焦れる男

 最近、明け方近くまで外でふらふらしているのが常態化している厳は、それでも大きなあくびをかみ殺しながら朝一番の授業に出ていた。
 月曜一発目の授業は一般教養の美術だ。絶対に取らなければならないというわけではないが、出席してれば、寝てようが、内職してようが、ひとまずは可がいただけるというありがたい授業。そう言う授業であるから、文系理系を問わず、一年には大人気だ。
 ちなみに厳は先週先々週と、真面目に受ける気はあったのだが、後半戦は寝ていた。そして、今日は端から寝るつもり。
 真っ青に晴れた空は気持ちが良く、透明感のあった。その空はどこまで高くて、日差しはぽかぽか。ジーパンの上にトレーナー、染み抜きが成功したジャケットを着て歩けば少し暑いくらい。その暑いくらいの日差しの下を流れる風が余計に心地良い。
 美術の授業があるのは、二百人ほどが優に入れる大きな講義室だ。その講義室、ひな壇状になってる座席の出来るだけ後ろ、出来るだけ端っこ……を目指して席と席の間を登っていく。
「不動沢」
 そのひな壇のほぼ中央付近、見覚えのある連中がひとかたまりになってるところから、飯塚正の声が聞こえた。
 周りに居るのは工学部情報システム科の男子が十人ほどに女子が一人。どいつもこいつも妙に神妙な顔をしていれば、話題がなんであるかを察せられないほど、青年は鈍くはなかった。
「堀田さん……今日もいないのか?」
 厳がそう尋ねるとメンツのなかで唯一の女子がコクンと頷き、そして、口を開いた。
「彼女のアパート、私、知ってるから、今朝、覗いてきたんだけど、帰ってないみたい……呼んでも返事なかったし……」
 女子大生の言葉に堀田史絵と同じ系統のコンビニフランチャイズ店で働いてる正が言葉を続けた。
「昨日もバイト、無断欠勤だと……もう、コンビニの方は退職者扱いになったみたい。バイトが無断で居なくなるって事、ちょくちょくあるし、彼女、まだ、バイト始めて日も浅いから……」
 彼がそう言うと周りの面々はいちように押し黙った。
 ざわざわと関係の無い学生達が講堂へと入ってきて、ひな壇の座席を埋めていく。後ろの方の目立たない席はすでに満員御礼のようだ。憂鬱な月曜日とは言え、サボれる一般教養とあって、席を埋める学生達の表情は明るい。
 ただ、ここに集まっている面々だけがお通夜のような表情をしていた。
「親に連絡は行ってるのか? 大学からは……行かねえよな?」
 厳が小さな声で呟けば、周りの面々がそれに頷く。
 小中高校生なら授業をサボれば学校から親に連絡が行くだろう。しかし、大学生にはそんな物はない。授業料さえ支払っていれば本人が来なくても大学は気にしないものだ。
 そして、バイト先も『バイトが無断でいなくなるなんて良くあること』でほったらかされたら……
 そのことに思い至れば、青年の背中に冷たい物が流れた。
「……俺がいなくなっても、この調子なんだろうか?」
 独り言のように呟けば、正が静かに青年の肩を叩き、そして、呟くように答えた。
「……俺が心配してやるよ……」
「私……後で事務の方に行って、ちょっと相談してみる……親に連絡取って貰わなきゃいけないかも、だし……」
 一人だけの女子がそう言えば、厳も他の面々も頷く以外に他はない。そして、頭の上でチャイムがお決まりの音程で鳴れば、月曜最初の授業が始まった。
 厳も中央段端っこの席に腰を下ろす。
 寝る気満々で登校してきた厳ではあったが、結局、まんじりともせず、授業を最後まで聞き続けていた。もっとも、内容が頭に入ってきてないのは相変わらずではあったが……
 その日の厳は午前中二コマ、午後二コマのフルセット。必修の教科や割と必死で聞いてなければついて行けない危険性のある教科なんかもあったりで、気が抜けない一日のはず……だったのだが、例の『堀田さん』が気になる。気になるし、何も出来ないし……焦燥感だけが彼の中にゆっくりと雪のように静かに降り積もっていた。
 特に四コマ目、最終の授業は『初等コンピュータサイエンス』って授業。その授業はPC室に行き、学籍番号順に割り当てられたPCを使っての実習授業だ。学籍番号で割り当てられてるわけだから、当然、左隣は堀田史恵の席で、そこに座る者は誰も居ない。
(あんま、気にしてる女性でもなかったんだけどなぁ……)
 隣の空き家をぼんやりと眺めて、青年は小さく嘆息をこぼした。
 この授業は基礎的なPCの使い方や設定の仕方なんかを教えてくれる授業だ。高校の時にも似たようなことをやってたし、自宅にもPCはあるから、解りきってる事をやるだけの、退屈な授業だ。もうちょっと先に行けば、難しいことも習うのかも知れないのだが……
 教壇の上で退屈な説明をしている教師から視線を逸らす。そして、頬杖をついて誰も座っていない隣の席へと視線を向けた。
 消えたモニターと使われていないキーボード、その向こう側には別の男子大学生、前田とか言った……? 背が高く人の良さそうな彼も先ほどからちらちらこちらを見てる。理由は厳と同じ物なのだろう……と勝手に思った。
「堀田さん、どこ行ったんだろうなぁ……」
 独り言……を装って呟くと、その向こうにいた青年も独り言を装ったように小さな声で呟いた。
「……さあ……どこだろうな……?」
