キレる男

 さて、桃林藤乃の部屋で執り行われたで決まったことは、三点。
 厳は好きにしたら良い。
 万一、何か見つけたら、とりあえず、愛に連絡する。
 愛と厳は藤乃に隠れて会わない。会うなら、堂々と会う。
 この三つ。三つともほぼ藤乃が勝手に決めた感じになったのは、彼女の頭の回転が三人の中で一番速いからだろう。
「身の程を知らなきゃ行けないただの大学生なんだから、好きにさせたら良いじゃない? 何も出来ないなら、危ないことはないよ。万が一、何か見つけたら、山田さんがどうにかしてくれるんでしょ? 山田さんは強いもん。片手で餓鬼……だっけ? あれ、叩き潰すくらいだもんね、大丈夫、大丈夫。だから、不動沢君も山田さんにちゃんと約束して、頼んでおきなよ。あっ、後、二人、会うなら、もっと堂々と会ってよ。別に不動沢君と付き合ってるわけじゃないけど、密会されると、ハブられてるみたいで腹が立つから」
 と、この方向で厳も愛も説得されてしまったわけだ。
 最後の一つはどうなのか? と思うところだが、藤乃には大事な条件らしい。
 後はチョコレートを食べたり、コーヒーを飲んだり、しばしの間、あれやこれやとくだらない雑談をして、その場はお開き。藤乃とはその場で別れ、厳は愛を送っていつものコインパーキングへと向かった。
 右手は自身のスクーター、左腕には余り大きくない胸を押しつけて抱きつく愛の姿。相変わらず歩きづらい姿で、厳は深夜と言ってふさわしい時間の住宅街を歩いた。
 その住宅街から一本外に出ればすぐに明るい市道。藤乃の先輩が勤めてた風俗店や堀田史絵がバイトをしてたコンビニなんかが見えてくる。
 そのコンビニや風俗店の明るい看板が見えてくると、厳の左腕に巻き付いてる愛が厳の顔を見上げて、尋ねた。。
「今夜はどうするの?」
「……パス」
 短く答えると愛がすっと厳の顔を覗き込む。真っ赤な瞳がいたずらっ子のように楽しげに垂れて、青年の顔を見上げる。
 そして、彼女はひと言だけ言った。
「飽きた?」
「……誰もそんな事言ってないだろう? 時間も遅いし、明日だって朝から授業なんだよ……」
「じゃあ、いつなら?」
「明後日」
「明後日?」
「……バイト休みだから……」
「なるほど……まあ、我慢してやろう」
「偉そうに……」
 そして、二人は駐車場へ……その片隅にスクーターを止める。
 両側を大きなビルに挟まれた狭い駐車場、外灯や看板の灯もあって明るくはあるのだが、外からは死角になって人目にはつきづらい。特に今夜の愛は愛車の黒いハイエースを一番奥に止めいた。その辺りになれば、ここが市街地のど真ん中であることすら忘れてしまいそう。
 愛が腕から離れない物だから、結局、彼女の車の前にまで送るハメに……そして、その目立たないところにまで引っ張り込むと、愛はするりと彼の腕を自身の腕から解放した。
 そして、その腕が厳のするっと厳の首にしがみつく。
 細身の腕とは思えないほどの強い力。びくともしない。
 そのびくともしない腕で彼の首を拘束したまま、彼女が顔を近づけた。
 ニマッと愛らしく微笑む顔、真っ赤な瞳が青年の瞳を捕らえて放さない。
「キスくらいして? 本当はフェラさせろと言いたいのを我慢してんだからさ」
「お前、すげーな……」
 呆れ声で返事をするも、愛の体臭が青年の理性を解かしていくようだ。青年は請われるままに青年は彼女の唇に自身の唇を重ねた。クチュッ……と粘膜と粘膜が擦れ合う音が誰も居ない駐車場に響く。厳の舌が愛の唇をかき分け、その口内へと滑り込む。それに合わせて愛の生暖かい舌が彼の舌に絡みついてくる。それは舌と舌が交尾をしているかのよう……
 クチュクチュ……ピチャピチャ……
 その間も愛の真っ赤な瞳は閉じることなく、まっすぐに厳の瞳を見つめていた。
 厳の腕が愛の腰を抱き、いつの間にか背中に回されていた愛の指が厳の背中を切なくかきむしる。
 互いの唾液が互いの口内へと流れ込み、喉の中へと流れ込んでいく……
 そんな時間が数分続くと、チュッ……と小さな音を立てて、愛の方から唇を離した。
 愛の中に潜り込んでいた舌が宙に解放される。
「はぁ……はぁ……」
 厳が荒い吐息を一つ二つこぼす。
「……ふぅ……ふふ……自分の言ったことなんだから、これで終わり……でも良いよね?」
 ぺろり……といたずらっ子のような笑みを浮かべて、愛は舌なめずりを一発。
 そして、彼女はひと言だけを残して、真っ黒い愛車の運転席へと潜り込んだ。
「じゃぁね」
 取り残されるのはスラックスの中、痛いほどに勃起した“モノ”を抱えた十八の青年ただ一人……
「あの野郎……覚えてろ……」

 そして、翌日。
『好きに動けば良い』とのお墨付きを貰ったところで、実際の所、厳に出来ることは少ない。出来ることと言えば、授業が終わった後、普段よりも早くに市街地へと向かい、バイト先の周辺、特にコンビニと風俗店の辺りを当てもなくさまようくらい。まさか、警官でもない大学生が見知らぬ人に声をかけて聞き込みを……なんて真似が出来るわけもなく、ただただ、足が疲れ、時間が無為に過ぎていくだけであった。
