憑かれてる男

 厳の部屋に史絵が転がり込み、そして、住み着くと一方的に宣言した翌日、朝。
 厳が起きたとき、史絵はすでに起き出していて、お尻をこちらに向けてフヨフヨと浮かんでいた。
「あっ……」
 寝惚け眼の青年が呟き、見えたのは、目の前に浮かんでるミニスカのお尻。それから、白い太ももとその奥で見え隠れしている黒い布きれ。そのコントラストは彼の反覚醒状態の脳みそを一気に覚醒レベルに引き上げるに十分だった。
「……見えてる……」
 小さく呟いて身体を起こすと、日曜日の朝名物、変身特撮ヒーロー番組を見ていた幽霊がひょいと首を巡らせた。
「あっ、おはよ」
「おはよ……じゃないよ……なんでこっちにケツ向けてテレビ見てるんだよ……」
「テレビがあっちの壁際にあって、不動沢君の寝てるベッドがこっちの壁際にあるからじゃないのかな? 不動沢君のベッドの上でテレビを見ろと?」
 そう言って史絵はあっちこっちとテレビとベッドを順番に指さしして見せた。
 真面目に言ってるのか、冗談で言ってるのか、からかってるのか、馬鹿にしてるのか、それともその全てなのか……よく解らない史絵の真顔を見ながら、厳は言葉を返した。
「……床に座れって言ってるの……」
「浮いてる方が楽なの」
「……そう」
 笑顔で答える史絵にため息一つ。身体を起こしたら、青年はぐーーーーーーーっと大きく背伸びをした。
 そして、視線を足下、ベッドの向こう側に見えてる窓ガラスへと向けた。
 ベランダへと続く大きな窓、その向こう側にはベランダのフェンスと真っ青に晴れ上がった空が見えた。
 見える範囲には雲一つない。
 そんな空は気持ちよさそう。暖かくなりそうな予感を大いに感じさせる物だった。
 そこから視線を室内に戻すと、幽霊がケツとパンツをこっちに向けて仮面ライダーを見てた。
 軽ーく頭が痛くなる思いを感じつつ、青年は下半身を覆っていた薄い肌布団を撥ねのけ、ベッドを降りた。
 布団の下から出てきた下半身は、バイト用のスラックスが覆っている。
 もちろん、普段から、こんな珍妙な格好で寝ている訳じゃない。
 普段の厳はトランクスとTシャツという軽装で寝ている。だから、昨日の晩というか、今朝と言うか……ともかく、いざ、寝ようと思って、ズボンを脱いだわけだ。
 そしたら、喜色満面で史絵が――
「おぉ〜不動沢君はトランクス派!」
 ――と、歓声を上げ腐った。
 拍手までする念の入りよう。
 幽霊も拍手が出来る上に、そのパチパチという音が聞こえるって事に、青年はまず驚いた。
 続いて彼の胸に去来したのは、羞恥心って奴だった。
 急に熱くなるほっぺた。
 仕方ないから、昨夜は脱いだズボンをもう一回履き直して眠り、今日、パジャマなり短パンなりを買いに行くという算段を付けた。
「不動沢君、パジャマとか着ないで寝る人なの?」
「実家はお袋以外全部男だったから、夜はみんなトランクス一枚とかだよ……爺さんは股引履いてたけど」
 問いかける史絵に答えながら、厳は冷蔵庫を開いた。内容物はずいぶんと少なめ。その少ない中身から中から牛乳とマーガリンを取りだしたら、シリアルを準備して、パンをトースターにぶち込む。
 そんな用意をテレビの前で浮かんだままの史絵が顔だけを向けて見ていた。
 その史絵に向かって、今度は厳が尋ねる晩だ。
「一応、聞くけど……食べたりする?」
「再起動してからこっち、食べたいと思ったことはないけど、陰膳かげぜん、用意してくれると、何か良い事をあるように努力してみるよ」
 史絵の嬉しそうな顔を見ながら、数秒の沈黙。
 ニコニコ笑ったまま、彼女も何言わない……と思ったら、すぐに仮面ライダーへと彼女は視線を戻す。
 その後ろ頭を見やり、青年はぽつりと吐き捨てるように言った。
「いらねーよな……」
「陰膳用意しろっつってんの」
 不貞腐れ気味の声を史絵が上げると、青年も彼女の言葉を真似るように言葉を返す。
「ヤなこったつってんだ」
「ちっ……」
 隠すことのない舌打ちが、ワンルームマンションに響き、そして、彼女は聞こえよがしに言ってのける。
「……祟ってやる」
「……そこで仮面ライダーを見られてる時点で祟られてるよ……」
 青年が軽くため息を吐く頃、テレビの中ではライダーが変身をしているところだった。
 なお、ここまでのやりとりの間、奴の顔がこちらに向くことはなかった。

 食事を終わらせて向かったのは、自宅から少し離れたところにあるユニクロ。
 ユニクロに行くと言うのに、着ているジーパンやワイシャツは地元のしまむらで買った物……ってのは余談。
 その上から、お気に入りのジャケットを一枚羽織る。
 前に血で汚しちゃった奴。
 染み抜きには成功したので、言われなければ、襟元が真っ赤に染まってたなんて事には、誰も気づかないだろう。
 そんな格好をした厳の背後には、当然のように史絵の姿があった。
 首に回した腕には特徴的な青と白のストライプ。
 着替えることが出来るのか出来ないのかは知らないが、ともかく、出会ったときと同じ、コンビニの制服にミニのプリーツスカートだ。
 その彼女を首にぶら下げ、彼はスクーターを飛ばして、国道を走る。
 目的のユニクロがあるのは、自宅とバイト先のちょうど中間くらいの、郊外、国道沿い。
