またまた姉来襲(1)

「いってらっしゃい」
 パジャマ姿の美月が手を振る相手は土曜日だというのに出勤しなきゃいけない浅間良夜君。
「うん……行ってくる。早めに帰るつもりだから……」
 憂鬱そうな一言だけを残して、彼は玄関を出てとぼとぼと歩いて行く。
 美月が良夜の部屋に転がり込んで二週間が過ぎた。
 先週の土曜日は一応休みだったが、今週はお仕事。
 なんでもどこかのオフィスビルの館内ネットワークを作るとかどうとかこうとか言っていたが……美月には話の半分も理解できてない。
 ともかく盆前にやりあげなきゃいけない仕事があって休めないと言うことだけは理解しているつもり。
 良夜が部屋から出て行ったのを確認すると美月は玄関ドアの鍵を閉めた。
 そして、妖精柄のパジャマを着たままの美月はグーーーーーーーーーっと思いっきり背を伸ばした。
「くぅぅぅぅぅ〜〜〜〜」
 薄い胸に新しい空気がいっぱいに流れて混む。
 そして、彼女はパチン! とほっぺたを叩いて言う。
「さて、何からはじめましょ?」

 ──と言った彼女が最初にやったのはパジャマから白いワンピースに着替えることだった。
「洗濯♪ 洗濯〜♪」
 そして、鼻歌交じりに美月はユニットバスの隣にある洗濯機置き場へと足を向ける。
 しかし、そこに洗濯機はない。
 代わりに小さな脱衣カゴがひとつ置いてあるだけ。
 これが美月が洗濯を担当している理由だ。
 現状この家に洗濯機はなく、良夜は毎回コインランドリーを利用していた。
 洗うだけで一回八百円かかり、乾燥機まで使うと千円程度はあっという間に消えてしまう。
 そういう訳で、洗濯機を買うまでは実家アルトに持って帰って二人分の洗濯を美月が行うということになった。
 その提案を行ったとき、良夜は……。