「身の程を知りなよ」
 そう言った愛の言葉が脳裏をよぎる。
 その言葉を打ち消すように青年は大股で歩いた。
 春の心地よい陽気、排ガス混じりではあるが気持ちいい風。それを感じる余裕も、そして、当てもなく、青年は人混みにあふれた市街地の道、その歩道をあっちゃこっちゃと思いつくままに歩いていた。
 そして、やっぱり、身の程を知るだけ……
「くそっ!」
 何か蹴っ飛ばせでもすればすっきりするのだろうが、昨今、マナーが良くなってきたのか、空き缶の一つも転がっちゃいない。
 結局、その日の放課後、半日は無為に終わり、バイトの時間を迎えた。
『密会はしない』という約束を結ばされた愛は、その夜、バイトが終わり、店長がいなくなるのを見計らったかのようなタイミングで、シャッターの下りた商店街に姿を現した。
 そして、そのしなやかな体をするっと厳の左腕に巻き付ける。
「……重いし、邪魔だし、歩きづらいし、スクーター押しづらいんだけど……」
 肘にぶら下がった愛にそう言えば、なぜか、怒ったのは藤乃だった。
「女の子に重いとか言っちゃダメ!!」
「……なんで、桃林さんが怒るんだよ?」
「なんでも!」
 きっ! と大きな目を剥ききれる藤乃に苦笑い。まあ、細身の愛に比べると幾分ふくよかではあるのだが、その分、胸も大きくて、しいて言えば、藤乃の方が好みかなぁ……なんて思ったりもするのだが……
「……今、厳、ろくでもないことを考えたよね?」
 斜め下から見上げる愛の顔から視線を逸らして、言い捨てるように応える。
「……気のせいだよ」
 そんな感じで三人の帰り道も終わり。今日はなぜか、愛が缶ジュース代を出して、エントランスでの雑談。割とどうでもいい話を繰り返す。
 そして、その日はお別れ……
「それじゃ、明日、俺はお休みだけど……帰り道、気をつけてね」
「うん。怖かったら店長にでも送って貰う。お休み」
「じゃあね、藤乃。ばいばい」
 厳と藤乃が言葉を掛け合い、最後に愛が軽い口調と共に藤乃に手を振った。
 そして、その夜は終わり、翌日、木曜日。
 厳と藤乃は毎週木曜と金曜を交互に休んでいた。みんなが休みたい土日は休みの人間を決めずに、用事のある者が都合によって休みを取った方が良いだろう……と言う配慮だ。
 その休みの木曜日。放課後。
 暖かいを通り過ごして暑いほどの日差し、ジャケットは駅前駐輪場に置いてるバイクのメットボックスの中。薄手のトレーナーとジーパンという軽装になって、青年は商店街の中をうろうろしていた。
 もちろん、昨日同様、簡単に手がかりが手に入る……なんて都合の良い事は考えていない。むしろ、時間が経った分だけ、手がかりは減っているだろうと、理性の部分では解っていたほど。
 しかし、それでも、何もせずにはいられなかった。
 無為に時間が過ぎ、無為に体力だけが無くなっていく。
 ぐぅ……と小腹が鳴った辺りで、青年はジーンズのポケットからスマホを取り出した。今の時間は六時を少し回った辺り。普段ならそろそろ、バイト……と言ったところだ。
 愛とのデートの約束は夜の七時。
 うろうろ出来るのは後一時間足らずだ。
 この時、厳はあの夜、餓鬼に襲われた住宅街の一角に来ていた。
 高めの塀と塀で挟まれたごくごく普通の路地。大きめの車がすれ違うのがやっとと言った趣の道だ。その辺りをきょろきょろ……見渡したところで何かがあるわけでもない。
 そこから藤乃が良く使っていたが、最近は全く使わなくなった商店街へと続く抜け道へと厳は入った。
 余り長くない細い路地だ。車はもちろん、自転車すら入るのは億劫そうな細い路地。そこには流行ってなさそうなバーの看板やら商店街に並ぶ店舗の裏口なんかが並んでいた。
 地下へと下る階段もあるようだが、古新聞の束が乱雑に積み上げられていたり、空き瓶のケースが放置されていて、客を迎えられるような様子ではなかった。
 なんとなく、興味を覚えて、青年はひょいと首を階段の入り口に突っ込んだ。
 つーん……何かの腐ったような匂いがした。
 何処かで嗅いだようなイヤな香だ。
(食い物屋で何か腐らせたのか?)
 そんなことを頭の片隅で思ったその時――
『たんたんた〜ん、たたんたん! たたん、たんたんたんた〜ん♪』
 ――胸のポケットに入れてあるスマホが軽快な音で鳴った。
 細い路地、慌てて走り出ようとすれば、対向から来た人と肩がぶつかる事があっても不思議ではない。
 トンッ……
 サラリーマン風の男性と肩と肩がぶつかれば、彼が「すいません」と短く詫びた。
 その声に「いいえ」とだけ応える。そして、青年は人混みにあふれる夕方、人通りの少ない住宅街へと出た。
 つん……と香る何かの匂い。
(あれ?)
