居なくなった女

 厳が藤乃の家で目覚めたのは朝の十一時少し前の事だった。柔らかい大きなおっぱいに暖かな体温、そして、引きつり動けなくなってる女性。なかなか素敵な寝起きだった。
 そのベッドから転がり落ちた青年がまずやったのは、藤乃に土下座して詫びる事。もちろん、何にもしてない事や、愛に寝かされて放り込まれた事など、必死の言い訳を並べ立て、彼女からの許しを得た。
 その次にやったのは、メモに残されていた愛の携帯に電話を掛けることだった……が、奴は出なかった。しかたないから、何回コールしてもさっぱり出ない電話に見切りをつけて、藤乃の部屋を出た。
 昨夜はへたり込んでしまったエレベーターに立ったままで乗る。待つこと数秒……あっと言う間にエントランス。そこを抜ければ、ごくごく当たり前の住宅街とごくごく当たり前の空が広がっていた。真っ青な空には雲一つなく、透明感のある蒼一色、こんなに青い空を見るのは久しぶりかと思うほど。
 藤乃のアパートの隣は小さな公園だ。トイレとベンチ、後はブランコらいしかないような小さな公園だ。平日だったら、今頃、子供を連れたお母さんが来る頃なのかも知れない。ママ会も日曜日はお休みなのだろうか? そんなことを考えながら、青年は住宅街をのんびり歩く。
 歩く道の両側には、大きな建物に広い庭の豪邸があったり、小さな建物に猫の額ほどの小さな家があったり、新築があったり、古びた家があったり……本当にありふれた住宅街としか言いようがない。
 世間はすっかり春のようだ。ジャケットを着てると暑いくらいだ。
 そのジャケットの襟元には真っ赤な血痕が染みついていた。
 その血の元となった傷跡は例のクソしみる薬のおかげか、ほとんど消えている。残っているのは薄いかさぶた程度で、それすらも軽くこすればぽろぽろと役目を終えたかのように剥がれ落ちてしまうほど。
 藤乃の方も似たような感じで、昨日、あれほど引き摺っていたのが嘘のように、今日は普通に歩けていた。
 暖かいし、血痕が生々しいジャケットを着てるのもあれだし、脱ごうか……とも思ったが、ワイシャツの方も見事な血痕付き。むしろ、白いワイシャツに赤い血痕は生々しく、ジャケットに付いてるそれよりもよく目立つほど。とてもではないが脱げやしない。
 自嘲気味の笑みを浮かべると、青年は汚れた襟を隠すように襟を立てた。
 彼が今向かってるのは昨日の夜、例の一件があった場所。
 昨日の今日であそこに行く、その事に恐怖を感じないと言えば嘘になる。藤乃もしばらくはあそこは通りたくないと漏らしていた。
 しかし、昨日の夜、ポケットの中にねじ込んでいたはずの文庫本が今はない。
 店を出たときには確かに入ってたはずだから、何処かで落としたのだろう。そして、落としたとしたら、愛に突き飛ばされた瞬間くらいしか考えられない。
 それを捨て置くわけにも行かない。いくらこの間パチンコで数万単位の儲けを出したとは言え、七百五十円は捨てるには惜しいし、何より――
(明るいところで確かめておきたい……)
 そんな思いを青年は抑えきることが出来なかった。
 薄暗かった昨日の夜と、まばゆい太陽が照らす今日とでは受ける印象はまるで違う。永遠に続くトンネルかと思った道も改めて歩いてみれば高々十分足らずの道のりだし、よく見れば周りには普通に家が建っていて、トンネルなんかとは大違い。まるで別の道を歩いてるのかと錯覚するほど。
 それでも、住宅街の路地から商店街へと続く抜け道との位置関係を考えれば、だいたいの目星をつける事くらいは出来る物だ。
 そんな目星をつけた場所で青年はきょろきょろ……と、辺りを見渡す。
 その目星が正しかったことを示すかのように、道の片隅には見事なタイヤ痕が刻まれた白いビニール袋……その中には昨夜買った文庫本がしっかりと収められていた。
 ぱんぱん……タイヤ痕の痛々しいビニール袋を軽く払い、中身を確かめる。車に踏んづけられたようだが、本に大きなダメージはなさそうだ。踏んだ車が余り速度を出してなかったのだろう。
 その文庫本をポケットにねじ込み直して、青年は再び辺りを見渡した。
 道の両側には青年の背丈より若干低いブロック塀、その向こう側には二階建てで比較的大きな建物と広めの庭。雲一つない蒼穹、群青色のアスファルトで奇麗に舗装された道路。その道路は余り広くなく、車道と歩道を区切る白線すらない。
 呆れかえるほどに平和な住宅街だ。
 昨夜、ここにあんな化け物が真っ赤な華を咲かしていたことを示す物は何もない。
 お気に入りのデニムのジャケットと洗い替えの乏しいワイシャツを汚した血痕、落ちてた文庫本以外には……
「なんなんだよ……一体……」
 青年の呟きは春の暖かい風に包まれ、真っ青な空へと消えていった。

 さて、本を回収し、奇妙ではあるが紛れもない現実に打ちのめされた青年は昨日の夜から置きっぱなしにしている原付をバイト先へと取りに行った。昨日、藤乃を送ったことを知っている店主にでも会ったら話が面倒くさいか……と思ったが、店舗前に知り合いの姿はない様子。日曜の昼前とあって、子供からお年寄りまで、多くの客がひっきりなしに本屋には出入りしていて、店員達は中年店主をひっくるめて、みんな、その応対に大忙し。厳のことに気づくことはなかった。
 一安心でスクーターにまたがったら、青年はひとまず、家路を急いだ。
 そして、長い道のりを走って自宅に帰ったら、さっさと服を着替える。ジーパンとトレーナー、割とありがちな格好。出掛けるときには予備と言う訳でもないがもう一着持ってる古いジャンパーでも羽織れば良いか……と考える。
 それから改めて血染めのジャケットとワイシャツに目を向けた。
 ワイシャツの方は惜しくないのだが、ジャケットの方は捨てるには惜しい値段。デスクトップの立派なパソコンに電源を入れて、染み抜きの方法を調べてみる。漂白剤やマジックリン、キッチンハイターで良いらしい……が、そんな物はこの家にはないので、それを坂の下にあるスーパーまで買い出しに向かった。
 ついでに買ってきたお総菜のお弁当で簡単に昼飯。そのお弁当を食べ始めた時点でようやく、昨日の昼から食べたのが、藤乃から貰ったチョコレート二つだけだった事を、彼は思い出した。いくらなんでも腹が減る。買ってきたお弁当一つとおにぎりでは足りないくらい。仕方ないから、買い置きのカップラーメンも一つ食べる。
 そんな食事が終わったら、ネットで調べた染み抜きの実践……落ちたような落ちてないような……まあ、ワイシャツはダメなら諦め、ジャケットの方はそれはそれで“味がある”だと思い込む事にする。
 他にもいくらか洗濯物は溜まっているのでそれらととも洗濯籠にぶち込み、彼はアパートのすぐ近く、徒歩数分のコインランドリーへと足を向けた。
 一人暮らしの学生が多いこの辺りではコインランドリーはいつも賑わっていて、順番待ちになる事も多い。ここしばらくは天気が良いからか、乾燥機の方には空き家が見えるが洗濯機の方は五台ともフル回転。順番が回ってくるのはしばらく先の話になりそう。それでも、狭いコインランドリーの中に居るのは暇そうにスマホを弄ってる女子大生が一人だけで、その彼女の足下には空っぽの洗濯籠しかないのが、ちょっとした救いとでも言うべきだろうか?