 その店先に二人乗り(?)のスクーターを止めて降りると、頭の後ろから史絵の声が聞こえた。
「もうちょっと良いところで買えば良いのに……」
 そう言って呆れる史絵の姿は、目の前にある大きなガラスには映っていない。見えているのは、どこか疲れた顔をしている青年自身と、その数歩後ろを歩く見知らぬ家族連れの姿。
 しかし、視線を現実の自分の肩へと移したら、そこにはコンビニの青白ストラップの袖がニュッと二本、厳の肩口から伸びて居るのが見える。
 ちょうどおんぶしているような感じというか、頭の後ろに大きめのおっぱいを押し付けてる感じ……と言えばいいのだろうか? そういう感じで彼女は厳の背後に張り付いている。
 別に重くもないし、柔らかい訳でもないし、暖かくもない。むしろ、ほのかに冷たい物を感じるばかりで、正直、絵面ほど嬉しいモノじゃない。
(夏は良いかも知れねえな……)
 諦め気味の思考を頭の隅に覚えながら、厳は足を踏み入れた。
 窓ガラスに映っていた夫婦二人に子供一人の三人組も気づいているような様子は皆無だし、もちろん、明るい声で「いらっしゃいませ!」と青年とその家族連れを迎え入れたユニクロの女性スタッフも同様だ。
「これ、みんなが示し合わせて気づいてない振りをしてるんだとしたら、逆に凄いよね」
 背後でお気楽な口調で史絵がそう言ったが、それは軽く無視。
「絶対に幽霊になって、みんなに見られないことを良いことに、駅前で裸踊りした人とか、いると思わない?」
 これも無視。
「まあ、うちはそこまではやんないけどね」
 その声も無視。
「…………………………スカート、捲ってみようかな?」
 無視しきれずに思わず、後ろを向いた。
 知らないおばさまと目が合った。
 そして、頭の“後ろ”で、また声がした。
「……不動沢君、最低……しばらくうちに話しかけないで……」
 ちっ……と心の中で舌を撃つ。そして、話しかけるなと言うんだから、話しかけてやんねーと心息めて、青年は未だ客の少ない店内をぶらぶらと歩き始めた。
 買うつもりなのは、短パン。短パンにTシャツって格好なら女の幽霊が傍に居ても恥ずかしくないだろう……と言う考え。
 辺りをきょろきょろ……すぐに見つかるズボン売り場。そこへと足を運んだら、当たり障りのなさそうなグレー系の短パンを一枚手に取った。
 お腹のところがゴムになってて、生地自体も伸び縮みする素材であることも確認したら、最後に値段のチェック。
 安い。
 パーフェクトである。
 では、即座にレジへと一直線。
「はやっ!? 何? その素早さ!? ちょっとは選ぼうよ! 子供のお使いじゃないんだから、何か、物色しようよ!」
 って、頭の後ろであれやこれや言ってる史絵は、やっぱり無視して、青年はレジで精算を終わらせた。
「ありがとうございました〜」
 青年よりも少し年かさの、それでもまだまだ若い女性従業員の声に送り出されて、青年はとっとと店の外へと足を向けた。
「滞在時間、十分もないよ……」
 やっぱり無視する。
「…………話しかけるなって言ったのは軽い冗談なので、返事をして下さい。私へのダメージが大きいです」
「……意外と打たれ弱いんだね……」
 史絵の情けない声にクスッと軽く笑ったら、青年はスクーターにまたがり、エンジンをかけた。
 ユニクロの駐車場をするりと抜けて、春晴れの空の下をスクーターがトコトコと走る。
 その荷台には一人の幽霊。
 フルフェイスのヘルメットの下、首に腕を巻き付け、彼女はぶら下がっていた。
 風になびくような様子もなければ、首が絞まるような感じもしない。もちろん、彼女の体重を感じることも全くない。
 ただ、春の陽気だというのになんとなーく首の後ろが薄ら寒い感じがするだけ。
「どこに行ってんの? 家の方じゃないよね?」
 ピューピューと風切り音がしているというのに、彼女の声は間違いなく、厳の耳元に届いていたし、
「ホームセンター、部屋が男臭いんだろ?」
 そう応えた厳の声も史絵の耳に届いているようだ。
「ああ、昨日の夜の話ね。そーなんだよねぇ〜不動沢君本体はそーでもないけど」
 そう言って史絵が首筋に向けてスンスンと鼻をならした。
 その鼻息というか、呼吸音まで風切り音の中から聞こえてくるんだからおかしい。
 速度はちょっと公表できないくらい、リミッターが掛かる直前の速度で青年はスクーターを飛ばす。
「うち、こー言うのをしたかったんだよねぇ〜」
「こーいうの?」
「男の子のバイクの後ろに乗って、デート! やりたいこと、山ほどあったんだよ。それが全部、パー!! 絶対に許さない、絶対に――」
 そう言って、彼女は一端言葉を切った。
 信号が赤に変わった。
 スクーターが止まる。
 風を切って走ってる間はちょうど良かった服装ではあるが、信号に止まると途端に暑さを感じる。
 カタカタと小さな音を立てて、青年はフルフェイスの風防を上げた。
 そして、彼は小さめの声で尋ねた。
「絶対に……何?」
 問いかけに返ってきたのは、一瞬の沈黙。
「あっ……うん、だから、絶対に許さない! って思ったんだよ」
 後に来た少し早口な口調は、彼女がごまかそうとしていることを如実に伝えていた。
 しかし、厳は、
「そっか」
 そのひと言だけで応えるに留まった。