 変わったことと言えばそんなやりとりをちょっとした程度、退屈な授業はやっぱり退屈なままに終わりを迎え、一日の授業が終わった。
 そんな感じで一日の授業が終わると、青年はなんとなく、まっすぐに家路についた。
 先週の放課後はどこかのサークルに入ろうかと部室長屋と呼ばれるプレハブ二階建ての建物に行って、サークル見学みたいな真似もやってた。しかし、今日はそんな気にもなれない。顔見知りと多少の立ち話をするくらいで、青年は日差し暖かく、風心地良い坂道を自宅アパートへと向かった。
(良い天気なのになぁ……)
 なんて、ぼんやりと思いながら、夕方までの時間をレポート製作やゲームなんかでのんべんだらりと過ごしたら、いつも通りにバイトへと向かう。
 そして、アルバイトも同じ。いつも通りに出勤し、いつも通りの退屈だったり、辛気くさかったりする仕事を、いつも通りにこなして終わり。
「どうしたの? 不動沢君……景気悪そうな顔してるけど……」
 原付バイクの向こう側、藤乃が厳の顔を覗き込むようなそぶりを見せて、そう言った。
 深夜の帰り道、『昨日の今日』が『一昨日の今日』にはなっていたが、一人で帰れと言うわけにも行かず、この夜も厳は藤乃と一緒に夜の街を歩いていた。
 昨日と同じく遠回りの道。営業終了後の商店街から大きな国道へと入る辺り。青年は足を止めて、覗き込む藤乃の顔を見つめ返す。
 そして、彼は少しの苦笑いを浮かべて、言った。
「そうかな? そう言う気はないんだけど……」
「仕事中も上の空だったんじゃないかなぁ?」
「うーん……そんなつもりはなかったんだけど……知り合いが一人、連絡取れなくてさ……」
「ケータイにも?」
「出ないみたい……俺は番号を知らないけどさ」
「そっかぁ……」
 話に区切りが付いたら、再び、歩き始める。
 国道から市道へと入り、住宅街の外周をぐるっと半周。大回りの遠回りを二人でのんびりと歩く。
 外灯の明かりがまぶしい市道の空。行き交う電線に区切られた空には星も見えない。晴れてはいるはずなのに、漆黒の闇だけが広がっていた。
 その空へと視線を投げ出し、ふと、藤乃が言った。
「そう言えば……」
「どうしたの?」
 ぼんやりとした口調に青年の足が止まった。
 それに藤乃も足を止めて呟くように答えた。
「いや、うちの三年でも誰かいなくなったとか……そんな話が出てたなぁ……って」
「ほんと?」
「私は二年だし、確か、学部も違うから詳しい話は全く聞いてないんだけど……気になるなら、その話してた子に聞いたげようか?」
「関係ないんじゃないかなぁ……とは思うけど……まあ、話のついでくらいで」
「うん。解ってるよ」
 そんな話をしている間に遠くに明るい駐車場とエントランスを照らす外灯の明かりが見えてきた。青年は歩道と駐車場を区切る壁の際にスクーターを止めると、藤乃と一緒に明るいエントランスへと足を向けた。
 そして、昨日も買った自販機で昨日と同じくダイエットコークと微糖のコーヒーを藤乃が一本ずつ購入。そのコーヒーを受け取ったら、また、エントランスの灯の中でしばしの雑談。
 昨日と似たような話の内容。多少違うところがあると言えば、居なくなった友人の話くらいだろうか? それとて、厳が藤乃に話せるようなことはなく、結局は「早く、連絡が取れると良いね」程度のお話だ。
 そして、最後はやっぱり、空っぽになった缶コーヒーの空き缶を渡して、お開き。
「それじゃ、今夜もありがとう……またね」
「うん、それじゃ、お休み」
 藤乃と厳が言葉を交わし、彼女が自動ドアの向こう側へと消えていくのを見送る。自動ドアのガラス戸越しに藤野が笑顔で手を振るのが見えれば、それにてを振り返して、青年も踵を返す。
 昨日も感じた、肩の荷が下りたような、後ろ髪を引かれるような……そんな思いを抱きつつ、スクーターの所へと帰れば――
「送り狼ハンター登場!」
 スクーターの上にはコートにワンピース、いつもの格好な愛が相変わらず真っ赤な髪と瞳で座っていた。
「……いると思った……さすがに毎日明け方近くまで引っ張り回されるの、無理だからな……」
 疲れ切った口調で青年がそう言うと、愛はクスッと小さく笑みを浮かべると、自身の右目の下を人差し指で軽く引っ張って見せた。
「目の下、クマが出来てる。真面目な大学生だね、しょうがない、せめて、駐車場まで送りなよ」
「へいへい……」
 とんとスクーターのシートから飛び降りると愛はするりと厳の腕に自身の腕を巻き付けた。相変わらず、小ぶりな乳房を彼は左肘に感じていた。
 昨日同様に右腕一本で原付を支えたまま、昨日同様にいつもよりもずっと遅い速度で青年は薄暗い深夜の住宅地を歩いた。遠くに市道との交差点と信号、そこを行き交う車の群が見えている。
 そして、愛が小さな声で、ふと、尋ねた。
「それで……居なくなった女の子、今日の授業に出てきてた?」
「……イヤ……来てない。今日、親に連絡を取って貰うとか言ってたけど……どうなったかは、まだ、俺も聞いてない」
 青年が視線も動かさずに答えると、愛は何か考え事でもしているかのような、中途半端な口調とでも言うか、上の空で相づちだけを打った。
「ふぅん……」
 それに青年も何も言わない。
 住宅地の人力で動く原付のタイヤが道路を噛む音だけが、静かに響く。
