五百円の男

 あの夜の翌日、と言うのもおかしいだろうか? 日付はとっくに変わっていたのだから……ともかく、あの情事が終わった後、彼が家に帰ったのは東の山の稜線から真っ赤な朝日が昇る直前と言った時間帯だった。部屋に帰ると、また、服を脱ぐことも鍵をかけることも忘れ、厳はベッドに倒れ込んだ。
 あまりにもいろんな事のありすぎた一日だったから、眠れないか……とも思ったのだが、明け方近くまで何時間も犯って、七回も出せば、イヤでも眠れる。むしろ、スクーターの上で眠らなかった自分を褒めたいくらい。
 昼に一度起きてお昼を軽く食べたらもう一眠り、まともに起きたのは午後五時少し前。
 起きたら、軽くシャワーを浴び、新しいズボンとシャツを取りだして着替える。今日はバイトがあるからジーンズではなく濃紺のスラックス、上は白いワイシャツだ。それから無地の青いネクタイをキュッと締める。この上に店に置きっぱなしのエプロンを着けるのが、厳のバイト先の制服だった。
 そして、脱いだズボンのポケットから一枚の硬貨を取り出した。
 ちょっと歪み、500の0二つが黒いマジックで塗りつぶされた、五百円玉。『愛』と名乗った女が地面に叩き付けて、立たせた代物だ。
 それをポケットにねじ込みながら、青年は昨日の夜……いや、もう今朝と言うべき時間のことを思い出した。

 彼女は地面に突き刺さった五百円玉を引き抜くと、その後百円玉を手の中で弄びながら言った。
「さて、五百円玉一枚に命を賭けちゃって、それで負けた気分はどう?」
「……インチキだ」
 ぶっきらぼうに吐き捨てると、女はクスッと小さく笑った。そして、トン……とラゲッジスペースの端っこ、バンパーの上に女は腰を下ろした。足を外に放り出したまま、上半身だけを軽く捻る。そして、右手をフロアーマットの上について、青年の顔を見上げた。
 その顔を青年は見下ろす。
 嬉しそうな笑みと小ぶりではあるが形の良い乳房が青年の目を引く。
 つややかに濡れた唇を動かし、弾む声で、彼女は言った。
「普通に投げて五百円玉が立つわけないじゃん。馬鹿なの? 厳は」
 屈託のない明るい笑み、まるで悪戯が大成功した子供のようだ。
 分厚い遮光カーテン越しに運転席を背もたれにしていた青年は、その嬉しそうな笑顔から視線を逸らし、彼女の頭の上、遠く見えるコンビナートの灯へと向けて、吐き捨てるように言った。
「……好きにしろ……殺るなら殺れ、腹黒女」
「ナイス捨て鉢……って、まあ、殺す気なら最初からこんなショーもない賭けなんてやらずに殺すけどねぇ〜」
 冗談めかした口調で彼女はそう言った。そして、先ほど愛の太ももに正の字を書いてたマジックを拾い上げると、丁寧に五百円玉に色を塗り始めた。
 何をしているのか? といぶかしく思いながら眺めること数秒。ぴん! と彼女はその後百円玉を指で弾いた。
 弾かれた五百円玉は厳のたくましい胸板に辺り、そして、あぐらをかいた足の間に落っこちた。もちろん、立ってるはずはなく、表面、桐の絵と『日本国 五百円』の刻印がされた面を上にした状態。
 床に落ちた五百円玉を拾い上げる。そして、ひっくり返せば、500と書かれた数字、その0二つが奇麗に黒く塗り潰されていた。
「……何だよ?」
 それをまじまじと見ながら、青年が尋ねる。
 その言葉に、やっぱり、真意の見えない笑みを顔に貼り付けたまま、女は答える。
「それ、次に会うまでに私に返してくれたら……厳の女になってあげようか?」
「会うまでに返せ? どうやって?」
「私が使いそうなお店のレジに混ぜておくとか、自販機の中に入れておくとか」
「言ってることがメチャクチャ……そもそも、会えるのか?」
「さあ? まあ、私んちの駐車場は知ってんだから、厳にその気があれば会えるんじゃないの? 逆にその気がなきゃ、会えないかもねぇ〜私は捜さないし」
 そう言って、彼女は捻っていた上半身を元に戻し、体をハッチの外……遠くに見えるコンビナートの方へと向けた。夜風が女の真っ赤な髪をなびかせる。その髪を女は少々鬱陶しそうに押さえた。
 そして、真っ白な背中とその背中越しにコンビナートの光を青年は見やる。ちかちかと規則正しく瞬く鉄塔の灯、瞬く星と混じって、夜空とコンビナートとの境が解らないほど。
 車体で切り取られた一枚の絵のような風景を眺めながら、ぼんやりとした口調で言う。
「その気……ねぇ……」
「車の前に座ってりゃ、三日に一回くらいは通りがかるから、気長に待ってて」
 明後日の方向へ……未だ暗い東の海へと顔を向けながら、ふんわりとした口調で彼女はそう言った。
「……それをアテにして待つほど、暇じゃない……何号室だよ?」
「そりゃ、秘密」
「……だよな」
 間抜けな会話にため息一つ。その直後、ぶるっと身体が震えた。
 深夜……と言うよりも朱がたまえといった方が良い時間帯。ハッチが開きっぱなし車内、真っ裸でだべるには甚だしく不適切な時間である。しかも、ここは海っぺりの吹きさらしだ。
「……風邪、引くぞ?」
 女の白い背中と真っ赤な髪を見ながら青年が言えば、彼女は振り向きもせず、軽い口調で答えた。
「私は引かない……けど、そろそろ、日が昇っちゃうなぁ……」
「こうなると、いっそ、朝日でも見て帰りたい所だけど……」
「あはは、そー言うムードのある話はもうちょっと仲良くなってからが良いな」
「……どう言う順番だよ……」
「私には犯るよりも一緒に朝日や夕日を見る方がプライオリティが高いのよ」
 そう言って、愛は四つんになって、ラゲッジスペースの奥へと這って来た。
 その白い内太ももには厳が刻んだ正の字一つとTの字一つ。
 その黒々とした文字がなまめかしさを放っていて、青年は思わず、ゴクリ……と生唾を飲んだ。
 助手席の後ろ当たりにまで潜り込んだ愛が、四つん這いのまま、首だけをこちらに向ける。どこか嬉しそうな……喜んでるような笑み。
 そして、女は言った。
「タイムオーバーだよ、てか……勃つ?」
「……ちょっと無理」
 肩をすくめて青年は答える。
 そして、近くに転がってあったトランクスを拾い上げ、足を突っ込んだ。
 がさごそ……互いに互いの顔を見ないで服を着る。
 今までに何度かこう言う経験をしてきたが、どーも、この時の何とも言えない気まずさが青年は好きなれなかった。居心地が悪いというか、何というか……
 その気恥ずかしさを隠すように青年は女に背を向け、壁に向かって服を着始めた。トランクスを履き、ズボンを履き、下着代わりのTシャツを羽織る。どうも靴下まで脱いでしまってたらしい。いつ脱いだのかは良く覚えてない。
