朝、学校への登校時、厳は飯塚正と一緒に登校することが多かった。
授業の取り方が多少違っても始まる時間はだいたい同じ。住んでるところは同じアパートのお隣さん。示し合わせてなくても一緒になってしまうのは、必然とも言えた。
……が、史絵が死に、そして、厳の背後に張り憑くようになってからは、厳は少し早めに出て、正とは合わないように心がけていた。
「なんで?」
「……奴の顔を見る度に『四つん這いでアナニー』ってパワーワードが頭によぎるんだよ……」
「なんでだろうね?」
「あんたのせいだよ……」
背後に張り付いてる史絵と言葉を交わして、青年は部屋を出た。
アイボリーのチノパンに白いワイシャツ。空を見れば今日は天気も良くて暖かくなりそうだから、ジャケットはなし。肩からサイドバッグをぶら下げたら、背後には幽霊さん。
「……留守番してたら?」
「退屈だから、やだ」
取り付く島もない答えにため息を吐いて、青年はがっくりとうなだれる。
ガチャリと鍵をかけて横を向いたら、同じようにガチャリとドアに鍵をかけてる男とその横に立ってる女の姿。
「「「げっ」」」
そして、背後の幽霊が言った。
「わっ、同伴出勤」
最低だ、こいつ……と思ったが声には出さない。
そして、彼はコホン……と軽い咳払いと共に居住まいを正したら、固まっている一組の恋人へと向け、ひと言だけ言った。
「よっ」
「よっ……よう」
「おはよ、不動沢君」
明らかにバツが悪そうな顔をしている正に対して、彼女――中村さんの方はすでに立ち直り済み。平気な顔で軽く手を上げ、厳に応えた。
飯塚正の隣に居るのは
もちろん、彼女の名字はともかく名前なんて厳が知るはずもなく、後で史絵に教えて貰っただけ。
明るめの茶色に染めた髪を胸元まで伸ばして、先の方を軽くカールさせた髪形。細面な顔には、アイプチでしっかり作った人工二重に丁寧に整えた細い眉毛。薄桃色のルージュがセクシー。ダイエットに励んでいるのか体つきは細めで、大きめの胸が目立つ。スカートの短いワンピースに高いヒールのミュール。
なんて言うか、量産型美人女子大生と言った趣の女性だ。
その女子大生が一歩先に階段を下り始めると、青年は取り残された友人と肩を並べて、その後を追った。
カツン、カツン……階段のステップをミュールのヒールで蹴っ飛ばす足音が心地よく響く。
その音を聞きながら、青年は隣を歩く友人に声をかけた。
「まさか、お前が中村さんをねぇ……意外――どうした? 浮かない顔して」
覗き込んだ友人の顔はどこか浮かない……と言うか、罪悪感にさいなまれているよう。むしろ、後悔してるとでも言うべきなのか? いくつもの色が混じった複雑な、そして、確実に言えるのは工学部に数少ない女子大生を射止めたと言うにはあまりにも不似合いな色であった。
「……堀田さんも帰ってきてないしさ……なんか、悪くて……」
「あっ……」
正がバツが悪そうにそう言うと、思わず、厳は小さな声を上げた。
そして、理解する。
自身にとって、堀田史絵行方不明事件はすでに“終わってしまった”事であるが、大半の人間にとっては、まだまだ、現在進行形の話であることを。
「……リオ――中村と話をし始めたのも堀田さんの一件があったからで……その堀田さんが帰ってきてないのに、こう言うのになるのって、なんかさ、不謹慎って言うか……火事場泥棒ってのは違うかな……ともかく、なんだか、悪くって……」
「気にすんな……別に堀田さんと付き合ってたわけでもないだろう? 割り切れよ」
そう言って青年はぽんと友人の肩を優しく叩いた。
そして、言葉を続ける。
「そのうち、ひょっこり帰ってくるんじゃないのか? そうだ、堀田さんが帰ってきたら、四人で飲もうぜ。自販機なら未成年でも買えるしさ」
「お前、しれっと堀田さんに手、出す気だろう?」