 そして、遠くに見えていた交差点が目の前、赤く光る信号をやけにまぶしく感じるところまで近づくと、青年がぽつりと尋ねた。
「…………餓鬼に喰われた餓鬼……あれ、どうなった?」
 昨日の駐車場は市道のこちら側、渡る必要は無い……が、なんとなく赤信号の前で立ち止まる。そして、目の前を行き交う車達とその向こう側、ピンサロの下品な看板をぼんやりとと見つめながら、青年は愛の答を待った。
 物の数秒と掛からず、愛は答える。ぶっきらぼうというか、端的というか……
「数分で骨も残さず……よ」
 その答は予想通りの物。驚きはなかった。
 そして、また、彼は答が予想出来る質問をした。
「……じゃあ、人も、か?」
「……十分程度ね」
「…………可能性、あるのか?」
 ほぼ、頭の中で想定したとおりの会話。それがいったん途切れると、愛は厳の腕に自身の腕を巻き付けたまま、彼の顔を見上げた。そして、真っ赤な髪を左右にゆらすように首を振った。
「厳の友達が二人、別々の場所で別々の通り魔に襲われる……位の可能性ならあるかもね。そんなにしょっちゅう襲われてたら、もっと大騒ぎになってるよ」
 淡々とした口調で愛は語る。
「……それも、そうか……」
 その言葉に厳がいったんは納得した……ものの、愛は今までになほどに真剣な表情で厳の顔を見上げ、そして、言った。
「……でも、もし、そうなら……もし、その子を殺ったのが餓鬼なら……首、突っ込むのは止めな。ろくな話になんない」
 厳の視野の外で、信号が青信号に変わった。

 その夜はそれで愛とは別れ、厳は素直にまっすぐ家に帰った。
 帰ったら、狭いユニットバスで簡単に体だけを手早く洗い、コンビニで買ってきた弁当で簡単にすませる。自炊した方が安いし体に良いって事は解っているのだが、まだまだ、アルバイトから帰ってきた後に自炊しようかって気にはならない。
(出掛ける前に作って出掛けるってのもありかね……?)
 なんて、考えるけど、それもちょっと億劫……
 ぱっぱっと食事を終わらせたら、そのまま、ベッドに倒れ込んで、お休みなさい。
 そして、翌日は久しぶりに気持ちいい目覚め。目覚まし時計のスヌーズも今日は久しぶりに仕事をしないで終わった。
 朝起きたら、昨日の弁当と一緒に買ってきた食パンと牛乳、シリアルで簡単にすませる。簡単に食事を終わらせたら、考えもせずに、ジーパンとネルシャツなんて定番の格好でお出かけ。今日も良い天気だし、昼の内はジャケットはいらないだろう。
 そして、午前中二つ、午後二つ、合計四つの授業を終わらせる。
 やっぱり、堀田史絵は登校してないようだ。
(人一人居なくなっても、世の中って、普通に回るんだな……)
 休み時間にあっちゃこっちゃで噂話をしてる学生が居るには居るが、それだけ。担当教諭から何か話があるわけでもなければ、警察が聞き込みに来ることもない。多少は警察も動いているのかも知れないが、十八歳の大学生だとどうにも動きが鈍いらしい。
 そして、一日があっと言う間に終わった。
 帰ったら今日は真面目に何か作ってから出掛けるかなぁ……なんて思いながら、席を立つ厳に声がかけられた。
「不動沢」
 中肉中背、特徴の無い顔の青年、飯塚正だった。チノパンにチェックのネルシャツってのも理工学系学生らしい特徴のなさだ……って、思ってる厳も今日はネルシャツにジーパン。
 その正が真剣な顔で言った。
「暇なら付き合え。アルトでコーヒーでもどうだ?」
「……奢りか?」
「割り勘」
「……まあ、良いけど……」
 アルトというのは大学の傍にあるちょっと大きめの喫茶店だ。大学周辺で食事が出来るところと言えば、学内の学食かその喫茶店、そこ以外だと購買で売ってるお菓子や菓子パンの類いしかない。その程度の田舎というわけだ。
 授業の終わったキャンパスを男が二人並んで喫茶店に向けて歩く……というのは、余り奇麗な絵面ではない。せっかくの快晴も山間やまあいを抜ける心地よい風も、全部、台無し。
 国道の上り坂をトコトコと歩いて峠まで登る。峠の向こう側はやっぱり田舎道。田んぼと山と川、そして太い国道の対岸に煉瓦造りの喫茶店が見えていた。
 その喫茶店に向かって青年達は坂を下った。
 から〜んと乾いた音を立てるドアベルと長身のポニーテールが大きなメガネの内側で大きな瞳をにこやかに緩めて青年達を出迎えた。
「いらっしゃいませ、ようこそ、喫茶アルトへ。二名様ですか?」
 彼女の質問に首肯だけで答えれば、二人は広いフロアのほぼ中央、カウンターから見て少し後方寄りの席に通された。四人がけのテーブルを二人で占領すれば、少々広め。その席に向かい合って座る。
 そして、厳は正面に座った、妙に神妙な面持ちの青年に声を掛ける。
「それで……なんかあったか?」
「堀田さんの話、中村さんから話が回ってきたから……お前も聞きたいだろう?」
 正が真剣な表情でそう言うと、青年はコクリ……と小さく頷いた。
「中村さんが家に連絡して、すぐに母親がこっちに来て、彼女のアパートの鍵を開けたらしい。その後、中村さんと会ったらしいんだけど……やっぱり、堀田さん、帰ってきた様子がないってさ。冷蔵庫の中に金曜日のサンドイッチが入ってたり、郵便受けに請求書が入ったままだったり……」
「まあ……そうだろうな……」
 厳が言うと正もコクンと小さく頷いた。
