正体不明の女

 さて、夕方から厳はいつものようにアルバイトに精を出していた。
 今夜は返本作業が早めに終わったので、それからは閉店まで店内を見回り。うろちょろしつつ、書架の整理と後は万引き防止。薄暗い倉庫での仕事が短めだったせいか、今夜の史絵はずっと厳の背後に憑いて回っていた。
「心なしか、最近、肩がずしーんと重いんだよな……」
「疲れてんだよ」
「憑かれてるんだよ……」
 右手で左肩を揉んだり、左手で右肩を揉んだり、そんな中でのくだらないやりとりは、店の隅っこ、実用書コーナーの余り人の来ない辺りで執り行われた。
 もはや、何が『日常』なのかはよく解らない感じがしてきてるが、ともかく、返本して、書架の整理をやってって言う仕事は平々凡々、特筆するような自体一つ起こることなく、普通に終わった。
「お疲れ様でした」
 シャッターを閉めた店舗の前、人通りもほぼなくなった商店街の中、いつも通りに厳と藤乃の学生バイトと中年ハゲメタボ三重苦の店長とが、ぺこりと互いに頭を下げ合う。
 そして、最初に頭を上げた中年が軽く手を振り、若者二人に言った。
「それじゃ、また明日」
 軽く手を振り、軽い口調でそう言うと彼は夜の商店街へと消えて行く。
 そして、取り残されるのは厳と藤乃、それから一人蚊帳の外だった史絵、この三人。
「どうしよ? 愛さん、いつ来るかな?」
 辺りをきょろっと見渡し、藤乃が何気ない口調でそう言うと、厳も同じように辺りを見渡した。
 辺りに愛の姿はもちろん、他の人通りすら大して見えない。古びたアーケードの下に居るのは、本屋の店員と幽霊一人の合わせて三人だけ。
 そんな寂しげな商店街を見ながら、青年はポリポリと頭をかいて、言った。
「まあ……桃林さんのアパートは愛も知ってるし、そのうち、来るんじゃないのか? 一応、LINEはしておくよ」
 そう言って厳はスマホを取りだし、一足先に藤乃の部屋におもむく旨、メッセージを送っておく。
 そして、藤乃のアパートに向けて、厳はスクーターを押して歩き始めた。
 スクーターの向こう側には藤乃の姿、そして、背後には首にぶら下がっている史絵。話題はもちろん、帰ってきたと言われている女子大生の話だ。
「名前は赤木あかぎ佐和子さわこさん、法学部の元三年……って事になるみたい」
「元?」
 藤乃の言葉に厳が尋ね返すと、彼女は小さく頷いた。
「辞めた……って噂。まあ、履修表出してないって言うんだから、授業は受けられないんだけどさ」
 と、藤乃がそこまで話をしたところでブルッ! と、ポケットに放り込んでいたスマホが小さく振動をした。
 その進道に足を止め、ポケットに手を突っ込む。
 取りだしたスマホを見れば、そこに表示されているのは愛からのメッセージ。
『直接 行く』
「……――だってさ」
 軽く肩をすくめて愛の端的なメッセージを周りの二人に伝える。
 そして、こちらもこちらで端的に
『りょーかい』
 そのひと言だけを返して、青年は再び、足を進め始めた。
 藤乃は相変わらず、自宅にまっすぐには帰らず、遠回りの道を選んでいた。
「……あのさ、不動沢君……」
 それまで黙っていた史絵が背後で口を開いた。
「なに?」
 史絵の声に厳が足を止めた。
「どうしたの?」
 史絵の声が聞こえない藤乃は厳よりも一歩余分に進んでから、振り向く。
 そして、史絵は厳の頭の上にまで登ると、そこから身を乗り出すような格好で口を開いた。
「その大学生が帰ってきてるって事は、あの時に、あの場所で、あんな死に方をした人がどこの誰か、誰も解らないって事だよね?」
 史絵が頭の上でそう言った。
 厳からは史絵の表情は見えていないが、その口調にいつもの快活さはなく、どこか沈んだもの。
