好かれた女―幕間挿話―

 厳はあの男を投げ飛ばした後、奴が持っていた一振りの日本刀を彼の手が届かないところに蹴っ飛ばした。
 どうして、拾って自分で使わなかったのか? と問われると、『危ないから』とでも答えるだろうか? もしかしたら、『ぶん殴ってやりたい』という欲求があったのかも知れないし、素手同士なら絶対に負けないという自信があったのかも知れない。
 上記のどれが一番正しい理由に近いのか、当の本人すら理解してない。
 ともかく、奴の手の届かないところまで蹴っ飛ばし、マウントを取ってフルボッコ。その後、どうなったかは知っての通り。因果応報の言葉通り、奴は肉一片、血一滴、骨一本残さず、この世から消えた。
 その課程において、厳も完全に無傷というわけにはいかなかった。
 おでこ。
 ざっくりと切られてしまった。
 血も結構出てるし、ほったらかしにするわけにはいかない。
 そうなると出てくるのが、例のクリームだ。
 しかも、今回はボールギャグもないから、愛のハンカチを口に押し込められての治療だ。
 深夜の公園、ベンチの上でハンカチを口に押し込められた上で、細身の癖に怪力の女に羽交い締めにされ、「ヤだ、やっぱ、萌える……」なんて息を弾ませてる女に迫られるという異様な“治療”ってのも、どうかと思うが、おでこからあふれる血も止まって一安心。
 その後、藤乃は「一人になりたくないから……」と言うことで近所に住んでる女友達の家に泊めてもらうことにした。
 その友人の家は藤乃の家から歩いて十五分ほどの所にある小さめのアパート。そこまで彼女を送ったところで、その夜は解散。
 厳と愛は素直にそれぞれの家に戻っていった。
 その翌日は藤乃のアルバイトがお休み。厳は厳でバイト終了後に愛に「昨日の埋め合わせ」と称されて、いつもの海っぺりの埋め立て地で青姦三昧。良い気晴らし……と言って良いのかどうなのかは、厳自身も解らないが、クシャクシャしていた気持ちがちょっとは晴れたというのが現実だ。
 そして、更に翌日のこと。
「ねっ、ねえ……不動沢君、ちょっと……相談があるから……山田さんと一緒にうちに来てくれない?」
 藤乃が厳にそう言ったのは、本屋の営業時間も終わり、その後の掃除を二人で遣ってるときのことだった。。
「相談?」
 ちらりとレジへと視線を向ければ、頭の薄い中年店主がレジの精算の真っ最中。大きな窓にも自動ドアの所にもグレーのシャッターが下りていて、店内に他の人は一人もいない。
「今じゃ、ダメ? てか、さっき、愛、来てたよね? 本、取りに」
 レジにいたのは藤乃で厳は書架の整理をしているときに二言三言言葉を交わした程度だが、愛は三十分ほどほど前まで店に居たはずだ。
 なんか、注文してた本を取りに来ていたらしい。今回は確か……アニメ雑誌とクロスワードパズルの雑誌だったような気がする。相変わらず、変な組み合わせで本を買う女だ……って話はともかく、閉店作業中は従業員以外誰も入れないから、愛も一端は外に出て行った。
「うん……来てたけど……仕事中に出来る話でもなくて……ね? お願い」
 と、眉を真ん中に寄せ、申し訳なさそうな表情で言うものだから、それ以上の追求も出来なければ、断ることも出来ず。
「良いよ」
「うん、ありがと」
 そんな感じでバイトが終わって、中年店長とシャッターの前でお別れ。代わりに愛が合流したら、藤乃のお部屋に直行。
 そして、藤乃はそろそろゴールデンウィークだというのに未だに出しっぱなしなこたつに座る愛と厳の前に、とある物を取り出した。
 それは一振りの日本刀。
 黒光りする漆塗りの鞘、小さめの鍔は意匠に乏しく、柄も柄巻を巻いただけ。飾りらしい飾りも付いてない、全体的にシンプルな作りの日本刀だ。
 その鞘の中頃には小さくもはっきりとした切り込み傷……それは厳がこの日本刀自身を鞘で受けたときに出来た傷であることは間違いなかった。
 その日本刀と藤乃の申し訳なさそうにクシュンとうなだれる顔とを数回見比べる。
「って……なんで、持って帰ってきちゃったのかなぁ……?」
 最初に口を開いたのは愛だった。
「だっ、だって……あの後、友達の家に一晩泊まったでしょ? 翌日、そこからこっちの家に帰ってくるときに、あの公園の前を通ったの。そしたら、なんか……鈴の音が聞こえて、それで、なんとなく、植え込みの下を覗いたら……あったの」
「……あったの、じゃすまないよ……?」
 苦笑いを浮かべて青年はこたつの上に置かれた日本刀に手を伸ばした。
 ぱちん!