 FRP製の座席が五つ付いてるベンチ、それが二つ。女子大生が座ってるのとは別のベンチに腰を下ろして、文庫本が入ってるジャンパーのポケットへと手を伸ばす。
「あっ……不動沢、居たのか?」
 その動きを邪魔する声が一つ。
 かけられた声に顔を上げるとそこには同じ学科の顔見知りが、彼と同じく大きな洗濯籠に洗濯物を満載して立っていた。
 飯塚正いいづかただし。中肉中背、身長は元よりもちょっと高いくらいで、少し細め。特にイケメンって事もなければキモメンって事もなく、印象に残らないのが印象的とか、特徴がないのが特徴的とか言われる友人で、厳の隣人でもある青年だ。
 その友人が妙に驚いた表情でベンチに座った青年を見下ろしていた。
「よぅ、飯塚……どうした?」
「イヤ……お前、昨日一昨日帰ってきてなかったから……てっきり」
 隣のベンチに腰を下ろしながら、友人がぼんやりとした口調で呟く。奥歯に何かが挟まってるかのような物言いに、青年はポケットへと伸ばした手を止め、彼の方へと視線を向けた。
「……朝に帰って夕方まで寝て、また、出掛けて、朝帰り……ん? てっきりって?」
「……ああ……イヤ、どうって事はねーんだけどさ……お前、堀田ほりたさんと仲良かったろう?」
 そう言われて青年は堀田と呼ばれた女性の顔を思い出した。凄く美人というわけでもなく、化粧っ気もほとんどなく、太い眉が野暮ったく見える感じの女性ではあるが、女子の少ない工学部では、それなりに人気がある女性だ。話しやすいし、厳も嫌いではない。その彼女と厳は学籍番号が一番違いで、実習や実験系の授業で隣り合って座る事が多い……とは言っても、特別に仲が良いというわけでもない。彼女のフルネームも知らなければ携帯の電話番号やLINEのIDすら知らない程度の間柄。友達と思うのもはばかれる。良いところ顔見知りと言うくらいか?
 ただ……
「俺に遠恋の彼女がいるって言ったら、彼女も地元に彼氏を置いてきたとかで……その話で盛り上がった事が一回あるくらいだなぁ」
 厳が説明し終えると正は少しだけ意外そうな顔をして呟いた。
「それだけ?」
「そうだよ……それで?」
「ああ……それでな、堀田さん、一昨日から帰ってないらしいんだよ。バイトも無断欠勤してるとかで……それが今工学部の女子の中でちょっとホットな話題になってるらしいんだ」
「それでなんで俺が?」
 厳が少し前のめりになって尋ねれば、正の方は逆に堅いFRPのベンチに深く座り直しながら応えた。
「お前と出かけてんのかと思った」
「……んな訳あるか……それこそ、彼氏に会うために実家に帰ったんじゃないのか?」
 馬鹿馬鹿しい話に青年もベンチに深く座り直す。
 その青年に友人が顔を向け、体を隣の厳が座ってるベンチの方にまで寄せた。珍しく真面目そうな表情、眉をひそめ、控えめな音量、まるで内緒話でもするかのような、人目をはばかるような口調とそぶり。
 そんなそぶりを見せて、正は厳に耳打ちをした。
「バイト無断欠勤でか? 携帯も圏外で、LINEにも既読が付かないらしい……」
「…………そりゃ、おかしいよな…………」
 そのシリアスな話に青年も思わず真顔になった。
 そして、友人も自身のスペースに体を沈め直すと、静かな声で呟く。
「だろう? だから、心当たりがあったら、工学部の女子にでも教えてやってくれよ」
「心当たりなんて全くないけど……何かあれば……な」
 友人の言葉に青年が応えたとき、ちょうど、洗濯機の一つがピーーっと笛のような音を立てて止まった。そして、隣のベンチに座っていた女子大生が立ち上がり、下着やら服やらを洗濯籠の中へと放り込み始めた。
 その姿を見ながら、青年は籠を持って立ち上がった。そして、未だ座り、彼の顔を見上げていた友人に視線を向けて言った。
「まあ、週明け、授業が始まるまでには帰ってくるさ」
 それは友人に言う言葉ではなく、自身に向けて言う言葉。そして、友人も目の前に居る友人にではなく、自身に向けた言葉を発した。少なくとも厳にはそうだとしか感じられない言葉を発した。
「……そう、だよな」
 それでひとまずこの話は終わり。お互い、特に話す事もないのか、正の方はスマホに視線を落としてゲームを始めたし、洗濯機に汚れ物を入れた厳も車に踏んづけられた文庫本に視線を落とした。
 お互いに特に会話を交わす事もなく、時が進む。
 ゆったりとした時間……大きな窓から差し込む光は暖かく、読んでる本は思ってたとおりに面白い……はずなのに、さっぱり、話が頭に入ってこないのは、やはり、先ほどの話が彼の意識を占拠しているからだろうか? 隣でゲームをしている友人も舌打ちの回数ばかりが増えていって居る。
 そんな時間が小一時間ほど……文庫本も半分くらいのページがめくられたとき、先ほども聞いたブザーが青年を呼んだ。
 文庫本にしおりを挟んで、青年は立ち上がる。
 そして、いつの間にかゲームを止めて、ネットのニュースサイトを読んでる青年へと視線を落として、彼は言う。
「それじゃな」
「ああ……またな」
 スマホの画面からちらっと青年へと視線をあげ、友人が応える。
 そして、彼は自動ドアを抜けて、自身のアパートへと足を向けた。
 部屋に帰ったら、洗濯物を干して、ベッドにごろり……窓から差し込む明かりを頼りに文庫本を捲っていく。
 静かなひととき……聞こえてくるのは遠くでアスファルトを噛むタイヤの音くらい……
 されど、やっぱり、話の内容は頭には入ってこない。
 ページだけは最後までめくりこそしたが、どんな話だったかなんてさっぱりだ。
「くそっ……」
 小さく呟いて、青年は文庫本をぽんと床の下に投げ捨てた。