 そして、信号が青になるまで待つと、アクセルを開き、彼はスクーターを発進させた。
 リミッタ直前の速度で走るスクーター。
 目一杯に飛ばしているとは言っても、所詮はスクーターだ。しかも、周りは速度超過がデフォルトの片側二車線の国道。後ろから来た自家用車だのトラックだのがビュンビュン、彼の横を走り抜けていく。
 その度にムワッとした風が厳の肌とスクーターを撫でていく。
 そのまま、二キロほど走ったところで、ふと、厳は言った。
「まあ、原付だし……生きてる女は後ろに積めないよ」
「それもそうだね」
 国道から市道へと入って、その道っぺりに行きつけのホームセンターがある。
 全国チェーンの大きな奴。
 店舗は大きく、建築資材から花の苗、土、多くはないが安い家電製品までなんでも売ってる店だ。
 店も大きいが駐車場も広い。
 その広い駐車場を突っ切り、青年は店先にスクーターを横付けした。
 スクーターを止めて、ヘルメットを脱いで、脱いだヘルメットはシートの下、収納ボックスに放り込む。
「消臭剤ならスーパーにもあるんじゃないの?」
 背中に張り付いた史絵が尋ねた。
「他に欲しい物もあってね」
「なに?」
「OAタップ、コンセントの数が足りないんだよ」
 ぼんやりとした口調で応えながら、彼は自動ドアをくぐって、店内へと足を踏み入れた。
 入り口ドアを入ったところにはちょっとした広めの空間が一つ。いわゆる風除室ふうじょしつという奴。空調の効いた空気を外に逃がさないための空間だ。
 そこだけでも結構な広さだ。自販機が置かれてたり、大きなワゴンが二つ三つ置かれていて、そろそろ、盛り上がり始める行楽シーズン用の商品がたっぷりと並べられていた。
 大きなお弁当箱や水筒、レジャーシートなんか……
 横目で見ながら通り過ぎようとすると、後方から史絵の声が聞こえた。
「花見の季節、終わっちゃったね」
「そうだなぁ……」
 足を止めて、相槌を打つと、史絵は言葉を続けた。
「そー言えば、ほら、大学傍に喫茶店あるでしょ? あそこの対岸辺り、桜が奇麗に咲いてるって……聞いた……かも……入学した直後」
 言葉を選んでいるのか、それとも『聞いた』と言う記憶に自信がないのか、彼女の声は少し不安そう。
 その言葉に少しは以後へと視線を向けながら、彼もまた、少しぼんやりとした口調で応えた。
「ふぅん……じゃあ、来年は少し見に行ってみたいなぁ……」
「うん、一緒に」
 ニュッと肩口から突き出した顔が満面の笑みを浮かべた。
 野暮ったくも愛嬌のある顔。
 幽霊だと言うことが信じられないほどに、彼女の表情は生き生きとしていた。
 その顔をちらりと見やり、顔が熱くなるのを感じながら、彼は答える。
「……あんた、来年までそこに居る気か?」
「えへへ」
 笑ってごまかす史絵にため息一つ、青年は店舗本体の方へと足を向けた。
 駐車場にはそこそこの車が止まっていたのだが、店の中の方は、広さのためか、そんなに混んでいるという雰囲気を感じさせない。
 そのゆったりとした店舗の中を青年はぶらぶらと歩く。
 もちろん、背後には幽霊の姿。
「うち、こう言うお店って始めてかも……」
 なんて声が背後で聞こえる。
「そうなん?」
「うん、まあ、高校三年の一年間はろくに部屋から出ることもなかったんだけどさ」
 明るい口調、笑い声まで混じる勢いで言われると、なんといって対応するべきなのか、迷ってしまう。
「……ああ……うん」
「今のは笑うところ――あっ、消臭剤、あっちだって」
 右肩に乗っていた右腕が右を指した。
 首を向ければ、そこは彼女の言うとおり、消臭剤のコーナー。
 その付近に近づいただけで明らかに消臭剤の独特の香りが、青年の鼻腔を刺激した。
 思ってたよりも匂いがきつい。
「薔薇系は定番だよね……それから、レモンにミント……桃とかまであるんだね〜?」
 背後で賑やかな史絵をほったらかしに、青年が選んだのは――
「……つまんないの……」
 と、史絵がほほを膨らませる無臭タイプ。透明なビーズがぎっしりつまった、ちょっと大きめの奴をチョイスした。
 その重たさを手で確かめながら、青年は口を開く。
「匂いがきついの嫌いなんだよ……なんか、便所みたいで」
 呆れ声の史絵に言葉を返したら、今度は家電製品やらオフィスグッズなんかが置いてある一角へと足を向けた。
 広い上にそんなにしょっちゅう来る訳でもないから、厳にとっても店の中は不案内。この手の店は初めてという史絵に至っては、物珍しいのか、あっちこっち、右に左とまるで御上りさんのように辺りをきょろきょろ見渡してた。
 で、気づいたら、なぜか、リフォーム用品の一角へと青年達は立ち入ってた。
「建て直すの? アパートなのに」
「……間違えたの。あっ、でも、こう言う電動工具なんかは好きだなぁ……」
 木材や金具なんかが売ってる一角の隣は電動工具の売り場。これを使って何がしたいという訳でもないが、そういうのを見るとちょっと嬉しくなってしまうのは、男の子の特性だと思う。
 充電式のドライバーとか、ゴツそうな電気ドリルとか……何に使うのか良く解らない工具なんかもあって、ちょっと楽しい。
「これで何か作るくらいなら、作ってるのを買った方が早くない?」
 一方の史絵は退屈そう。
「工学部のくせに……」
