターが降りた商店街、その端っこ、シャッターに肩をこすりつけるような感じで、ふらふらと歩いている女性の姿があった。
 栗色のロングヘアーも乳白色のシンプルなコートもなぜか埃塗れ。地面の上で転がったのではないのか? と思うような感じ。それに深夜とは言え、春の夜にコートの襟を立て、鼻先までしっかり隠してるのもどこかおかしい。
 おかしいっちゃー、おかしいが……
「風邪でも引いたんじゃないの?」
「……うーん……そうかなぁ……? なんか、どこかで会った気が……」
 厳の応えに史絵が小首を傾げる。
「会ったも何も、アレじゃどこの誰か解らないよ」
 その声に軽く肩をすくめて答えながら、彼は商店街を歩いた。
 そして、その奇妙な女とすれ違う。
 女の方もこちらを見ていたのだろうか? 彼女のコートの襟元から覗く切れ長の瞳と目があった。
 プイッとそっぽを向く女、見過ぎたかな? なんて後悔の念を抱きながら、青年も視線を逸らす。
 そして、互いにそっぽを向いたままで二人はすれ違った。
 つん……と血の匂いが鼻を突く。
 その忘れられない匂い。
「あゆさん?」
 思わず、声が出た。
 向こうを歩く女性には聞こえてなかったらしい。彼女の足取りはふらふらしてて、今にも倒れてしまいそう。そんな怪しげな足取りではあったが、厳に背後を見せながら、足を緩めることなく、その場を立ち去った。
 一歩の厳は足を止めたまま、ぼんやりと埃塗れのコートが遠ざかっていくのを見送る。
 コートの背中が細い路地へと滑り込む。
 そして、背中かから聞こえる一つの声。
「……ねえねえ、不動沢君」
「なに?」
 女の消えた路地の辺りに視線を泳がせながら、厳が答える。
 すると、首を肩の上から前へと付きだした史絵が言葉を続けた。
「血の匂い……しなかった?」
「堀田さんも感じた? やっぱり、あゆさん……って言うか、赤木佐和子かな?」
「……いや、そう言う、不動沢君にだけ感じる幻覚的な何かじゃなくて、リアル血の匂い……だと、思う」
「えっ?」
 史絵の言葉に青年が振り向くと、彼の背にぶら下がっていた幽霊はそこから降りて、宙に浮かんでいた。
 その幽霊は顎に手を当て、しばしの間、沈思したかと思うと、ぽつり……と、ゆっくりとした口調で呟いた。
「あの人……怪我かなにかしてんじゃ……? それも結構な大怪我」
 史絵の呟きを合図にするかのように青年は振り向く。
 しかし、そこにコートの女性の姿はどこにもない。
 そして、厳は半ば無意識のうちに走り出していた。
「不動沢君!?」
 史絵が叫んだ。
 その声に厳はひと言だけ返す。
「捜す!」
 とは言ったものの、この辺りは脇道が多い。タチの悪いことに、その脇道に入ると更に脇道があったり、半地下の飲み屋みたいな店もあったりで、一度、人を見失うと捜すのは、難しい。
 相手が隠れるつもりがあるのかないのかは解らない。しかし、あの様子なら、目立たないよう、裏道を選んで帰ってることは十分に考えられる。
 一生懸命捜す時間が五分ほど……元気良く走り出したのは良いけど、得たのは横っ腹の痛みだけ。
 そー言えば、電話番号貰ったんだから、かければ良いのか……なんて、大事なことを思い出した、その瞬間だった。
 聞こえる大きな声。
「不動沢君!! 不動沢君!! 不動沢君!! 不動沢君!! 不動沢君!! 不動沢君!!」
 姿が見えないくらいに遠い所からの絶叫、それは史絵の物だ。
「なんだよ……」
 横っ腹を抱えて路地から入った更に狭い路地から商店街の方へと出れば、フヨフヨ浮いてる史絵の姿が五十メートルほど離れたところに見えた。
「どうした?」
 他に人影がないのを良いことに、少し大きめの声で呼びかけると、史絵の顔がきっ! と睨み付けるような視線をこちらへと向けた。
 そして、更に大きな声で叫ぶ。
「トロトロ、歩いてないで!! 早く来てよ!! バカ!!!」
 ラーメン食った直後にダッシュやって、横っ腹に真剣なダメージを喰らってる男に向かって、ひどい罵倒もあったものだ……と思いながらも、横っ腹を押さえて軽く駆け足。
「遅い! こっち!」
 史絵の元にたどり着くと、彼女はすぐ傍の路地へと滑り込んだ。
 小汚く狭い路地、何処かの店が出したビール瓶の箱やらゴミ箱やらでまっすぐに歩くのも難しい道。史絵は飛んでるから良いような物の、道を日本の足で歩かなきゃ行けない厳には歩くのも大変だ。
