「うーん……っと……うーん……あれ? 違う……?」
窓際隅っこ、盛夏の日差しが眩しいくらいの席で、ひとりの少女がうなり声を上げていた。
ジーンズ生地のオーバーオールに七分袖のトレーナーを着た女子中学生──西部伶奈だ。
「よぉ、悩み事か?」
聞こえてきた声にチラリ……と視線を上げると、見栄えだけはいいと(主に怜菜の中で)もっぱらの評判な青年──勝岡悠介が立っていた。
「聞くだけでいいなら聞いてやるぞ?」
ジーパンにポロシャツ姿で笑う青年から手元へと視線を落とす。
「……悩み事があってもジェリドにだけは相談しない」
「可愛げのないジャリだな、相変わらず。勉強か?」
言われて伶奈は視線をテーブルに向けた。
教科書や問題集、ノートに筆記用具等など、ココアのグラスすら置くスペースすら危うい。
そこから視線を上げて伶奈は言う。
「見たらわかるじゃんか」
「確認しただけだよ……なんだ、わからないのか? 授業はちゃんと聞けよ」
「これ、二学期の予習だもん」
「灯か? スパルタだな……っと……図形の合同と相似かぁ……」
ペン先で示した問題を見ながら、青年が向かいの席に腰を下ろした。
そして、ペンケースからシャーペンを一本勝手に取ると、問題集の図形にいくつかの補助線を引っ張った。
「これでこの四角形は三角形の塊になったろ? 後はこれの合同を証明すりゃいいんだよ」
その図形と珍しく真面目な顔の青年とを二回ほど見比べると、伶奈は問題集に数字を書き込み始めた。
「わかるけど……ここまで書いたら答え書いてるも同然じゃんか……」
「ああ……それもそうか……」
「……邪魔してんの?」
「便秘みたいな声出してるからだよ」
半分ほど解けた図形問題から顔を上げ、青年の顔を一瞥。
「……ジェリド、下品」
そう言い放つと、伶奈は再び図形の数字を計算し始めた。
「そもそも、なにしに来たんだよぉ……」
「昼飯。ジャリの顔を見に来たわけじゃ──」
「勝岡くんじゃ〜ん、元気?」
会話の声が女性の声で途切れた。
その声の主に伶奈は視線を向ける。
ダボダボなマキシ丈のスカートに肩の落ちたブラウス、大きな眼鏡の向こう側でニコニコ笑ってい大きな目……伶奈には見覚えがあった。
確か……。
「……りょーや君のお姉さん……?」
「そうそう。久しぶり。美月ちゃんの親戚の子だよね。勉強、はかどってる?」
ニマッと人好きのする笑みで良夜の姉が答えた。
「はっ、はい。それなりに……」
伶奈の人見知りが発動したのか、妙に顔が熱い。いたたまれないというか、逃げ出したくなると言うか……。
(部屋で勉強してればよかった……せめてアルトでもいてくれれば……)
──なんて思うが、アルトは勉強を始めた途端、どこかに飛んで行ってしまった。
どこかでだらだらしているか、お客さんのコーヒーを勝手に飲んでいるのだろう。
(後で捻ってやる……)
八つ当たりを心に決めていると、目の前の席に座る青年が立ったままの女性に声をかけた。
「なんでこっちに来てんだ……?」
「弟くんの顔を見にだよ。うちの弟くんは盆暮れ正月も帰ってこないんだから」
(そういえば……ジェリドも全然帰んないな……)
シャーペンの動きを止めて、伶奈は考える。
もちろん監視してるわけではない……が居るか居ないかくらいは判る。
特に最近はあのまっ赤なバイクのおかげで奴の動静は一目瞭然だ。
ちらりと視線を正面の青年の顔に向ける。
「わざわざ暇なもんだ」
「盆休みだもん、暇だよ」
「教師は夏休みでも忙しいって聞いたけどな」
「要領のいい人は休めるんだよ」
「……アンタはそういう人だよ。で、弟の顔は?」
彼の視線は相変わらず立ったままの女性へと向けられていて、こちらのことはすでに存在を忘れているかのようだ。
(なんかムカつく……)
そう思ったのは一生の秘密。
「見た見た、彼女の顔も一緒にたっぷりと」
「じゃあ、帰れよ」
「あらやだ、恩師に対してその態度。卒業した途端に冷たくなるんだね。小夜ちゃん、泣いちゃうよ?」
ハンドバッグから取り出したハンカチで目頭を押さえるそぶりを見せる……が、そこに涙は存在してない。
「よく言う」
悠介が呆れかえった口調で言うと、小夜子は押さえていた目元から手を離した。
「ほんと、ほんと。君は特に手がかかったからね。出荷してからも多少は気になってるんだって」
「出荷言うな、教師の自覚ないだろ?」
「教師も所詮はOLだって。
ポンポンと飛び交っていた言葉が不意に止まった。
「書き置き一つで消えたかと思ったら……あんたはなにしてんの!?」
「「えっ?」」
伶奈と悠介が同時に声を上げ、それと同時に小夜子は天を仰ぎ見た。
「思ったより早かった……」
絞り出すように小夜子が呟く。
バレッタで髪をアップにした笑いじわの目立つ中年女性……。
(……りょーや君のお母さん……?)