「……知り合いが行かないような学校の、知り合いが行かないような学部を選んだだけだよ」
 明後日の方向を見ながら、ぽつり……とこぼすように史絵はそう呟いた。
 わずかの沈黙……史絵の言葉になんて言葉を返そうか……と思いあぐねてた、と、その時――
「あれ?」
 と、史絵が素っ頓狂な声を上げた。
「なに?」
「いや……奇麗な女の人が熱心にドアノブを見てるなぁ……って思ってんだけど……あの人……どこかで会ったことがあるような気が……」
 言われて厳も史絵が言う『奇麗な女の人』の方へと視線を向けた。
 年の頃は二十歳前後か……? 厳や史絵よりかは少し年上だろう。
 染めているのか地毛なのか、どちらであっても不思議じゃないナチュラルな茶髪は腰ほどの長さ。ゆったりとカールさせてボリュームを持たせているのは大学でもよく見る髪形だ。体つきの方は少し太め……と言ったところだが、それに比して、おっぱいとお尻も大きめ。色白で肉感的とも言える。こざっぱりとした化粧も華美過ぎない感じが、見る者に好印象を与えていた。
 どこにでも居そうな女性……ではあるが、妙な色気……と言う奴を彼女は身に纏っていた。
 特にきわどい格好をしているという訳ではない。
 ごくごく普通のロングパンツにブラウス、露出はむしろ控えめ。
 きわどいと言えば、ミニスカのくせに平気でお尻を突き出して浮かんでる史絵の方がよっぽどきわどい。
 それなのに、なんというか……妙に人目を引くというか……色気を感じさせるたたずまいと所作というか……
 そう言う女性がドアノブを手にしては戻し、戻しては別のを取って……というのは、確かにアンバランスな絵面だ。
「どっかで見たことのある人なんだよねぇ……あの人……どこだっけかなぁ……大学だったかなぁ……?」
 そう言って史絵はしきりに小首をかしげているが、厳に見覚えはない。
「大学の人なら俺にも見覚えがあるんじゃないのか? あんなに奇麗な人だし……って事は、コンビニバイトの客か何かじゃない?」
「……ファッションヘルスの人かも……ちょくちょく来てたし」
「へぇ……あんな奇麗な人がなぁ……」
「てか、不動沢君、うちがいるのに他の女性を見てるとか……マジ最低……しばらくうちに話しかけないで……って言いたいところだけど、話しかけていいよ。ダメージ、うちの方が大きいから」
「……はいはい。じゃあ、いちいち、教えるなよ」
 ぶしつけに向けられていた視線を逸らして、青年は改めて、OAタップが置いている辺りへと足を向ける。
 それとほぼ同時にその女性もドアノブの一つを手に取り、きびすを返した。
 すれ違う男と女、後、オマケの幽霊。
 もちろん、女の方は男の事なんて気にも留めないし、背中に張り付いた史絵のことも見えていないようだ。ドアノブを手の中で弄びながら、レジへと足早に向かうだけ。
 しかし、男の方はその場に足を止めた。
 振り向き、女の背中とそこでふんわりと広がる茶髪へと向ける青年に、背後から史絵が不思議そうに声をかけた。
「どうしたの?」
「……なんか……ゾクって来た……後、なんか、匂いがした……なんだろう?」
 呟くように応えた厳に対して、史絵は冷たかった。
「……スケベ」
「なんでだよ……?」
 その呟きに対する返事を、プイッとそっぽを向いた史絵がすることはなかった。

 さて、なんだかんだで買い物を終わらせると、ホームセンターの近くで見つけたラーメン屋でお昼ご飯。
 またもや、史絵が陰膳を要求してくるが、もちろん、無視だ。
 激辛担々麺にチャーシュー丼。
「……匂いだけで辛い」
 史絵が眉をひそめるが、厳にはちょうど良いくらい。
 唇のしびれを心地よく感じながら、青年は自宅に帰還。
 後は大学で出されてるレポートやら実習やらをこなす。
 奇妙な風にたこ足になってたコンセントをOAタップで整理したら、彼は愛用のデスクトップパソコンの前、余り高価ではないが座り心地の良い椅子に腰を下ろした。
 やらなきゃいけないレポートは一年生だというのに、結構な量。不得意というわけではないが、それなりに頭を悩ませるところも珍しくはない。こう言うときに、相談できる相手が居るのは助かる――
「なんで、死んでまで勉強しなきゃいけないんだよ……」
 ……――訳でもなかった。
 人がパソコンデスクに向かってキーボードを叩き始めたというのに、彼女は厳が実家から持って来てるゲーム機でゲームを始める始末。しかも、RPGで、しかも、厳がまだ積み上げてた奴。
 しかも、それを積み上げてた理由は……
(あんたを捜してたからだよ……)
 もちろん、それを言ってもしょうがない。
 そもそも、彼女が悪いのか? と言われてみれば、別に悪い訳でもないわけで……
「はぁ……」
 万感の思いを込めてため息一つ。
 カタカタとデスクトップパソコンの液晶モニターに向かってキーボードを叩く。
(なんで、コントローラー握りしめてんだよ……あの幽霊……)
 なんて、思いつつ、真面目にお勉強。
 それが終わったら、アルバイトへ出勤。
 もちろん、その背後には史絵の姿。
 着いてこられて嬉しいか? と言われれば、断じて否だ。
 しかし、帰ってくるまで家にいられるのがいいのか? と問われれば、こちらも困る。