 そこに長身のウェイトレスがお冷やを二つ持ってきたので、厳も正も二人揃ってブレンドのアイスコーヒーを頼んだ。
 その彼女が長いポニーテールを揺らしながらカウンターへと引っ込んでいくのを、厳は目で追いかけた。
 その横顔に向けて、正が口を開いた。
「それから……こっちが本命なんだけど……お前、彼女と遠恋の彼氏の話、したんだっけ?」
 視野の外から聞こえた言葉に視線をも戻す。
 うつむき加減でよく冷えたお冷やのグラスに手を伸ばしている青年の顔を見ながら、彼は言った。
「ああ、したよ。格好良くて、イケメンで、優しくて、服のセンスも良いけど、浮気性だから、今頃、きっと、浮気してるんだろう……とか……」
 思い出すのはその時の史絵の嬉しそうな表情……そう言えば、彼女はいつも笑っていたような気がする。すっぴんの顔に野暮ったい太い眉、今時の女子大生とは思えない田舎くさい顔が朗らかに笑っているところしか、思い出せない。
 そんな彼女のことを思い出していると、正は軽く首を左右に振ってみせた。
「堀田さん……実家に居た頃は引きこもりで、高三の時はほとんど登校してなかったみたいだ。それで国立からうちの学校までグレードを落とす羽目になったとか……」
「えっ? 嘘……だろ? なんで?」
 思わず青年が大きめの声で言えば正は落ち着けと言わんばかりに軽く手を上げて見せた。
 気づけば少し腰を浮かせていたようだ。
 厳が慌てて椅子に座り直せば、正が再び、言葉を続けた。
「イジメがあったみたい。不登校になってた一年はほとんど出歩くこともなかったみたいだし、誰かが尋ねてくることもなかったらしい……」
「……どうしてそんな嘘を……?」
「……俺には解らん……が、中村さんは『人生をやり直したかったんじゃないか?』って……さ」
 正の言葉に青年は沈黙した。
 周りでは終業後の気楽さに少しボリュームの大きな声で話している男子大学生やケーキに舌鼓を打つ女子大生達の声。
 その喧噪が青年には少し遠くに聞こえた。
「…………」
「…………」
 二人は打つ向き合い、沈黙した。
 やっぱり、周りはうるさく、そのうるさい声が厳には遠くに聞こえる。
「お待たせしました」
 そして、長身のウェイトレスがテーブルの上にコースターとクラッシュアイスで満たされたグラスを置き、その上にサーバから濃いめのコーヒーを一気に注ぐ。
 ピシ……ピシ……熱いコーヒーが氷を溶かす音が響いた。
「ありがとう」
 厳と正が異口同音にそう言った。そして、厳はガムシロップを少しだけ、正はブラックでそのまま、冷たいアイスコーヒーに口をつけた。
「やり直しはさ……多分、上手く行ってたんじゃないのかな? 彼女がいなくなったって話で、お通夜みたいな顔をしてる奴が何人もいたわけだしさ……」
 厳が自分に言い聞かせるつもりでそう言うと、正も軽く頷き、そして、ゆっくりと口を開いた。
「だからさ……自分で居なくなった……とは思いたくないよな……?」
「そう、だな……」
 正の言葉に青年も首を縦に振った。
 そして、しばしの時間がまた流れる。
 言葉数少なめの閑かな時。
 不意に正がコーヒーを一息に飲み干し、立ち上がった。
「俺、今日から堀田さんの代わりに商店街の支店なんだよな……」
「商店街?」
「そうそう……ああ、お前がバイトしてる本屋の傍だよ。ほら、市道沿いの……対岸にピンサロのあるコンビニ」
「ああ……確か、コインパーキングが傍にある……」
 この間、愛とデートした時にバイクを置いていった店かぁ……なんて事を頭の片隅で考える。
 そして、厳は少しだけ格好を崩してみせると、少し大きめの声で友人に言葉を投げかけた。
「気晴らしに寄るなよ? バイトしに行ってるのか、貢ぎに行ってるのか、解らなくなんぜ?」
「はは、あそこ、女子大生も結構いるらしいからなぁ」
 彼も格好を崩し、下手な作り笑いを浮かべて答える。
 そして、出て行く友人を見送った。
 ――ら、厳の手元に伝票が置き去りになっていた。
「やっろぉ……」

 さて、その日の夜。その夜も厳は本屋でアルバイト。本を並べたり、返本したりといつもの退屈な仕事をいつも通りにこなして、一日が終わった。
 そして、帰り道。染み抜きに成功したジャケットを羽織った厳の隣には、薄いコートに身を包んだ藤乃の姿。
 あれからすでに三日目だが、相変わらず、帰り道は国道と市道を経由した遠回りの道を使っていた。藤乃がどう思っているかを推し量るのは難しいが、正直の所、厳は遠回りの帰り道を楽しんでいた。
 最初の頃は藤乃との話題も乏しく、話すことと言えばバイトの話程度で、それも滞りがち。気づけば互いに黙ったまま、黙々と歩いていたなんて事もあった。しかし、三日目ともなれば多少は会話にもバリエーションが増えてくるものだ。
 お互いの大学にいる名物教授の話をしたり、変わった友人の話をしたり……二人はあれやこれやと愚にも付かない話をしながら、ヘッドライトと外灯の明かりで照らされた夜の道をのんびりと歩いた。
 そして、スクーターをアパートの壁際に止めたら、もはや、“いつもの”と言って良いほどになじんだ駐車場横の自販機へと二人は足を向けた。買うのはやっぱり“いつもの”のダイエットコーラと微糖のコーヒー。藤乃の買ったそれをお互いに一本ずつ手にしたら、二人は明るいエントランスへと入った。