 その道を数十メートルほど、言った先の暗がりから聞こえる女の声。
「……あちゃぁ……やっぱ、厳もいるよねぇ……」
 その声に目をこらしてみれば、ぐったりと壁にもたれて沈み込んでる愛の姿があった。
 鼻血は出てるし、目元もどす黒く腫れているし、口からも血が流れている、何より、腕、右腕だ。ジャケットを巻き付けてるのは良いのだが、その濃紺だったジャケットは真っ赤に染め上げられて、更にぽたぽたと滴るほど。
 しかも、どう考えても長さが足りない。
「おっ!? おま!!??」
 思わず、それだけ言って、絶句する。
「救急車呼ばなきゃ!!」
 大声で騒ぐ史絵のことは一端棚置き、大きく息を吸い込み、そして、吐く。
 むせるような血の香りが臓腑に流れ込み、そして、出て行く。
 取り乱しそうになる心を落ち着けると、彼はグレイの壁にもたれて座り込んでる愛の傍に中腰になった。
 奇麗な夕日色の瞳も今は何処か濁って見える。
 その曇った夕日の瞳を覗き込んで、彼は静かに尋ねた。
「……要るのか?」
 辛そうではあるが、少しだけ頬を緩めて、愛が答える。
「要らない……うちに連れて帰ってくれるかな? いつもの駐車場に車あるから……それ使って……」
「なんでだよ!?」
 史絵がやっぱり大声を上げるけど、マルッと無視して、彼は愛に肩を貸した。
 素直に厳の背中に乗りかかる愛、その右手に触れるとジャケットはすでに吸いきれない血であふれ返っていた。
 そのあふれ返った血液が、厳の胸元からだらだらと流れ落ち、べったりと生々しいシミを刻みつける。
 そして、背中で愛が尋ねた。
「……いつから気づいてた?」
「……五百円玉を地面に叩き付けて、立たせたとき……それから、デコピンで俺を気絶させたときに確信した」
「そっか……ちょっと、気絶する……車と部屋の鍵はコートのポケットに入ってるから、後、よろしく……」
「……ああ、解った……」
「……ありがと、厳……」
 そう小さく言うと愛はすっとその赤い瞳を閉じた。
 ずんっと愛の身体から力が抜け、肩に感じる重さがひときわ大きくなった。
 その心地よい重さを肩に感じながら、彼はぽつりと呟く。
「……免許、持ってるけど、軽トラしか乗ったことないんだよな……野良仕事で使ってる奴」
「待って!? ちょっと、待って!!」
 慌てて愛が飛び起きたことは言うまでもない。

「不動沢君の運転は、まっすぐ走ってるときは良いんだけど、曲がるときとバックするときがちょっと怖くて、ブレーキが少し遅い」
 史絵(事故っても怪我すらしない幽霊)が冷静に厳の運転の問題点をあげつらう。
 一方、愛の方はと言えば……
「一回目の車検も通してないのに壊されたらと思ったら、おちおち、気絶も出来やしない……」
 と、血みどろの右腕を握って心底不安そう。さっきよりも顔色が悪くなってんじゃないのか? と思うほど。
 そんな感じの二人と共に厳は愛のマンション、その地下駐車場にまで帰ってきていた。
 もちろん、車はどこにもぶつけない。
「左折の時、危うく電柱に横っ腹ぶつけそうになってたけどね……」
 なんて、史絵は言ってるがひとまず無視……だいたい、あの車が無駄に長いのが悪い。
「今夜、不動沢君、なにげに無視が多い……」
 と、さっき『話しかけるな』と言った幽霊がうるさいが、やっぱり、無視して、厳は無駄に長い車から降りた。
 深夜ではあるが地下駐車場には煌々と明かりが付いていて、女性の一人歩きも安心、安全。
 ではあるが、この状況では余計なトラブルを巻き起こしそうで若干困る。
 索敵に史絵を立たせ、駐車場及びエントランスまで、誰も居ないことを確認すると、厳は愛を背に負い、車を後にした。
 その背では、無事に帰り着いて安堵したのか、愛はようやく、ぐったりと厳の背中で眠った……と言うか、気絶した。
「……この人、何者?」
「さあ……? でも、五百円玉を地面に叩き付けたらダンプが踏みしめた土の上に突き刺さって、餓鬼を片手で叩き潰して、デコピンで人間を気絶させるような奴だからな……普通じゃないのはうすうす、解ってたよ」
「ふぅん……だから、化けて出てる私を見ても特に動じなかったわけ……?」