「……つーか、家に帰れば? アパートの方」
 三階の部屋からスクーターが止めてある駐輪場へと向かう道すがら、背後に張り付いてる史絵に青年はそう言った。
 しかし、彼女は軽く首を振って、口を開いた。
「無人の部屋に電気が付いてましたなんて軽くホラーだし、どうにかして灯を漏らさないようにしても、無人の部屋の電気代が跳ね上がったってのも事件だし……かと言って、テレビも蛍光灯も付けずに閉じこもってるのも耐えられないし……」
「……そうだよな……」
 現状への対策に何らの寄与もしない正論にうちひしがれて、青年はがっくりとうつむいた。
 その背後で史絵がぼそぼそ……と独り言のように言葉を紡いだ。
「……後ね、この週末……お母さんと花穂がこっちに来てるんだよね、探しに……実家を覗きに行ったとき、そう言ってた……」
 言われて、青年の足が止まった。
 真っ赤に空を染める夕焼けがやけにまぶしく、青年の足下に長い影を刻んでいた。
 夕焼けに誘われるように青年が顔を上げた。
 燃えるような夕日は明日も好天であることを約束しているかのようだ。
「奇麗な夕焼け……」
 史絵がぽつりと呟いた。
「ああ……」
 小さく応えて、青年はヘルメットを被り、スクーターにまたがった。
 特に会話を交わすこともなく、バイト先の本屋へ……取り立てて会話をすることもなく、厳はスクーターを飛ばした。
 彼がバイト先に到着すると、すでに藤乃の姿がレジにあった。
「いらっしゃいまっ――あっ、おはよう、不動沢君」
「ああ、おはよう……」
 レジには客も居なくて、退屈そうにしていた彼女は、厳が店内に入ると愛嬌のある顔をいっそう愛らしく緩めて見せた。
「不動沢君、モテモテね……」
 背後にぶら下がった史絵がそう言うも、藤乃には聞こえていない模様。
「どうしたの?」
 史絵の声に渋い顔になった厳に顔を向け、不思議そうに小首をかしげてみせるだけ。
「なんでもないよ。それで、今日、忙しい?」
 軽く首を振って応える。そして、話をごまかすために適当に思いついた質問に対して、生真面目に答えた。
「そう? ああ……ううん、暇だよ……って、私もさっき、店長と代わったばっかりだから。よく解らないけどね」
「そっか。それじゃ、俺、裏で返本してるから」
「うん……って、なんか、久しぶりの日常だね」
 藤乃の何気ない言葉に心が痛いというか――
「日常なの?」
 ――背後に控える非日常に頭が痛い。
 心の中だけでため息を吐いたら、青年は藤乃に言った。
「そうだね。それじゃ、俺、倉庫で返本してるから。何かあったら、呼んで」
「うん。それじゃね」
 藤乃のセリフを区切りに話を切り上げ、青年は倉庫へと向かった。
 店内は藤乃の『暇』って言葉を裏付けるかのように客は少なめ。背の高い書架の間はどこも無人だ。その無人の通路を足早に歩いて、青年は倉庫のドアを開いた。
「おはようございます」
 ちょうど、入れ違いに倉庫から出て行こうとする店長に一声かける。
「おはよう。返本、よろしくね。文芸書の棚を替えたから、結構、あるよ」
「はい」
 中年店長に軽く頭を下げ、彼と入れ違いに青年は室内へ。
 後は制服を羽織ったり、タイムカードを押したりしたら、言われたとおり地味で陰気な返本作業の始まりだ。
 それを三十分ほど……
 本を拾い上げたら伝票に書き込んで、段ボール箱に詰め込んで……そんな地味な作業をチマチマ、チマチマやっていると、我慢しきれなくなるのが背後の人だ。
「……暇」
 ぼそっと不機嫌そうに呟く。
 されど厳は作業の手も止めずに答える。
「……俺は忙しい……」
 更に十五分。
 返本が段ボールの箱一杯になるくらいの時間が過ぎた。
 そして、史絵が言った。
「私、ちょっと出掛けてくるね〜」
「……おう」
 手も止めずに青年は答えた。
 背後のひんやりとした気配が消えて、なんだか、ホッとしたような、少し寂しいような……
 そして、やおら、手を止め、青年は呟いた。
「……遊びに行けるんなら、最初から遊びに行けよ……」
 結局、史絵は厳の陰気な仕事が全部終わるまで、帰ってくることはなかった。
 で……
「……うっす」
 営業終了直後。中年店長を送り出した厳と藤乃の元に、ひょっこりと顔を出したのは、不機嫌そうな表情の山田愛。
 そして、その背後には――
「ただいま、不動沢君」
 幽霊とは思えないほどに楽しそうな笑顔で愛想を振りまく、史絵の姿があった。
 そして、愛がボソ……隣に居る藤乃に聞こえない程度の声で耳打ちをした。
「……ゲーセンでカップルがやってるUFOキャッチャーの邪魔してたよ……この子」
 呆れる愛の背中から憑き慣れた厳の背中へと移動したら、史絵は厳の耳元で、大きな声を上げた。
「そしたら、『取れないし……部屋、行こうか?』だって、もう! リア充爆ぜろだよ!」
 耳鳴りがするんじゃないか? と思うような大声に厳は眉をひそめながらに思う。
(最低すぎる……)
 さて、そんな感じのやりとりをしていれば、小首を傾げるのは一人、蚊帳の外の藤乃だ。
「どうしたの?」
「ああ……別に……」
 上手とは言えないごまかしの言葉を述べたのが厳だ。
 そして、その隣、しれっとした顔出会いが口を開いた。
「厳に憑いてる幽霊の話」
「そうそう、ただの幽霊の話――って、なんで喋ってんだよ!?」