未だすっきりとはしてないようだが、少しだけ友人は頬を緩める。
それに合わせて、表情が少しこわばるのを感じつつも、厳も頬を緩めた。
「あっ、バレた? 飲ませたら、行くところまでって……冗談だよ」
「でも、堀田さん、お前だったら脈がないわけじゃないと思うけどなぁ」
「そっ、そうか? 意外とお前の方がいけるかもよ?」
「そうか? って、喜んでたら怒られるな。お前が行けよ、仲、良さそうだったじゃないか?」
「そう言うの、勘違いして、大爆死した奴、結構居るから……」
適当に調子を合わせた言葉を吐く度、胸が痛んだ。
胸の辺りから苦い物が逆流してくる。
視野の隅っこで史絵が震えてるのが見えた。
それでも、来ることのない日のことを、友人が楽しそうに語っているのを見たら、少しだけ、救われたような気がした。
そして、一人、先を歩いていた女性が振り向いた。
数段低いところから彼女は男達を見上げて、頬を緩める。
「私、飲んだことないよ、お酒」
量産型……なんて言った事への罪悪感を覚えるような女性らしい、美しい笑みだった。
その言葉に彼女の恋人が、少しだけ明るくなった声で応える。
「教えてやるよ」
そう言って友人は恋人の肩を強く抱いた。
「朝っぱら!」
女の明るい声が少し無理をしているように聞こえたのは、青年の気のせいであったのだろうか?
そして、それを確かめるべく、取り残された青年は足を一歩踏み出し、先を歩く二人へと声をかけようとした。
その時。
「……ごめん、部屋に居て良い?」
背後から声が聞こえた。
振り向けば、一つ上の階の踊り場でたたずむ史絵の姿が見えた。
「……ああ……」
短く答えて、厳はきびすを返した。
そして、小さな声で呟く。
「……ごめん」
それは去りゆく人であることを終えた者に届くような代物ではなかった。
その日の授業はいつも通り、午前中二コマ、午後二コマの四コマみっちり。どれも必修の科目で、落とすと途端に切羽詰まる代物だ。
その四コマの授業のうち、午前の部二つが終わった。
もちろん、話なんざ、ろくに頭には入っていない。おそらくは単位認定試験の時にはいろいろと面倒ごとが起こるだろう事は、たやすく想像出来るが、集中出来ない日って物も人生にはあるものだ。
まあ……大学に入ってからの厳には、そう言う日の頻度が妙に多いのだが……
午前の授業が終われば、ランチの時間。
「
「金がないから、家に帰ってインスタントラーメン喰う」
誘ってくれた正しにそう言葉を返すと、青年はサイドバッグを肩に引っかけ、ひな壇状になってる大講堂を後にした。
廊下に出れば他の教室やら行動やらから出てくる学生達の群。喫茶店だったり学食だったりと、各々、目的地へと向かっているのだろう。
その群れに交じって青年も校舎の外へと出た。
外は霞の掛かった晴天だ。うすらぼんやりとした空は春らしくもあったが、なんだか、むしゃくしゃした心をよりいっそう憂鬱にさせる。
その空の下、猫背気味になって青年は急ぎ足で歩く。
峠の中程にある三階建てのアパートへ……トントンと階段を駆け上がったら、彼は自身の部屋のドアを開いた。
厳の部屋の一番奥には、ベランダへと続く大きな窓ガラス。
うすらぼんやりとした空ではあるが、それでも日差しは暖かく、まぶしい……はずなのに、なぜか、部屋の中は陰気くさくて、鬱々とした空気に満たされていた。
その原因は、部屋の中央部に浮かぶ史絵であることに疑いを挟む余地はない。
小さく丸まった姿は、重力を感じさせず、まるで胎児のようだ。
「ただいま」
小さく呟くと、その胎児のような格好で黙っていた史絵がぴくん……と体を震わせた。
その史絵にもうひと言、彼女に向けて、青年は言った。
「暗いよ……」
「『いいとも』も『ごきげんよう』もないお昼にテンションは上がるはずないじゃん」