 頭の後ろで両手を組んで、枕との間に挟み、青年は天井を見上げた。
 しばし、天井を見上げる。
 ため息がいくつもこぼれた。
 そして、彼はスマホを取り出すと、工学部の友人達に向けて『堀田さん、知らない?』とのLINEのメッセージを送る事にした。
 天井を見上げて待つこと数分……最初のメッセージは『誰?』だった……まあ、同じ学科に四十人から居て、小中高校生の頃のような濃密な『クラスメイト』としての付き合いないから、名前も知らない相手が居てもおかしくはない。現自身、名前を知らないクラスメイトも居るの。
 それから五月雨的にいくつものメッセージが届くが、有用なメッセージは何一つ返って来ずじまい。居なくなったという情報を知ってる者も居れば、知らなかった者も居たが、結局、帰ってきたメッセージを要約すれば全て『知らない』に集約できるような代物ばかりだった。
 そんなメッセージも小一時間もあればあらかた届き終わる。めぼしい情報が来そうにない事を悟った青年は枕元に携帯を置いて、寝返りを打った。
 クシャクシャすると言うか、なんというか……やりきれなさや無力感を感じつつ、青年はバイトまでの時間をベッドの上でごろごろする事で時間を潰しかなかった。
 半分寝てたような、寝てないような……中途半端な感じで時間を潰す。気づけば天井は薄闇の中。そろそろ、バイトに出掛ける時間だ。
 ベッドから下りた青年は着ていたズボンとトレーナーを脱いでバスルームに入った。余り広くなく、トイレと一体になってるユニットバス。実家の風呂場が広かったためか、未だに慣れないし、慣れそうにもない。
 少し熱めのお湯を強めに浴び、体を洗ったら彼はすぐに浴室を出た。
 そして、洗い替えのスラックスとやっぱり洗い替えのワイシャツに着替える。
 ひとっ風呂浴びて、わだかまりが消えたような消えてないような……やっぱり中途半端な気分で青年は本日のアルバイトへと向かった。
「おはよう、不動沢君。昨日、桃林さんの所に泊まったんだって?」
 出迎えてくれたのは頭の寂しくなった中年店主さん。なんかもう、すっげー嬉しそうな笑顔を浮かべて、今にも彼の肩を叩いてきそうな勢い。それが、まあ、良い笑顔なんだ。屈託のない、素敵な笑顔。
 鬱陶しくも感じるが、同時になぜか、救われた気分にもなった。
「なんで知ってんすか……?」
「原付、置き去りだったろう? それで桃林さんにカマをかけたら、ぽろっとね」
 ニコニコ笑顔のおっさんから視線を外して、軽くため息。
(あのお姉ちゃんはぁ……)
 と、臍を噬むが後の祭り。原付を置き去りにしちゃってた青年にも非があるわけだし……そして、軽くため息を吐いたら、青年は言った。
「ちょっと、寝入っちゃっただけで、朝起きたら、さっさと帰っちゃいましたよ」
「桃林さんもそう言ってたから、そういうことにしておくよ。それじゃ、今日は返本頼むよ」
「それ以外ないですからね……っと、はいはい……」
 投げやりに答えると青年は返本作業をする事務室へ……向かう直前にちらりとレジを一瞥。すでに藤乃はそこでレジ作業中、伝票をまとめたり、入ってきた客の対応をしたりと忙しそう。軽くため息だけを吐いたら青年は事務室へと向かった。
 事務室には蛍光灯の明かりもあるけど、どこか薄暗く、陰気くさい。まあ、明るく奇麗で居心地の良い倉庫なんて物はないんだろうが……
 その居心地悪い倉庫で返本作業。これはこれで辛気くさい作業……って、良く考えると、ここのバイト、暇だったり、辛気くさかったりでろくな仕事がないのかも知れない。
 もっとも、こっちにいは客の目も上司の目もないからやる事さえやってればサボれる環境……とも言えた。そこを考えると楽な仕事だ。まあ、サボりすぎると叱れるし、あの中年店主、普段のほがらさとは打って変わって、怒ると怖い……そうだ。藤乃が言ってた。
 そういう訳で、一人、ちまちまと返本作業。
 サボりもしないが急ぎもしないごくごく普通の速度でお仕事を終わらせる。
 それが終わったら昨日と同じく棚の整理。
 この二週間、毎日やってる作業だ。特にアクシデントもなければ、イベントもない、代わり映えのしないアルバイトだ。それなのにと言うべきか、それだからこそと言うべきか……気分が乗らないというか、やる気にならないというか、心が晴れないというか……
 それでも一日の仕事は終わり、毎晩恒例、閉じたシャッターの前での解散会。お疲れ様の挨拶をしたら、中年店主が徒歩五分の自宅に向けて帰るのを、藤乃と厳は見送った。
「……昨日の今日だし……送ろうか?」
 自然と青年はそう言ってた。
「あっ……うん……ありがとう」
 素直に藤乃は首を縦に振った。
「まあ……愛が居ないから、いざって時は背負って逃げるしかないけどさ」
 自嘲気味に青年が言えば、彼女は昨日はあれだけ引きずっていた足をトントンと強めにアスファルトの地面に叩き付けた。そして、朗らかな笑顔で、彼女は言い切った。
「今日は自分で走れるから!」
「…………一人で帰る?」
「冗談、冗談です、送って下さい」
 藤乃のアパートからスクーターを取りに帰ってくるのも面倒だし……って事で今夜はスクーターを押してのエスコート。二人の間にスクーターを挟んで、厳と藤乃は営業の終わった商店街を歩き始めた。
 二人の間に共通の話題があるわけでもなく、会話は滞りがち。
「昨日のって……なんだったんだろうね……?」
 そんな留まりがちな会話の中でぼそっと藤乃が呟いた。
「……俺にも解らないよ……」