 と思って、振り向き見れば、すでに男の姿はその辺りにはなかった。もう少し捜せば、見つけられるのかも知れないが、今の彼にそんな余裕はない。
 慌てて、青年は先日の現場――住宅街の路地へと走り出た。
 夕暮れ時、人通りが少なめなのはどの時間も同じではあるが、この時間帯はひときわ寂しく見えた。その塀と塀との間に敷かれた道路に出ると、青年はポケットからスマホを取り出した。
 そして、発信者の名前を見る。
『桃林藤乃』
 そう言えば、彼女を家に送った翌日、朝、彼女の部屋で目覚めたときに教えたっけ……って事を思い出しながら、青年は電話に出た。
「もしもし? どうしたの? 桃林さん。バイトは?」
『ばっ、バイトどころじゃない……あっ、あのね、そのね……わっ、わ、わた、私、はっ、犯人に会ったかも知れない……』
 電話の向こう側から聞こえる声は、明らかに震えていて、聞き取るのも難しいほど。その藤乃をあやしたり、なだめたりしつつ、話を問いただす。
 話は藤乃が『野犬』に足を噛まれたときにまで遡る。その時、藤乃は足を何に噛まれたか、気づかなかったらしい。ただ、ズキン!! と足に激痛が走ったかと思うと、足から赤い血が流れ出していた。すると、『すらっと背が高くてイケメン』なサラリーマン風の男性がやって来て、濡らしたハンカチで傷口を拭いたり、救急車を呼んでくれたり……と、手当をしてくれたらしい。
 まあ、それは良いのだが、その時、彼がやけに――
「野犬だ。これは野犬に噛まれたんだ。黒くて大きな野犬が逃げていくのを見た」
 そんな感じで『野犬』を連呼していた。
 まあ、その時は野犬以外に足を噛むような生き物なんて考えられなかったのだが、今となって考えてみれば……
『だっ、だって、私の足を噛んだの……餓鬼でしょ? おかしいじゃん……それも黒い犬って言い切ってたし……』
「ああ……確かに……でも、見間違えたんじゃないのか? それか思い込みか……」
 受話器を耳に当てながら、青年が言えば、藤乃は電話の向こう側でまた言った。
『わっ、私もそうかも……って思ってたんだけど、今日、その人と会ったんだよ……』
「えっ? うん。それで?」
『そしたら……餓鬼の匂いって言うの? あの血の腐ったようなの……あれが凄くて……その時のお礼を言おうとしたんだけど、私、気持ち悪くなって……それで、逃げようとしたら、手を捕まれて……それで、振り払って、逃げ出して……』
「って、それ、先に言ってよ……今、どこ?」
『商店街の喫茶店……解る? お店とは逆の入り口の方にある……そこのトイレ……』
 電話を繋いだまま、青年は足早に細い路地を抜け、商店街へと戻った。そろそろ、帰宅時間なのだろうか? 住宅街に比べて商店街は人であふれていた。
 その人混みの中、藤乃に言われた店を探す。
 その店を意識したことはないのだが、言われたところに行けば店はあった。その店に青年が着いたことを教えれば、しばらくの間、トイレに立てこもっていたという迷惑な客もやおら、フロアへと戻った。
 そして、ようやく、入り口傍のテーブルに陣取り、二人は向かい合わせに腰を下ろした。
「大丈夫?」
 厳が開口一発問いかければ、真っ青な顔の藤乃はコクン……と大きく首を縦に振った。
「だっ、大丈夫だけど……これ……」
 そう言って、藤乃は自身の右腕を差し出した。
 シンプルなブラウス、その袖を捲れば、健康的な素肌とそこに刻まれた、真っ青なアザが一つ。そのアザは塗ったのかと思うほどに鮮やかな青色をしていて、それも形が奇麗に手のひらで握りしめるような形で、浮かび上がっていた。
 しかも、それは――
「なんだ……これ……」
 思わず、青年が呟いた。その藤乃の右腕のアザからは例の腐った血の匂いがするのだ。
「洗っても落ちないの……」
 半泣きになって彼女は言った。その瞳は今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
「また、あれに追いかけられるの? ヤだよ、私……」
 震えてるのが一目でわかった。
「後で愛に相談だな……それと、バイト、どうする?」
 厳が尋ねると藤乃はうつむいたまま、首を軽く左右に振って見せた。そして、少しだけ上目遣い、少し長めの前髪越しに厳の顔を見上げると泣きそうな瞳と口調で言った。
「……バイト、行かなきゃ……そろそろ、時間だし……ねえ、悪いけどさ、店の中にいてくれない? 用事があるならしょうがないけど……不動沢君がいないとき、店長、裏で返本だし……私、店内に一人ってイヤだよ、マジ」
「ああ……そっかぁ……」
 半ば以上想像通り……と言ったところ。仕方ない……とため息を吐いたら、青年はポケットからスマホを取り出した。
 その表面を軽くタップ、一人の女性の名前を呼び出したところで、注文していたコーヒーが届いた。ホットブレンドが一つずつ。藤乃がそれにミルクと砂糖をたっぷりと入れているのをチラ見しながら、青年はその呼び出した女性の元に電話を掛ける。
『はいはい、厳? なにかあった?』