 そして、その言葉を藤乃に伝えれば、彼女はいたたまれないように視線を地面の方へと逸らした。
「……そういう事になる、かな……?」
 小さな声で、藤乃は言葉を絞り出した。
「……難しいって言うのは解るんだけどさ……調べられないかな? どこの誰なのか……あの時、あそこで殺された挙げ句、死体ごと、この世から消えちゃった人が必ず居るんだよ。だから、その人の名前、どうにかして……」
 そこまで言うと史絵は口をつぐんだ。
 厳も藤乃に史絵の言葉を伝えることも忘れて沈黙を守る。
 藤乃も催促はせず、厳の方を沈んだ表情で静かに見つめる。
 表の大通りを走る車がフォーンを鳴らすのが聞こえた。
「きっと、その人のことを知ってる人は、みんな、その人が生きてるって思ってるんだよ。だから、誰も弔わない。そして、あの人が死んだことを知ってるうちは弔いの時に呼んであげる名前も知らない……寂しすぎるよ」
 そう言った史絵の声はどこか涙声になっているような気がした。
 しばしの沈黙……その後、ようやく、その史絵の言葉を厳は藤乃に伝えた。
「あっ……」
 小さな声を上げ、藤乃は反射的に目を伏せる。
 しかし、すぐにその顔を上げると、厳の肩をぽん……と一つ叩き、彼女は言う。
「不動沢君は身の程を知らない大学生だから、きっと、どうにかしてくれるよ。ほら、あそこのお店に勤めてたってのは、確定してるんでしょ? そしたら、山田さんもそこのオーナーと知り合いだって、言ってたから、調べて貰えるんじゃないのかな?」
 そう言って、藤乃は頬を緩める。
 それに釣られるように厳も緩く笑みを浮かべて、首を縦に振った。
「解るかどうかはさ、解んないよ?」
 厳が苦笑い気味の表情でそう言うと、史絵はすっと音もなく、厳の背中から降りた。
 そして、彼女は厳の前へと回ると、ぺこり……と深々と頭を下げた。
「ありがとう。ただでさえ、面倒ごとに巻き込んでるのに……あと、桃林さんにもお礼、言っておいて」
「ありがとう、だってさ、桃林さん」
「いえいえ、たいしたことじゃないよ」
 三人で笑い合うと、史絵は再び源の背中に取り憑き直し、取り憑かれた厳が歩き始めれば、藤乃は彼が追いつくのを待った上で隣に並んで歩き始めた。
 先ほどよりかは、多少なりとは言え、雰囲気が明るくなった。
 スクーターを押しながらではあるが、その足取りも軽い。
 その足がちょうど県道へと繋がる交差点へとさしかかった。
 その県道に出れば道を行く車やら仕事帰りのサラリーマンやOL、逆に出勤するお水関係者なんかで、途端に賑やかになってくる。
 その道の両側にはコンビニがあったり、例の風俗店がかかげるネオンがけばけばしく見えたり、路地の雰囲気とは全然違ってくる。
 そのコンビニの明かりが見えてきた頃、厳の背後で恨みがましい言葉を漏らした。
「ここのオーナー、私が三日くらい居なくなっただけで、退職扱いしやがったんだよね……こっちはそれどころじゃなかったのに」
 背後から聞こえるコメントしづらいぼやきは聞こえないふり。
「あっ……チョコレートの買い置き、なかったんだ……」
 そのぼやきが聞こえない藤乃が、ふと思い出したかのようにそう言った。
「それじゃ、買っていく?」
「そうだね」
 厳の提案に藤乃が素直に首を縦に振った。
 そして、青年はスクーターを押してコンビニの敷地へと足を踏み入れた。
 街中のコンビニとあって駐車場はほとんどない。かろうじて二台分ほどの駐車スペースがあるだけだ。
 その片隅にスクーターを押し込み、スタンドを立てる。
 ガッコッとスタンドを立て終えた、ちょうどその瞬間。コンビニの自動ドアが開き、その中から二人の女性が姿を現した。
 一人は四十がらみの中年女性、もう一人は高校生くらいだろうか?