 愛に掴みかかる勢いで厳が愛へと詰め寄るも、詰め寄られた方は平気な顔。
「ノリ突っ込みとは、なかなか、芸人だね、厳」
「誰が芸人だ!? なんで、わざわざ、喋ってんだよ!?」
「むしろ、なんで、隠してんの? 史絵の一件、藤乃だって無関係って訳でもないんだし」
「なんで……って……」
 愛の言葉に厳は思わず絶句した。
 絶句したまま、パクパクと口を開けたり閉じたりしている厳に向けて、愛がたたみかけるように言葉を紡いだ。
「もはや、藤乃だって全くの一般人って訳でもないじゃない? 餓鬼に噛みつかれたり、変質者に追いかけ回されたり、後……白斬だっけ? アレを拾ってきたり……今更幽霊の一人や二人に驚いたりもしないでしょ?」
「でも、堀田さんにだって都合って物が……――」
「そりゃ、吹聴して回られると困るけど……もう、遅いよ?」
 背後、史絵はそう言って、すーっと肩口から右へと手を伸ばした。
 視野の隅に伸びる史絵の右腕。ストライプ模様の袖に包まれた手の先には、ジーッとこちらを見ている藤乃の顔が合った。
 交わる厳と藤乃の視線。
 そして、藤乃はぽつり……と小さな声ではあるが、厳や愛、それから史絵にはきっちりと聞こえる声で呟いた。
「……また、私をハブにしてる……」

 さて、シャッターの閉じた本屋の前でいつまでも立ち話をしてるわけにも行かないし、幽霊の話なんて一般人から見たらたわけた話をファミレスでするのもはばかれるし……って訳で、集まったのは、いつものごとく、藤乃の部屋だ。
 小さなこたつを中心に四人が車座。
 囲むこたつの上にはいつものように小さなチョコレートと人数分のコーヒーカップ(含む史絵の分)が並べられていた。
「……――と、言うわけで、昨日の夜から憑かれてんだよ……」
 と、厳は藤乃に一通りの説明を行った。
 もちろん、愛と青姦をしてたという下りは適当にごまかした。
 が――
「へぇ……夜景の奇麗なところで話を……ねぇ……ふぅ〜ん……お話……ねぇ……お話……お話かぁ〜」
 冷たい視線で正面に座る厳を見つつ、何度も“お話”の単語を繰り返している辺り、ごまかし切れていないのは厳にも重々理解出来た。
 なんか、無駄に罪悪感を覚える。
 そして、愛は他人事のように言う。
「黙して語らず……ってことにしておこうかなぁ〜」
 にやにや笑っている意味が理解出来ない。
「激しい肉体言語を用いたお話でした」
 もはや、好き勝手に言ってるのが左隣の史絵だ。
 頬が赤く染まっているのが、やたらと腹立つ。
「不動沢君の話はこっちに置いておいて……」
 そう言ってテーブルの上の物を床の上に動かすジェスチャーをして見せたら、彼女はベッドの横に立てかけてある日本刀――白斬へと手を伸ばした。
「「ちょっと!?」」
 顔色を変える愛と厳を置き去りに、藤乃は白斬を手にすると、元々座っていた席に腰を落ち着けた。
「いや……別にぶった切るとかそー言う話じゃなくて……何か、びゃくが呼んでる気がしたから……」
 そう言って、彼女は柄を握ってゆっくりと鞘を引き払う。
 音もなく刃が鞘の中から現れ、藤乃の目元を反射光で照らした。
 室内の空気が一度ほど下がったような……張り詰めた物へと変わった。
 そのまま、誰もが声を発することのない時間が数秒続いたかと思うと、藤乃がチラリと視線を動かした。
 彼女から言えば右隣、厳から見れば左隣……それはすなわち、史絵のいる場所。
 彼女はそこを見つめたまま、静かな声で囁いた。
「……あっ……居る……」
「うちの事、解るの?」
「あっ……うん……声も聞こえる……ううん……違う、聞こえてるんじゃなくて、白が教えてくれてるみたい……凄い……」
「へぇ……初めまして。堀田史絵です」
「あっ、初めまして……私は桃林藤乃です」
「私は初めまして……って訳でもないけど」
 先ほどまでは全く史絵の事を認知していなかった藤乃が彼女の方に向いて喋っているのはちょっと不思議な感じ。
 しかし、藤乃は少し話をしていたかと思うと、その刃を鞘の中へと納めてまった。
「どうしたの?」
 尋ねたのは愛だ。
「うん……慣れないから、頭が痛くなっちゃって……余り長くはしない方が良いみたい」
 軽く息を吐くと、彼女は手にしていた白斬を床の上に静かに置いた。
「片付けたら、もう、聞こえないの?」
 史絵が問いかける……も、藤乃は全くの無反応。
 十秒前後の時の後、軽く肩をすくめる。
 そして、少し笑うと愛が、ひと言だけ言った。
「そういう事みたいね」
「えっ? なに?」
 きょとんとした顔で尋ねてくる藤乃に、三人は少しだけ頬を緩めた。
 そのやりとりが藤乃に伝えられると、藤乃は軽く苦笑い気味の笑みを浮かべ、テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばした。
 そのカップに軽く口を付けると、彼女は史絵のいる辺りへと視線を戻した。
「……一つ間違えれば、私も……ね? だから、他人事とは思えないかな……? 出来ることがあったら、なんでも言って」
「じゃあ、毎晩、陰膳と仏花ぶっかを――」
 満面の笑顔でおねだりしているし絵を、青年は細めた目でジトォ〜っと見つめて、ぽつりと呟く。
「あんた、そればっかだな……」