 その靴下を履きながら、厳は背後で服を着ている愛に言った。
「で……もし、次に会う前に返し損ねたらどうするんだ? てか、多分、無理だと思うけどさ」
 問いかけた青年の首にするり……と何かが巻き付く。
 その何かが女の細い指であることに気づくのに一瞬の間が必要だった。
 指先が――少し伸ばした爪の先が厳の首に食い込む。
「命、貰っちゃおうか?」
 冗談めかした口調で女はそう言った。

 と、まあ、そんなやりとりがあったことを思い出しながら、春晴れの道をトコトコと走って、青年は旧市街にある小さな本屋へと向かった。
 場所は昨日、愛と出会った駅から更に五分ほどスクーターで行った所。地方都市としては珍しい割と賑やかな商店街、その片隅ある小さな本屋だ。マニアな本が置いてあるのと深夜営業もやってるおかげか、混雑するほどでもないが、古い客が途切れることなく訪れる、そんな店だ、そうだ。
 ここで厳が働き始めたのは入学式の翌日からで、そろそろ、半月ほどが経つ。
 彼以外には中年の男性店主と一年先輩の大学生アルバイトが一人。他にも昼間にパートのおばさんが数名居るらしいが、ほぼ入れ違いに顔を合わす程度で、接点らしい接点はない。
 スクーターを入り口の脇に止めて、自動ドアをくぐり、青年は店内へと入った。
 店内に入ると書店特有の香りが青年の鼻腔を刺激する。
 店内には厳の背よりもまだ少し高い書架が所狭しと並べられていて、書架と書架の間は大人二人がまっすぐにすれ違うのが難しいほどに狭い。要所要所にコーナーミラーを設置はしているが、それでも、完全に死角がないとは言いがたい。そんな古き良き書店といった趣の店だ。
 そんな店内は暖房がほどよく効いていて、デニムのジャケットは暑苦しいくらい。それをほぼ無意識のうちに脱いで居てたら、レジの中から中年男性が声をかけた。
「おはよう、不動沢くん」
 中年の、そろそろ胴回りが増えてきて、その帳尻を合わせるかのように頭頂部が寂しくなって来始めた店主が、それでもなお、愛嬌のある笑顔で彼を出迎え入れた。
「おはようございます」
 ぺこっと頭を下げる。
 その青年にレジに入っていた中年店主が言葉をかけた。
「桃林さん、遅刻するって」
 桃林さんこと桃林とうりん藤乃ふじのは厳よりも一年先輩の十九歳。ここからさほど遠くない公立大学に通っている女子大生だ。派手な栗色の頭と愛嬌のある顔、大きな胸と、まあ、一見遊んでる風な女子大生ではあるが、この二週間、公休日以外で遅刻したことなど、ただの一度もない。それどころか、必ず五分前には出勤するほど、真面目なバイトだ。
 そんな先輩バイトが遅刻をすると言われれば、青年は自然と首をかしげ、尋ねていた。
「えっ? どうしたんです?」
「何か……野犬に足を噛まれたとかで……」
 彼がそう言った瞬間、遠く……店内BGMの向こう側から救急車のサイレンが聞こえた。その音に「はっ」と顔を上げる。すると、彼は軽く笑みを浮かべて首を左右に振って見せた。
「もう、病院だよ。病院から電話があったんだよ。大事はないみたいだけど……」
 そう言われれば、彼も安堵の吐息を漏らす。そして、彼も苦笑いを浮かべて口を開いた。
「休めば良いのに……」
「私もそう言ったんだけどね。ゴールデンウィークに旅行に行くとかなんとかで、お金が必要らしいよ」
「ああ……もう、ゴールデンウィークですね……」
「この間まで春休みだったのにね」
 中年店主がそう言うと青年も軽く肩をすくめた。
「そういう訳だから、タイムカードを押したらレジに入って」
 中年店主の言葉に「はい」と答えるも、タイムカードも制服も裏の事務室……と思って、青年が足を向けようとしたところで店主が再び声をかけた。
「あっ、それと、頼まれてた文庫本、入ったよ」
「今、払って良いですか?」
「良いよ」
 事務室へと向かう足が止まり、レジへと舞い戻る。
 すると、中年店主が青年に背を向け、夕暮れ前の商店街に面した大きな窓へと体を向けた。そこには低めの棚が一つ。その棚の上には今時……と思うが不思議と良く使われているファックス、その隣には取り置きの本で小さな山が作られていた。その取り置きの山の上から一冊の文庫本が拾い上げられた。美しい戦闘機が描かれた文庫本だ。大学入試が終わるまで買わない……と願をかけていた念願の文庫本である。かなり嬉しい。
「九百七円だから……社員割引、七百五十円で良いよ」
 店主に言われ、青年はポケットに手を突っ込み、牛革の財布を取り出した。二つ折りの財布、小銭入れには五百円玉が一枚と一円玉、五円玉、十円玉が各少量ずつ。足りない……と思って、札の方を見れば、万札は昨日のパチンコで勝った奴が何枚も入っているが、千円札や五千円は一枚もない。
(万札、くだきたくねぇなぁ……)
 と思いつつ、逡巡している所に思い出される五百円玉の存在。
 するりとスラックスのポケットに手をねじ込めば、そこには昨日の汚れた五百円玉が一枚、忘れ去られることなく、ねじ込まれていた。
「……」
「どうした? 持ち合わせがないなら、給料から天引きでも良いよ」
 沈思する青年をいぶかしむように、中年店主はそう言った。そして、次の瞬間、また、自動ドアが開いた。
「――っと、いらっしゃいませ」
 彼が答える。

「命、貰っちゃおうか?」

 奇妙な女の奇妙な言葉が脳裏をよぎる。
 しかし、青年は意を決して、小銭、二枚の五百円玉を中年店主に手渡す。
「毎度あり」
 ビニール袋に入れられた文庫本と二百五十円のおつりをポケットにねじ込む。
 そして、青年は軽くうなじの辺りを触りながら、狭い通路を抜けて、事務室へと繋がるドアに向かった。
 壁のフックに掛けられていたハンガーを外して、それが着ていたエプロンを脱がせる。鮮やかなディープブルーのエプロンはここの制服。胸のところには「不動沢」と書かれたネームプレートと研修中の札が、それぞれ安全ピンで付けられていた。
 空き家になったハンガーには自身が着ていたデニムのジャケットを引っかけ、壁に吊す。先ほど買った文庫本はそのジャケットのポケットの中。ちょっと狭いが、まあ、入らないことはない。
 袖を通して、店内に戻ったら、彼は店主に頼まれたとおり、レジへと入った。
 店主は店内の見回りも兼ねた棚出しと整理。
 今日のレジは厳一人だ。普段なら藤乃がレジで、厳は先ほどの事務室で一人寂しく返本作業をするのが定番だ。どうせなら、可愛い女子大生が店番の方が良いだろう? って言う店主のご意向。まさしく正論以外の何物でもないと思う。