 おそらくは母娘だろう。
 その二人に目が行ったのは、出入り口付近でコンビニの制服を着た中年男性となにやら話をしていたからだ。
 何度もぺこぺこと頭を下げてる姿はそれがただの客ではないことを教えるに十分であり、ただの客ではない者の存在が青年の興味をかき立てさせた。
「もめ事かな?」
 厳は半ば無意識のうちに呟いていた。
「万引きした子供でも引き取りに来たとかじゃない? この辺り、多いよねぇ〜」
 答えたのは藤乃だ。気のない返事はたいして興味が無いのだろう。
 そんな当たり障りのない会話で流されようとしていた出来事は、三人目の人物によって、途端に他人事ではなくなる。
「お母さん……花穂……!」
 史絵の震える声に、青年は反射的に叫んでいた。
「マジで!?」
「どうしたの?」
 史絵の声が聞こえない藤乃が尋ねれば、厳は端的に答える。
「あの二人、堀田さんの家族だって……」
「うそっ!?」
 藤乃も大声を上げるも、慌てて、その大きく開いた口を小さな二枚の手のひらで覆い隠す。
 そして、厳の方へと顔を近づけると、まるで悪いことでもしているかのように、ひそめた声でぼそぼそと言った。
「どっ、どうしよう……?」
 藤乃の言葉にチラリと背後に視線を向ける。
 背後に突っ立っていた史絵はふるふると何度も首を左右に振っている。
 真っ青に血の気の失せた顔、震える唇、がくがくと笑ってる膝、今にも泣きそうな瞳は焦点もろくに合ってなくて、こっちには向いているが、こっちもどっちもどこも見てないって状況がありありと解る。
 そして、彼女はうめくように言葉を繰り返す。
「会えない、会いたくない、声も聞きたくない、あっち行って、どっか行って……来ないで……来ないで……来ないで……」
「……ダメだ、テンパってる……逃げなきゃ、まずいかも……」
 瞬間、するっと厳の首に何かが巻き付き、彼の身体を引き寄せた。
 ふんわりと女性らしい甘い香りが青年の鼻腔をくすぐった。
「わっ!?」
 精一杯背伸びした藤乃のほっぺが厳のほっぺに押し付けられ、その吐息が青年の耳たぶを優しく撫でる。
 そのまま、彼女は耳打ちをする。
「黙って。バカなカップルがいちゃついてる風にして……多分、あの人達、こっちに来る」
 ドクドク……と脈打つ鼓動、頭が真っ白になりそうな感覚を味わいながら、青年は黙って、藤乃の腰に腕を回した。
 柔らかく大きな塊が胸に強く押し付けられた。
「チラシ、持ってる……多分、堀田さんが居なくなったときの道をたどって、目撃者とか捜してるんだと思う……」
 藤乃がそう言ったかと思うと、間髪入れずに中年女性の声が聞こえた。
「すいませ――あっ、ごめんなさい!」
 二人の様子を見れば、女性は慌てた声で詫びて、パタパタと逃げ出すように足早にその場から去って行った。
「お母さん! そんなのほっとけって言ったじゃないの!!」
 遠くから娘の怒鳴り声が聞こえた。
 そして、また、背後で声が聞こえる。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……許して……みんな、許して……」
 藤乃の温もりと柔らかさよりも、その泣き声の方が与える罪悪感だけが青年を満たしていった。

「そんな面白いことがあったんだぁ〜」
 そう言ったのは一人“先に”藤乃の家の前に来ていた愛だ。
 厳達が帰ってきたときには、エントランス隣の自販機の前で、煙草をぷかぷか吸っていた。
 しかも、ウンコ座りで。
 しかも、割と短めのタイトスカート。
 多分、方向をがんばったら見えてたと思う。
 女性二人の視線が合ったから、がんばれなかったけど……
 タイトスカートにノースリーブのトップス、むき出しの肘をこたつの天板の上に突いてる彼女へと、厳は視線を向けた。
「おもしろかーねよ……」
 吐き捨てるように言って、青年はこたつの上へと手を伸ばした。
 そこには藤乃が煎れたインスタントコーヒー。普段なら大きな木製のボールに一口チョコが山盛りになってて、それを摘まむところだ。
 しかし、残念ながら、今日はなし。
 仕方ないから、熱いコーヒーだけをくいっと一口飲む。
 そして、そのコーヒーカップをテーブルの上にコトンと置いて、青年は一息吐いた。
「……平日にもこっちに居るって事は、こっちに泊まってんのかもな……」
 青年がそう言うと、厳から見て左隣、真っ青な顔でうつむいていた史絵がぼそっと泣きそうな声で言った。
「……花穂、学校、どうしてるんだろう……? 三年で、大事な時期なのに……」