 その明るい光の中に入ると、不意に藤乃が言った。
「ああ、そうそう……居なくなってって人の話、聞いてきたよ」
「えっ? マジで? 良かったの?」
 厳が尋ねれば、コクンと藤乃は首を縦に振り、そして、ダイエットコーラのプルタブをプシュッ! と音を立てて起こした。
「ゴシップ好きの友達だから、ちょっと水を向けたら、立板に水だよ」
 軽く肩をすくめて彼女が言うと、厳もコーヒーのプルタブを起こしながら、肩をすくめて見せた。
「それで?」
「うん。居なくなったのは三年生で法学部の女の人だって。学内の人気はそこそこ。美人でスタイルも凄く良かったみたい。若干、化粧が濃かったとか……居なくなったのは春休み中。どーも、履修表、出さないで居なくなったみたい」
 コーラをグビグビ飲みながらに語られる藤乃の話を厳はコーヒーをちびちびと舐めるように飲みながら聞いていた。
 深夜……と言ってもいいくらいの時間、アパートのエントランス。立ち話をしている二人を邪魔するものなど誰もなく、聞こえてくるのは遠くを走るパトカーのサイレンくらいのもの。
 そして、不意に彼女は声のトーンを落として言った。
「それで……余り大きな声じゃ言えないんだけど……その人、ちょっと……なんて言うか……その……特殊な、ね? アルバイトってあるじゃない? そう言うの、してたの」
 言いよどむ藤乃に対して厳はほとんど脊髄反射と言っても良いほどに考えることもなく、単語を鸚鵡返しおうむがえしにしていた。
「特殊な? バイト?」
 青年がそう言えば、藤乃は顔をかーっと赤く染め上げた。そして、彼女は人目をはばかるような小さな声でぽつり……と、言った。
「風俗、だよ」
「あっ……ああ……」
 納得したように青年が相づちを打てば、藤乃もコクンと小さく頷いて見せた。
「あれをスルお店じゃないけど……まあ、親戚みたいな系列のお店」
「ピンサロ……とか?」
「わっ、わざわざ、名前、言わなくても良いじゃん!?」
 厳の口を塞ぎたいのか、自分の耳を塞ぎたいのか、それとも他のことがしたいのか、ともかく、訳のわからない動きをしている手を見ながら、含み笑いを青年は見せた。そして、言葉を紡ぐ。
「あはは、ごめん、ごめん……それで、親とかは?」
 ひとしきり慌てて落ち着いたようだ。彼女は厳の言葉にコクンと小さく頷いたら、先ほどよりも更に小さな声で……まるで、耳打ちをするかのようなボリュームと表情で言った。
「それがね、どーも、最近流行の毒親どくおやって奴らしくて……ほとんど、逃げるみたいにこっちに来てたみたいで……まあ、そう言う事情があるから、仕送りも期待出来なかったみたい。生活費、そう言うお店じゃないと稼ぎきれなかったのかも……って」
「そりゃ……大変だな……」
「うん、挙げ句、男と逃げたんじゃないか? とか、客と揉めたのかも? とか、ヤクザに拉致られたとか……美人の上に付き合いが悪かったみたいで、余計に適当な噂を流されてたみたい……女の子の社会って一つ間違うと、陰湿だから……」
 軽く肩をすくめ、苦笑いで彼女は言った。そして、ダイエットコーラをグビグビッと一気飲み。はぁ……と吐息ともため息とも付かない物を一つこぼしたら、改めて厳の方へと向き直った。そして、彼女は言う。
「でも、親しかった人は、自分から辞めていなくなるなんて考えられないって……言ってるみたい」
 と、藤乃が話し終えても、厳は半分ほどに減った缶コーヒーを片手にしばしの間、口をつぐんだ。
 それは藤乃が――
「不動沢君?」
 ――と、不思議そうな表情で覗き込むまで続いた。
「あっ……ごめん……!」
 気づけば目の前にあった藤乃の顔に面食らいながらも青年は、その大きくて褐色の瞳を覗き込むような感じで尋ねた。
「ねえ、知ってたらで良いんだけど……その人の勤めてたお店って……?」
 その質問に藤乃は厳の鼻先から顔を引っ込め、元の位置にまで戻った。そして、また、はばかるような小さな声で答える。
「ああ……うん、ほら、帰り道に通るどピンクの……」
 その藤乃の言葉に、青年は思わず言うのだった。
「……ああ……やっぱり……」
「ん? 何が?」
 小首を傾げる藤乃に慌てて首をブンブンと左右に振る。
「あっ……ううん、何でも無い。わざわざ、ごめんね。ゴシップ集めさせるような真似させて。ありがとう」
 そして、ごまかすように礼と詫びを言えば、藤乃も同じようにブンブンと二回首を左右に振って見せた。
「ううん。そう言う人も居るんだなぁ〜って、ちょっと……新鮮だった。うちは普通の親だし、割と仕送りも多い方だから……」
「うちもだよ……仕送りは多くないけどさ」
「あはは。そっか。じゃあ、お礼は気持ちで良いよ」
「あはは、なんか、考えておく、それじゃ、またね、お休み」
「うん、また、お休み」
 そして、厳は、いつも通り、厳の渡した空き缶と共に藤乃が自動ドアの向こう側へと入っていくのを見送り、その場を後にした。
 エントランスの外、今日は少し風が冷たいようだ。ジャケットに包んだ背中を猫背に曲げると、足早にその場から離れる。
 原付の所にまで戻れば、スクーターの座席の上で退屈そうにしている愛の姿があった。会う度に着ている亜麻色のコートとロングブーツ、それと今日はチェックのミニスカ。横座りになった足がぷらぷらと揺れていた。