 それに……
(レジ、暇なんだよな……)
 この時間帯はレジは暇だ。暇だけど、店内で一番目立つ所に立ってるわけだから、下手なことも出来ないという不遇の場所。毎日、ここで数時間を過ごしてる先輩は立派な物だと思う。
 そんな暇な時間が一時間ほど……数人の客の対応をした後、なにげに青年は先ほどまで自身の注文した本が乗っかっていた一角に視線を向けた。
 一番上にはディアゴスティーニの隔週刊『必殺仕事人DVDコレクション』、それから『電撃プレイステーション』、『娘タイプ』、『JJ』って言うのはファッション誌だろうか? そんな物までが一つの輪ゴムで止められていた。その脈絡のないチョイスにも興味を抱いたが、それ以上に興味を持ったのは、その輪ゴムで止められた注文主の名前だ。
『ヤマダアイ様』
 どこにでもある名前と言えばどこにでもある名前だ。
 しかし、昨日の今日で『アイ』の名前を見れば気にすると言う方が無理だ。
(まさかな……)
 内心だけで呟いた瞬間、自動ドアが開く。
 瞬間、異臭が青年の鼻を突いた。
 血を腐らせたような匂い……と、反射的に、なぜか、思った。そんな匂い、嗅いだ事なんてないのに……
「ごめんなさい、不動沢くん、遅くなっちゃった!」
 入ってきたのは、白いワイシャツに濃紺のスカート、その上からコートを羽織った若い女性。彼の一つ先輩である桃林藤乃だ。胸元まで伸ばした栗色の髪が奇麗に内跳ねでまとめているのがよく似合う女性だ。顔も一重ではあるが大きな瞳、広めのおでこと合わさって、可愛く見えた。あと、胸元もワイシャツの上から解るほどに大きくて、彼女のことを知らなければ、『遊んでそう』と思うタイプの女性かも知れない。
 彼女の顔を見ながら、青年は言った。
「あっ、犬に噛まれたんだっけ? 大丈夫?」
「うん、かすり傷。消毒してれば、後も残らないだろうって……見る?」
「……桃林さん、そう言う軽い言動が遊んでるって思われる元凶だよ?」
「あはは、足首の上辺りで、元々見えてる所だから」
 そう言って彼女はその場を後にし、先ほど厳も入った、事務室の方へと足を向けた。
 右足、アキレス腱の少し上辺りに巻かれた包帯が痛々しく、そして、その右足が少し引き摺っているようにも見えた。
 彼女の後ろ姿を見送り、ふと……気づけば、先ほど、厳の鼻を突いた異臭は跡形もなく消え去っていた。
(気のせい……か? バキュームカーでもいたかな? 古い建物も多いし……)
 青年は半ば以上、無理矢理、その方向性で納得することにした。
 そして、制服のエプロンを身につけた先輩が帰ってくると、青年はレジを出た。
 もちろん、彼女から例の匂いを感じることは出来なかった。

 倉庫から出てきた藤乃と入れ替わりに、厳が引っ込む。普段なら次の仕事は、倉庫で返本作業だ。しかし、今日は藤乃が遅刻で厳が代わりにレジに入っていたせいで、返本作業を店主が先に始めてしまった。そうなると、やることは店内をうろうろしつつ、開いた棚に本を積めるという作業だけ。
 こっちもこっちで退屈なんだけどなぁ……と思いつつ、青年は店内を回る。
 書架と書架の狭い隙間を通り抜けつつ、空いたスペースを積めたり、崩れた本を直したり……コミック売り場は暇な時間帯とは言え、ちょくちょく客が訪れる。油断していると、ぽっかりとスペースが空いてることもある。そんなことがあれば、書架の下にある大きな引き出しを開いて、そこから新しい本を取り出し、補充する。
 そんな仕事が小一時間ほど……
 時間は八時ちょっと過ぎ、バイト時間はまだまだ折り返し地点といった時間帯。そして、お腹の空く時間。
「いらっしゃいませ」
 藤乃の声が聞こえた。
「取り置き頼んでる山田です、山田愛」
 聞き覚えのある声だった。
「えっ?」
 レジすぐ傍、雑誌コーナーで人気週刊少年コミック誌を出していた青年が声を上げた。
 その声に女がこちらに顔を向けた。
 夕焼けのような髪と夕日のような真っ赤な瞳が印象的な女がこっちに向いて、ひと言言った。
「げっ?!」
 昨日着てたのと同じコート、その下は若干違うようだが似たような形のワンピース……そして、昨日は決して崩れることのなく、決して感情の読み取れなかった顔が、ぽかんと口を開き、真っ赤な瞳を大きく見開いていた。
 少し、溜飲が下がった……が、こっちも口と目を大きく開いてたから、別に勝ったわけではない。
 そんな二人の機微を気づくこともなく、藤乃は営業口調で言った。
「いつもありがとうございます〜四点で三千九百八十円です」
「それと……ジャンプ……」
 こちら――雑誌売り場で雑誌を手にしていた厳を見つめたまま、小さめの声でそういう物だから、彼は雑誌コーナーのすこし低い書架に平出しされたジャンプを一冊、取り上げ、それをレジへと運んだ。
 どう言う偶然だ……と思うが、彼女が何かを狙ってきたのではないことは明白だ。知ってて来たんなら、少なくとも――
「ありがと……」
「いいえ……毎度ありがとうございます」
 ――と、棒読み丸出しでお互いに会話してたりしないだろう。
 いたたまれない気分で一杯になる。
 それは彼女も同じ……だと思う。ちらちらとこちらを見たり、レジを見たり、その夕日のような瞳があっちゃこっちゃを色々、うろうろ、一定しない。
 そして、やっぱり、藤乃が営業口調で彼女に対応する。
「合計で四千二百三十円です。五千円お預かりします。七百七十円のお返しです」
 藤乃が愛の小さな手のひらに小銭を乗せた。
 そして、愛は厳の方へと顔を向ける。困ったような、喜んでるような、驚いてるような、笑ってるような……どうとでも取れるような、その全てがまぜこぜになってるような、不思議な表情。
 そして、彼女は自身に返された小銭を手の中から摘まみ上げ、厳へと見せる。
「……どうしようか?」
 そう言って見せた五百円玉、その0二つは奇麗に黒く塗りつぶされていた。

「まさか、ここでバイトしてるとはねぇ……いつから?」
 文庫本が並ぶ書架、そこを整理している厳の隣で、書架を背もたれに立つ愛がそう言った。
「二週前……かな?」
「じゃあ、来てないか……ここしばらく、ずっと引きこもってゲームしてたし……」
 ぼんやりとした口調で彼女はそう言った。
 書架の棚、そこに並ぶ文庫を右に寄せたり、左に寄せたりしながら、書架の隙間をなくす。一番上の棚が終わったらその下、更に下……順番に文庫を積めていき、適当な所で書架の下の引き出しを開き、そこから新しい文庫本を取り出して……そんな流れ作業の手を止めずに厳は言葉を続けた。