「しっかし……アレだよね……この間はごく普通に女の子が座ってるだけだったんだけど、今日はなんて言うか……百パー、悪霊の居る部屋の体裁……心なしか、蛍光灯の明かりまで暗い感じがするんだけど……」
 と、若干呆れ気味に言ったのが、家主で厳の正面に座っている藤乃だ。
 今日の彼女は、フリルのロングスカートに白いブラウス……は良いのだが、そこに抜き身のポン刀が合わさると何とも言えない破壊力が生まれることを、青年は始めて知った。
 どうやら、納刀したままよりも抜刀してるときの方が、そして、単に抜刀するだけよりも構えてる方が史絵を始めとするこの世あらざる物をはっきりと見ることが出来るらしい。
「ベランダから外見たら、公園のトイレの所に怪しげな影が見えることがあるんだよねぇ……」
「……止めようよ、そういう事、言うの」
 藤乃のなぜか嬉しそうな口調に厳はうんざり……といった感じに肩をすくめた。
 そして、こたつの上へと伸びてる切っ先から顔を避けるように足を崩すと、改めて、彼は言った。
「行方不明になった同級生は幽霊になって帰ってきて、殺されかけた同僚はポン刀を正眼に構えてて、堀田さんの妹に、サイコ野郎に殺された謎の人物……俺の大学生活、面倒ごとばかりじゃねーか……」
 指折り数えて、厳はうんざりと言った感じで大げさに肩をすくめて見せた。
 その厳の芝居がかった仕草に、愛が肘を天板に突いたままで手を上げた。
「あっ、他のはともかく、最後の一つは若干の情報あり」
 若干のおどけた口調ではあるが、目は真剣。顔の前で両手を組んだら、ゆっくりと言葉を続けた。
「急に聞いたから、記憶は不確かだし、確認はしてないって前提で聞いてね……ここしばらくで急に居なくなった人は今日いた黒服や嬢の記憶にはないってさ。ひと月居なくなって帰ってきたってのが、藤乃が言ってた大学生だろうし、後は本業が忙しくなったらすっぽかす常習OLってのもいるけど、こっちとは連絡が取れてるみたい。後は、急に来なくなったなぁ〜と思ってたら、しれっとした顔で他の店に居たって言うのも居るみたいだけど……」
 愛がゆっくりと落ち着いた口調で語り終えるまで、言葉を差し挟む者は居なかった。
 そして、彼女は一区切り入れるかのように自身の手元にあるコーヒーカップへと手を伸ばした。
 形の良い唇に薄い飲み口のカップが触れて、その中を満たす褐色の液体が薄桃色の唇の中へと流れ込んでいった。
 そのカップがテーブルの上へと戻される。
 それを合図に……と言うわけでもないが、ほぼ同じタイミングで厳は口を開いた。
「じゃあ、やっぱり、どこの誰か解んないって事? あのサイコ野郎が嘘を言ったか、それとも間違えたか……」
「まあ、誰の記憶にも残らずに忘れ去れてる子が居るのかも……ってのも、ゼロではないだろうけどね?」
 厳の方へと向いてそう応えると、愛はテーブルの上の空っぽのボールの減りを指先で軽く撫でた。
 整った木目の上に奇麗に塗られたニスが丸いシーリングライトの光を受けて、柔らかな光を放つ。
 その端っこをパチン……とデコピンの要領で、愛の細い指先が軽く弾く。
「ただ、そうなると……あの三年生がひと月も何してたんだ? って言うの……気になるよね?」
 ずいっと……日本刀を構えたまま、藤乃がこたつの天板の上へと身を乗り出す。
 当然、その分、切っ先は厳へと近づく。
 両手を背後について体を反らすような感じ、引き気味の表情を藤乃へと向け、青年は言った。
「危ないから引っ込めて、それ……何か、事情があったんじゃないのか? どんな事情があれば履修表も出さずに行方不明になって、何事もなかったように帰ってこれるのか知らないけど……――」
 と、そこまで喋ったところで、厳はふと、言葉を句切った。
 そして、数秒考えたら、彼はゆっくりと、刃を突き出してる藤乃と木製のボールを指先で撫でてる愛の顔を交互に見比べ、言った。
「――って、何事もなかったように帰ってきたのか?」
「うーん……少なくとも、普通にバイトには来てる見たい」
「学校には来てないってさ」
 愛と藤乃がほぼ同時に言うと、厳はうーん……とうなるような声を上げた。
 そして、数秒考えたところ――
「そんなのどーでも良いよ!! 花穂だよ、花穂!! うちの妹、どうにかしてよ! たった一人の妹なの!!」
 ――って言う史絵の怒鳴り声に青年の意識がこちら側へと引き戻された。
 そして、青年は少しだけ苦笑いを浮かべたら、史絵の方へと顔を向けて言った。
「まあ、確かにどーでも良いっちゃー、どうでも良いか……人それぞれ、色々事情があるだろうしさ」