 電話の向こう側から聞こえてきたのは、愛の軽い調子の声。
「ああ……桃林さんがな……――」
 厳が話し始めると最初は軽い調子で相づちを打っていた愛の口調が次第に、そして、露骨に不機嫌な物へと変わっていった。
「……――と言うわけなんで……」
『……何?』
 話が終わる頃にはぶっきらぼうで吐き捨てるような口調に成り代わっていた。そこに込められた怒気は、それはもう、電話越しにでも殺されるんじゃ……と思うほど。
「……時間があるなら、こっちに来てくれると……――」
『そりゃ、時間はあるよね、たった今、予定がなくなったから』
「悪かったと思ってるよ、また、埋め合わせ――あっ」
 目の前に座っている藤乃が右手を差し出して、電話をよこせとジェスチャーしていることに気づく。それを青年は愛に伝え、藤乃に自身のスマホを手渡した。
「もしもし? うん、私……本当、ごめん……でも、怖くて……うん……うん……ごめんなさい……うん……」
 半泣きからほぼ全泣きへと移行しつつある藤乃の顔から視線を逸らす。向けるのは夕方の賑わう狭い喫茶店。年頃のウェイトレスが十人弱、半分ほどの座席が埋まったフロアで忙しそうに働いてるのを見るともなしに眺める。
 そして、青年は淹れ立てのホットコーヒーに砂糖を少々入れ、口に運んだ。
 苦みの中にほんのりと砂糖の甘みを感じる……このくらいが一番良いと思う。
 そして、視野の外では藤乃がすすり泣く声が聞こえ始めていた。
「どうして……私が……」
 そう言って泣く藤乃の顔を横目でちらり……大きな声を上げているわけでもないが、目からはぽろぽろと涙がこぼれ、磨き抜かれた木目、その光沢が美しいテーブルの上に上に落ちて弾けていた。
(まあ……そう思うのもしょうがないよな……)
 ため息を吐いて青年は微糖のコーヒーを口へと運んだ。
 視線を逸らす。今度は窓の外。
 外はゆっくりと日が落ち、夜の時間……されど、まだまだ、商店街を行き来する人の数は減りはしない。むしろ、帰宅するサラリーマンが増えてくる頃だ。
 そんなとき、不意にテーブルの下からけたたましい電子音が鳴り響く。ジャニーズか何かのインストルメンタルか? 何処かで聞いたことはあるが、タイトルまでは思い出せない。
「わっ!? ごめん!! 電話、鳴ってる!! うん、うん、ありがとう! それじゃ、待ってる、またね」
 その音は藤乃を慌てさせ、彼女の瞳に浮かんでいた涙さえも引っ込めるほどの勢い。彼女はピッとスマホの画面に浮かぶアイコンをワンタッチ、通話をたたき切るとイルカの泳ぐ大樹画面に戻すと、それを厳の方へと突っ返した。
 そして、彼女はハッとした表情を彼に見せる。
「あっ、切っちゃった!」
「良いよ……後で会うし……それより、そっちの電話は?」
「あっ、うん、出る……って、こっちも切れた……」
 藤乃がため息交じりにテーブルの下に置いてあったハンドバッグを取りだし、着信遍歴を見る。どうやら、バイト先の書店かららしい。どうやら、喫茶店であれこれしている内に出勤時間を大幅に過ぎてしまったようだ。そっちには電話をかけ直す。暴漢に襲われた……と言えばいらぬ心配もかけるだろうから、野暮用があったとだけ伝えておく事になった。
「そろそろ、行かなきゃ……」
 そう言って藤乃が伝票を手にして立ち上がる。
 それに合わせるよう、厳も立ち上がったら、自身の目元を押さえて彼は言った。
「顔、洗わないと……涙の跡が付いてるよ」
「あっ、うん……」
「先に出てるから……」
 そう言って、トイレに行く藤乃を見送り、代わりに伝票を持って、青年は一足先にレジへと向かった。払うのはコーヒー二杯分、先日取ったパチンコの勝ち分は未だに財布の中で眠っているから、そんなには痛くない。
 そして、喫茶店の入り口で待っていると人混みの中、一人の男と目があった。十メートルほど離れた、商店街のアーケードを抜けて出た所だ。
 すぐに視線を切り、彼は片側二車線の国道の向こう側、軒を連ねる店へと視線を向けた。
 背の高い、細身の、スーツ姿のサラリーマン……先ほど、ぶつかった男性だろうか? 目があったのはホンの一瞬だったし、今は後ろ姿だからよく解らない。スーツもダークブルーだったか、それともブラウンがかっていたのか……考えれば考えるだけ、あやふやになるのは、あの時、厳が慌てていたからだろう。
「ごめん、不動沢君。コーヒー代、払ってくれたんだ?」
 出てきた藤乃が厳に声をかけた。その顔を見れば、洗ったのだろう、涙の跡は消えていたし、前髪も少し濡れていた。
「えっ? ああ……うん。いつも缶コーヒー買って貰ってるし」
「缶コーヒー、何本分だよ……呼びつけたのに奢らせちゃって、ごめんね」
「ううん、良いって。それよりさ、あれ……」
 そう言って、厳は視線を商店街の外、車通りの多い国道へと向ける。
「なに?」
 藤乃の不思議そうな声が聞こえた。
「……あれ、いない……」