「何してる人?」
 厳がそう尋ねると、あっさりと予想通りの答えを愛は返す。
「秘密」
「そう言うと思った」
「そういうのはもうちょっと仲良くなってからじゃないとねぇ〜?」
「……どう言う順番だよ……」
「色々教えたり、朝日を見たり、夕日を見たりするより方がプライオリティが高いって……昨日、言ったでしょ?」
「……今朝だよ」
 話をしている間に一つの書架の整理が終わる。そして、隣の書架へ……また、一つ一つの棚を詰めていく。
 ぱたぱた……本が個擦れ合い、棚に置かれる音が心地よく、そして、規則正しく続く。
「賭けは引き分けで良いよ。後、厳って、馬鹿なの?」
「何が?」
「私の車のフロントガラスにでも置いておけば、簡単に『再会する前に返す』が出来たのに」
 言われて青年の手が止まった。
 そして、書架へと向けられていた顔が女の方へと向き直る。
 人を食ったような嬉しそうな笑み。
 その顔に向けて青年は言う。
「ありなの?」
「なんでなしなの?」
 真顔で言われれば……まあ、確かになしの理由はない気がした。
「とりあえず、引き分け。だから、お友達から始めましょ? って所ね。ああ、言っておくけど、犯るより、色々教えたり、朝日や夕日を見たり、好きです、お付き合いして下さいって言われたりする方がプライオリティは高いから」
「……はいはい」
 話をしつつ、お仕事を続ける。
 この辺りはレジからも死角気味だし、店主は倉庫……まあ、サボるにはちょうど良い場所とタイミングといった所だ。もっとも、棚が整理されてなきゃ、叱られるのは厳だから、余りサボるわけにも行かないのだが……
 と、仕事の手を早めようとした厳に声がかけられた。
「ごめん。不動沢くん。レジ代わってくれるかな? やっぱ、立ってると若干、足が辛い……私、裏で返本させて貰うよ。アレなら椅子に座ってられるし……ごめんね? 帰りにジュース奢るから」
 足をちょっと引きずっている藤乃だ。
 かすり傷……と言ってた割に痛みが引かないのか、先ほどから彼女はしきりに右足をさすって、そこを気にしているようだ。笑みにも力がないような気がする。
 その痛々しさに青年は眉をひそめた。
「良いよ、てか……無理して出てくるから……」
「あはは、お金、必要なんだよ。後、店長、出てくるから、余り彼女とだべってたら、怒られるからね?」
「いや……友達、だから」
 茶化す彼女に青年の顔がカッと赤くなる。
「そー言うことにしとく〜」
 そう言って、軽く頬を緩めるも右足を引き摺りながら、店内奥、事務室へと向かう扉をくぐる。
 その背中、足の引き摺り具合がひどくなってるようだ。先ほど、彼女が着替えに入ったときよりも随分と辛そうに見えた。
「ねえ、厳」
 そんな青年の背中に事の成り行きを見守っていた愛が声をかけた。珍しく……と言うか、出会ってから今この瞬間までで、一回も聞いたことのないような真剣な口調だった。
「ん?」
「あの子……大事?」
「……何言ってんだ?」
「あの子が大怪我したり、死んだりしたら、昨日見たく、カツサンドかじりながら、泣くような相手か? って聞いてんの」
「……見てたのかよ……」
 気恥ずかしさに顔が更に赤くなる。もう、茹だるかと思うくらい。まあ、あのタイミングだと見られてても不思議ではないが……
「それはともかく、棚に置いといて」
 四角い箱を両手で書架の上に置くジェスチャーをしつつ彼女は言った。
 そのふざけた態度に呆れながらも、青年は答える。
「……置くなよ……って、まあ……悲しくはなる」
「じゃあ、今夜は一緒に帰ってあげたな」
 そう言った愛の声も今までに聞いたこともないほどに真剣な物だった。

 店の営業終了時刻は十一時半。普通の本屋よりも遅くまで開けてるのは『終電で帰るサラリーマンにも』と言う配慮だ。こう言うのをやらないと今時の本屋はコンビニに客を喰われてしまう……とは、店主のお言葉。それが正しいのかどうなのかは解らないが、このご時世でも潰れずに続いているのだから、経営方針としてはありなのかも知れない。
 さて、『大事なら送ってやれ』と言われた所で、この深夜に送ってやる……と言うのも何か、下心を勘ぐられそうでイヤだな……と、厳は思っていたが、そのチャンスは思ってたよりもあっさりとやってきた。
 それは全ての仕事が終わった後のことだった。
 商店街の片隅、多く店舗は営業終えてシャッターを閉める時間帯。厳達の居る本屋もその営業を終え、閉めたシャッターの前で従業員一同解散、お疲れ様と言うの最後の日課を残すだけとなる時間。
「不動沢くん、桃林さん、送ってあげられる?」
 その日課の場において、中年店主が厳にそう尋ねた。
「えっ?」
「歩けるには歩けるんだけど……やっぱり、この時間帯に足を引き摺ってる子を一人で帰らせるのは不安でね」
 聞き返した厳に中年店主が肩をすくめて答えると、その横にいた藤乃本人も申し訳なさそうに微苦笑を浮かべて、青年に言った。
「ごめんね。私は大丈夫だって言ったんだけど……変質者に追いかけられたらどうするんだ? って……言われたら、やっぱ、ヤだよね?」
 したり顔で頷く中年店主の横で、困り顔の彼女がそう言えば、青年も苦笑いで軽く頷いて見せた。
「ああ、良いよ。俺、原チャリだから……歩いて送れば良いかな?」
「うん、うち、すぐ近所だし。ありがとう」
 厳の言葉に藤乃がぺこりと頭を下げた。
「それじゃ、不動沢くん、後はよろしく……送り狼はダメだよ?」
 そして、中年店主がなぜか嬉しそうな顔で笑ってみせる。
「はいはい」
「信用してるよ」
 厳が投げやりに、藤乃が屈託ない笑みでそう言えば、その場は解散。徒歩五分の所にある実家へと向かって店主は歩いて行く。その後ろ姿を見送ると、厳は足を引きずる藤乃と共にその場を後にした。
 藤乃の家は商店街から少し離れた所にある大きなアパートらしい。厳と同じく県外からの進学組で、一人暮らしをしているそうだ。もっとも、通学している大学は藤乃の方が随分と上のクラス。頭が良いのだろう。
 店舗はほとんどが閉められている時間帯だが、外灯だけは煌々と付いてる商店街を反対側の端っこまで歩く。ちょっと遠回りになるが、暗い所を通る距離は短くなるそうだ。
 その商店街の中、向こうから来る真っ赤な髪と瞳。
「おっ? ちゃんと一緒に帰ってるんだ? 感心感心」