ぼんやりとした口調で応える史絵に軽くため息だけを吐いて、青年はシンクへと足を向けた。
今日のお昼は簡単にインスタントラーメン。適当に刻んだキャベツと適当に切った豚バラ肉、出来上がる直前に卵を落としたら完璧だ。
そのほんの一部を小さな取り皿の上に置いたら、残りは鍋のまま、寝室兼用のリビングへと運ぶ。
「その取り皿のは陰膳のつもり?」
ガラステーブルとテレビの間、厳の対面に腰を下ろして、史絵が尋ねた。
その問いかけに厳は軽く頷いて答える。
「この間からうるさかったからね」
「……具が入ってないよ」
「贅沢」
もちろん、史絵はそれに手を付けない。
食べるのは厳だけ。
ずるずるとラーメンをすすりつつ、テレビのスイッチをON。掛かったのは美味しいスィーツのお店の話。甘いものは嫌いじゃないが、それでもわざわざ、東京まで言って食べる気はないので、いらない情報と言って良いだろう。
そのチャンネルを適当に変えながら、青年はラーメンをすすった。
「今日、昼から応用数学と電気回路だっけ?」
窓の方へと視線を向けてる史絵が尋ねた。
ラーメンをすすりながらに厳は応える。
「そうだよ……」
「どっか、遊びに行かない?」
史絵の言葉に厳の箸が止まった。
片手鍋のとんこつ醤油ラーメンから顔が上がって、正面に座って窓の方を見ている史絵へと視線が移った。
その横顔は無表情で、感情を読み取ることは難しい。
その半透明な横顔を見やり、青年は言った。
「……すげーな、その二科目、サボれってか?」
あえて茶化すような口調で青年がそう言うも、史絵は窓の外へと視線を向けたまま、特に感慨もなさそうな口調で応じる。
「……じゃあ、終わってから」
「……どこ?」
「どこでも良いよ……」
その会話が終わり、厳の食事も終わって、一休みも終わるまで、結局、史絵がこちらを向くことはなかった。
昼からの授業もにも史絵は憑いてこずじまい。何をしてたのかはよく解らないが、一人で部屋に居たらしい。
授業が終わったら、史絵のいる部屋に戻って、教科書やらの入ったサイドバッグの代わりにヘルメットをゲット。スクーターに乗って、青年は再開発地区と呼ばれる海っぺりの一角に足を伸ばした。
バブル崩壊の煽りを喰らって開発が中断されていた埋め立て地だ。最近の景気回復を受けて、ぼつぼつと開発が再開されてきてるので“再開発”地区と呼ばれているらしい。
その海っぺりにあるJRの駅にスクーターを止めたら、海岸線沿いに出来た遊歩道をのんびりと歩く。
「なんか……デートっぽいね」
首の後ろに張り憑いている史絵がぼんやりとした口調でそう言った。
その言葉に厳が答える。
「一応、そのつもり……」
「へぇ……良いコース、良く知ってるね?」
「越してきた時、そこの駅で降りて、腹が減ったから飯屋探してこの辺りをぶらぶらしたんだよ」
「ああ……なるほど」
「ゴールデンウィークに彼女がこっちに来るとか言ってたから、その時にって…………ヤな事思い出したじゃねーか……」
「人のせいにしないの!」
明るい声でぴしゃりと言うと、史絵は「あはは」と声を上げて笑った。
それに青年も少し頬を緩めた。
ぼんやりと歩いてるうちに二人はフェリー乗り場の方にまでたどり着いていた。
なんて島に行くのかは良く知らないが、大きめの離島へと向かうフェリーが出ている桟橋だ。
そこから見える海は穏やかで、そろそろ、沈もうとしている陽の光に照らされ、きらきらと輝いて見えていた。
「灯台があるね、行ってみようよ」
史絵が背後でそう言い、肩口から右腕を伸ばして、指を差す。
その青と白のストライプがまぶしい袖とその先の指が指し示す方へと視線を向ければ、突堤の先に余り大きくはないが真新しい灯台がちょこんと鎮座しているのが見えた。
突堤の先まで四−五百メートルと言ったところか?