こいつとか、餓鬼とか、白斬とか、幽霊とか……もう、ここ半月で俺の常識、ぐちゃぐちゃ、もう、なんでも来いだよ」
 苦笑いを浮かべて、厳は地下駐車場からエントランスへ。
 彼が歩く足下には愛の腕からしみ出し達がぽたりぽたりと床に深紅の花びらを散らす。
 後で大騒ぎかも……とは思うが、どうすることも出来ない。
 駐車場からエントランスに入るところで鍵一つ、エントランスからエレベーターホールに入るのにまた鍵。セキュリティ的には優れているのだろうが、面倒くさいこと、この上ない。
 そして、エレベーターを上がって、二十二階、最上階、そこまで上がったら、愛の部屋の鍵も開けて、中へと入る。
 タワーマンションの最上階だけあって、部屋数も多ければ、広さも十分。
 玄関を入ったらちょっとした廊下、右に行くとダイニングキッチンとリビング、それから左に洋間が二つと正面に二つ。正面の二部屋のうち、左側が愛の寝室になっているらしい。
 気絶から少しだけ復帰した愛にそれを確認。
 六畳ほどの洋間に大きめのベッドが一つ。洗い立てらしいシーツがぴーんと折目正しく掛けられていてるし、部屋の掃除も行き届いてる。まるでホテルの部屋のよう……と言うか、使っている形跡がほとんどなく、生活感がまるでない。
 その生活感のないベッドの上に彼女を寝かせて、一安心。
 ホッと一息吐いた厳に、愛はベッドの上でうっすらと目を開くと、か細い声で言った。
「……今夜は泊まって良いから……」
 愛はそこまで言うと、目を閉じた。
 すぐにすーすー……と規則正しい寝息を立て始める。
 眠る愛の腕へと視線を落とす。
 そこには彼女のジャケットが巻き付けられている。
 そのジャケットを少しめくってみた。
「不動沢君?」
 史絵が抗議の声を上げるも、彼は無視。腕に巻き付いたジャケットをはぎ取る。
 巻き付けられていたジャケットをはぎ取ってみれば、肘から先が存在していない……のは、思っていたとおりではあるのだが、想像以上だったのは彼女の傷口だ。
 すでに新しい皮膚が生まれて傷口からの出血は止まっているようだ。どうも、ぽたぽたと滴っていたのは、ジャケットの方に染み込んだ血だったらしい。
 厳の頭の上から覗き込んでいた史絵が呆然と呟く。
「……凄い」
「……これなら救急車は要らないか……」
 小さく呟くように青年はそう言うと、ぽたぽたとどす黒い血が滴るジャケットを手に、彼女の寝室を後にした。
「そこまで解ってたの?」
「まさかな……普通の人間じゃないってのは解ってたけど……」
「ここまで人外でちょっとびっくりって所?」
「そんなところ」
 話をしながら、青年は愛の無駄に広いマンションの中をうろうろ。
 目的のバスルームはすぐに見つかった。そのバスルームに血まみれのジャケットを放り込んだら、代わりにバスタオルを一枚持って、再び、愛の部屋へと訪れた。
 部屋の主はすでに眠っているようだ。すーすーと規則正しい寝息を立てていた。
 それを確かめたら、彼女の腕にタオルを掛けておく。
「厳……」
 腫れた愛の目がうっすらと開き、中から濁った夕日色の瞳が覗く。
「なんだ?」
「……ありがと」
「気にすんな」
 そう言って、青年は再び、部屋を後にした。
 そして、部屋を出たら、史絵が頭の後ろで尋ねた。
「泊まるの?」
「とりあえず、今夜は泊まらせて貰おうか……今更帰るのもおっくうだし、部屋も多いしな」
 廊下に出たら、横に立つ史絵に向けて、厳はそう言った。
 その厳に史絵がコクン……とクビを縦に振り、そして、口を開いた。
「そうだね……明日は祝日で良かったね……それで……不動沢君、愛さんのこと、全然、聞いてなかったの?」
「言いたくないのを無理に聞くのもアレだしな……」
 青年は愛の部屋のドアにもたれ、苦笑いと共に答える。
 すると、史絵は厳の前へと回ると、ちょこん……と半透明の指先で厳の胸元を突いて頬を緩める。
「ふぅん……不動沢君って、アレだよね」
「なに?」
「上手く行ってる間は良いけど、ダメになりかけてるのを察しても、とことんダメになって、相手が別れ話をしてくるまで黙ってるタイプだよね、男女関係。聞いて欲しいときもあるんだって、覚えてた方が良いよ」
「うるさい。ほっとけ」
 史絵の指先から逃げ出して、厳は今まで自分がもたれ掛かっていたドアの隣にあるドアへと向き直った。