「そうだよ!? そりゃね、あの時に殺された人がどこの誰か、調べて欲しいよ!? でも、それはあくまでも、うちの家族がそれなりに平和に生活してるって前提があった上での話なの!!」
 一息に喋り終えると、彼女はぜぇぜぇと肩で息をし始めた。
 上気した真っ赤な顔が注目を浴びていることを知ってか、更に赤くなった。
 そして、クシュン……とうつむくと、彼女はぼそぼそと漏らすように呟いた。
「……なんで、生きてるときにこれだけしゃべれなかったんだろ……? なんで、うち、もう、死んじゃったんだろ……? 花穂がうちを捜して学校を休んでくれるようなだなんて思ってなかった……」
 史絵の肩が震える。
 こたつの天板の上に置いた両手は固く握りしめられて、血の気を失っているようだ。
 生きてる女性と何も変わらない。
 しかし、その身は透けていて、背後、玄関へと続くドアが微かに見えている。
 それが厳には辛かった。
「…………」
 気の重い沈黙が藤乃の部屋を満たした。
 まっすぐに構えているのが辛いのか、白斬の切っ先がすーっと降りて、厳の胸元へと近づいてくる。
 切られることはないと思うが、若干、怖い。
 そして、その刃がついに木製のボールへと達し、そのボールがパカン! と二つに割れた。
 その切れ味に厳が軽く引いた、まさにその瞬間、藤乃が口を開いた。
「……じゃあ、さ、私がその妹さんに会ってみようか?」
「えっ?」
「お母さんも一緒みたいだし……余り、口出し出来ることも無いと思うけど……男の不動沢君が会うよりかは良いだろうし……まさか、本当のことは言えないけど、なんとか帰るように言ってみる」
「……でっ、でも……」
「ううん……出来ることならなんでもするよ」
 と、藤乃と史絵がしんみり話してる横で、厳と愛はぱっかん真っ二つになった木製のボールを一つずつ持って、その切断面の美しさに感動を覚えていた。
「凄いね……木ってこんなに奇麗に切れる物なんだ?」
「じーさんが居合いで巻き藁切ってたけど、ここまではなかなか……」
 そう言って二人は互いに持ってる器の破片をひっつけてみた。
 奇麗にひっつく。木工用ボンドがあれば、貼り付けて、再利用出来そうだ。
 そんな奇麗な切り口に、二人は
「おぉ〜」
 と、感嘆の声を上げた。
 で、十秒後。
 二人は頭を抱えて悶絶していた。
 その横で、峰側を下に向けた白斬を握りしめ、藤乃が唖然としている史絵に向かって言う。
「出来ることと出来ないことを数えたら、出来ないことの方が圧倒的に多いけどさ……それでも出来ることはしてあげたいんだよ……」
「……ありがとう……」
 そう言って史絵は顔を上げた。
 涙は流れていないし、目も赤くはなっていない。どうやら、嗚咽は出来ても、泣くこと、特に涙を流すことは出来ないようだ。
「涙を流したら、体積が減るからだよ」
 そう言って彼女は自嘲気味に笑って見せた。
 それに藤乃は少しだけ、困ったような頬を緩めた。
 そして、峰打ちの痛みから一足先に復活した愛が言った。
「じゃあ、史絵の妹の一件はひとまずこれでいいとして……後は、戻ってきた女の話だよね?」
 愛はすっきりしたいつも通りの顔をしているが、どーもあの腐れなまくら鉄筋(白斬のこと)は厳を未だに嫌っているらしい。同じ程度にぶん殴られたはずなのだが、ダメージは厳の方はずっと大きい。
 そのくらくら痛む頭を押さえながら、彼は絞り出すように答えた。
「……そっちはどーでも良いで蹴りが付いたんじゃないのか……?」
「どーでも良い事を気にするのが女って生き物じゃないの? 厳のフラれっぷりとか」
 パチン……と右目の閉じてのウィンク。愛らしく微笑む愛の姿に、野郎が語ってる内容のヤバさも忘れて、一瞬だけ青年は言葉を失う。
「えっ? 何? それ? 超聞きたい!?」
「あっ? 聞く? もう、激最低なの!!」
 その隙に余計なことを尋ねるのが藤乃で、言うのが史絵だ。
「止めろ! てか、堀田さん、さっきまで、泣いてなかった!?」
 そして、悲鳴のような声を上げたのが、厳である。
 しんみりした空気はあっと言う間に霧散して、女性達の楽しげな笑い声が部屋を満たした。
 その笑い声が落ち着くと、愛は自身が端っこに置いたショルダーバッグを引き寄せた。生意気にもコーチとか言うところのブランド品。ダークブラウン、長めの肩紐が付いたシンプルな作り。
 それをパカン……と開いたら、財布を取り出す。こちらも何処かのブランド品。大きな……男の目から見れば何が入ってるのか、不思議になるような大きな財布を開ける。
 何をしているのか?