「良いよ」
軽く答える。
そして、その四−五百メートルを厳はぶらぶらと歩いた。
背後には幽霊がその存在を誇示するかのように冷たい空気を厳の首元にまとわり憑かせていた。
「だいぶん、日が長くなってきたね……この間までこのくらいの時間になったら真っ暗だったのに……」
「これからドンドン長くなるだろうな……暑いかな? 今年の夏……」
「どうかな……? でも、夏は暑い方が好きだな、うち」
「暑いのは苦手だよ」
「ふぅん……体つきの割にインドア派? 実家、道場だっけ?」
「うちの道場、クーラーがあったからな」
「……惰弱」
「うっさい」
独り言(?)がうるさかったのか、すれ違ったカップルには若干おかしな人を見る目を向けられてはしまったが、他は特に問題なし。
少し涼しくなり始めた晩春、夕暮れ時の海風を受けながら、二人は突堤の端っこ、赤い小さな灯台にまでやって来た。
遠くから見た時は小さく見えたのだが、近づいてみれば灯台なりの結構な大きさ。十メートルは優にありそうだ。
それを見上げながら、青年はぽつりと言った。
「どうせなら、夜に来た方がよかったか……?」
「そうだね…………ねえ、不動沢君」
ふわっと史絵が厳の首元から離れた。
「ん? 何?」
そして、彼女は灯台の入り口の横に立つと、寂しそうな笑顔を向けて言った
「ここでずーっと立ってるのも幽霊らしくて良いかな……?」
「……」
答えず、青年も灯台の入り口横、史絵とは逆側へと移動。そして、中腰になって、背中をコンクリートの壁に預けた。
そして、視線を右方向、史絵のいる方とは逆へと向ける。
そこには波の静かな内海、その向こう側には大きく赤くなった太陽が見えていた。
その視野の外側で史絵が言う。
「……不動沢君だって迷惑でしょ?」
海から史絵へと視線を戻すと、彼女は寂しそうな笑顔でこちらを見ていた。
その笑みを見ながら、青年はがりがりと無造作に頭をかいた。
そして、勤めてぶっきらぼうな口調で彼は言う。
「まあ……迷惑か迷惑じゃないか? って言われたら、迷惑だけど、だからと言ってここでぼさーっと突っ立っていられる方が迷惑だよ」
「……なんで?」
「……気になって、何回も見に来る羽目になるから」
「……気にしないで忘れれば良いのに……」
「出来るか……あほたれ」
そして、青年は駅の方へと視線を向けた。
大きなガラス張りの駅がゆっくりと黄昏の中に消えていこうとしている。
ぼんやりとその大きな建物やら、その建物から出てきたり、逆に入っていったりする人混みを眺める。
そろそろ、帰宅ラッシュも始まる頃だろうか? 人が増えてきたような気がする。
「桃林さん……花穂に会えたかな……?」
ぽつりと史絵が尋ねた。
「予定ではもう会ってる頃だね」
視線を史絵の方へと戻す。
壁際にフヨフヨと浮かぶ史絵、その透けた身体の向こう側にも海が見えた。
その史絵が空を見上げながら、言った。
「……忘れてくれたら良いのに……」
そして、厳がその言葉に応える。
「無理だよ……そんな事……」
話は一時間ほど、戻る。
その頃、藤乃は厳達が通う大学の最寄り駅に居た。
史絵の借りてるアパートは駅から徒歩数分、この辺りでは比較的開けた場所にある……とは言っても、所詮、田舎は田舎。コンビニや百均、パチンコ屋程度があるくらいで一本道を入れば、見渡す限り、田んぼ、田んぼ、時々、民家。
街中に比べると不便ではありそうだが、居心地はよさそう。
(あの坂道、毎日上がってたのかなぁ……?)