 そう言って青年はほとんど傷口も消えた頬に手を当てた。かさぶたすらない。汚れた服も今日は着替えて奇麗な物、ジャケットも今夜は安物のジャンパーに取って代わられていた。今現在、確認できる証拠はどこにもない。
「二人で夢をみてたとか……」
「ほんと、夢だったら……良かったんだけどね……」
 言葉を交わしながら、昨日抜けた抜け道の前を藤乃は通り過ぎた。そのまま、まっすぐ歩いて商店街を抜けてしまえば、そこは交通量の多い国道だ。外灯も多く、一晩中営業しているコンビニやひっきりなしに行き交う車のヘッドライトで道は随分と明るく歩きやすい。
「その代わり、凄く遠回りになるんだけどね……後さ……ほら、そこの風俗店の前、通るのヤなんだよね……」
 自嘲気味に彼女は笑って見せる。
 彼女の言うとおり、国道から市道に入ると、すぐにピンサロの下品な看板が目に入った。もっとも、それは二人が歩く道の対岸にあるから、気にしすぎなのかも知れないが、女性にしたら通らずにすむならと通りたくはないだろう。
 彼女のアパートがある住宅地の外周をぐるっと半周するような大回りの帰り道。距離は五割増しではすまないほどに遠くなるのだが、昨日の現場の前は通らずにすむらしい。
 この道を選んだ藤乃の気持ちを痛いほどに感じながら、太めの歩道を、青年はスクーターを押しながら歩いた。
「……夕方、病院に行ったら、傷が消えてるって……びっくりされたんだよね……」
 ぼそぼそ……っと告白した藤乃の言葉に青年は思わず足を止めた。そして、気恥ずかしそうにうつむく彼女の横顔を見ながら、彼は言った。
「……行ったんだ?」
「……予約してたし……」
「几帳面だね?」
「……たまに言われる」
 気恥ずかしそうにうつむいたままの藤乃を見ながら、青年が再び、スクーターを押して足を進め始めれば、藤乃も痛みのすっかり消えた足取りで歩き始めた。
 遅れた数歩を追いついき、そして一歩先に進んだ藤野は彼の顔を覗き込むような仕草を見せて、言った。
「だから……まあ、あの薬は夢じゃなかったんだろうね……ボールギャグの箱も開いてたし」
「……自分で言う? それ……」
「あはは」
「あはは」
 二人は顔を見合わせ、軽く笑い合った。
 そして、彼女は言った。
「昨日、助けてくれてありがとう。恩人だよ」
「……立派な物じゃないよ。誰でも出来る事だよ」
「そう?」
「そうだよ……」
 そんな言葉を交わし合ってるうちに二人は藤乃のアパートの前。まぶしいほどの外灯で照らされたエントランスを昨夜とは逆方向から見れば、それでも妙に安堵する自分に青年は内心苦笑いを浮かべた。
 バイクを歩道の片隅に止めたら、彼女をエントランス、オートロックの機械が置いてあるところまで送った。
 そのエントランスに入る直前、自転車置き場とエントランスの境目辺りに自販機が煌々とした明かりを発して立っていた。その前を通るときに藤乃がひと言、
「いる?」
 と聞いたので、素直に
「じゃあ、缶コーヒー。微糖の奴。アイスで」
 と答える。
 すると、彼女はハンドバッグから小銭入れを取りだし、アイスコーヒーの微糖とダイエットコーラを一本ずつ、購入した。
 そして、エントランスへと足を向けながらひょいと青年によく冷えたアイスコーヒーを手渡した。
「ごちそうさん」
「どう致しまして」
 青年が軽い口調で礼を言えば、藤乃も軽く肩をすくめて、答えた。
 そして、エントランスの灯の中に入ると、藤乃がダイエットコーラのプルタブを開いたので、それに青年も習ってコーヒーのプルタブを開く。
 そして、互いに飲み物を飲みながら、言葉を交わす。内容の方は、愚にも付かない雑談ばかり。互いの大学の話とか、仕事の話とか……そして、厳のコーヒーがなくなる頃に藤乃が言った。
「今夜はありがとう。捨てておこうか? それ」
「うん、楽しかった。ごちそうさま。それじゃ、遠慮無く……」
 藤乃の言葉に甘えて缶コーヒーの空き缶を手渡す。
「お休みなさい、不動沢君」
「お休みなさい、桃林さん」
 最後にそう言い合ったら、藤乃がエントランスの自動ドアの向こう側へと入っていくのを見送る。何処か肩から荷が下りたような、ちょっとあっけないような……
 後ろ髪を引かれるような気持ちになりながら、青年が歩道の片隅に止めたスクーターの元へと帰れば……――
「部屋に上がるかと思ったんだけどねぇ〜」
 いつものコートにいつもワンピース姿の愛がスクーターのシートの上に座っていやがった。
「……何してんの?」
「送り狼をハントしに」
 そう言って彼女は左手を軽く前に伸ばして、右手を頬の傍、見えないライフルを構えるような格好をして見せた。そして、エントランスの方へと不可視の銃口を向けたら、ひと言、彼女は言う。
「ぱ〜ん」
「……で? 獲物を見つけ損ねたハンターはどうするんだ?」
「ハンターがオオカミに早変わり〜ってのはどう?」
 そう言って愛はとんとスクーターのシートから飛び降りると、厳の腕にするっと自身の腕を巻き付けた。最近おなじみの小ぶりな乳房が青年の腕に押しつけられる。
 こちらを見上げる愛の小憎たらしい表情を見下ろしながら、青年はぶっきらぼうな口調で言い放った。
「……あのさ、出てくるならもっと早めに出てこいよな……まるで浮気みたいじゃないか……?」
「藤乃と付き合ってんの?」
「…………全く以てそういう事はない」
「じゃあ、良いじゃん」
「……そう言う問題でもないけど……」
 左腕に女、右腕一本でスクーター。とっても重いどころか、まっすぐに押すのも一苦労。苦労してるのは解るだろうに愛は青年の右腕を解放するどころか、ますます、強くぶら下がる勢い。振り払おうとしてもびくともしない。