 それを理解出来る者は、この部屋の中には居なくて、三人が三人とも彼女の一挙一動に見守っていた。
 その注目の中、愛は財布の中から一枚の紙切れを取りだた。
 その一枚の紙切れが、厳の目の前、半分ほどに減ったコーヒーカップの前へと置かれた。
 よく解らない紙切れ……を拾い上げてみれば、ファッションヘルスの無料チケットだった。
 しかも、オプションありありVIPコースとか、書いてある。
 その紙切れと満面の笑みの愛を見比べてみる。
 だいたい、四回ほど。
 そして、五回目に愛の顔を見たとき、彼女は満面の笑みのままで言い腐った。
「れっつごっ!」
 突き出された右拳には高々と天を指し示す親指、そのサムアップに猛烈に腹が立った。
「どこにだよ!?」
 思わず叫んだ厳に向けて、愛はサムアップしていた親指をムニッと人差し指と中指の間から顔を出させる。
 余り良くないハンドサイン、それを厳の方へと更に突き出したら、彼女は言い切った。
「コンビニ前のヘルスに決まってんじゃん?」
「またんかい! おまえ!」
 怒鳴りつける厳を無視して、愛は言葉を続ける。
「あっ、予約は私の名前で入れとくから。ちゃんと……えっと……誰だっけ?」
 明後日の方向に視線を巡らせ、愛が小首を傾げると、答えたのは藤乃だった。
「赤木佐和子さん」
「ああ、それそれ、源氏名は別だと思うけど、まあ、本名は店も把握してるだろうから、大丈夫だよ。善は急げで明日ね」
「大丈夫じゃねーよ!! もう、どっから突っ込んで良いのか、俺も解んねーよ!!」
 がんっ! とこたつの天板に手のひらを叩き付ければ、一つ、手付かずだった史絵のカップが波打った。
 そして、数滴がソーサーの上へと褐色の液体が滴り落ちる。
「あっ……」
 一瞬、藤乃が眉をひそめた。
 されど、愛は我関せず。しれっとした表情で言葉を続ける。
「大丈夫、大丈夫、事情が事情だから、厳が風俗に行っても、汚れたとか、汚らわしいとか、女を金で買うとかサイテーとか、誰も言わないって!」
 その言葉に答える藤乃と史絵。
「思っててもね」
「そう、思ってても」
 顔を見てみれば、表情の消えた顔に半開きのまなこ、はっきり言うと、汚物を見る目(多分)を投げかけていた。
「思ってんじゃねーかよ! あと、顔に出すぎだよ!!」
 反射的に振り上げた両の手のひら、いざ、振り下ろそうと思って見れば、藤乃が――
「こほんっ……」
 ――とわざとらしい咳払い一つ。
 仕方ないから、振り下ろすのは中止。
 バリバリと丁寧に手入れをしているとは言えない頭を無造作にかいてごまかす。
 そんな厳の様子に安心したのか、藤乃はため息と共に居住まいを少しただして、口を開いた。
「でも、気になるのは私もなんだよねぇ……お水のバイトを知ってる人は色眼鏡で見てたのか、いい加減なことばっかり言ってるみたいだけど、知らない人は一般教養もサボらない、美人だけど真面目でつまらない女って言うのが評価だったみたいだし」
「調べたの?」
 問いかけたのは、史絵。
 その史絵に藤乃が顔を向けて、答える。
「調べたってほどでも……友達にランチにスィーツ付けて奢ったら、あっちゃこっちゃで聞いてきてくれたの」
「……そー言う友達との付き合い方、考えた方が良いよ? 同じように藤乃のことも喋ってるかも?」
 そう言ったのは愛の方だった。軽く肩をすくめての苦笑い。
「あはは、そうかも?」
 それに史絵は頬を緩めて笑い飛ばす……も、彼女はすぐにその笑みをゆがめた。
 こめかみに手をやり、目を閉じる。
「ちょっと……やりすぎた……頭、痛くなってきちゃった……」
 顔を苦しそうにゆがめながら、彼女は足下に置いてあった鞘を取り上げる。
 その鞘には厳が白斬自身の刃を受けた傷が痛々しく残っているのが見えた。
 それにゆっくりと白斬の刃を納めようとした藤乃に、史絵が慌てて声を上げた。
「あっ! あっ、あの、ありがと! ホント、感謝してる!」
 史絵が早口にそう言うと藤乃はの納刀する手を止めた。
 そして、少しだけ困ったように頬を緩めると、絞り出すような声で彼女は言う。
「感謝なんて……しないで欲しいな……」
 その言葉を句切りに、彼女はチン……と涼やかな音を立てて、白刃を黒い鞘の中へと納めた。
 そして、この夜の話し合いにも一つの区切りが付けられた。

 その後は細々とした打ち合わせ。特に史絵と藤乃の関係についての嘘っぱちな設定を作ることに時間が費やされた。
 で!