そこに思い至ったのは、
それがなければ店内で、それも卒業式当日の忙しい最中に少し紹介されただけの女性を覚えてるはずがない。
その女性がずいっと足を一歩踏み出し、声を荒げた。
「あんたね、婚約してるってのがわかってるの!? それをこんなところで別の男と会って。どういうことか、説明して!」
ガタンッ!
椅子に大きな音を立てさせ、悠介が腰を浮かせる。
「ちょっと待ってください、俺、この人の元教え子ってだけです!」
「はぁ? 教え子に手を出したって本当だったの!?」
悠介の言葉に良夜の母はいっそう声を荒らげた。
「ちがっ!」
「そんなわけないじゃない……」
中腰だった悠介は完全に立ち上がり、小夜子はため息を一つこぼす。
そんな二人に和泉がずいっと再び近づく。
そして、母娘の身体がぶつかるかと思うくらいの位置で彼女は言う。
「散々一年が可愛いとか、可愛い男の子に囲まれたいから高校教師やってるとか……この間までは冗談だと思ってたけど!?」
「……ああ……ちょくちょく言ってたな……」
ぽつりと漏らした悠介の言葉に
(……
「ほら見ろ!」
我が意を得たりと和泉の右手がビシッと悠介の顔を指し示す。
その指先に悠介はしまったと顔をを歪めるし、小夜子は小夜子でジト目でその青年を睨みつける。
「この裏切りもん……」
「結婚準備ほったらかしてフラッと居なくなったあんたが言うな!」
「だから、別になんにもやましくないって。ちょっとひとりになって考えたいことが……」
「それで元教え子とは言え、他の男と会ってりゃ世話ないでしょ!?」
「だから、たまたま会っただけだって。このおばさんにちょっと説明してあげて? えっと……誰だっけ? 美月ちゃんの親戚の」
「うえっ!? 私!?」
思わぬ飛び火に伶奈がうめき声を上げた。
「親をおばさん扱いすんな!」
「婆さん」
「誰が婆さんか!?」
小夜子に一言噛みついた後で和泉は視線を伶奈の方へと落とし、軽く小首をかしげた。
「いや、それよりこの子……誰? あれ……どこかであったかしら?」
「はっ、はい……あの……私、ここでウェイトレスのバイト……してたから……卒業式の日、美月お姉ちゃんに……紹介、して貰いました……」
「ああ、はいはい。見覚えがあると思った」
「あの……りょーや君のお姉さんの言ったとおりで……ジェリドが、勉強、見てくれてるところに……お姉さんが来た……だけ……」
「……ジェリド……?」
「あっ、いや……ジェリドがどうしてジェリドかは……私もよく知らなくて……ジェリドはジェリドだからジェリドで……」
不思議そうな表情の中年女性に伶奈はしどろもどろ。
そんな伶奈に呆れつつジェリドこと勝岡悠介が口を開いた。
「俺のことです。浅間先生の受け持ちだった勝岡悠介です。この子の勉強を見てるところに浅間先生が来て……」
「……変なあだ名ね。いいけど……それより、本当? 偶然って言うの」
「本当だって……さすがに私もそこまで考えなしじゃないって……」
答えたのは小夜子の方。
「書き置き一つで家出してりゃ十分考えなしよ……まったく……」
「それでよくここがわかったね」
「アンタの逃げ出す先なんて良夜のところくらいしかないでしょう? 電話したら、ここだろうって……」
「じゃあ、聞いた? 良夜くんが美月ちゃんと同棲してる話」
小夜子の言葉にサッと和泉の表情が変わった。
青い顔でフルフルと首を左右に振る。
「えっ? 聞いてない……」
「話したんじゃないの?」
「話したし、部屋にも行った……けど、なんにも……あれ? じゃあ、あの床に敷いてた布団……」
「あれ、美月ちゃんの。私はビジホ、駅三つ向こうの」
「じゃあ、掃除してたのも……」
「家事分担。洗濯と炊事以外、全部良夜君持ちらしいよ」