 女――山田愛だ。あの一言を残した後、いつの間にか居なくなっていた彼女は、厳と藤乃が並んで歩いてるのを見かけると、かつかつとブーツの足音を響かせ、二人の方へと駆け寄ってきた。
「あっ……山田さん……どうしたの?」
 最初に声を発したのは藤乃の方だった。
「うん。足、ひどいことになりそうだったから、厳に送ってあげなよ〜って言ってたの」
 そう言って、愛は厳の腕にするりと自身の腕を巻き付ける。
「あっ……おい」
 思わず、声を上げるが彼女はガン無視。
「へぇ……」
 そう呟いた藤乃の声と瞳が何か……冷たい。
 愛は厳がバイトを始めるよりも前からあの本屋の常連客だ。そのど派手な髪とちょっと変わった組み合わせの注文は『山田愛』という単純な名前と共に印象に残りやすい。それが月に少なくても二回、多ければ三日にあげずに来店するんだから、藤乃が彼女の名前と風体を覚えるのも無理からぬ事だった。
「まともに話をするのはこれが初めてだけど……」
「あんな遅くまでやってる本屋って、コンビニ以外あまりないから、助かるんだよ」
 藤乃と愛が厳を挟んで言葉を交わす。愛の腕は相変わらず厳の腕に巻き付いたまま、肘は彼女の控えめではあるが柔らかい胸にしっかりフィット。それを意識してはいけない……と思えば思うだけ、昨日見た美しい裸体が頭の中に浮かび上がってくる始末。
 そして、不意に彼女が言った。
「てか、厳、彼女、足を引きずってんだから、肩くらい貸してあげたら?」
「…………誰が俺の腕にぶら下がってんだよ……?」
「何のために腕が二本あると思ってるの? 女を二人同時にぶら下げるためだよ?」
 言い合う愛と厳の隣で慌てて藤乃が首を左右に振り、そして、言った。
「あっ、ううん、大丈夫、大丈夫、普通に歩くくらいは出来るから……あっ、うち、こっち」
 そう言って、彼女が入ったのは商店街の店と店の間。少し狭めの路地に入る。店と店の間、裏口があったり、流行ってなさそうな飲み屋があったりする路地を二十メートルほど。その路地を抜けたら、ちょっとした住宅地。街灯は少なく住宅から漏れる明かりだけが頼りではあるのだが、それすらも、この時間になれば随分と少ない。
 その車道と歩道を分ける白線すらない細い道に入った途端、それまで厳の腕に強くぶら下がっていた愛がするっとその腕から離れた。
「犬……この辺りで噛まれた?」
 何気ない口調で愛が尋ねた。
「えっ? うん……よく解ったね……」
 不思議そうに藤乃が首を捻る。
 その時、ムワッ……と厳の鼻腔を何かの匂いが刺激した。何処かで嗅いだような刺激臭。それが藤乃が出勤してきたときにまとわりついていた匂いだと気づくのに、厳は一瞬の時間を要した。
「……来るよ」
 短く愛が言葉を発した。
 瞬間、感じたのは強烈な横G。突き飛ばされたのだと理解したのは、とっさに受け身を取り、そして、立ち上がった時だった。振り向けば、藤乃が愛の胸に抱かれるように抱き寄せられているのが見えた。
『グググゥ……ギギギギィ……』
 そして、その向こうでうなり声を上げる“何”か。
「なんだよ!?」
 気づけば青年は叫んでいた。
「野犬じゃないよ」
 さらりと愛が答える。
「あう……ああ……あうあああ……」
 そして、藤乃は、その醜悪な生き物の影に、愛の腕の中で小刻みに震えながら、うめき声を上げるのが精一杯。
 女達の姿を確認し、再び、うなり声を上げる“何”かに青年は視線を向けた。
 窓から漏れる光だけが照らす薄い闇、その中にぼんやりと灰色の体が浮かび上がる。小さく丸い胴体に細い背骨が張り付き、ついでに針金のような手足がアンバランスに突き刺さっていた。そして、その上にはげっそりと頬を削り落とされたような顔とそこに穿たれた真っ赤な目が二つ。らんらんと血のように輝く。自ら光を放っているざまは、警告灯のようだ。
 その濁りきった血のような色は不吉な何も彼もを一つの鍋に入れて、ごった煮にしたかのように見えた。それは、“何”かが纏う腐臭と合わさり、厳の全身全霊全存在がこの場に留まることを反対しているような……そんな気にさせる物だった。
 膝は震え、背中に冷たい汗が流れ、喉がからからに乾き、張り付いた。
 それでもその場に留まっていられたのは、二人が女で、自分が男だから……かも知れない。もし、もう一人でも男がいたら、全力で逃げ出していただろうと、厳は後で思った。
「餓鬼だね、何年ぶりか見たよ。相変わらず、ぶっ細工な顔」
 そんな厳を置き去りに、愛が明るい口調で嘯いた。そして、厳の方へと視線を向ければ、彼女は更に言葉を続けた。
「うん、いい男。逃げないのは合格点、震えてるのも悪くない。勇猛と馬鹿は違うよね」
 そう言って愛はその胸に抱いていた藤乃をトン! と厳の方へと押し出した。
「いっ! いたっ!?」
 怪我をしている足で踏み出したようだ。たたらを踏んだ藤乃が悲痛な悲鳴を上げて、厳の方へと歩み寄る。そして、倒れ込むように彼の胸へ……
 彼女の震える体と、その温もり、そして香りだけが厳をこちら側へと貼り付けさせていた。
『ガァ!!!!!』
 何か――餓鬼と愛が呼ぶ“何”かが叫ぶ。まるで空気が裂けるかのような裂帛の叫び声。
 ピシャ!
 直後、一秒の半分にも満たぬ後、水風船を地面に叩き付けるような音がした。
 きつい腐臭が辺りに満ちる。
 それが死臭であることを厳の本能が主に教えた。
 とっさに目を逸らし、藤乃の目を自身の胸で塞ぐ。
 されど、アスファルトの上に咲いた真っ赤な華を見ずにすませることが、厳には出来なかった。
「逃げるよ、これで終わりじゃない。その子はおんぶしてあげて。家、どっち?」
 飛びかかる“何”かをたたき落とし、アスファルトの地面に叩き付けた愛が語気を強めて言う。
「あっ……あっち……」
 震えたままの藤乃が刺したのは赤いアスファルトとは逆方向。
「餓鬼の血は餓鬼を呼ぶ。ただでさえ、その子は唾を付けられてんだから、急いで!」
 そう言う愛の背後には赤い光が一つ……二つ……そして、愛は回れ右、弾けるように駆け出す。
 その姿に厳も地面を蹴って走り始める。まるで重石を取り外されたかのような全速力。それでも、藤乃を置き去りせず、ちゃんと背負ってる自分を褒めてやりたい所。
「どっ、どーいうことだよ!? なんだよ!? あれ!!!」
「走ってる時、喋ると、舌、噛むよ?」
 厳が叫び、愛が軽い口調で受け答え。そして、藤乃は厳の背中にしがみつき、震えていた。
 その三人の目の前にも、闇で光る赤い瞳が二対
 同時に飛んだ。
 一対は事もなく愛がたたき落とし、二対目は厳へと向けて一直線!