大学へと続く坂道をぼんやりと見上げつつ、藤乃はスマホのナビアプリを駆使して、史絵のアパートを捜した。
もっとも、そんなに迷う物でもない。
駅から徒歩数分、国道から一本奥に入った太めの町道、そこに言われた外見のアパートはあった。
入り口の所に書かれてた『コンコート佐山U』の看板。
築年数は結構な物らしいが、外壁は白く塗り直されていて、その古さを感じさせない。
四階建ての三階に史絵の部屋はあると聞いた。
(居るのかな?)
壁面に付けられた外階段をトントンと上がりながら、藤乃は考えた。
もちろん、確認なんて取れては居ないが――
「こっちに泊まってるなら、うちの部屋に居ると思う。予備の鍵は一応渡したし、先週末からずっとホテルはうちの家計状況だと無理だし……」
――との史絵の言葉は厳から伝え聞いた。
どこの家も世知辛い時代だなぁ……なんて、他人事のように思いながら、彼女は外階段から三階のフロアへと入った。
壁に張り付くように作られた通路、壁は腰ほどの高さで、外から流れ込んでくる風は一階よりも少し強め。
せっかく整えた前髪が崩れてしまう。
その前髪を少し意識しながら、史絵は六つある部屋の一つへと向かった。
302号室。
メモと部屋番号を二度ほど見比べる。
物騒な時代だからか、表札の類いは上がっていない。
間違いながないことを確認したら……と言うか、しても、藤乃は十秒ほど動かなかった。
実は人見知り。
人見知ってる間の方が冗舌になるタイプ。
それでも、引き受けたどころか、自分から言い出したことなんだから、やらざるを得ない。
十秒ほどが過ぎて、次の十秒が中程まで終わったところで、意を決して、藤乃はチャイムを押した。
ピンポーン……の音が室内から聞こえた。
ばたばた……大きな足音が部屋の中から響き渡り、鉄製のドアが結構な勢いで押し開けられた。
鼻先をかすめていくドア。一歩前に居たら、顔に当たってたかも知れない。
中から出てきた女性が大きな声で藤乃を出迎えた。
「お姉ちゃん!?」
しかし、相手が姉でないことを理解すれば、途端に彼女の表情は曇る。
高校生くらいの女性。話に聞く妹だろう。背中の中頃まで伸ばした黒髪、つややかにまっすぐ伸びた髪は、彼女が手入れを怠っていないことが見て取れた。伸び放題の史絵とはずいぶんと違う。着ている服も、少し短めのスカートにブラウス、カーディガン、こざっぱりとまとめられていて、センスが良いのが見て取れた。
そう言えば、眉は奇麗に揃えているし、うっすらとではあるがお化粧もしているようで、姉に比べるとずいぶんと垢抜けた感じがする。
総論的には史絵には余り似てない、可愛い女子校生……と言ったところだが、どことなく疲れているようにも見受けられるのは、気のせいではないだろう。
その彼女が藤乃の顔をまじまじと見ながら言った。
「あの……どちら様で?」
「私、史絵さんの友人で桃林藤乃と言います……あなたは妹さんの花穂さんですか? お姉さんからお話はかねがね……」
「そうですが……あの……姉とは? 姉は今留守なのですが……」
いきなり名前を呼ばれたからだろうか? いぶかしむように彼女は藤乃の顔を見つめる。怪訝そうな表情は彼女が不信感を持っていることを如実に示しているようだった。
「はい、事情は存じています。共通の友人がいまして……それで紹介して貰ったんです。それとお互いのバイト先も近くて……終わった後に少し遊びに行ったりもして……その時によく出来た妹が居る……と」
昨日、打ち合わせをした嘘をまくし立てる。
もっとも、史絵が花穂を『よく出来た妹』と評価していたのは事実だ。
冷静に考えれば少し喋りすぎたか? とも思ったが、疑われているわけではなさそうで一安心。藤乃のことを怪訝そうに見ていた妹――花穂の頬が少しだけ緩んだ。