「旦那取り分多めでうらやましい……じゃなくて! もうそこまで話が進んでるの!?」
「聞かれたって困るよ。私だって詳しいこと知らないし……」
「じゃあ、詳しいことがわかる人呼びなさいよ!」
「そのうち、美月ちゃんも来るんじゃないの? 今日も仕事してるし」
(噂をすれば影……)
伶奈の頭をよぎる使い古された格言通りに、コック服姿の美月がひょっこりと顔を出した。
「お
和泉の顔を見た瞬間、美月の笑顔が笑顔のままで凍り付いた。
美月が半歩下がって、和泉が二歩詰め寄る。
「どういうこと? うちの息子と一緒に暮らしてるとか、どうとかこうとか!」
「いや、あの……その……えっと……その……はっ、話せば、長くなることながら……」
「親御さんは? ああ、ここの店長さんがあなたのお祖父さんだったわね。ちょっとお話しさせて貰ってもいい?」
「えっ……いや、それはその……あの……」
笑顔は相変わらず凍り付いたまま、その視線がキョロキョロとせわしなく動く。
その視線から思わず伶奈は目を逸らし、テーブルに突っ伏する。
(こっち見ないで!)
そんな美月と伶奈を無視して、和泉はさらに言葉を重ねていく。
「ご両親は関東にいらっしゃるのよね? もしかして、親御さんも御存知じゃない?」
「いえ……そう言うわけではなくて……えっと……あの……」
しどろもどろになってる美月に対して、和泉は「あっ」と小さな声を上げた。
「入り口にいた人……」
「うっ」
「ちょーっとお話しさせて貰えるかなぁ?」
和泉の声のトーンが一オクターブ下がった気がした。
「いや……その……えっと……でも……いっ、今、仕事中で……」
「もちろん、心配しなくても、お仕事が終わるまで待たせて貰います」
「えぇぇぇぇ……まっ、待たなくても……お姉さんを連れて帰らないと……」
「今はね、それどころじゃないの」
「……よしっ」
和泉の声に小夜子があげた小さな声を、即座に和泉の鋭い怒声がかき消す。
「よしっ、じゃない!」
「……ちっ」
憚らない舌打ちが小夜子の口元から響く。
事態はカオスだ。
そんな中、ほぼほぼ存在を無視されながらも物理的に渦中にど真ん中に位置する伶奈はテーブルに突っ伏したまま、嵐が通り過ぎるのをひたすらに待っていた。
(なんで私がこんな目に……)
この状況下で勉強を続ける図太さも、この場から身一つで逃げ出すだけの要領のよさも、それどころかここでなにか一言発するだけの強さも、伶奈は持ち合わせていなかった。
「ともかく良夜に電話して……小夜子! 逃げるんじゃないわよ!?」
「わかってるって──あれ? 前、スーツにエプロンで仕事してなかったっけ?」
「人員が増えたんで、フロアとキッチンのスタッフを完全分業することに──」
「なに、のんきに話をしてるの!? 二人とも!」
「「ひっ!?」」
伶奈の頭の上で女性達の言葉がいったり来たり。
(誰か……助けて……)
半泣きで少女は祈る。
「はぁい、楽しそうね」
突っ伏した伶奈の顔すぐ横に妖精さんが着地を決め、伶奈の顔を覗き込む。
「……どこがだよぉ……?」
「ひとまず、このややこしい状況をリセットする言葉があるわよ」
「……そんな魔法の呪文なんて……」
「あるわよ。いいから、私の言ったとおりに大声を上げなさい」
アルトは目の前から耳元へと移動し、そっと囁く。
「耳打ちの意味は……」
「様式美よ。いいから、さっさと言いなさい」
「うっ……うん……」
そして、少女はすっくと身体を起こし、大きく息を吸い込んだ。
「私、勉強中なんですけど!?」
その一言を合図に揉めていた女達は蜘蛛の子を散らすようにその場から去って行った。
急に静かになったテーブルの上で妖精さんは胸を張る。
「ねっ?」
「『ねっ?』じゃないよ……もう……」