 藤乃のお尻を支える厳にたたき落とす手は残ってなく、それ以前に、たたき落とせるだけの腕力と反射神経もない。唯一あったのは、体を捻るようにして、それを避ける反射神経だけ。しかし、それは背中に女一人を背負った状態でそれを避けられるほどではなかったらしい。
 ピシャッ! とイヤな音がして、左の頬が裂けた。
 生暖かい血が厳の頬から首筋へと流れ落ちるのを感じた。
 痛みはない。代わりに焼けるような熱さがそこに生まれていた。
 ほとんど反射的に首を後ろへと巡らせる。
 震えながら背中に張り付く女の頭。怪我のない様子に、頭の片隅で安堵した。
 そして、その無事な頭の向こう側には赤い目がひと組。生き残ったその目の主はアスファルトの上に着地し、こちらを見ていた。
 見てる暇はない……と思いながらも目が離せない。
 そして、それが小さくも醜悪な体にグッと力を入れ、弾かれるように飛び出す。
 再び宙を舞う醜悪な物体。
「やばっ!」
 瞬間、目を閉じ、藤乃の体を庇うように抱きしめる……も、彼が恐れていた瞬間は訪れない。
 おそるおそる目を開けば、アスファルトの上で潰れた“何”かの死体の上に別の“何”かが覆い被さり、その身をむさぼっている姿が見えた。
 クチュクチュ……くちゃくちゃ……ボリボリ……ぺろぺろ……
 ろくでもない咀嚼音が夜の町に響き渡った。
 根源的な嫌悪感が厳の胃袋を直撃した。苦い液体が喉の奥にまで逆流する。昼からなにも食べてない事を神に感謝。
「急ぐよ、アレを食い終わったら、また、こっちを狙い始めるし、あの死体の匂いに引かれて別のが出てくる……キリがない」
 こみ上げてくる何かを必死に飲み込みながら、愛の言葉に小さく頷き、再び、駆け出す。
 街灯の少ない薄暗い夜道、人気はなくて、まるで無限に続くトンネルの中を走ってるかのような気がしてくる。
 その道を一キロほど……
 行き着いた先は公園傍の五階建てのアパートだった。
 真新しくて、オートロックもある立派なマンション。何より、駐輪場や駐車場、そして、エントランスを照らすまばゆい蛍光灯の明かりが厳の心を落ち着かせた。
 エントランスに駆け込めば、それまで厳の背中に必死でしがみついていた藤乃が、その背から下りた。そして、オートロックを解除する。
 自動ドアが開く。
 その自動ドアの向こう側に入り、そのドアが再び閉まると、厳は腰が抜けたかのようにぺたりと床にへたり込んでしまった。
 冷たい床の上に座り込んだっきり、もはや、立てない。女性とは言え人一人を背負って全力疾走した事に加えて、恐怖心……カタカタと震える身体はいっこうに落ち着きやしない。
「……なっ、何だよ……一体……」
 絞り出すように青年が呟けば、ぽん……とその肩を叩いて、愛が言った。
「まあ、とりあえず、部屋に行こうよ? 入れてくれるでしょ?」
「えっ? あっ……うん、あっ、もっ、もちろん!」
 相変わらず、藤乃は歩きづらいようで足を引き摺ってこそ居たが、それでも自分一人で歩けるのは立派。一方の厳は愛に支えて貰えないとまともに歩けないほど。エレベーターに乗って、四階の藤乃の部屋にたどり着いたら、それすらも出来なくなって、彼は玄関先で再び、ぺたんと土間の上に座り込んでしまった。
「不動沢くん……大丈夫?」
 藤乃も厳の顔を覗き込んだ。心配そうな表情に思わず苦笑いというか、自嘲の笑みが浮かび上がった。そして、彼は肩をすくめながら、尋ね返した。
「……桃林さんは?」
「何か……夢、見てるみたいで……何が何だか……上がって? お茶くらい、入れるからさ……」
 困惑気味に藤乃はそう言うと、靴を脱いで、足を引きずり、奥へと入った。
 そして、なぜか、家主よりも一足先に部屋へ入り、こたつの中にも潜り込んでる愛が偉そうな口調で言葉を続ける。
「まあ、とりあえず、厳も入って来なよ。説明する前にやんなきゃいけないこともあるしさ」
「あっ……ああ……」
 靴だけを玄関に脱ぎ捨て、四つん這いとまでは行かないがそれに近い格好で彼女の部屋に入った。
 五階建ての四階にある一室が藤乃の部屋だ。ワンルームに収容とトイレ、バス付き。典型的な単身者向けアパートと言った所。カラーボックスには女性が好みそうな漫画のシリーズ、ぬいぐるみがいくつも置かれたベッド、枕の上にかけられたコルクボードに友人達と楽しそうに笑っている写真が何枚も貼られているのが印象的だった。
「あっ、とりあえず、全部、電気つけてきて。全部ね、便所も風呂場も流しのところも」
 言われたとき、立ってたのは厳一人。言い出しっぺの愛はもちろん、藤乃もこたつに足を突っ込み、マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れようとしている所だった。
「……りょーかい……座る前に自分でやれよ……」
 ぶっきらぼうな口調でそう言い、腰を浮かした藤乃を手で制する。そして、青年はあっちゃこっちゃの電気をつけて回った。奇麗に掃除されている流しの電気はともかく、問題はトイレと風呂場。どちらもドアを開けば真っ暗闇。その闇の中にあの赤く濁った光が見えるのではないか? 明かりを付ければあの醜悪な、丸い胴体に針金のような手足を繋いだアンバランスな物体が鎮座しているのではないか? そんな妄想すら頭の中に浮かんでしまうほど。
 それでも、そんな理不尽なアクシデントは怒りはしない。明かりをつければ、奇麗に片付けられた、明るいトイレと風呂場があるだけだった。
 そして、青年がこたつのところへと戻れば、すでにコーヒーカップには温かいコーヒーが注がれ、芳ばしい香りを放っていた。
「後……これで良かったら……」
 そう言って藤乃はこたつの上に置かれていた木製のボウルを厳の方へと動かした。中には一口サイズにカットされ、奇麗にラッピングされたチョコレートがてんこ盛り。お昼から何も食べてないことを考えれば、空腹であってしかるべきなのだが、全く欲しくない。
 それは藤乃も同様のようで、勧めておきながら、彼女自身も手をつけようとはしなかった。
 愛だけがそのチョコに手を伸ばし、ラッピングを指先で開きながら、口を開いた。
「さてと……まあ、いろいろ聞きたいよねぇ〜? あむっ♪」