「成績がよかったのは姉の方です。それなのに、私のことを『よく出来た妹』って、吹聴するから、恥ずかしくて……」
藤乃の言葉に花穂が少し照れ笑いを浮かべて見せた。
少しはにかむような笑い方。
「そうやって笑うと、お姉さんによく似てますね」
素直に思いついた言葉が口からこぼれた。
すると、彼女は笑顔の頬を更に赤くし、少し嬉しそうな表情で応えた。
「そうでしょうか? あまり似てないとよく言われますが……」
「似てますよ」
「そう言われると嬉しいです」
「良かったら、お茶でもどうですか? 駅の向こうにファミレスがあったと思います……姉の話を聞かせて下さい」
「ええ、喜んで……」
花穂の提案に藤乃が素直に頷くと、彼女はいったん部屋のドアを閉めて、奥へと引っ込んだ。
そして、出てきた時にはその方から小ぶりではあるが可愛らしいハンドバッグがぶら下げられていた。
史絵のアパートを出た二人が向かったのは、大学から見て駅から更に向こうへ十分ほど行ったところにあるファミリーレストランだ。
日本全国どこにでもあるファミレスチェーン、値段は安くて味もそこそこ。藤乃も時々は利用している系列の店だ。
店の中には学校帰りなのだろうか? 女子高生らしき一団が一つ。他に独り者の客が何人か……七割方は空き家と言った感じだった。
その店舗の中に通され、窓際の禁煙席に二人は案内して貰った。
そして、案内してくれたウェイトレスに二人ともドリンクバーだけを頼んだ。
「残念ですが、私もお姉さんがどこに行って、今、何をしてるのかは……」
「……そうですか……」
藤乃の言葉に、対面の席に座った花穂の表情が曇る。
藤乃の胸が少し痛むも、出来る限り、表情には出さず、言葉を続けた。
「……私は他学の学生なので、お姉さんの交友関係なんかも良く知らなくて……ただ、お姉さんの部屋に誰かが出入りしているようだという話を聞いて、帰ってきているのかと思って、訪ねてみたんです」
昨日考えた嘘を並べる。
やっぱり、胸が痛い。
今、自分がどんな顔をしているのだろうか? と言う愚にも付かない疑問が頭をよぎる。
それを確認する術はなく、ただ、正面に座った花穂は寂しそうにうつむくのを見るだけ。
「……こちらで姉を捜しているのですが、ずっとホテル暮らしも出来なくて……」
「お一人で?」
「いえ……今朝まで母が……父もほっとけないので、今朝一番の電車で一度帰りました。今晩にはまたこちらに来ると思います」
「……そうですか……」
少し間を置くように、藤乃はテーブルの上に置かれたカップに手を伸ばした。
インスタントよりかはマシと言った程度のコーヒーに一口付ける。
それに習うかのように花穂もアイスティのグラスを口に運んだ。
互いのカップとグラスがテーブルの上へと返される。
二人の言葉が途切れる。
遠くでクラクションが鳴るのが聞こえた。
そして、先に口を開いたのは藤乃の方だった。
「……高校生……ですよね? 学校の方は?」
藤乃の問いかけに花穂はバツが悪そうに舌をうつむき、答えた。
「…………休んでいます」
「差し出がましいようですが……こちらに居ても出来ることは限られてると思いますが……」
「解っています……でも、たった一人の姉なんです……何もしないでは居られなくて……」
絞り出すような声に藤乃は天を仰ぎ見た。
木目風のクロスが貼られた天井、ぶら下がっているペンダントライト……端っこの方には埃も見える。
そして、それらが少しだけ滲んだ。
「なにか?」
不思議そうな花穂の声が聞こえた。
それに合わせて、視線を下ろす。もちろん、視野を滲ませた物はバレる前に指で軽く拭うことを忘れない。
そして、藤乃は取り繕うように早口で言った。