「いたっ!?」
 静電気のような痛みが指先に走り、思わず、手を引っ込める。
「どうしたの?」
「なに?」
 藤乃と愛が同時に尋ねた。
「イヤ……なんか……静電気が来た」
 手のひらをふりふりしながら、厳は呟く。
 すると、愛がこたつの中に投げ出していた足を引っ込め、正座姿になった。
 そして、おもむろに日本刀へと手を伸ばす。
「あっ……」
 厳が小さな声で呟くも、愛の伸ばした手のひらは何の障害もなく黒光りする鞘へと達し、それを恭しく取り上げた。
「大丈夫じゃん」
「さっきは大丈夫じゃなかったんだよ……」
 厳とひと言、言葉を交わすと、愛はゆっくりと目の高さにまでその刀を持ち上げた。そして、左手で柄を握り、すらりと鞘から刃を引き抜いた。
 引き抜かれた刃が、蛍光灯の明かりを鈍く反射させた。その反射光が光の帯となって、愛の目元から少し低めの鼻先を照らす。
 そのきらめく白刃を見やり、彼女はひと言、まずは呟いた。
「奇麗な直刃すぐは……」
「山田さん……詳しいの?」
「ん? 昔、ちょくちょくみせて貰う機会があったの」
 藤乃の言葉に答えながら、愛はゆっくりと刃を鑑賞する。ひっくり返してみたり、立ててみたり、寝かして、峰の方を見たり、刃の方を見たり……
 そんな時間が五分ほど……ひとしきり鑑賞し終えたら、彼女はひと言だけ呟き、その刃を鞘の中へと納めた。
「眼福でした……」
 そして、納刀のうとうし終えた日本刀をこたつの天板の上へと置いたら、彼女は厳の方へ夕日のような瞳を向けて尋ねた。
「ねえ、これの前の持ち主、何か言ってた?」
「えっ? 確か……餓鬼の肉と一緒に置いてたとか……なんとか……」
「ふぅん……まあ、普通の刀じゃないね……死んだ奴が何者かは解らないけど……多分、餓鬼の血肉を使って裏の仕事をする家系だったんじゃないのかな? 死体が上がらなきゃ、犯罪になんないってのは今も昔も変わらないしねぇ〜」
「って、今時――」
 思わず上げた厳の声を愛の言葉が制する。
「今時、そんな仕事があるはずない……から、あー言う無軌道な楽しみ方をして自滅しちゃったわけ、ご理解?」
 足を崩しながら、言った言葉は、茶化すような諭すような……そんな口調。
 その言葉に青年は浮かしかけていた腰を、こたつの前に納め直し、狭いこたつの中で愛の投げ出された足を避けるように座り直した。
 そして、バツが悪そうに彼は言う。
「……ああ、なるほど……」
「黒船来港から、二回目の大戦が終わるまでの百年はずーっとごたごたしっぱなしだったからね、その間にその手の家訓や言い伝えも断絶しちゃったのよ」
 パチンと軽くウィンクすると、その黒光りする鞘を掴んで、藤乃の方へとその刀を突き出した。
「えっ?」
 突き出された物を藤乃は素直に受け取った。持ち慣れてなさそうと言うか、おっかなびっくりな手つきというか、逆に落としてしまいそうでちょっと怖い。
「多分、藤乃のことを気に入ってるんだよ。鈴の音が聞こえたってのはそういう事だよ。ちょっと話しかけてみたら?」
 愛がそう言うと藤乃はまじまじとその日本刀へと視線を向けた。そして、先ほどの愛を真似るかのように右手に鞘を、左手に柄を握ってゆっくりとその刃を引き抜いた。
 愛の時同様に藤乃の目元を刃の反射光が照らす。
 そして、藤乃が小さな声で呟いた。
「話しかけるって……あっ、鈴の音……」
「聞こえた?」
「ううん、全然」
 厳の問いかけに愛が首を振って答える。もちろん、厳も聞こえちゃ居ない。
 そんな二人を置き去りに藤乃は刀を握り直す。いつの間にか正座に座り直されていて、ぴーんと伸びた背筋が美しい。座ったままではあるが、正眼に構えられる刀。切っ先はぶれることなく宙一点を指し示すかのよう。
 そして、藤乃は大きな二重の瞳を静かに閉じた。
 ぴーん……と藤乃の周りに静かな緊張感がみなぎる。それは見入ってしまうほどに美しく、まるで一枚の絵のように美しく仕上がっていた。
「桃林さんって……剣道か何かしてた?」
「私が知ってるわけないでしょ?」
 静かに時が流れ、藤乃が目を開いた。
 どこか色気を感じさせる吐息が、藤乃の唇から、一つ零れた。
「ふぅ……」
 そして、彼女はゆっくりとした口調で語り始める。
「この子のめい白斬びゃくざん。今から四百年くらい前に打たれた刀みたい。元は奇麗な真っ白いこしらえだったのに、二百年くらい前に今の地味な黒い拵に変えられたんだって。それから、戦中戦後のごたごたの時に餓鬼の肉と一緒に倉に置き去り。半年くらい前にあの男に封を解かれたみたい」
 そこまで説明するとこたつの上に置かれていた鞘に手を伸ばし、するりと彼女は刃を黒塗りの鞘に収めた。
「しゃべった?」
 厳が尋ねると、藤乃は軽く首を左右に振った。