「遅い……送り狼ハンターの出番か思ったよ?」
 そう言った彼女は薄暗がりの中でも解るほどに不機嫌そうな表情だった。その白い頬がプーッと膨らみ、その髪の毛同様に赤く細い眉毛がへの字を描くほど。
 その顔を一瞥、そして、彼はぶっきらぼうな口調で言った。
「……居なくなった堀田さんがバイトしてたコンビニの前の風俗でバイトしてた女子大生もいなくなってる。春休み中らしい」
 青年がそう言うとそれまで膨らんでいた愛の頬が引っ込み、その瞳がすっと細くなった。そして、彼女はシートの上で居住まいを正すと、厳の顔を真っ赤な瞳でまっすぐに見つめて言った。
「……この一件に首を突っ込むの、止めな。相手が何者かは知らないけど……まあ、同じ奴だろうね……ってことはよ……解るよね? 二人一度に監禁が出来るほどに手慣れた奴がやってるか……」
 そう言って愛は促すように言葉を句切った。
 促されるままに青年は呟く。
「……もう、殺した……」
 冷たい風が一陣吹いた。
 その風に赤い髪を乱され、それを愛は右手で軽く押さえた。
 そして、彼女は厳の顔から顔ごと視線を逸らし、風上へと顔を向けたまま、彼女は言う。
「春休み中なら、そろそろひと月かな? 死体が出てないんなら、それこそ、殺して餓鬼の餌にしたってのもあり得る……それを短期間に二人も……一人でやってるなら完全にたがが外れてる。二人だけじゃないかも知れない。そんなの相手に厳が何が出来る?」
 視線を逸らしたまま、淡々とした口調で彼女は言った。
 その冷たいとも感じられる言葉に青年は思わず声を荒げる。
「だからって、ほったらかしに!!」
 しかし、愛の言葉はやっぱり冷たい。風が収まり、なびくことを止めた髪から手を離すと、顔を厳の方へと向けた。そして、その深紅の夕日のような瞳で彼を射貫き、言った。
「……声、大きい……だいたい、ただの大学生の分際で。身の程を知りな……」
「お前!」
 思わず、彼女の胸へ手が伸びる。
 瞬間、顔のすぐ横から声が聞こえた。
「ふーどーさーわ、くん。女の子に暴力は良くないよ?」
 その声が聞こえた方向、壁の向こう側、壁の上。顔を横に向ければ、すぐ正面には壁の上からひょっこりと覗く藤乃の顔が合った。
 ニコニコと楽しそうに笑ってる藤乃の顔と唖然と口を開ける愛と厳の姿、その見事な対比を真上から外灯の白い光が照らしていた。
 そのショックから先に立ち直ったのは、愛だった。
「藤乃……いつから聞いてたのよ……?」
「んっと……『送り狼ハンター登場!』から」
「昨日じゃないの……それ……」
「さすがにあとは付けてないから、安心して」
 呆れ顔の愛にクスッと笑みを向けると、藤乃の顔がすっと壁の向こう側へと消えた。壁の高さは一メートル六十センチほどだから、どうやら、背伸びをしていたらしい。それを止めたら、ちょうど、彼女の体はすっぽりと壁に隠されてしまう。
 その隠れた壁の向こう側から、少し大きめの声で藤乃は言った。
「とりあえず……部屋でチョコとコーヒーでもどう?」
 壁の向こう側から藤乃がそう言うと、厳は愛の方へと視線を向けた。
 同様にこちらへと視線を向けていた愛が、軽く肩をすくめて答えた。
「……しょうがない、行こうか?」
「……ああ」
 壁をぐるっと回って藤乃と合流するまでの数十歩、愛と肩を並べて歩くのは、様々な意味で、すさまじく体裁が悪かった。
 そっぽを向いたままで歩いてるところを見ると、愛も同様だったのだろう……
 それだけがほんの少しの救いだった。

 さて、四階、藤乃の部屋。
 こたつに足を突っ込んだ厳の正面には同じこたつに足を突っ込んだ愛の姿。未だに若干機嫌が悪いのか、無表情のまま、プイッとそっぽを向き、ベランダの方を向いたまま、視線を合わせようとはしない。そんな愛の横顔を見てるのもあれだし……と言うことで青年もそっぽを向き、シンクの方をぼんやりと眺めていた。
 そのシンクではマグカップを用意している藤乃の姿があった。彼女は水切りラックから一つ、棚から二つ取り出すと、それを指に引っかけ、こちらへと戻ってきた。
 そして、愛と厳の間に腰を下ろしたら、傍らに置かれた電気ポットを使ってインスタントコーヒーを煎れ始めた。
 三つのマグカップ、可愛い熊の絵が書かれたマグカップが藤乃の前、それから白くてシンプルなマグカップ二つが愛と厳の前に置かれる。見るからに熱そうなブラックのコーヒー。砂糖が少し欲しいな……と思うが、あいにくと用意されてはいないし、それを言うのもなんだか気が引けた。
 そのデフォルメされた熊の絵が可愛いマグカップを手に取り、藤乃が口を付け、そして、愛の方へと顔を向け、言った。
「まず、山田さんは不動沢君を私のベッドの放り込んで、居なくなった件を、私に謝れ」
「えっ?」
 ベランダの方へと向いていた愛の顔が藤乃の方へと向き直った。その愛の目立つ真っ赤な瞳が真ん丸に開いて、藤乃を見やるも、藤乃はニコニコと楽しそうな笑顔を向けるだけ。
 その唖然とした表情にプッと小さく厳が吹き出せば、バネ仕掛けかと思うほどの勢いでぎゅんっ! と首が厳の方へと向き直り、ギンッと殺意のこもった視線で厳の顔を睨み付ける。