「あっ、いえ……史絵さんも花穂さんのことを『たった一人の妹』って、言ってたなぁって思い出しちゃって……」
「……そうですか……一緒に暮らしてた頃は、姉が何を考えてるか、よく解らなかったんですよね……」
「そうなんですか?」
藤乃が尋ねると花穂は少し頬を緩めて、答える。
「県内でも有数の進学校に合格して、一年、二年の二年間は皆勤賞に近い感じで登校してたのに、
「にっ、二ヶ月……ですか? 生理痛が?」
状況も忘れて素っ頓狂な声を藤乃は上げた。
「はい……毎日、毎日『生理痛だから休む』って……それで、母と父が詰問したら『行く気が無くなった。家で勉強して、大検とる』って……本当に、訳解らなくて……」
苦笑い……と言うのでもないのだろうか? どこかその頃のことを懐かしむような笑みを浮かべて、彼女は言った。
それに藤乃も頬を緩める。
「あはは、一応、理由はあったみたいですよ? 詳しくは聞いてませんし、多分、聞いても、本人にしか、解らないんじゃないんですかね?」
「そうですね」
互いに少しだけ笑い合う。
不意に、女子高生達の笑い声が聞こえた。
正面に座っている女性と同じ位の年齢の女性達。
明るく、屈託のない、笑い声だった。
そして、今度は花穂の方から口を開いた。
「……だから、今も、本人にしか解らない理由で雲隠れしているんだと……思います」
「……私もそうだと思います。ですから……何か解れば連絡をしますから……一度、家に帰って、学校に行かれてはどうでしょうか?」
「…………」
花穂はクシュンとうつむき、そのまま、黙り込んでしまった。
それに合わせて、藤乃も黙る。
視線は窓の外……国道を行く車達へと向けた。
話し込んでる間に時間は結構すぎたようだ。
外はずいぶんと薄暗い。
女子高生達の声がやけに遠く、現実離れ……まるでチューニングのずれたラジオのように聞こえた。
「……少し、母と話し合ってみます。どちらにしても、もう、母がこちらに向かってますし……」
視野の外から聞こえた声に視線を戻すと、花穂が泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「……そうですね、差し出がましいことを言いました」
「……いいえ、あの、連絡先を……」
「ああ、はい……」
結局、この日、藤乃は花穂と互いの携帯の番号やメールアドレスを交換して別れることとなった。
そして、ファミレスの出入り口、別れしなに花穂は切羽詰まった表情で、藤乃に尋ねた。
「姉は……元気ですよね?」
その問いかけに藤乃は答える。
「……そう、信じてます」
そう言った自分の表情がどうなっていたのか、彼女自身に調べる術はなかった。
ただ、帰りの電車の中、彼女は声を押し殺して泣いた。
そして、彼女は自身のアルバイトが今日は休みであることに安堵していた。
今日の藤乃は公休日。
普段なら藤乃が入るレジに、今日は厳がいた。
「ここで突っ立っていようか?」
なんて事を言ってた史絵も、もちろん、実行してるわけではなく、素直に店に着いてきていた。
多少は機嫌が直ったというか、気分も晴れたようで、彼女は気ままに店内をふらふら。他人様が立ち読みしている本を覗き込んだり、頼んでもいない書架の整理をやってみたりと、適当に遊んでいた。
後は愛がしれっと注文していた本を取りに来たり、その時――
「予約入れてるから、十二時半にあそこの店に来てね〜」
――と、爆弾発言を一つして帰ったくらいは、割と平穏無事に終わった。
まあ、勝手に『予約』を入れられてる時点で、平穏無事からは結構な距離が出来てしまっているのだが……
「お疲れ様でした」
そんな感じで一日の営業が終わって、恒例のシャッター前でのお別れ会。