「あはは、冗談。今は何にもないよ。うちね、今は神様がくれた、この訳のわかんない猶予をなんに使えば良いのか……それを見つけたいだけだよ」
 口元を緩めての軽い口調ではあるが、史絵の目だけは笑っていない。
「何にも意味が無くて、ただ単に成仏し損ねてるだけかもよ?」
 軽く肩をすくめて愛がそう言えば、真顔だった目元を緩めて史絵が答える。
「その時は不動沢君が死ぬまで憑きまとうから」
 そして、厳が大きな声を上げるのだった。
「やーめーろ!」
 で……――
「また、私がハブになってる……」
 藤乃が膨れつつ、チョコを口に運ぶ。
「ハブってないよ!」
「そうそう、ほら、史絵、藤乃の後ろについてあげなよ」
 そして、史絵が藤乃の背後に張り付き、それを愛がはやし立てる……この間まで考えていた“日常”とは若干違う気もするが、これはこれで楽しい物か……チョコレートをつまみにインスタントコーヒーを傾けながら、青年は思った。
 しかし、その日常はこの数日後、もろくもひび割れるのであった。
『あの人! ほら、風俗で働いてて、行方不明になってた三年生! 帰って来てるって!!』

 厳がその情報を知ったのは藤乃の部屋でくだらない話をした夜から三日が過ぎた日の事だった。
 その三日目のお昼過ぎ。
 厳は大学傍の喫茶店――アルトでお昼を食べていた。
 日替わり定食のパスタとフォカッチャを一通り食べ終え、食後のアイスコーヒーを飲んでいると、ポケットの中にねじ込んであったスマホがぴろ〜んと小さな着信音を響かせた。
「どったの?」
 聞こえた声は対面に座っている史絵の物だ。
 普段は『浮いてる方が楽』と言ってスカートの中身丸見えで浮かんでいる史絵ではあるが、なぜか、今日だけは目の前の席に座りたがった。
 どうやら『男の子と喫茶店でお茶』というのも彼女が大学生になってやりたかったことの一つらしい。
 その気持ち、解らなくもない。しかし、おかげで相席を断った物だから、背の高いメガネのウェイトレスに嫌な顔をされてしまった。ここの連中に睨まれると、ここの常連の教授にも睨まれるという噂があって若干怖いのだけど……
 まっ……それはともかく……
 厳はポケットの中からスマホを取りだし、消えていた液晶画面に火を灯した。
 表示されるスマホの画面、そこには愛から送られてきたメッセージが表示されていた。
『そろそろ 犯ってくれなきゃ 他の男と犯る』
 端的な言葉に厳の表情が凍り付く。
 そして、顔を上げれば、不思議そうにこちらを見ている史絵の姿があった。
「どうしたの?」
 彼女が尋ねれば、厳は答えもせずに視線を手元、スマホの画面へと落とした。
 厳だって若い男だから、犯りたいか犯りたくないかと言われれば、そりゃ犯いたい。
 しかも、ここしばらく、史絵がどこに行くにも憑いてくるし、家に帰っても史絵がいる。
 結果、愛とセックスどころか、自己処理すら出来やしない。
(そのうち、起きたらトランクスが汚れてんぞ……)
 なんて思いつつ、スマホの画面を史絵から隠すように身長に文面を製作……
『今夜、どうにかする』
『どうにかできる?』
『する』
『解った 信じる』
 そのラインのやりとりを終わらせ、アプリを閉じると、青年はどこにも繋がっていないスマホを耳に当てた。
 そして、控えめな声で言葉を紡ぐ。
「今夜、用事が出来たから、家に居て」
 目の前で怪訝そうな表情を浮かべて、史絵が言った。
「……私に言ってんの?」
「他に誰がいるんだ?」
「……ここ、スマホとかノートパソコンの使用は非推奨だよ? 堂々と使ってると、店員さんじゃなくて、IT機器から逃げてきてる工学部の教授に目を付けられる……って、噂だよ?」
「……噂には聞いてる……ともかく、今夜、用事あるから、大人しく家で留守番してて」
 そして、史絵が口を噤む。
 冷たい視線が厳の顔をジーッと見つめる。
 居心地の悪い時間が十数秒……静かに流れたかと思うと、彼女は言った。
「赤毛の人、愛さんだっけ? あの人とデートね……また、青姦……?」
「具体的な話はノーコメント」
「はあ……まあ、いいや……じゃあ、今夜から、陰膳と仏花ぶっか、よろしく」
 ことさらに大きなため息を吐いて、彼女は首を縦に振る。
 思ってたよりかはあっさりと納得していただけ一安心……陰膳はともかく、仏花まで要求する辺り、図太い幽霊だとは思うが……
 と、耳にスマホを当てたまま、考えていれば――
 ぴんぽろ〜ん
「――わっ!?」
 耳元で響く警告音、その不意打ちに思わず大きな声を上げれば、対面に座る史絵がクスクスと小さな笑みを浮かべて見せた。
 その笑みに何とも言えないばつの悪さを感じながら、厳はスマホを耳から離し、その液晶へと目を落とした。
『あの人! ほら、風俗で働いてて、行方不明になってた三年生! 帰って来てるって!!』
 その藤乃からのメッセージは彼女と厳、それから愛の三人だけのグループに投げ込まれた物だ。
 その言葉の意味を考えるのに、厳は少々の時間を費やした。
『別の人? 死んだの』
 厳が思考している間に愛からのメッセージが届いた。
「どうしたの? 不動沢君」
 厳の表情が、我知らぬうちに表情が変わったのだろうか? 厳の様子から何かを感じ取ったのか、史絵の言葉と表情に微妙な緊張感が生まれた。