 その殺意のこもった赤目から視線を逸らして、今度は厳がベランダをぼんやりと見つめる。内心『ざまー見やがれ』と思ってたのは、先ほど『身の程を知れ』と言われたからってのもあるし、そもそも、彼女が厳をベッドに放り込んでいなくなったせいで、厳は藤乃に土下座して詫びる羽目になったからってのもある。まあ、藤乃のおっぱいは大きくて気持ちよかったわけだけど……
 とか、思っていたら、また、藤乃が言った。
「それから、不動沢君は私と別れた後に山田さんと遊びに行ってた件を、私を謝れ」
「なっ、なんで!?」
 今度は厳が首をねじ切る勢いで元の場所にまで戻す番。大きめの声で叫べば彼女はあっさりとした口調で答えた。
「私と別れた後に他の女と会ってたとか、なんか……腹立つじゃない?」
「どっ、どう言う理屈だよ……?」
 付き合ってるわけでもないのに……と思うが、藤乃は満面の笑みを浮かべたまま、ぱんぱんと二回ほどこたつの天板を平手で叩いて、言った。
「と・も・か・く、二人とも、私に謝れ!」
 言われて最初に謝ったのは愛だった。
「まあ……若干、やりすぎたと思ってます」
 こたつの天板に両手を突いてぺこりと頭を下げた。
「はい、もう許します。チョコ、食べる?」
 そう言って彼女は先日も出てた一口チョコがてんこ盛りになった木製のボールをずいっと愛の方へと動かした。
「あっ……ありがと」
 訳わかんない……とか言いそうな感じでチョコを摘まみ上げ、ぽいと口の中へと放り込む。
 それを食べながら、愛の赤い瞳がこちら、厳の方へと向いた。
 もちろん、藤乃の焦げ茶の瞳も同様だ。
 その二組四つの目が言っていた。
『お前も頭を下げろ』
 と……
 釈然としない気分満載ではあるが、こう言う時に意地を張っても損をするだけだと言うことは理解しているので、素直に頭を下げる。
「……ごめんなさい」
「はい、許すします。チョコ、食べる?」
 そう言って、藤乃が愛の方へと動かした木製のボールを今度は厳の前へと動かした。
 なんか、仕方ないから、素直にチョコを食べる。
 仕事終わりのチョコはやっぱり美味しい。
 そして、藤乃が両肘をこたつの上に突いて、言った。
「じゃあ、私の話は終わりにして……ね? 山田さんも不動沢君のことを心配してる言ってる訳だし、そこは素直に取らなきゃ」
 厳の方を向いて藤乃がそう言って、言葉を句切った。そして、厳の反応を待つかのように口をつぐんだ。
「……別に心配なんてしてないし……心配するような関係じゃないし……」
 プイッとそっぽを向いて愛がぼそぼそ……それを聞きながら、青年は小さなため息を吐いて言葉を発した。
「……そりゃ……まあ、解ってるけど……」
 ごにょごにょ……と厳が口の中で未練たらしく言葉を呟けば、藤乃はコクンコクンと二回ほど満足げに頷いて見せた。そして、今度は愛の方へと視線を向ける。
「知ってる女の子がいなくなっても気にもしないような男の子ってイヤじゃない? てか、身の程を知ってるような十八が魅力的なのか? と言う話だよ? 山田さん」
「そりゃ……まあ……ねぇ……魅力的かと言われちゃうとねぇ……はい、そうです、とは言いづらいというか……ねぇ……」
 そっぽを向いたままではあるが、藤乃の言葉に愛もバツが悪そうな表情でごにょごにょと口の中でなにやら言葉を発した。
 そんな愛に、やっぱり、藤乃がうんうんと二回ほど満足げに頷き、そして、彼女はまた言った。
「と、言う感じで話がまとまったから、お互いに謝ってね、山田さんも言い過ぎだし、不動沢君もつかみかかろうとしたのは良くないよ? ね? ね?」
 そんな風に言われれば、藤乃の顔も立てなきゃいけない気がしてきて……厳は愛の方へと顔を向け、ぼそっと小さな声で言った。
「……悪かったよ、つかみかかったのは……それと心配してくれたのも……まあ、解るし……」
「……私こそ、言い過ぎた……と、思う……ごめん」
 愛も少しだけ、頭を下げる。
 そんな二人の様子を見やり、藤乃は言った。
「最初に謝らせてから、話し合いを始めると話し合いの主導権を握れるんだよ、これ、マジ、お勧め。機会があったら試してね」
 ピッと人差し指を立ててにこやかに微笑むお姉さんを見やり、この人には勝てないのかも……と、厳は心の片隅で思った。
 その隣でやっぱり、愛も頭を抱えてるところを見ると、同じ感情を持っているのかも知れない……

 さて、その頃……
 元は小さなスナックだったようだが、随分と前に潰れて、管理する者も居なくなった地下室。埃を被ったバーカウンターとシートの破れたストゥールが三つ、四つ、あるくらいの小さな場所だ。もちろん、電気なんて通っていないから、古びた電池式のランタンが天井からぶら下げられ、揺れているのがたった一つの灯。
 その薄暗い明かりの下、肉塊の上で肉塊がうごめいていた。
 上に乗っている肉塊は下卑た笑みを浮かべ、その唇から汚臭のする体液と吐息をまき散らしながら、一心不乱に腰を振っていた。その度に、肌と肌がぶつかり合う音と、粘着質な物をこすり合わせる音が狭い地下室に響き渡っていた。
 クチュ……クチュ……クチュ……パンパン……
 しかし、いくら上の肉塊が腰を振ろうとも、下の肉塊はろくに動きはしなかった。
 全身、どす黒く充血し、ぶよぶよに腫れた肌には元の白さと滑らかさを残す部分はどこにもなかった。目は腫れ、右の目は完全に潰れて、赤黒い血を涙のように流していた。唇も上唇は半分ほどちぎれていたし、前歯はほとんどが折れている。