一人少ない人数ではあるが、いつも同様にぺこりと頭を下げて、青年は中年店長を見送った。
昼は暖かくなってきているが、夜はまだまだ寒い。特にスクーターで風を切って走ると結構辛い。例の染み抜きに成功したジャケットは今夜も大活躍だ。
そのジャケットの中からスマホを取りだし、中身を確認。
着信はなかったようだが、藤乃からは史絵の妹に会って話をしたこと、その妹から週末には帰って、週明けからは学校に通うって連絡があったことが、LINEのメッセージで知らされていた。
それから、愛からは『予約 逃げるなよ』のメッセージ。
前者はともかく、後者は頭が痛い。
とりあえず、後者のメッセージはいったん棚上げ。心の棚の中に片付けると、厳はスクーターのシートに腰を下ろした。
そして、史絵に藤乃からのメッセージを見せた。
「……藤乃さんにありがとうってメッセ、送っておいて……」
「りょーかい」
史絵の言葉に軽く答えると、厳はスマホの表面を撫でてメッセージを作り始める。
メッセージを読んだこと、ねぎらいの言葉、それから史絵からの伝言……適当にまとめたメッセージを作っていると、背後で史絵がぽつりと言った。
「不動沢君にも藤乃さんにも沢山、嘘を吐かせちゃったな……ごめんね」
その言葉に厳のメッセージを作る指先が止まった。
それに気づいてるのか気づいてないのか……史絵が言葉を続けた。
「子供の頃……親や学校の先生に言われなかった? 『一つ嘘を吐いたら沢山の嘘をつき続けなきゃいけない』ってさ」
似たようなお説教されたような記憶はある。
されど彼は何でも無いような口調で答えた。
「さあ……どうだったかな? 忘れたよ」
「そっか……うちはよく言われたんだよね……『一つの嘘がもっと多くの嘘を産む』とかさ……まあ、結果、『生理痛で起き上がれない』を二ヶ月言い張るような適当な娘になったわけだけどさ」
「あはは……でもさ、嘘を吐いたのは堀田さんのせいじゃないよ。素直に喋ったら、面倒ごとに巻き込まれるからだよ。堀田さんのことを考えればさ、素直に全部ぶちまけるのが一番だって……そしたら、少なくとも供養くらいはして貰える。陰膳だって毎晩、もうちょっとマシな物を貰えるよ」
スマホの表面を撫でるのを再開しつつ、青年はそう応えた。
答えながらに作るメッセージの文面、それは行ったり来たりを繰り返して、なかなか、一つの文章として完成しない。
その背後で史絵が静かな声で言う。
「ううん……違うよ。面倒ごとに巻き込まれたくないんならさ、ほっとけば良いんだよ……うちの事も花穂の事も……それなのに、わざわざ、巻き込まれてくれてる。ありがと。本当、感謝してる」
スマホの上の指が止まった。
文面はまだ出てきてない。
そして、彼は冗談めかした口調、軽い口調で答えた。
「……どう致しまして……そう思うなら、さっさと成仏してくれ」
「あはは、じゃあ、このまま、フラッと居なくなっちゃおうか? それで成仏した物だと思ってくれれば良いよ」
「成仏するときは、
「ハードル、高っ! なんかのエロゲーみたいで嫌だよ」
なぜか楽しそうに答える史絵の声に頬を緩めて、青年はスマホの上で指を動かし始める。今度は少しはメッセージの文面も前に向いて進み始める。
もっとも、内容はどうって事無い代物なのだが……
そして、それを藤乃と愛の元へと送って、彼は言った。
「さてと……行くか……なんで、こうなったんだろうな?」
思わずため息がこぼれ落ちて、それがまだまだ寒い夜風に乗って流れていく。
明るすぎる繁華街の空に星はなく、吸い込まれていきそうな漆黒だけが見えていた。
その空の下、史絵が言う。
「覗きに行くね」
「ふざけんな、ばーか」
黒い空にスクーターの軽い排気音が一つ、響き始めた。
ご意見ご感想、お待ちしてます。