 自由になる事を諦め、のんびりとスクーターを押して歩く。
 厳は特に言葉を発せず、愛の方もこの間、車の中でかかっていた曲と思われる物を鼻歌で歌うだけ。
 そして、来たときの倍ほどの時間をかけて、青年は大きな国道へと出た。
 まぶしい外灯の光と交通量、人混みの中に戻ってきた安堵感を感じながら、彼はぼそっと漏らした。
「なあ……もし、昨日、俺が桃林さんを送ってなかったらどうしたんだ?」
「すれ違ったときに挨拶して、それで終わり」
 半ば予想していた冷たい言葉に青年は眉をひそめ、そして、言葉を続けた。
「……アレが襲ってくるのが解ってるのに?」
「今日、今の時点でならもう『友達』と呼んでも良いけど、昨日の時点では『行きつけの本屋で顔を見た事がある店員さん』だからねぇ〜助けて上げるにはちょっと軽い仲だよね」
 その冷たい言葉に厳の足が止まった。
 そして、愛も足を止めた。
 すぐ傍を大きなトラックがかけて抜けていく。
 愛は厳の顔を見上げ、ニコッと頬を緩めた。
「だからさ……厳が助けたんだよ。厳の『助ける』って意思が藤乃の命を助けたの。それは誇っても、恩に着せても良い事だよ」
 その言葉に青年は言葉を失った。
 沈黙する青年の顔を見上げ、女も口を噤む。ただ、ニコニコと明るい笑顔を青年に見せるだけ。
 その明るい笑顔を見下ろす事数秒……プイッと視線を切ったら、再び、青年はスクーターを片手で押しながら、歩き始めた。
 そして、ぼそっと吐き捨てるように言う。
「上手くごましやがった……」
「ごまかしじゃないよ」
「じゃあ、なんだよ……?」
「おだてたの。あっ、こっち。そこの駐車場に車を止めてるから、厳はそこのコンビニの前にでもスクーター止めておいでよ」
 愛の言葉にため息を吐き、青年は顔を上げた。確かに手前には闇夜にもまぶしいコンビニの明かり。その向こう側にはコインパーキング、そして、対岸にはピンサロの下品な看板が見えていた。
「おだてても何もでないぞ……」
 そう言って、青年は、スクーターをコンビニの余り広くない駐車場の片隅、隅っこ、影の中に押し込むように止めた。
「期待してないって」
 最後まで腕にぶら下がっていた愛が笑って言った。
 その顔を見下ろし、青年は言う。
「言い忘れてたけど、お前、電話出ろよな……出ないにしても後でかけ直せよ」
「ああ、会いに来たんだから良いじゃん。用事があるなら、家に来なよ。昼の内はたいがい部屋に居るし、夜も、まあ、週に四日は家に居るから」
「はぁ……そうかい……んで、何をしてる人かは――」
「秘密」
 質問は最後まで紡がれ切れず、愛の端的な言葉によって打ち切られた。それに青年はまたため息を一つ吐いて呟く。
「そう言うと思った」
「じゃあ、聞かないの」
 腕にぶら下がった女が青年の体を引っ張り道を歩き始める。
 向かう先はコンビニの二件隣にある小さめのコインパーキング。ビルとビルの間ぽっかりと穿たれたかのような狭い駐車場だ。日曜日も終わって月曜日がやって来た時間帯だからだろうか? 駐車スペースはガラガラ。ふさがってるのは十個中三つ。その三つの内の一つを愛の愛車、黒いハイエースが占領して止まっていた。
 愛がコートの中に手を突っ込めばガチャリと音を立ててドアが開いた。
 そして、厳はその車の助手席に乗り込んだ。
「この間のところで良い?」
 愛がそう言うと厳は「良いよ」とだけ短く答えた。
 愛はこの間同様にコートを脱いだら、分厚い遮光カーテンの向こう側にコートを放り込む。今日は薄手ではあるが長袖のワンピース。この間同様、スカートの丈は短く、ボディラインを強調するようなタイプだ。
 そして、鼻唄交りに女が車を転がし、窓の外には賑やかな市中央部の町並みが流れていく。
 それをぼんやり……と青年は眺めていた。
 その町並みが次第に薄暗くなっていき、最終的には真っ暗になった挙げ句に海の道、山の道、先日も見た風景が窓の外に広がり始めた。
「何考えてんの?」
 不意に彼女が言った。
「……良いのかなぁ……って思ってた」
 窓に映る愛の赤毛とその横顔を見ながら、青年は応えた。
 窓ガラス越しに映る女の横顔がこちらへと少しだけ向いた。窓ガラスの鏡面に映った女の赤と瞳が青年を見やる。
「ん? 彼女でも居るの? そりゃ、悪いことをしてるね」
「……居ない……居なくなったから、カツサンド、喰って泣いてたんだよ」
 ぼそっと控えめな声で青年が応えた。その声は大音量で響いているユーロビートにかき消されそうなほど。それでも愛にはしっかり届いてたらしい。彼女はクスッと軽く頬を緩めたら、視線を車の前方へと投げかけた。
 アクセルが踏み込まれる。
 車は海と山の間をくねくね曲がる道で加速する。
 そして、女は言った。
「振られて泣けるほどに人を好きになるって良い事だよ。それで……浮気に罪悪感を感じてるわけじゃないなら、何? 藤乃でも気にしてんの?」
「……桃林さんは全く関係ないって……」
「じゃあ、何?」
 車は先日同様、海の中を行く短い橋を渡り、造成されたばかりの埋め立て地へと入った。
「知り合いが一人、連絡が取れなくなってんだよ……それがちょっと気になってるだけ」
「女?」
「一応」
「彼女?」
「だから、彼女は居ないって」
「親しいの?」
「携帯の番号もLINEのIDも知らない……実習や実験の時にいつも隣に座ってるだけの相手。それも学籍番号が一番違いだからって理由」
「脈、ありそうだったの?」
「最後に会ったときまで彼女がいたから考えたこともない」
「へぇ……浮気はしない主義なんだ?」
「……主義ってなんだよ……?」