 もう、すでに向こう側へと渡り終えたのだろうか? もしかしたら、渡らずに右か左に行ってしまったのかも知れない。ともかく、厳と目のあったサラリーマンの姿は商店街の店とアーケードが作る枠の中には存在せず、その代わりに数人の女子高生らしいグループが身振り手振りを含めて、楽しそうに言葉を交わしている姿だけが見えていた。
「どうしたの? 何かあったの?」
「ううん……何でも無いよ、多分、気のせい。行こうか?」
「うん」
 二人は肩を並べてアーケードの奥へと続く道を歩き始めた。
 その背後――
「ちっ……また、あいつか……」
 ――背の高いサラリーマン風の男が舌打ちをしていることも気づかずに……

「へぇ……休みの日に桃林さんの送り迎えねぇ……なるほどねぇ〜」
 にやにや、脳天気に笑ってる中年店長にムッとしながらも同時にその脳天気さに救われる気分を感じた。そして、青年は彼の勘違いを訂正することもしなければ、肯定することもせず、雑誌売り場へと向かった。
 レジ近くにある雑誌売り場、そこに並ぶ書架は少し低めだ。青年の胸元くらいまでしかない。その書架から手にした月刊のバイク雑誌をぺらぺらと捲る。興味があると言えばあるのだが、もちろん、買う金なんてどこにもない。中古の原付を維持するのも手一杯ってところだ。
 その雑誌に飽きたら今度は旅行の雑誌なんかを手に取ってみたり……と、適当に時間を潰すこと三十分ほど。
「不動沢君」
 聞こえた藤乃の声に顔を上げると、レジに入ってる藤乃とその向こうでひらひらとお気楽に手を振ってる赤毛の女の姿が見えた。
「腕の方はこれで大丈夫……まあ、災難だったね?」
「ありがとう……ホント、ごめんね」
 愛の手には香水なんかに使う小さな霧吹き。近づくとつーんと例のメンタムのような匂いが鼻を刺激した。どうやら、例のクソのようにしみるクリームを水に溶いた物らしい。それを藤乃の例のアザに匂い消しの代わりに吹き付けたようだ。
「アザが消えるのはしばらく掛かるけどね。痛むなら医者に行って。それと……厳、ちょっと、話があるから……外、おいで」
「えっ?」
 青年の腕にするりと腕を巻き付け、彼女は青年を店の外へと引っ張り出そうとした。その態度に思わず、青年がいぶかしむような声を上げれば、彼女は小さな声で耳打ちをした。
「店ん中で死んだの殺されたのって話、したいわけ?」
 そして、藤乃の方へと向き直ると、愛は明るい口調で言った。
「店の入り口は見てるから。変なのが入らないようにさ。心配しないで?」
「あっ、うん……ありがとう。山田さん」
 ぺこっと頭を下げる藤乃に軽く手を振り、愛は厳を引き摺って店外へと出た。
 そして、そのまま、対岸にある小さなブティックと靴屋の間にある路地というのもはばかられるような隙間に厳と自身の体を押し込んだ。
 路地と言うよりも建物の建て替え時に出来てしまった隙間というような空間。二人が入れば体が密着してしまうほど。甘い女の香が厳の鼻腔をくすぐった。
 高まる鼓動を知ってか知らずか、愛は厳の顔を見据え、真顔で尋ねる。
「それで……昼間っから拉致ろうとしたわけ? そいつ……」
「多分、当初はだまくらかして連れて行く気だったんじゃないか? ほら、野犬騒ぎの時に怪我の手当とかしてるから……桃林さんも最初は警戒してなかったらしい」
「……なるほどね……」
 そして、しばしの間視線を逸らし、沈思する。
 狭い空間、密着した体の柔らかさと甘い香り……
 その二つに鼓動を高めていれば、不意に愛が口を開いた。
「まあ、ほぼ決まりよね。この狭いところに二人も三人も誘拐犯がいるよりかは連続誘拐犯が一人の方が世も末感浅いし。で……新しい獲物に手を出したって事は……解るよね? 厳」
 冷たく感情のこもらない口調で愛が言った。その言葉は、青年の高まる鼓動に冷や水をかけた。いや、むしろ、別の意味で鼓動を高め後言えるのかも知れない。
「……言うなよ……」
 絞り出すように彼が命じるも、愛はその言葉が聞こえてないかのように言葉を続ける。
「……しかも、相手が餓鬼の匂いをさせてたって事は、おそらく死体は上がらない……」
「言うなっつてんだろう!?」
 気づけば厳は愛の胸元、コートの襟元につかみかかっていた。
 その厳を愛がまっすぐに見やる。夕焼け色の瞳が冷たく、細くなっていた。そして、彼女は淡々と呟いた。
「殴って気が済むなら、殴っても良いけど?」
「くそっ……!」
 愛の胸元から手を離し青年はブティックの壁をがっ! と蹴り上げた。堅いコンクリートの壁は厳が蹴った程度ではびくともするはずはなく、痛むのはむしろ厳のつま先ばかり。
「……零れた水を嘆くよりも……コップに残ってる水の心配しなよ」
 そう言って愛は正面の本屋を顎で示した。
 そこでは透明度の高いガラスの向こうがで、藤乃が客相手にレジを売っているのが見えた。
「……割り切れる物でも……」
 呟くように応えれば今度は愛が厳の胸ぐらを掴んだ。そして、鋭い視線と口調で彼を射貫く。
「割り切るの! 今は! 藤乃までサイコ野郎のオモチャにさせたいわけじゃないでしょ!?」
「……解った」
 青年は不承不承ではあるが小さく首を縦に振った。振るしかない……と言うのが現実だろうか?