「……ああ……えっと……」
 答えあぐねている内に、史絵はテーブルの上に身を乗り出すというか、テーブルの上をフヨフヨ浮かび始める。
 そして、そのまま、厳の手元、ログの流れるスマホを覗き込んだ。
『解んない。あの場にもう一人、犠牲者がいたのは確実なんでしょ? 史絵さんも言ってたそうだし』
『うん 言ってた』
『じゃあ……誰だったんだろう?』
 藤乃と愛との会話が流れるスマホから顔を上げ、史絵が真剣な表情で尋ねる。
「……どういうこと?」
「ああ……堀田さんが……――っと、ここじゃ、まずいか……」
 そう呟くと、厳はLINEの方には『移動するから、返事が遅れる』とだけメッセージを投げると、彼は席を立った。そして、足下に置いてあったサイドバッグを肩から提げると、足早に店を後にする。
 日差しの暖かな坂道を登って下って、向かうのは大学。
 自宅に帰っちまうのがベストなのだが、昼からの授業は出てないと色々とまずい。
 そこで青年は昼休みでろくに人の居ないであろう教室に潜り込むことにした。
 昼からの授業がある小講堂と呼ばれる教室。雰囲気としては高校の一般教室を思い出して貰えばちょうど良い。
 その中の一室を覗き込むと、お昼安民教室にはまばらな人影があるだけ。それも中央付近によっていて、隅っこの方にはぽっかりと空きスペースが出来ていた。
 ラッキーと小さく呟いたら、青年は窓際最後尾の席へと滑り込む。
 そして、肩から提げていたサイドバッグを隣の席に起き、出来るだけ知らない人間が近づかないようにする。
 その即席のプライベート空間。
 晩春の日差しが差し込む席、明るくて暖かくて、事情が事情でなければ昼寝してしまいたいところ。
 しかし、賑やかな女性の声が、厳にそれを許さない。
「ねえねえ、なになに? 死んだってどういうこと? 風俗って何? もしかして、コンビニの前のファッションヘルス?」
 アルトから出てきてからと言う物、史絵の質問は止まる所を知らない。
 おそらくは先日、厳が史絵の一件を知ったいきさつを教えてあるからだろう。他人事ではないことを察しているようだ。
 そして、青年は辺りに人が居ないことを確認し直すと、それでも控えめな声で言った。
「桃林さんの大学の先輩で、てっきり、堀田さんと一緒に殺されたもう一人の人だと思ってた人が居たんだけど……その人が帰ってきたらしいんだ……」
「もう一人の人? じゃあ、別人だったの?」
「どんな人だった?」
 スマホの画面を開きながら、尋ねると、途端に史絵はその野暮ったい太い眉をひそめた。
 沈黙……
 スリープから復帰したスマホの画面には愛と藤乃のやりとりが表示されている。
「……私が見たときには顔はぱんぱん、髪なんて引き抜かれてぼろぼろ……人相なんて解らなかったよ……思い出したくもないけど……死んでも忘れられない……」
 史絵の泣きそうな声と潤む大きな瞳にほぞを噬むが、時すでにおそし。
『史絵に聞ける?』
 その愛からのメッセージにいらだちにも似たものを感じながら、青年は返事を作った。
『聞いた。人相が解らないくらい殴られてたらしい』
 作り終えたメッセージを送って、次のメッセージが返ってくるまでのわずかな時間。
「あっ……そー言えば……」
 その隙間のような時間に史絵が小さな声を上げた。
「んっ?」
「確かにね……あいつが『そこの風俗で見繕った女』って……言ってたような気がするんだよね……『どうせ、誰とでも犯る女だから、殺しても良い』って……じゃあ、私はどうなんだ!? って話だけど……」
「……あんま、詳しく話さなくていいけど……それ、教えていい?」
「むしろ、話したらすっきりするかな? っと……うん、いいよ」
『「そこの風俗で見繕った女」とは言ってたらしい。犯人』
 と、メッセージを送る。
『じゃあ、あの店で行方不明になってたのが何人もいるとか?』
 と言うのが史絵からの物。
『あの手の店 嬢がいなくなったり 帰ってきたり 激しいから 解んないかも』
 こちらは愛。
『良く知ってるね?』
『あの店 オーナーと知り合い』
 藤乃と愛とのやりとりに厳が合いの手を入れるかのようにメッセージを送った。
『どー言う付き合いだ?』
『秘密 ともかく 続きは藤乃の部屋に集まって 今夜 私 これ 嫌い』
 その割には長く藤乃とやりとりをしてたな……とは思うが、単語単位のメッセージは確かにこの手の物になれてない事を感じさせた。
『桃林さんが良ければ俺は大丈夫だよ』
『話をするくらいなら良いよ』
 厳が先に答えて続いて藤乃の返事。
 後は藤乃が『チョコを用意しておく』とかなんか、メッセージを送っては来ているが、こちらの方は適当に流しておくだけで良いだろう。
 相づちのような返事だけを送っていると、横の席、その上空でフヨフヨ浮遊していた史絵が尋ねた。
「じゃあ、バイト、私も憑いていって良いの?」
「……当事者だもんなぁ……」
「良かった、一人は退屈だもんね」
 そんな話を史絵としているところで……――
『さっきの件は 話が終わってから』
 ――との、愛からのメッセージがスマホに届くのだった。
 

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