 二人の間で言葉がぽんぽんと行き交い、そして、車は先日と同じ場所に止まった。
 エンジンが止まり、賑やかだったユーロビートの曲も消えた。外の潮風と波の音、そして、汽笛の音だけが静かな車の中に響いた。
 下りるのかと思った愛は下りず、厳の方へと上半身を向けた。そして、左腕を伸ばすと、彼の頭にコツン……と軽く握った拳を叩き付けた。
「他の女のことを考えてたのはこれで許すとして……で? どうにか出来そうなアテがあるわけ? どこに行ったかの心当たりがありそうな感じでもないし」
 特に痛いというわけでもないが、ほとんど反射的に青年は叩かれたおでこを軽くてでさすった。そして、ため息を吐きながら、愛の言葉に応える。
「……全くない……コンビニでバイトしてるって話も今日聞いたくらい」
 すると彼女はひときわ大きなため息を吐いて見せた。
 そして、運転席のシートに深く座り直すと、フロントガラス越しに真っ黒な空へと視線を向ける。
「……心配になるのは解るけど……厳に何か出来るわけでもないでしょ? それとも、この広い空の下、当てもなく、一人の女を捜して回る? 日が昇るまでなら付き合って上げても良いけど」
 視線をフロントガラスの向こう側へと向けたまま、愛がそう言った。
 その言葉に青年も助手席の椅子に深く座り直す。視線は愛と同じくフロントガラスの向こう側。ルームランプの付いた車内からヘッドライトの明かりも消えた外を眺めても、見えるのは窓に映る自分と愛の顔くらい。その向こう側、漆黒の闇の中に星を見つけることすら叶わない。
 その闇を見つめながら、青年は小さめの声で言った。
「……それで見つかる確証があるならやるけど……」
「無意味に疲れるだけでしょうねぇ……無意味に疲れることをやって、それで俺は頑張ったって、納得出来るタイプ?」
「……納得出来ることもあれば、納得出来ないこともあるんじゃないのか? 少なくとも、今から、夜の街に飛び出して、明け方までうろうろして、それで疲れ果てても、頑張った! とは……思えないよな」
「そこで足踏みでもしてた方がずっとマシだよね」
「……そうだな」
「無意味に疲れるなら、セックスでもしてた方がマシだよ?」
「……ああ、そう繋げるんだ……?」
 めちゃくちゃな理屈のコネ具合に青年は苦笑いを浮かべた。
 苦笑いのまま、視線だけを愛の方へと向ければ、彼女もその深紅の夕焼けのような瞳だけを厳の方へと向けて、笑みを浮かべていた。いたずらっ子のようないつもの笑み。
 そして、彼女はドアを開いて、夜の空き地に足を踏み出した。
 それに習って厳も外に出る。
 この間ほどではないが、やっぱり、夜の潮風はまだまだ冷たい。
 そして、女は先日同様にリアハッチを開いた。
 すーっとドアが跳ね上がり、広いラゲッジスペースが解放された。
「そのうちひょっこり帰ってくるにしても、ずっと出てこないにしても、今の厳に出来る事なんて何にも無いよ」
「解ってるよ」
 青年はラゲッジスペースの隅っこ、バンパーの辺りに腰を下ろし、未だ突っ立ってる愛の顔を見上げた。
 真っ正面に立って愛が厳を見下ろす。不敵な笑み。闇夜の中に赤い瞳と髪が浮かび上がっているかのよう。
「それで……しないの?」
らないつもりだったら、この車には乗らないだろう?」
「正論ね」
 そう言って女はロングブーツのジッパーを下ろし、それを脱ぎ捨てたら、厳の膝をまたいで膝立ちになった。
 タイト気味のスカートがめくれ上がり、真っ白い太ももと黒い下着が露わになった。そのなまめかしい生足の太ももをゆっくりと撫でながら、青年は先ほどよりも近づいてきた女の顔を見上げる。柔らかな笑み、不思議と見上げていると安心出来るような気がした。
「なんだろうな……? 何が出来るわけでもないのは解ってるのにわだかまりは消えなくて、わだかまりがあるのにお前を抱こうとしてるっての」
「犯ってる最中に他の女のこと考えてたら、かみ切るよ? アレ」
 愛は厳の首にするりと腕を回して、眉を少しひそめて見せた。そして、すっと唇を開き、ゆっくりと彼の唇に自身の唇を重ね合わせた。相変わらず、目は閉じないまま。真っ赤な夕日のような瞳が青年を見つめていた。
 その夕日の瞳を見つめ返しながら、青年は彼女の唇を受け入れた。
 クチュ……ねっとりとした唾液の音が開きっぱなしのリアハッチから夜空へと響いて消える。そして、二人はゆっくりと互いの唇と舌をむさぼる。時には唾液を与え、飲み干し、舌を絡める。
 息が弾む。
 こぼれた吐息が互いの頬を撫でる。
 息をすることも忘れ、息が切れればどちらかともなく、唇を離し、突き出した舌と舌の間に唾液のとろりとした橋を架け、それが切れて落ちるよりも先に、また、唇を重ねる。
 愛の細い指先が青年の背中にしがみつく。愛撫するかのように、まるで五本足の蜘蛛のように、彼の背を撫で回した。
 厳の鍛えられた腕が女の腰に巻き付く。女の体を少しでも密着させるように、二人の間の空間を少しでも減らせるように。
 そして、二人は何度もキスを繰り返す。
 ひとしきり……互いの唇がお互いの唾液に濡れてテラテラと光を放ち始める頃、ゆっくりと厳は愛の唇から自身の唇を離した。今度は突き出した舌と舌を繋ぐ唾液の糸が一粒の小さな唾液の粒となって落ちても、唇は重ねず、互いの瞳を見つめたまま、荒い吐息を一つ、二つ、三つとこぼし続ける。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
 顔が熱い。
 女の顔も赤く上気していた。
 数秒の沈黙……息を整えたら、青年が言った。
「俺、フェラ、嫌いだよ」