 すると愛は軽く頬を緩め、青年の胸ぐらを自身の小さくも力強い手から解放した。そして、夕日のような瞳を少し緩めて微笑む。それは彼を慰めているかのようにも思えた。
「……まあ、長続きはしないって……どうせ、そのうち、破綻する。いくら死体が上がらないとは言ってもさ。そう言うたがの外れた人間がいつまでものんきに生きていけるほど、世の中は甘くない」
「だと……良いけどな」
 青年は軽く肩をすくめて見せた。
 そして、改めて愛の方へと視線を向けた。
 素の身長は厳の方が愛よりかは高いのだが、彼女がヒールのあるブーツを好んで履いてるせいで視線の高さはほぼ変わらないくらい。その同じ高さにある夕日色の瞳を見つめる。
 そして、少しだけ頬を緩めて、厳は言った。
「お前、意外と良い奴だな……」
「今頃知ったか?」
 そう言って、彼女はするりと厳の首に手を回した。
「……――って、そう言うことしてる暇じゃねーだろう?」
「大丈夫、大丈夫、右目は厳を見てるけど、左目は藤乃を見てるから。あっち」
 そう言って愛が右手を厳の肩越しに本屋の方へと向けた。
 それに釣られるかのように青年も背後へと視線を向ける。
 目に入ったのは書店のロゴが入った大きなガラス、その向こう側では藤乃が退屈そうにあくびをかみ殺している姿が見えた。
 そして、そこから少し右にずれたところ……小さな和菓子屋。すでに営業は終わってるようで大きめの硝子窓の向こう側は真っ暗だ。その真っ暗になったガラスに映る一人の男。
 すらっと背が高く、スーツ姿のサラリーマン風の男。
 その男と鏡のように商店街を行き来する人々と店並みを写すガラス越しに目があった。
 そして、男が視線を切り、きびすを返した。
「愛、悪い! 桃林さんのこと、見てて!!」
 右腕のホールドがなくなったことを良いことに、愛の腕をふりほどき、厳は建物と建物の間から飛び出した。
「ちょっと!? 厳!!」
 背後から聞こえる声は無視して、商店街のアーケードの下へと走り出す。
 足早にその場を去ろうとする男の背中が見えた。
 人混みは一頃に比べて随分と減ってきて、閑散とし始めてると言っても良いくらい。
 そんな中、男はするっと一本の細い路地へと滑り込んだ。今まで、厳が入ったことのない道……と言うか、先ほどまで厳と愛が潜り込んでいた建物と建物の隙間よりかは多少マシと言った程度の路地だ。
 普通に走れば相手の男よりも厳の方が足は速いだろうと思う。しかし、土地勘に関しては相手の方に圧倒的なアドバンテージがあるようだ。そんなところに? と思うような路地に入ったり、急に曲がったりを繰り返されれば、いくら足が速くても追いつくのは難しい。
 そんな路地をいくつか抜けて、また、商店街の中を走って、人通りのない住宅街に入って、気づけば、藤乃の家の隣にある小さな公園へと厳はたどり着いていた。
 いや、連れて来られていたと言うべきか?
 トイレとベンチ、後はブランコらいしかないような小さな公園……周りの路地にこそ外灯はあるが、公園の中に明かりはなく、薄暗い。昼間に通りがかったときとは随分と印象が違ってた。
「なんなんだよ、お前……」
 吐き捨てるように厳は言った。
 目の前、五メートルほどの所に一人の男がいた。年の頃は二十代後半くらいだろうか? 背が高く、こざっぱりとしたスーツがよく似合うスマートなサラリーマンと言った風体の男だ。稼ぎも良さそうで女にももてそう……と言うのが厳の第一印象だった。
 その男が厳の言葉に、薄暗がりの中でも解るほどに顔をイヤらしくゆがめて答えた。
「あの胸のでかい女といつもいるから……あの女の男かと思ったが……別の女ともいちゃついてるんだな? どっちが本命だ?」
 軽い口調、まるで大学の悪友にでも話しかけてるような口調だ。しかし、男が口を動かし、言葉を吐く度に、吐き気を催すような血が腐ったような匂い――餓鬼の匂いが厳の鼻腔を強く刺激する。
「……歯、磨けよ……餓鬼の匂いがするぞ……」
「餓鬼? ああ……アレのことか……? 餓鬼って言うのか? 始めて聞いた、物知りだな」
「堀田さん……知ってるか?」
「だれだ?」
「そこのピンサロの前のコンビニでバイトしてた女子大生だよ」
「ああ……あの眉の太い女か? 一昨日、アレの餌にした。もしかして、あれが本命か? 悪いな、あの女、処女だったぜ」
 男が楽しそうに答えた。
 答の内容よりも男の楽しそうに弾む声……勝ち誇っているとも言える声が、青年の神経を逆なでした。
「……解った、もう、良い、お前は喋るな。これ以上喋るな」
「お前は聞かれたことに答えろよ……どれが本命だ? ホリタさんとやらが本命なら、もう、手遅れだが」
「喋るなっつってんだろう!?」
 青年の両足が地面を蹴った。前傾姿勢、頭を低くして青年の体が男の懐へと飛び込む。
 その時、男の左手が何かを握っているのが見えた。黒いただの棒……に見えた物に鍔が付いていることに気づいた刹那、青年は体を地面に投げ出していた。
 埃っぽい赤土の上で一回転。
 鈍色に光る白刃が、先ほどまで青年の頭があった空間を、真一文字にいだ。
 転がる勢いを殺すことなく、くるんと一回転。そのまま膝立ちになり、青年は男の顔を見上げた。その顔は醜く歪み、その右手に掲げた刃に外灯の光が反射した。
「おぉ〜避けた、避けた。頭んところ、ざっくり行ってやるつもりだったんだけどな?」
 男が左手に持っていた鞘を投げ捨てた。
 カラン……黒漆の鈍く光る鞘が地面の上に乾いた音共に転がる。
 それをちらりと目で追うと、青年は小さな声で言った。
「……鞘、痛むぞ」
「後で手入れするさ」
 そう言って男は無造作に刀を振るう。
「お前を殺して、アレの餌にした後に、な!」
 地を蹴り右に横っ飛び。
 その空間を縦に、そのままであれば脳天から顎へと一直線に切り裂けたであろう空間を、刃が走った。そして、今度は止まることなく、右に左に……白刃は青年を追いかけ、縦横に駆け巡る。
「ちょこまかと良く逃げる」
 男は忌々しそうに呟いた。
 厳の実家は古武術の道場をしていた。しかし、今の時代……どこか戦後の社会で、古武術なんて習いたがる者は居ない。結果、現在の家業はただの農業。道場は祖父と父が近所のスポーツ少年団に剣道と柔道を教えるのに使われるに留まっていた。
(――って、その小学生よりも下手くそに振り回してるだけじゃねーか……)
 内心毒づく。
 力任せに目標に向けて刀を振り下ろすだけの剣術。刀の重さに本人の方がふらついてることにすら、本人自身気づいても居ないほど。本人は全く怖くない。しかし、問題は奴が持っている刃、薄闇の中でも怪しく光る鈍色の刃だ。下手に当たりでもしたら大怪我間違いなし、それをリアルに予感させるほど、その頭身は美しく、殺気を放っていた。
 相手が素人なら恐れずに前に出て、刃ではなく、柄を握る手や腕を押さえろ……と、習ったことはある。一応、厳の家に伝えられる古武術の基本だ。が、やってみたことは一度しかない。しかも、それは本身ではなく、模造刀だ。
 正直、怖い。
 必要以上に体が大きく避ける。
 数度目の横転、服はすっかり埃だらけ。
 白刃の下で走り回ってる緊張感、恐怖心から大きく避けすぎていたせいもあるだろうか? 次第に厳の息が切れ始め、膝が笑い始める。
 一方の男は楽しそうに、ネズミを追い詰める子猫のように右に左に、縦に横にと、楽しそうに刀を振り回しているだけ。疲れてた様子もなく、むしろ、生き生きとしていた。
 そんなさなか――
 ざんっ!