「俺と堀田さんが付き合ってて、堀田さんのバイト帰りに本屋に寄ったところを桃林さんに紹介し、仲良くなって、彼氏ほったらかして二人で遊びに行くくらいの仲良しでした……って、設定に無理があるだろう? 俺、桃林さんと知り合って、ひと月ならないくらいだぞ?」
 そう愚痴った厳は堅い床に寝転がり、手を伸ばせば届きそうな低い天井を見上げていた。
 ちなみに壁も近いし、足下は外に向けて大きく開いてる。
 何より、股間の上を這う赤い頭とそれの生み出す温もり、甘い快感。
 その股間から温もりと快感が消えたかと思うと、女――愛が顔を上げた。
 薄い唇からとろりと流れ出る透明な唾液と白濁液。ぺろりと舌が蠢き、奇麗に舐めぐう。舐められた唇がルームライトの薄い明かりに照らされ、なまめかしく光っていた。
 潤んだ瞳が厳の顔を見やり、淫靡に笑って言う。
「その元彼は彼女が死んだ途端、別の女にチンコ舐められてる……二十一世紀ジャパンランドはほんま地獄や……」
「お前が犯ってくれなきゃ、他の男と寝るって言うからだろう?」
 狭い車の中、女の体重を身体に感じながら、男は眉を少しひそめて答えた。
 その言葉に女は身体を起こし、男の胸に両手を突いた。
 長い赤毛が厳の鼻先で揺れて、女の人を喰ったような笑みが彼を見下ろす。
 そして、彼女は言った。
「ふぅん、少しは愛情とか持ってるわけ?」
 その質問に青年は彼女の夕焼け色の瞳から目を晒しながら、ぶっきらぼうに応えた。
「独占欲かもな」
「性欲って言わないだけマシ」
 視野の隅っこで赤毛が揺れ、どこか嬉しそうな声が聞こえた。
 史絵は一足先に家に帰った。
 幽霊なのでいくら歩いても肉体的な疲労感は感じないし、本気を出せば原付よりかはだいぶん早い……そうだ。なんでも、在来線と新幹線を乗り継いで二時間以上掛かる実家まで十五分で着いたとか……そんな事を言っていた。
 ハイエースの高級そうな内装をぼんやり見つつ、そんな事を考える。
 そこに滑り込んでくる愛の言葉。
「じゃあ、そろそろ、帰ろうか?」
「終わり?」
「何? 口で抜いただけじゃ足りないって? まあ、私も若干足りないかなぁ〜? って思うんだけど、厳の間抜け面はともかく、私が乱れるところは見せたくないんだよねぇ〜何処かの都市伝説よろしく、屋根に張り付いてる幽霊には」
 と、にこやかな顔で彼女が言い切れば、屋根の上から素っ頓狂な声が聞こえた。
「わっ!? バレてた!?」
 そして、身体をがばっ! と起こすと、天井から生えてる史絵の顔とこんにちは。
 唇同士が当たるような位置関係だったようだが、
「うおっ!? 顔が突っ込んできた!?」
 特に嬉しい感覚も無く、聞こえてきたのは史絵の間抜けな悲鳴だけ。
 それを無視して、青年は叫ぶ。
「知ってたらなら言えよ!!!」
 切れ気味というか、百パーセントマジギレで叫ぶと、天井から首から上だけを出してた史絵がクルンと半回転、ひょっこり厳のお腹の上に着地。バツの悪そうな笑顔で厳の顔を見やる。
「えへへ、ごめんね」
 そして、その透けた身体の向こう側、腰の上にまたがったままの愛がにこやかな笑みを浮かべて言った。
「いやぁ〜面白いかな? って思って」
「面白くねーよ!? 堀田さんだって、仏花と陰膳で手を打つんじゃなかったの?!」
「ごめん、一回帰ったんだけど、やっぱり、一人の部屋は寂しかったんで、こっちに来たら、しゃぶってる愛さんと目があったの」
 適当に笑ってる史絵に頭を抱えて、厳は呟く。
「……こいつら……」
 と言うわけで、本日はお開き。
 いつものコンビニ前……に到着する直前に史絵はふわっと車内からいなくなり、青年がスクーターに乗って帰り始めた頃、ぺたっとその背に張り憑いた。
「……何してんの?」
 信号で止まった拍子に尋ねれば、右肩口からひょいと顔を覗かせた史絵が答える。
「万一、花穂やお母さんが居たら嫌じゃん?」
「居なかったよ……それより、さっさと帰れるなら先に帰ってくれて良いのに……」
「こうやって帰るのが良いの」
 話をしているうちに信号が青に変わった。
 青年は片側二車線同士の太い交差点へと入って、国道を下っていく。
 その背後から史絵の声が聞こえた。
「ねえ、不動沢君は人を好きになったことある?」
 不意に投げかけられた質問に、青年は一瞬の躊躇を挟んだ後に答えた。
「……一応」
「山田さん? あのひっどいLINE送ってきた元カノ?」
「……どっちでも良いだろ?」