 レバー型のドアノブに手をかけ、ガチャリと開く。
 出入り口傍にあるスイッチで明かりを付ければ、六畳ほどの部屋はすぐに明るくなった。
 その部屋、一面は分厚遮光カーテンで閉じられた大きな窓、ベランダへと通じてる奴だろう。愛の寝室にもあった奴だ。
 それ以外の壁には壁全体を覆う大きな本棚が一つずつ、横幅も大きいが高さも天井付近まである大きな奴だ。そこにはびっしり、漫画だの雑誌だの書籍だのが規則正しく、順番に差し入れられていた。
 もちろん、ベッドの類いはない。
 無言のままにドアを閉じたら、更に隣の部屋へと移動してみる。
 今度は先ほどよりかは若干広めの角部屋。もっとも、他の部屋同様にベランダへと通じている大きな窓には分厚い遮光カーテンがひかれていて、外がどうなっているのかは解らない。
 そして、そして、一面には巨大な、壁一面、横幅一杯に広がる巨大な液晶テレビ。左右には巨大なスピーカー。それに比してなんか、妙に小さく見えるステレオコンポ。どうやらブルーレイとかDVDのプレイヤーも兼ねているらしい。
 それから、厳達が入ってきたドアがある壁面には大きな棚がどーんと立っていて、そこには様々なメディアの映像ソフトが規則正しく押し込まれていた。その中にはネットでしか見たことのないレーザーディスクだの、VHSテープなんかも見えている。
 やっぱり無言のままにドアを閉じたら、最後にこ乗ったドアの前へと厳と史絵は立った。
 その最後の部屋のドアノブに手をかけ、青年はぽつりと呟いた。
「……俺、ここに何があるか、想像できるわ……」
「うちも……」
 ドアを開けば、やっぱり、ベランダに通じる窓には分厚い遮光カーテン。そして、そうじゃない壁面にはテレビ部屋の方に置いてあった物よりかは随分と小ぶりな液晶テレビが一つ。その傍には最新型のゲーム機が三種類、AVセレクターを介して繋ぎ混まれていた。そのテレビはパソコンのモニターも兼ねているらしく、ゲーム機の傍には大きなタワー型のパソコンやキーボードまでもが鎮座ましましている。
 そして、ドアの両側にはやっぱり大きな棚。
 ずらーーーーーっと並ぶ大量のゲームソフト。テレビの前に置かれている三種類の最新ゲーム機やパソコンの物が分野を問わず、大量に並べられている。えぐいと評判のエロゲーから泣きゲー、キャラクターものにハードなFPSとかRPG、オンラインゲームの類いもあるようだし、中には使い道のよく解らない実用ソフトまでもが置いてある。
 ちょっとしたパソコンショップのようだ。
 その部屋のドアを閉め、青年は呟く。
「……どこで寝ろって?」
「さあ?」
 最後の望みを託して、厳はダイニングキッチン付きのリビングへと足を向けた。
 やっぱり、遮光カーテンこそで全ての窓という窓、出窓すらカーテンで目張りされているが、実家の十二畳の部屋よりかは確実に大きなリビングとやっぱり大きなダイニング。あるのは大きめのテレビと、三人くらいはゆったりと腰掛けられそうな大きなソファー……このソファーの上なら眠れないことはないだろう。
 血に濡れた服でソファーに寝転がるのは、さすがに気が引ける。
「騒ぐなよ……」
「今夜はね?」
 ひと言、史絵に言い置くと、彼はするすると服を脱ぐ。
 ワイシャツはもちろん、タンクトップもズボンも血まみれ。結局、今夜はトランクス一枚。さすがに肌寒いから、暖房を入れさせて貰って、厳はソファーの上に寝っ転がった。
 そして、宙に浮かんでる史絵にひと言言う。
「それじゃ、お休み……」
「お休み」
 ソファーの上にごろん……と寝転がり、青年は目を閉じた。
 ふかふかではあるが、寝るにはちょっぴり狭いソファー……眠れるかな? とちょっぴり不安にはなったが、それでもぐっすり眠れてしまったのは、遮光カーテンのおかげで朝になっても部屋が真っ暗だったからだ。

 尚、この夜に愛が捨ててきた右腕が大騒ぎの元になるのは、数日後のことだった。
 もちろん、その腕の持ち主は警察の必死の捜査にもかかわらず、判明することはついになかった。
 まあ……落とし主が――
「あっ、邪魔だから、引きちぎって植え込みの下に捨ててきたんだよね……」
 ――って言ってんだから、どうしようもない。

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