 ふらついたところに男の剣戟が走った。
 イヤな音共に前髪が落ち、額から血があふれる。
 かすり傷だ。痛くはあるし、流れた血が目に入れば、不利になることは間違いないが死にはしない。
 傷の具合を頭の中で計り、たんっ! と地面を蹴って距離を取る。
 そして、頭の中で攻め手を考える。
 一方、男の方はすでに青年を殺したつもりでいるようだ。にやにやと見るに堪えない醜い笑顔と、ノイズのような声で彼に話しかける。
「あの女、そこのアパートに住んでんだろう? お前と二人で入ってくの、見たぜ? 本当は昨日の夜、さらってやろうと思ってたんだけどな……」
 切れた息を整え、右腕で額の傷を拭う。染み抜きをしたばかりのジャケットに新たなシミが浮かび、傷口がずきんと痛んだ。
「喋るなって……言ってるだろう?」
「どうせ、お前はもうすぐ誰ともしゃべれない世界に行くんだ。最後の会話、ゆっくり楽しもうぜ?」
 ひゅん! と男が剣を振るう。闇夜の中でも解るほどに刀身は白く、浮かぶ波紋が美しい。
 その一撃をかわしながら、青年はまた叫ぶ。
「どこで拾ったんだ? おっさんのオモチャには過ぎたもんだぞ?」
「しゃべるなって言ってなかったか? まあ良いさ……うちの倉だ。ひからびたアレの肉と一緒に置いてあった」
 男が一歩踏み込み、刀を振り上げる。斜め上に振り上げて、斜め下に振り下ろすだけの単純な動き。避けるのは難しくはない。しかし、反撃できるほどの余裕はない。
紙縒こよりで封をした木箱ん中にな。封を解いた途端にアレが倉の影から出てきて、死ぬかと思ったが……」
 今度は左から右へ、真一文字に凶刃が振るわれる。
 それを地面に体を投げ出しながら、青年はかわした。
 転がりながら、目的の場所へと体を置き、右手を目標の物へと伸ばした。そして、握った物の堅さを確認しつつ、青年はまた口を開いた。
「解った、もう、良い、口を閉じろ」
「じゃあ、お前も最後に俺の質問に答えろ。どっちが本命だ? 本命は最初に殺してやる。二−三日、オナホの代わりにしてから、な!」
 ゆっくりと男が近づき、頭上へと刃を振り上げる。見上げる刃の向こう側に真ん丸い月がぽっかりと浮かんでいるのが見えた。その月を見上げながら、厳は言う。
「お前の口は歯槽膿漏のお父さんよりも臭いんだよ。口を閉じて鼻で呼吸しろ」
「あいにく、虫歯にはなったことがないんだよ!」
 青年の真上から刃が振り下ろされる。
 同時に青年の右腕が跳ね上がった。
 がっ!
 鈍い音共に刃が止まった。
 その右手には男が投げ捨てた黒漆の鞘。
「なっ!?」
 男が間の抜けた声を上げるのを聞きながら、厳は左手を跳ね上げさせる。狙うのは動きを止めてた男の右手。
 がっしりと掴んだら、有無を言わさずそのまま、引っ張る。それと同時に右足を踏み込み、その勢いに任せて、腰を回す。
 そして、膝を一気に伸ばす!
 いわゆる一本背負い。
 相手の体が自身の体の上に乗り、宙を舞う、その心地よい感触を背中に感じた。
 男の体が青年の背の上でくるんと半回転し――
 どんっ!
 ――と、鈍い音共に地面に叩き付けられた。
「かっ!」
 男の口から空気の漏れる音がした。ろくに受け身も知らないのだろう。後頭部を地面にぶつけたらしい。目の焦点が合わず、口からは異臭を放つ涎が泡のようにあふれていた。
 男の手からこぼれ落ちた日本刀を蹴り飛ばし、寝転がってる男から届かないところにまで離す。そして、青年は、男の体の上に馬乗りになった。いわゆるマウントポジションって奴だ。
 馬乗りになられた男が焦点の合わない瞳で厳を下から見上げる。
「クソ……がっ!」
 男の唇が小さく動き、言葉を絞り出した瞬間、厳の拳が男の鼻骨をたたき折った。
 それからさに数発、顔面に拳を叩き付ける。
 がっ! がっ! がっ!