 まさに、肉塊。
 それでも、豊かであったであろう胸が上下し、上の肉塊が動く度に苦しげな吐息を唇からこぼれる。そんな姿を見れば、それが未だに生きながらえていることを理解することが出来た。
 それを奇跡と呼ぶべきなのか、それとも地獄と呼ぶべきなのか……仮に上の肉塊以外の誰かが見ても、判断を下すことは難しいだろうが……
 それほどまでに下の肉塊はダメージを負っていた。
 あばらも数本ひびが入っていたし、大きなダメージを与えられている内蔵もいくつかある。それに何より……
「うっ……」
 上の肉塊が切羽詰まった声を上げ、そして、そのうごきを止めた。
 そのまま、しばらくの間、余韻に浸るかのように下の肉塊の上で体の動きを止めていた。
 当初は出される度に何かの反応を示していた下の肉塊も、今では出されたところでなんの反応も示さないようになっていた。
 そして、上の肉塊が下の肉塊の中に差し込んでいた肉棒を引き抜いた。
 ずるり……ぐちゃ……イヤな音を立てて肉棒が引き抜かれれば、その中からあふれ出したのは褐色の液体。それがひとかたまりとなってゴボッと床の上へとあふれ出した。
 何よりもダメージを受けていたのは、その生殖器だった。
 何も知らないそこは穢れた肉塊によって無理矢理開花させられ、数えることも億劫になるほどの回数、蹂躙され、蹂躙され尽くされていた。
 愛液の代わりに血を流し、癒やされる間もなく陵辱された部分は膿み、その膿すらも潤滑油の代わり。
「……そろそろ、病気になりそうだな……」
 血と膿と精液のカクテルが垂れ流し、ヒクヒクと痙攣している部分を見やり、肉塊が呟いた。
 そして、男はスーツの懐の内に手を入れると、小さな小瓶を一つ、取り出した。
 コルクで栓がされた小さな硝子瓶だ。
 そのコルク栓を抜くと、肉塊は血の腐ったような匂いを放つ液体を床の上に横たわったままの肉塊の上へとぽたり……ぽたり……とした滴り落とした。
 どす黒いぶよぶよに腫れた肌の上に真っ赤な液体が新しいシミを作る。
 そして、肉塊は乱れた服を直しながら、アレが来るのを待つ。
 アレは肉塊がダークブルーのスーツを改め、人としての体裁を整え終わる頃には、天井のカンテラとバーカウンターが作る影の中に赤く濁った瞳を輝かせ始めた。
 そして、アレ――夕日のような瞳の女が『餓鬼』と呼んだ異形の生き物が、ピョンと蚤のように跳ねると、肉塊の上に飛びついた。
 ぴくん……肉塊が跳ねる。
 クチャ……クチャ……パキン……べき……ジュル……
 咀嚼音だけが薄暗い地下室の中に響き渡る。
 更に赤い瞳が一対……二対……と増え始め、床の上の肉塊へと取り付き、その肉をむさぼり始める。
 咀嚼音が増え、そして、大きくなる。
(……もう少し……息の良いうちに食わせておくべきだったか……これじゃ、犬に餌をやってるのと変わらないな……)
 肉塊を餓鬼が喰らう様を破れたストゥールの上から眺め、スーツを着た肉塊が呟いた。
 もっとも、この前に食わせた奴は元気が良すぎたせいか、餓鬼に喰われながらも、地上にまで逃げようとした。幸いなことに、本人は逃げ切ることは出来なかった。しかし、餓鬼が一匹、外に飛び出し、たまたま、通りがかった女性の足にカプリ……と噛みつく騒ぎを起こした。
 アレに別の女が食い殺されるところを見れば多少は大人しくなるかと思ったのだが、逆に半狂乱。静かにさせるために少し念入りに痛めつけただけなのだが、その時からやけにぐったりとしてしまった。結果、抱いても、アレに食わしてもつまらない物になってしまった。
 犯すにしても、食わせるにしても、ほどよく泣き叫んでくれるのが一番だ。騒ぎすぎても静かすぎても行けない。
 アレは貪欲だ。一度食い始めれば、肉一欠片、骨一片、血一滴、毛筋一本、残しはしない。ものの十分と経たないうちに、人間一人分の肉を全てその胃袋に納めてしまう。
 その全てを食い終われば、アレの中の一匹が床を蹴り、宙を舞い、スーツを着た肉塊へと飛びかかった。
 スーツを着た肉塊、本人がそれを目視するよりも早く、右腕が動く。近くに置いたあった物を掴むと、何もかもが薄汚れた世界でたった一つだけ鈍色に光る物を振るった。
 ザン!
 心地よい音共にアレが中で両断され、床の上へと落ちた。
 その落ちる様を目で追っていたスーツの肉塊は、ちっと舌打ちすると、痛そうに左手で右の肩を摩った。そして、自身が握りしめた一振りの細身の日本刀に向かって呟く。
「ツッ……もうちょっと……考えて、体を使え……白斬びゃくざん
 その粒焼きに答えるかのようにどこかでリン……と小さな鈴の音がした。
 その足下では真っ二つに両断されたアレが仲間であるはずのアレにくちゃくちゃと食われている姿……そして、スーツ姿の肉塊は日本刀を逆手に握ると切っ先を小さな硝子瓶の上に掲げた。
 つーっと、赤黒い液体が日本刀から硝子瓶の中へと流れ落ちる。そして、それが硝子瓶の八分目ほどにまで溜まると、スーツ姿の肉塊は丁寧にコルクで栓をし、その内懐へと忍ばせた。
 そして、小さな声で呟く……
「……アレに足を噛まれた女……良い体をしてたな……」
 

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