 そのチョコを口に放り込みながら、彼女が言えば、厳はぶっきらぼうな口調で応える。
「……もっと仲良くなってから……とか、ふざけた事言うと、はっ倒すぞ……」
「あはは、まあ、そうだよねぇ〜まず、アレは餓鬼……同族を食らう化け物だよ」
「同族を? どうして?」
 思わず、厳が聞き返す。
 それにチョコを口の中に咀嚼していた愛が、そのチョコをコクン……と飲み干し、答えた。
「ほら、人間にも良くいるでしょ? 『自分が満ちること』よりも『他人を満ちさせないこと』を優先するゲス。それを本能レベルでやるんだよ。狙うのは同族が唾をつけた獲物、同族だってちょっと弱ればがつがつ食べる。むしろ、唾の付いてない獲物や弱ってない同族は狙わないほど。だから、食べ物が傍に居てもそれに気づかず、いつも満ちない渇きと飢えにさいなまれてる哀れな存在」
 愛の説明に今度は藤乃が聞き返す番だ。
「じゃっ、じゃあ、なんで私が?」
「多分……餓鬼があの辺りに居たんじゃないかな? 毎日通ってるうちに、そいつ自身の匂いがえっと……ももばやしさん?」
「と・う・り・んです! 桃林藤乃です!」
 愛の『ももばやしさん』の言葉にパン! と手を突き藤乃が声を荒げた。幼い頃からの定番の誤読で初対面の人には必ずやられるそうだ。ちなみに厳もやって、『モテないでしょ?』という理不尽な罵倒を初対面の時にいただいた。それを思い出して、少しだけ頬が緩み、そして、思わず声を荒げてしまった藤乃も気恥ずかしそうに頬を朱に染めた。
「あっ、ごめん……ほら、ネームプレートを付けてるのはちょくちょく見たから……変わった名前だなぁ〜って思ってたんだよね、桃林さんね、桃林さん…………藤乃で良い?」
「……好きに呼んで下さい」
「じゃあ、藤乃で」
「……はい」
 どこか不機嫌そうにチョコへと手を伸ばす藤乃を見つつ、厳もチョコに手を伸ばした。それを口に含めば自身が思ってた以上に空腹だったことを思い出させ、その濃厚な甘さが厳を安堵させ、そして、二つ目を体が要求した。
「まっ、名前はともかく……よ、近くを毎日通ってるうちに、藤乃の足にそいつ自身の匂いが付いて、自分の匂いに引かれてカプッ……と噛んじゃったんだろうね。それでますます匂いがきつくなって、他の餓鬼に呼び寄せた……って流れかな……質問は?」
 愛が一端言葉を切ると、厳と藤乃は互いの顔を見合った。
 そして、そのまま、見つめ合い、それを愛はインスタントのブラックコーヒーに口を付けながら、静かに待つ。
 最初に口を開いたのは、二つ目のチョコを咀嚼し終えた厳だった。
「質問も何も……理解の範囲を超えてるというか……なんというか……」
「だよねぇ……まあ、無理に理解する必要もないんだけど……理解するよりも前にやんなきゃいけないことがある。さっきも言ったとおり、餓鬼に唾を付けられた人は餓鬼に狙われ続けるわけ。それで、藤乃はもちろん、厳も……その頬っぺたの傷は危ない」
 愛に言われて厳は自身の左頬に手を当てた。
 ぬるりとした血の感触。随分と傷は深く、デニムのジャケットや白いワイシャツ、その襟が血で濡れていることに彼は気づき、それと同時にその傷が痛むことも思い出した。
「いて……」
 思わず、小さく呟いた。
「あっ……絆創膏……」
「良いよ、薬は用意してるから。それより、猿ぐつわの代わりになる物、あるかな? なんでも良いけど」
 腰を浮かせた藤乃に愛が言う。
 それに藤乃は収納スペースの方へと足を向けて答えた。
「ボールギャグなら……」
「手ぬぐいかハンドタオル、はちまきでも良いんだけど……なんでそんなの持ってんの?」
 ハンドバッグをごそごそ漁っていた愛が顔を上げ、ぽつり……と呟いた。
「「「……………………」」」
 藤乃がそっぽを向いて、愛と厳の二人の視線が彼女を見つめる。
 そして、彼女は言った。
「つっ! 通販で買っただけ! みっ、未使用だし! 使う相手もいないし!!」
「まあ、なんでも良いんだけどさ……」
 軽く愛が流すと、藤乃は部屋の隅っこ、収納スペースのドアに向かってしくしくと泣き始める。ちょっと可愛い。そんな彼女を見て見ぬ振りをしながら、青年は愛に尋ねた。
「なんでそんな物がいるんだ?」
「この時間に大声出すと、近所迷惑でしょ? 一般的に」
 厳の問いかけに答えながら、愛はテーブルの上に焦げ茶色のキャップがつけられた乳白色の薬瓶を取り出した。ラベルこそ剥がされ何か難しい漢字がマジックで書き込まれているが、どー見てもオロナインの瓶だ。多分、再利用したのだろう……大丈夫なのだろうか? と言う疑問が当然のようにわいた。
 その怪しげな薬瓶を見つつ、青年は再び問いかける。
「……大声、出すような薬なのか?」
「傷口に焼け火箸を押しつけられる……程度の覚悟は決めて」
 答えて愛は焦げ茶色のふたを開いた。乳白色のクリーム、見た目はまんま、オロナインだ。しかし、問題はその匂い。開けた本人がイヤそうに顔をしかめるほどの匂い。それを出来るだけ簡単に言うとメンソレータムの匂いを数十倍に強めた感じ。こたつを挟んで対面に座ってる愛の手元にあると言うのに、刺激された厳の目が涙を浮かべるほど。
「とっても良く利くし、餓鬼の印にも効果があるんだけど、傷に入ると強烈にしみて、悲鳴を上げるわ、着けた薬を反射的に拭おうとして暴れるわで、ひどい感じになるので……これを使うときは押さえ込む役が必要なのよね」
 愛がそう言った五分後、厳は愛にがっちりと羽交い締めで取り押さえられていた。背後に座った愛の両腕が厳の脇の下を通って後頭部でがっちりとホールドし、両腕を無力化し、両足は外側から厳の足に巻き付いて閉じることも動かすことも許さない。結構鍛えてるはずなのに、身動きは全く取れない。本当に華奢な体のどこにこんなに力があるのか? と思うほど。さらには『使ったことはない』と言うとおり箱に収まったまま、押し入れに放り込まれていたボールギャグまでもが厳の口の中。
「ふぐっ!? ふぐぐぐぐ!!!」
 いくら文句を言っても言葉にはならない。ちなみに『せめてボールギャグは止めろ』と言ったつもりである。
 そして、指にたっぷりと地獄のような悪臭を放つオロナインを塗ったくった藤乃が厳に迫る。
「……ヤだ、やっぱ、萌える……」
(……あんた、次は自分の番だって、解ってんのか?)