 骨と骨の当たるイヤな音が響いた。
 男に言いたいことは山ほどあった。
 しかし、言葉にすることが出来なかった。
 言葉にしてしまえば、この怒りがチープな物になってしまいそうだったから。
 双方、無言。
 厳はひと言も言葉を発せず、男はしゃべれるような状況ではない。もしかしたら、気絶でもしてるのだろうか? 頭を打ってるから、その可能性も否定できない。
 お互いに何も言わず。ただ、青年の拳が男の顔を叩き付けられる鈍い音だけが、夜の公園に響いていた。
 その度に血の腐ったような匂いを放つ液体が青年の拳を濡らし、辺りに飛び散る。
 殴る拳が痛い。骨と骨がぶつかって、相手の骨だけではなく、厳の骨にもヒビの一つや二つ入ったのかも知れない。
 気づけば青年の目から涙が零れていた。
 額から流れる血と混じって、顔中、ぐちゃぐちゃだ。
 それでも殴ることを止めない。
「もう、止めなよ……厳」
 ずきずきと痛む拳を誰かが掴んだ。火照った拳に冷たい手のひら、見上げれば、愛が厳の拳を無造作に掴んでいた。無表情に見下ろす夕日色の瞳、その隣では心配そうな表情を見せる藤乃の姿もあった。
 その顔を、血と涙のカクテル越しに見上げながら、青年は考える。
(バイト……終わったんだな……)
「もう、そいつは死ぬしさ……」
 冷たい声で女が言った
「死ぬって……なんだよ……?」
 呟き、男の顔を見やる。まぶたが腫れ、鼻血があふれ、唇も切れているようだ。しかし、胸は上下に動いてるし、唇からは荒い吐息が漏れてる。すぐには起き上がれないくとも、死ぬような怪我じゃない……と、思う。若干、やりすぎたかも知れないが……
「良いから……」
 それだけ言うと、愛が厳の体を無理や引き起こさせた。
「ふっ、不動沢君……あっ、あれ……」
 藤乃が指さす方向に視線を向ければ、ちょうど、ブランコの辺りに赤く光る瞳が三対、見えた。
「あっちにも!」
 藤乃が叫び、厳の腕にしがみつく。そして、彼女の言葉に従い視線を向ければ、トイレだろうか? コンクリートの建物の片隅から更に二対……
 愛が厳の手のひらを優しくさすりながら、呟いた。
「慌てなくて良いよ……あいつらの獲物は私たちじゃない……」
 そして、赤い瞳が飛び上がり、飛びついた先は地面に寝っ転がったままだった男の体。
「ぎゃっ!?」
 男が短い悲鳴を上げた。
 ピチャピチャ……ポリポリ……クチュクチュ……イヤな咀嚼音が聞こえ始める。
「おっ、おい!?」
 思わず、青年が声を上げ、そして、藤乃の目を胸で覆い隠す。
「!?」
 その胸の中で藤乃が声にならない悲鳴を上げたところを見ると、隠した意味はあまりなかったようだ。
 そして、愛が淡々と語り始める。
「……言ったでしょ? 餓鬼は同族を食べるって……もう、あいつは餓鬼から見たら同族にしか見えないんだよ……肉も血も骨も魂までも闇に染まって、腐り果てて、異臭を放ってる。だから、弱ったら同族に喰われるんだよ……風邪をひいても、ちょっとした事故に遭っても……そして、誰かに骨が折れるまでぶん殴られても……餓鬼を使って好き放題? 世の中、そんなに甘くない」
 愛の言葉が公園の中に静かに響く。
 その声の向こう側、餓鬼が男の肉を喰らい、血をすすり、骨をかみ砕くイヤな音だけが公園の中に響き渡っていた。

 そして、男の存在はこの世界から抹消された。
 男が殺し、餓鬼の餌にした多くの人々と同様に……

*エピローグ*

 あの日の翌日、金曜日の夜……バイトが終わると厳は愛に『埋め合わせ』として、いつもの海っぺりの埋め立て地へと引っ張り出されていた。
 犯る気があったかなかったと問われれば、なかったはず……ではあるのだが、愛に迫られ、唇を重ね、抱き合ってしまえば、勃つ物が勃ってしまうのが男という悲しい生き物。結局、正の字一つを愛のお尻に書き記すまで犯ることになった。
「殺したかった?」
 素っ裸のまま、ラゲッジスペースの端っこ、バンパーの上に座っていた愛がふと尋ねた。
「喧嘩するときに『ぶっ殺してやる』って叫んで殴りかかったことがある。その時と同じくらいの気分にはなってた……と思う」
 答えた厳は車の奥、壁と助手席のシートが作る狭い角に体を押し込むように座っていた。
「まあ……それで実際に殺しちゃう人って、そんなに多くないよね……」
 白い背中を向けたまま、愛が呟く。
 その白い背中とその向こうに見える赤土打ちっ放しの地面と真っ黒い空、それと海を見ながら、青年も答える。
「多分な……」
「……あいつはもう人間じゃなかったのよ。人の法からもことわりからも外れた……まあ、害虫だよ。害虫を駆除したくらいに思えば良い……そもそも、殺したのは餓鬼だしね」
「……割り切れない……」
「……今は割り切らなくても良いよ。時間はあるんだし、後悔するなり、開き直るなり、いつまでも悩むなり、好きにしなよ……」
 春なお冷たい潮風が、開きっぱなしのラゲッジスペースに流れ込んだ。

 それからひと月後、商店街の外れにある小さな地下店舗に改装の手が入った。その工事中に一つのスマートフォンが見つかった。それは先日来行方不明になっていた堀田史絵の所有物であることが解った。そして、警察はここに無断で出入りしていた松戸京介まつどきょうすけを重要参考人として指名手配することにした。
 その時公開された写真には、あの夜、あの場所で、餓鬼に食われたあの男の姿があった。

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