「まあ、そうだよね……どっちにしても、良いよね……」
「ん?」
 微妙なニュアンスの違いに声を漏らすと、史絵は冷たい霊気の身体を厳に押し付け、答えた。
「うちはさ、そういうの知らないままに終わっちゃったから……」
 寂しげな言葉に青年は口を噤む。
 外灯やこの時間でも経営しているレンタルビデオやコンビニの明かり、街の仲は無駄に軽い。その無駄に明るく、星の一つも見えない空の下、二人乗りのスクーターが精一杯の速度で走る。
 そのスクーターを狂ったような速度で走る自家用車やトラック達が追い抜いていく。
 史絵も口を開かず、聞こえてくるのは辛そうなスクーターのエンジン音とヘルメットの中に流れ込んでくる風の音だけ。
「飯塚は?」
 ふと、思い出したかのように青年が呟く。
「良いと思ってたんだけどねぇ……『好き』まで行ってたのかなぁ……?」
「まあ……四つん這いでアナニーはな……百年の恋も冷めるかもなぁ〜」
「その恰好で名前を呼ばれると、もう、ヒクよね」
 話をしながら、スクーターを飛ばして自宅アパートへ。
 冗談のように急な坂道を登り切って、その中腹どころにあるアパートの敷地、駐輪場にスクーターを止めると、青年はそろそろ眠りについてるであろう学生達に気を使うように静かに階段を上がった。
 そして、部屋に入ると、青年は後ろに憑いてる女性に向けて、ひと言言った。
「覗くなよ……」
 ため息交じりの言葉を一つ残して、青年は浴室へと続くドアを開いた。
 狭いユニットバス、実家の家は手足が伸ばせる無駄に広い浴室で気持ちよかったのになぁ……なんて思いつつ、シャワーで身体に付いた汗を軽く洗い流す。
 良く考えると、最近、ここ以外で一人になることがないなぁ……なんて、どうでも良いことを考える。
 少し冷たいお湯を頭らから浴びる。
 引き締まった体の上を水滴が転がり落ち、狭い湯船の中、排水溝へと流れていく。
 そして、青年はぽつりと呟いた。
「愛情か……」
 前に付き合ってた彼女には愛情を持っていた。それは間違いないと思う。
 ただ、愛に対して持ってるのかどうなのか……それは正直、よく解らない。
 良く解らないと自認しているのに、愛に『他の男と犯る』と言われれば、何とも言えない嫌な気分になる……ってのはどうなのだろうか? と少し疑問だ。
「……まあ、考えてもしょうがないか……そもそも、あいつが何考えてるか、さっぱり解んねーし……」
 独り言ちると青年はシャワーのハンドルに手を伸ばした。
 無造作にぎゅっ! とシャワーを止める。
 頭の少し上、天井間際のフックに引っかけられたシャワーヘッドから数滴のお湯がピチャピチャと厳の濡れた頭の上へと落ちた。
 そして、用意していたタオルで身体を拭き、新しい下着に着替え、先日来、寝間着代わりになっている短パンに足を突っ込み、彼は浴室を後にした。
 すると、部屋の真ん中、なぜか、真っ赤な顔をした史絵が正座して、こちらを見ていた。
 普段の史絵だと帰ってきた途端にテレビのスイッチを入れるような感じなのだが、今日はそのテレビも沈黙したまま。
 その史絵が厳の方へと顔を向けた。
 そして、ぼんやりとした口調で呟いた。
「…………大変、不動沢君」
「何?」
 尋ねながら、冷蔵庫の前へ……取り出すのはきんきんに冷えた麦茶。グラスになみなみと注いだら一気飲み。
「……隣で飯塚君が中村さんと寝てた!」
「ぶっ!?」
 麦茶が気管に入った。
「うちね、もうね、飯塚君のこと、どうこう思ってるわけじゃないんだよ? てか、割と、キモいってさっきまで思ってたんだけど……他の女と寝てるのみると――」
 一端言葉を切ったかと思うと、彼女はすっくと立ち上がり、そして、麦茶片手に固まる厳の方へと猛ダッシュ。
 ぴたりと鼻先に立ち止まったら、その顔をまっすぐに見つめて、彼女は言った。
「猛烈に腹が立つよね……どちらかというと、中村さんの方に……」
「……知らんがな」
 ひと言で返した後に吹き出した口元を軽く拭って、青年は言葉を続けた。
「もう、飯食って寝るよ、明日、早いし」
「はぁい」
 そう言った史絵の顔に満面の笑みが浮かんでるのを見て、厳は若干、頭が痛くなった。
 そして、彼女はその笑みのままで尋ねる。
「ホント、愛情ってなんだろうね?」
「さあね」
 としか、青年には答えられなかった。

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