 赤い顔に弾む吐息、とろんとした瞳で迫り来る藤乃を見やり、厳は妙に冷めた頭の片隅で考えていた。

 さて、男が痛みにのたうつ姿なんぞは書きたくないのでパス。ともかくひどい目に遭ったと言うことだけは書き記しておきたい。まあ、『強烈にしみる』『暴れる』『悲鳴を上げる』『拭いたくてどうしようもなくなる』ってのは事実で、この上に『泣く』、『ちょっとちびる』があったことを付け加えておきたい。
 で、いよいよ、藤乃が取り押さえられて厳が足に薬を塗る番。ボールギャグを着けてる顔がやっぱり赤くて、目が潤んでて吐息が荒くなり、内股の太ももがもじもじ動いてる辺り、かなり興奮していらっしゃることが見て取れた。
(SとMを併発してんじゃないか? この人……)
 とか思いながら、真っ白い足にピッと薬を塗ったら、ぴょん! と足が跳ね上がり厳の鼻骨を直撃。
「ぎゃっ!?」
「あっ、ごめん、足、外れた」
 悲痛な悲鳴とほぼ同時、愛の唇からさらりと詫びの言葉がこぼれ落ちる。詫びてる感はほぼ皆無……って言うか、絶対にわざとだと思う。先ほどの見せた手際の良さと力強さを考えれば、女性で格闘技経験のない藤乃に彼女の足をふりほどけるはずがない。
 されど、鼻の中から生暖かい液体がとろりとあふれ出してる厳に、文句を言う余裕も同じく皆無だ。
「ふぐっ!!! ふぐぐぐぐぐ!!! ぐぐぐがぐぐぐぐぐぐううううう!!!!!」
「はいはい、すぐに終わるからねぇ〜」
「ティッシュ、ティッシュ!」
 うなり声を上げて暴れている女性を別の女性が羽交い締めにしてるさなか、男が鼻を押さえてティッシュを探すという地獄絵図。しかも、奇麗に掃除している部屋の中、ボックスティッシュも見つからないという不測の事態。結局、液晶テレビの裏側、狭いスペースに押し込むように置かれたティッシュの箱を探し出し、鼻に突っ込む頃には、藤乃は愛の胸元でぐったりと倒れ込んでいた。
「つーか……トイレに行きゃ、トイレットペーパーがあるでしょうに……馬鹿なの? 厳」
「……うっさい」
 暴れ疲れたのか、それとも神経的に参ってしまったのか、藤乃はすーすーと気持ちよさそうに愛の胸に抱かれ、熟睡中。それを愛が軽々とベッドの上に寝かせたら、一段落だ。
 そして、愛がちょいちょいとベランダの方を指さすものだから、厳はのこのことそちらへとついて行った。
 するする……窓ガラスを静かに開く。開いた窓から冷たい夜の風が流れ込み、厳の頬を、先ほどまでじゅくじゅくと痛みを発していたはずの頬を優しく撫でた。
 愛が先にベランダに足を踏み出した。
「餓鬼なんていないよ」
 逡巡する厳を見透かすかのように彼女が言った。
 挑発するかのように笑う愛を見やり、厳も足を外に踏み出す。
 この辺りにはこのアパートよりも高い建物はあまりないようだ。見えるのは低いアパートや家、それからの奥に見えるオフィスビルと先ほどまでいた商店街のアーケード。明かりの付いた窓は少なくて、月も今夜は見えない。街全体が眠りこけているかのようだ。
 それに反して星は随分と多い。街中とは思えないほど。
「ひとまずは、もう、大丈夫」
 そう言って彼女はコートのポケットから煙草の箱を取り出した。セブンスターのメンソール。ボックスのふたを開いて、中から一本取り出す。薄くルージュを引いた唇が煙草を銜え、青いイルカが跳ねるジッポーで火を付けた。
「吸う?」
「……くれるなら、貰う」
 厳が答えると愛は火を付けたばかりの煙草を厳に手渡した。
 木目調の紙が巻かれたフィルターに赤いルージュのシミが一つ。それを一瞥して、青年は煙草を銜えた。ゆっくりと息を吸い込み、そして、紫煙を吐く。
 ジュポッ……隣で再び、ジッポーが火を噴き、二本目の煙草に火が灯る。
「煙草、吸うんだね?」
「吸うってほどじゃないよ。酒と煙草は実家にいるうちに試しとけって親父と祖父ちゃんが言いだして、卒業式の夜に飲み屋とキャバをはしごさせられた……酒はともかく、煙草は……まあ、むせない程度ってところだな、自前じゃ買わない」
 愛の質問に厳が答えた。
「ここ何年かでびっくりするくらい値段が上がったからねぇ〜無理して吸うことはないよ」
 そう言いながら愛は手すりに肘を突き、す〜っと紫煙を吐き出す。それはすぐにかすかな残り香だけを残して、闇に紛れて行く。
 それに習って厳も紫煙を吐き出す。
 ゆっくりと煙草が灰に変わっていく。
 しばしの時間……互いに言葉は発しない。その代わり……ではないのだろうが、厳の手元に小さな携帯灰皿が差し出された。プラスティック製のゴミ箱を模したような形の携帯灰皿だ。それにトントンと灰を落とし、再び、口に銜える。
 美味い……とは思わないが、煙が口の中、気管、そして、肺腑にしみこんでいけば、不思議と落ち着けるような気がした。
「厳は縁って……信じる?」
 銜え煙草の愛が言った。
「……さあ……どうなんだろう?」
 銜え煙草の厳は言葉を濁した。
「私は信じてるんだよねぇ〜私の行きつけの本屋が厳のバイト先で、しかも、その同僚が餓鬼に唾をつけられてる……こう言う変な縁って時々あるんだよ」
「そんな物かな……」
 愛の言葉を聞いて、青年はすーっと煙を吐いた。
 確かに凄い偶然だと思うし、それを“縁”と呼ぶことにも異存はないのだが……
「まあ、私が厳に声をかけたのはカツサンド食べながら泣いてる男の子が面白かったから、なんだけどね」
「……あれ、実はカツサンドじゃなくて、カラシサンドって言う、カツの代わりにカラシが挟まれた悪魔が作った試食品なんだよ」
「そかそか。そういうことにしといてあげる。私、この縁はちょっと楽しみなんだよねぇ〜なんか、久しぶりに朝から朝までゲームやってるよりも楽しい事が起こりそう」
「……朝から朝までって……いつ寝てるんだ?」
「だから、これから、よろしくね」
 そう言って、愛は厳のおでこをチョン……と軽く突いた。
 ふわっと……浮遊感が青年を包み込み、そして、指で摘まんでいた煙草が抜き取られるのを感じた。
 まるで飛んでいるかのような気分……しかし、視界はすーっとブラックアウトしていき、その狭くなっていく視野の中で女がニコッと不敵に笑っているのが見えた。
 その遠ざかる意識の中、青年は女の声を聞いた。
「そろそろ、私は帰らなきゃ行けないんだけど、ほら、女が寝てる横に男を置いておくわけに行かないでしょ? じゃあ、お休み……厳。そのうち、また、本屋に行くから」

 そして、翌日……厳は暖かなベッドの中で暖かな胸に包まれて目を覚ました。
 顔を上げれば、ワイシャツとスカートのまま、がっちがちに固まってる藤乃の姿……
「おっぱい触られた……おっぱい触られた……」
 しきりに繰り返してる言葉だけがやけに耳に付いた。

『厳が寝ちゃったから、ベッドに放り込んで帰るね 愛』

 テーブルの上にはそう書かれた紙切れ一枚。その裏側には携帯電話の番号とメッセンジャーアプリのID、それから、彼女の部屋の番号が書かれていた。
 その紙は重石代わりの五百円玉で押さえられていた。その五百円玉は当然のように0二つが奇麗に黒く塗り潰されていた。
『追伸 これは厳に預ける 使っちゃダメだよ』

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