「ううん。なんか……イメージが頭の中に沸いてくるって言うの……走馬燈って言うのかな? あんな感じ……って、見たことないけど」
 そう言って、藤乃は黒塗りの鞘に刃を納めた。そして、四つん這いになってベッドへと近づくと、彼女は納刀された刀――白斬とか言ったか? それをベッドの枕元、ベッドパネルに立てかけるように安置した。
「七十年も餓鬼と一緒にほったらかしにされてたから、ともかく、外に居たいみたい。前の主は使い方がアレで嫌いだったけど、不動沢君のことも嫌いなんだって」
 濃紺のロングスカートに包まれた小ぶりなお尻越しに藤乃が言えば、厳は思わず、大きな声を上げた。
「なんで!? 前の主、コロ――あんなにしたからか!?」
 答えたのは油断すれば滑って倒れそうになる日本刀をどうにか安置しようと四苦八苦な藤乃ではなく、コーヒー片手にチョコをつまんでいた愛だった。
「それ、蹴ったからでしょ?」
 こちらにお尻を向けたまま、藤乃がひと言答える。
「正解」
「こっちだって命が掛かってたの! まあ……良いけどさ、嫌われたのは。それで……相談は終わり? 俺が刀に嫌われたってだけの話だったけど……」
 思わず大きな声を上げる。その声の大きさに自分でも少しびっくり。取り繕うようにぼそぼそと小さめの声で言葉を紡ぎながら、青年はパクリ……と、チョコレートを口に含んだ。
 そんな厳をお尻越しにちらりと一瞥すると、藤乃はファッション誌を土台に、日本刀を安定させた。そして、こたつに帰還。早速、彼女もチョコをぱくりと口に放り込んだら、厳の顔へと視線を戻して、言った。
「うん……この刀の処分、どうしようか? って話なんだけど…………処分は無理だよね?」
「守り刀で持ってると良いよ。藤乃は二回も餓鬼にちょっかい出されたわけだしさ」
 コーヒーに口を付けていた愛が言えば、藤乃は少々不安そうな表情で眉をひそめた。
「また、なんかあるの?」
「あるかも知れないし、ないかも知れないし……先のことは誰も解らないよ」
「……ないと、良いんだけどな……この一週間、いろんな事、ありすぎだよ……」
 愛がチョコを片手に正論を語ると、藤乃は大きなため息を一つ吐いた。
 そして、天井を見上げる藤乃に愛が言葉を続ける。
 藤乃は大きなため息を吐き、天井を見上げた。
「いざって時は、厳ががんばるんじゃないの?」
 チョコを加えた唇で、愛が軽く言えば、厳はじろりと彼女のすました横顔に視線を向けた。
 そして、ぶっきらぼうな口調で彼は言う。
「……この間は身の程を知れとか言ってた癖に……」
 その言葉に愛は視線だけを彼へと向けた。赤い瞳が横目で彼を見やる。そして、少し頬を緩めたかと思えば、こたつの上、思い思いに捨てられていたチョコの包み紙をとりまとめ、それを部屋の隅にあるくずかごへと放り込みながら、彼女は言った。
「おでこをざっくりいかれたし、また、羽交い締めにされて、クソしみるクリームで悲鳴上げたし、それでも助けたい人は死んじゃってて……イヤってほど身の程は知ったから、もう、藤乃になんかあっても知らん顔すんの?」
 その言葉に厳はプイッとそっぽを向いた。
「……身の程知らずなんだよ」
 小さな呟きに藤乃が頬を緩めた。
「……ありがと」
「さて、話もまとまったみたいだし、私は帰るよ。厳は泊まるの?」
 そう言って愛が立ち上がれば、藤乃は困ったような表情で、愛と厳の顔を交互に見比べた。
「とっ、泊まられると……若干、困る、かな?」
「泊まらないって……じゃあ、俺も帰るよ。何かあったら、連絡して」
 苦笑いの藤乃に笑みで返し、厳もこたつから立ち上がる。
 そして、三人は玄関へ……
 厳がスニーカーに、愛はヒールの高いロングブーツに足を突っ込み、ドアを開く。
 玄関ドアの向こう側から、夜風が暖かな部屋の中へと流れ込む。
 ゴールデンウィーク前のこの時期とは言え、この時間帯になれば、夜風は冷たい。
「それじゃ、今日はありがとう。呼びつけちゃって……」
「良いよ、それじゃ、また、何かったら、連絡して」
「チョコとコーヒー、ごちそうさま」
 頭を下げる藤乃に厳と愛が一言ずつ返すと、二人は藤乃の部屋を後にした。

「明日、休みでしょ?」
 エレベーターを降りると、愛が青年の腕に自身の腕を巻き付けた。
「……まあ、一応……」
 ぶっきらぼうに彼は応える。
「それじゃ、また、遊びに行こうか?」
「…………へいへい」
 気恥ずかしさにそっぽを向いて、青年が答えれば、愛は夕焼け色の瞳を屈託なく緩めて笑う。

 そんな二人の背後で……
「………………やっと、見つけた…………」
 そう呟くモノが潜んでいることを、厳も愛も知るよしはなかった。
 

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