 荒い吐息の中で青年が言えば、女は真っ赤に紅潮した顔をきょとんとさせて言った。
「なに? 急に」
 ぽかーんとしてる赤い顔を見上げて、ため息一つ。背中に手を回して、ワンピースのジッパーを下ろしながら、彼は応えた。
「かみ切るんだろう?」
「……ああ、それね……」
 厳が背中のジッパーを下ろすと愛は軽く体をくねらせ、その袖から自身の細い腕を抜いた。
 白い肌が露わになった。相変わらず、滑らかで、傷一つ無い肌だ。心なしか先日見たときよりも血色が良い気する。もっとも、それでも健康的と言うにはほど遠い色白さなのだが……
「言ったのは忘れてたけど……私はフェラは好きだよ。感じてる男の間抜け面が良いんだよ」
 腰まで女のワンピースを下ろし、キャミは頭から引き抜く。彼女の露わになった上半身を守っているのは黒いレースのブラだけ。先日の奴に比べると細かな刺繍やレースの飾りが入って随分と扇情的だ。
 そのフロントフォックをピンと指先だけで軽く外せば、彼女の小ぶりではあるが形の良い乳房が露わになった。
「慣れてるよね?」
「前の女が凝った下着を着けて――いってぇ! 聞いたから答えたんだろう!?」
 言葉が途中で途切れたのは女のデコピンが厳のおでこに突き刺さっていたから。そのデコピン、ただのデコピンとは思えないほどの強さ。首がむち打ちになるかと思った……ってのも比喩ではないところ。おでこはずきずき、見ては居ないが多分、赤くなってることだろう。
「そこは濁す物だよ? 別に厳の女遍歴なんて聞きたくないし」
「……さいでっか……」
 おでこを撫でながらにそう言うと、女は厳の体に体重をかけ、彼をラゲッジスペースの柔らかい床に押し倒した。
 お腹の上辺りに愛が馬乗りになったのを下から見上げる。
 うっすらと上気した頬、嬉しそうな笑み、濡れて光る赤い瞳に見下ろされれば、それだけで体の芯が熱くなっていくような気がした。
 女の指先が彼女自身の口角から下唇の辺りをつっと撫でる。
 唇を塗らす唾液が女の指先で拭われ、その指先がゆっくりと――
 ――厳の唇を撫でた。
 チュプ……っと女の指が青年の口内へと滑り込む。
 その指先を青年がゆっくりと舐めれば、彼女は瞳をとろんと濡らした。
「なんで……フェラ、嫌い?」
「……感じてる間抜け面を見せたくないからだよ」
「あはっ、そんなところだと思った」
 女は顔をほころばせると、クチュッと音を立てて、青年の口から指を引き抜いた。
 かすかに開いた唇の隙間から、寂しそうに舌が顔を出した。その舌の上にとろりと青年自身の唾液が女の指先から滴り落ちる。
 自分の唾液だというのに、蜂蜜のごとくに甘く感じた。
 そして、愛はスカートの中に手を入れるとショーツの両側に指を引っかけ、ゆっくりと下ろした。
 するする……青年の腰の上で女はショーツを下ろし、そして、自身の足をその小さなぬ乗っ切れの中から引き抜く。ショーツがくるんと丸まり、小さな布の塊と化したら、それを、彼女はラゲッジスペースの奥へとぽいと投げる。
 小さな布の塊が厳の顔の上を飛んでいき、頭の上辺りにぽとっと落ちた。
「この間の時は余りこう言うのやらなかったよね……?」
 そう言って女は厳に背を向け、彼の股間に顔を埋めた。
 乱れたワンピースに包まれたお尻が自然と厳の方へと向いた。
「……中に出した後にこう言うこと出来ないだろう?」
「してくれたら嬉しい――あっ!」
 愛のセリフが全て終わるよりも先に、かすかに開き始めた割れ目を両手で両側からクパァと広げる。色素の薄い無毛の股間は、遊んでそうな割に初々しく見えた。手入れしている……と言うよりも元々生えてないように思えるほど。
 外は滑らかで色素の薄い肌をしているというのに、彼女のなかは生命力を感じさせる鮮やかな朱色をしていた。その朱色のヒダがヒクヒクとうごめく様はグロテスクだとすら思えるほど……だというのに、それと同じか、それ以上に卑猥さを感じさせていた。
 その膣にゆっくりと指を入れる。先日同様に指をヒダが包み込み、きつく締め上げる。
「あっくっ! きゃんっ!」
 指を動かす度に愛は身体を小刻みに振るわせ、そのヒダの穴から透明で粘着質な液を滴らせ始めた。
 ごく浅い所を指でかき混ぜたり、深くまで押し込んでみたり……時には強く彼女の膣、その際奥にあるこりこりとした部分を突き上げてみたり……リズミカルに膣を指先で愛撫する。
「はぁ……ああ!! んっ!! はぁはぁはぁ……あああ……んんっ……うう……ああ……」
 指の動き具合にあわせて女は甘ったるく、切ない声を上げる。
 その愛撫に負けじと愛も青年のジッパーを下ろしたら、パクリ……と反り返ったペニスに食いつく。
「くっ……!」
 青年の唇から、小さな声がこぼれた。
 女の口腔は暖かく、その舌は蛇のようになまめかしくうごめき、青年の弱い部分をまるであらかじめ知ってたかのように的確に攻め立てる。それは昨日入れた膣と変わらないか、それ以上にも思えるほど。
「くぅ……ああ……すご……」
 思わず呟けば、ペニスをいったん、口から引き抜き、女は背後を振り向き、ニマッと笑った。
「あはっ……んっ……チュッ……厳の指も気持ちいいけど……まだ、負けないよ?」
 そう言って、女はぱくりとまたペニスに唇を押しつけた。今度は奥まで、人間の口はこんなにも深い物かと思うほどに奥まで彼女はペニスをくわえ込んだ。先端は口を越えて喉の方、その喉がキュッキュッとまるで痙攣するように青年の亀頭を締め上げ、それと同時に女の細い指が彼の袋をさわさわと転がすように愛撫し始めた。
「ひゃっ!? うひゃ!? ひっ、あぁぁ!」
 思わず、間抜けな声が出る。
 油断すればあっと言う間に逝ってしまいそう。
 それに負けないように……と思ったところで、気持ちいい物は気持ちいい。逝かないように頑張るのが精一杯。女の太ももを握りしめ、爪を立てたのは、何かを掴んでないとその快感に耐えられそうになかったから。そして、目の前にある女に朱色の媚肉にむしゃぶりついたのは、もはや、ただの本能であった。
 クチュクチュ……夢中になって女が滴らせている淫蜜をむさぼる。舌はラビアをかき分け、そのぷっくりと膨らんだクリトリスを夢中になってなめ回す。
「くぅん……ふぐっ……ふっふっ……ふぅ……」
 喉の奥までペニスをくわえ込んだ愛がこもったあえぎ声を上げ、その小刻みに動く喉としたが青年に新たな快感を与えた。
「ふわっ! ひゃっあっあっ! すっ、吸い過ぎだって……」
 雌の匂い沸き立つ膣に唇を押し当てたまま、青年が言葉を発する。もはや、我慢も限界……
「でっ、る!」
 びゅっ! と熱い精液が女の口内にほとばしる。それを彼女はペニスを喉の最奥にまで押し込んだまま、細い喉で受け止めた。
「ごく……ごく……ふぐっ……んんっ……」
 飲み込む度に喉が閉まり、青年の言ったばかりの伊藤を締め付け、新たな快感を与えた。
「はぁ……はぁ……」
 荒い吐息がいくつもこぼれた。
 気づけば女の肉穴を愛撫することも、舐めることも忘れてしまっていたみたい。女が与えた強い快感に酔いしれてしまっていたようで急に恥ずかしさが心を満たした。
 それを察するかのように女がようやく脈動の止まったペニスを唇と喉、そして、快感から解放した。
 振り向く女の顔……こちらに向いたその顔、口角からは白濁液がとろりとひとしずく、あふれ出していた。その白濁液と汚れた唇をぺろりとひと舐め。赤い瞳で赤くなった青年の顔を見つめて、女は言った。
「可愛い声出してたね?」
「うっ、うっさい!」
 言って青年は彼女のスカートを捲るとその真っ白い、壊れ物のようなお尻を力一杯――
 ぱーーーーん!!
「ひぐぅぅぅ!!!!」
 ――平手打ち!
 瞬間、女の膣が強く収縮し、ぴっぴっと透明な蜜を青年の上にほとばしらせた。
 愛の体が厳の体の上にぐったりと倒れ込む。その白いお尻にはまっ赤な平手の跡がくっきりと浮かび上がっていた。
「……やっぱ、Mなんだな……」
「Mで悪い?」
「……イヤ、別に……」
 お尻を向けていた女が弦の上で体を反転させ、彼の方へと向き直った。とろんととろけた表情、濡れた瞳と濡れた唇がなまめかしい。そして、彼女は青年の首に腕を回すと、チュッ……苫田自身の唇を彼の唇に重ね合わせた。
 いつもとは違う唇の匂いと味、そして、感触。妙にぬるぬるした物を感じながらも、彼は彼女の舌を自身の口内へと導き入れた。
 ねっとりと二人の唇が絡み合う。
「あふっ……チュッ……チュッ……はぁはぁ……んっ……」
 どちらの声とも付かぬ吐息がいくつもこぼれ落ちた。
 そして、ひとしきり……唇をむさぼり愛、そして、どちらからともなく唇を離したら、愛が言った。
「間接キス……はどうだった?」
「……それ、自分もだろう?」
「そうでした……」
 クスリと赤い顔で笑ったら、彼女は床の上に転がしてあったマジックをひょいと拾い上げて、彼の手に握らせる。
 何を求めているかは聞かなくても解る……と言うか、こう言うところがMなんだろうと、妙に冷めた、おそらくは『賢者タイム』という時間に突入している頭の中で青年は考えた。
「おで――」
「――こに書くという冗談は嫌い」
 さっきまでとろんと濡れてたはずの顔が真顔になって、女が言った。
「……腹出せ」
「はぁい」
 辛うじてどうに巻き付いてるだけって感じのワンピースを頭から脱ぎ捨て、女は真っ白いお腹を青年に見せた。
 その真っ白いお腹、おへそのすぐ上辺りに横棒一本、すーっと書き込んだら、彼女は青年の股間に手を伸ばした。
 先ほどまでよりも小さくなったペニス、それに指が絡みつき、ゆっくりと扱き始める。
「……さすがにもう七回は無理だぞ……」
「そう? 努力は叶うよ?」
 クスリと笑って女は自身の体を厳の体に密着させた。
 押し倒される体、彼女の透明感のある乳首が青年の口元へ……それを素直にチュッと口づけしたら、女はぶるっと軽く身体を振るわせた。それでも巧みな女の指先は止まらず、青年の大きく張った亀頭の裏側や、筋、そして、尿道までも愛撫していく。
「んっ……」
「目指せ二桁?」
「……日が昇るぞ、馬鹿……」
「それは困る」
 そして、女は彼の七割ほどの堅さになった物を自身のなかに受け入れた。
「んっ……まだ、早いって……」
「大丈夫……なかで良くしてあげるから……んっ……んんんん!!!」
 ぶるぶると震える女の体。向かい合って抱き締め合い、二人は一つになった。
 結局、この日、女の腹に書かれたのは正の字に一本足りない文字だった。

 青年が家に帰ったのは、またもや、夜明け直後のこと。さすがに毎日この調子だとまずいか……とも思うが、誘われたらイヤとは言えないのがこの年頃の男の子……ではあるが、さすがに今夜はまっすぐ帰って、早めに寝よう。
 そんなことを考えながら、ベッドに倒れ込んで熟睡。
 そして、次に目覚め、その日、朝一番の授業に出た青年を出迎えたのは……
 堀田ほりた史絵しえが今朝の授業にも来てないこと、そして、未だに携帯でもメールでもLINEでも連絡が取れない……そんなタチの悪いニュースであった。

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