「一回千円で部屋の掃除させてるくせに……」

 そう言ったものだが──
(掃除なんて月に一回か二ヶ月に一回くらいじゃないですか……)
 なんて言い訳をしつつ、美月は洗濯物を回収する。
 多分良夜ひとり分なら問題なく収まったであろう洗濯カゴからは、二人分の洗濯物があふれていた。
 それを見てふと考える。
(……洗濯物、家までどうやって持って帰りましょう……? ゴミ袋くらいしか……)
 ひとり分の洗濯物でいっぱいになっていた洗濯カゴに二人分入れてるんだから、あふれて当然……と言うことには気付いていたのだが、なんだかんだ言って新しい物を買う暇がなかった。
(……ランドリーバスケットと洗濯カゴもう一つ……そういえばサニタリーボックスも……お醤油差し、テーブルソルト……粉チーズ、インスタント味噌汁、お漬物……食品いろいろ……こっちはアルトおみせで発注できる物はして……)
 頭の中でこの二週間で必要だと思った物の数を数える。
 それが両手ほぼ全部を使い切った頃……。
 ぴんぽーん。
「はーい」
 チャイムの音に顔を上げ、玄関ドアを開くとそこにはひとりの女性が立っていた。
「来ちゃ──あれ?」
 肩口手前のミディアムロングに軽いウェーブをかけた眼鏡の女性……髪型が変わっているような気がするが──
「お義姉ねえさん?」
 良夜の姉、浅間小夜子だ。
 作り笑いを貼り付けたまま、小夜子が尋ねる。
「うちの弟クンは?」
「お仕事ですよ」
「……じゃあ、なんで美月ちゃんが?」
「住んでるからですよ、二週間ほど前から」
「……同棲?」
「いわゆるそれですね」
 言葉が行き来するたびに小夜子の顔から血の気が引いて行っている……ような気がする。
(どうして?)
 美月が軽く小首をかしげた。
「………………」
 されど小夜子は何も応えない。
 凍り付いた笑顔を美月に見せ続ける。
「……あの……?」
 その一言を美月が言った瞬間、小夜子がペコペコと頭を何度も下げた。
「ごめん! 帰る!」
 大きなキャリーケースを引きずり、小夜子はその場で回れ右。
 大きく一歩を踏み出す──
 ──よりも先に美月の細い指がキャリーケースのハンドルに絡みついた。
「ちょっ! 待ってくださいよ! なんで!?」
「美月ちゃんがいるから!」
「それじゃ、私が追い返したみたいじゃないですか! 良夜さんに叱られます!」
「叱られない、叱られない! むしろぐっじょぶって褒めてくれるよ!」
「そんなことないですよ〜」
「あるって、二十何年も姉やってればわかるって!」
「なにをそんなに慌ててるんですか〜毎回、アポナシでいらしてるくせに!」
「だって、私、イヤだよ! アポナシで小姑が来るの!」
 小夜子がそう言った瞬間、美月は反射的にパッと手を放した。
 ごっ!
 嫌な音がしたかと思ったら、小夜子がキャリーケースごと通路の壁に突っ込んでいた。
 ──おでこから。
 そして、美月が少し大きめの声で叫ぶ。
「いやがらなきゃいけないんですか!?」
「いたた……なんでいやがんないの……?」
 壁から顔を上げた小夜子がおでこを赤くして尋ねる。
 それに美月はさらに小首をかしげた。
「だって、お店には予約のないお客さんでいっぱいですよ?」
「ここはお店じゃない!」
「あっ……なるほど……」
 ポンと美月が胸元で手を叩いた。
「なるほどじゃないよ……アイタタ……」
「ごめんなさい……大丈夫ですか?」
「……大したことはないよ、痛いけど」
 美月が右手を差し出す。
 差し出した右手を掴んで小夜子が立ち上がった。
「良夜さんのご家族は毎回アポナシでいらっしゃるから……そういうものかと……」
「はぁ……一人暮らしだからアポナシで来てただけで、美月ちゃんまで住んでんならやらないよ、私も……お母さんも」
「そんなものですかねぇ〜? ともかく、上がってください。今、コーヒー淹れますから」
「いや、ホントお構いなく」
「いいんですって、どうぞ、どうぞ」
 ニコニコ笑いながら、美月は小夜子の手からキャリーケースを奪って、部屋へと引っ張り上げる。
「……お邪魔……します」
 小夜子がガラステーブルの前に座ったのを確認しながら、美月はガスコンロの上に放置されていたケトルを手にした。
 それにたっぷりとお水を注ぎながら尋ねる。
「アイスでいいですか?」
「あっ……うん……」
 返事を聞きつつ、たっぷりの氷を入れたグラスを二つ用意……。
 美月が良夜にプレゼントしたケトルにお水をたっぷり注ぎ、コンロにかける。
 そして、スイッチを入れたら、美月はコンロの上にある収納棚をガサガサと漁り、さらには冷蔵庫も開く。
「あの……美月ちゃん、なにしてんの?」
「今、ホットケーキ焼きま──」
「焼かなくていいから!」
「──ます……ホットケーキはお嫌いですか? パンケーキにしましょうか?」
「じゃなくて、なんにもしなくていいから。とりあえず、座ろう、ね? 落ち着いて。いい子だから」
「遠慮しないでくださいよ〜すぐに出来ますから。それにミックス、ボールに開けちゃいましたし」
「仕事早っ!?」
 小夜子の声を遠くに聞きながら、美月は今まで何回となく作ってきたホットケーキを手際よく作っていく。
 その間にコーヒーも淹れて……自慢ではないが手際はいい方だ。
 大きめに焼いたホットケーキをフライ返しでふたつに分けると、お皿に盛り付け。
 トッピングにはマーガリンを一欠片、蜂蜜もメイプルシロップもないから代わりにカラメルソースをかけたら出来上がり。
「お待たせしました」
「……ここまでしてくれなくてもいいのに……」
「お気になさらず〜♪」
「するよ、普通は!」
 そう言いながら小夜子はホットケーキをパクり。
「あっ……美味しい……」
「蜂蜜があったら手っ取り早かったんですけどねぇ〜買い忘れちゃいまして」
 美月自身もホットケーキを一切れ口に放り込む。
 それをアイスコーヒーで流し込むと、美月は改めて口を開いた。
「それで……今日はどんなご用で?」
「ご用で……ってほどでもないんだけどね。良夜くん、お盆も帰ってこないかだろうから、顔を見に来たの」
「お金が掛かるし、十一月に会うからって……言ってましたよ」
「良夜くんらしいよ」
「あと、どうせ、ねーちゃんがアポナシで来るだろうって言ってました」
「ちっ……そろそろ芸風変えないと……」
「予約してくれると、もうちょっといい物が用意できるんですけどね」
「これ以上いい物用意しなくていいから。いい物欲しかったらアルトの方に顔を出すから」
「あっ! そうでしたね、今から、お店行きます?」
「もういいよ……いまさら。それにしても同棲かぁ〜」
 小夜子が言葉を切り、コーヒーに口を付けた。
 数秒……静かに時が流れる。
「あっ、そうそう。言ってませんでしたね、ご結婚、おめでとうございます」
「えっ……あっ、ああ……うっ……うん、ありがとう……」
「旦那さん、どんな方なんですか?」
「……まあ、それなりかな……私みたいなのと結婚しようって物好きだけど、いい奴だよ」
「あはは、それを言えば良夜さんもですよ〜」
 ──と美月と小夜子との間に会話の花が咲いていく。
 そして、十五分ほど、穏やかに時が流れ、お互いのお皿からホットケーキが消え、コーヒーカップが空っぽになった。
「ごちそうさま。さすがプロの味ね」
「ホットケーキなんて誰が作っても同じですよ……さてと──」
「私が作ってもここまでは……どうしたの?」
 腰を浮かせて美月に小夜子が尋ねた。
「食器、洗おうと思いまして」
「ああ、いいよ、それくらい私がするから」
 美月の答えに小夜子は立ち上がり、汚れた食器を下ろした。
「お客さんなのに……」
「いいって。ホットケーキまで作らせちゃったし」
 お皿とグラスにフォーク、二組の食器を持って小夜子が立ち上がった。
「それじゃ、お義姉さん、後はお任せしていいですか?」
「もちろんだよ。それくらいは楽勝だって」
「あはは、じゃあ、私、ちょっと出かけてきますから」
 そう言って美月は立ち上がると、床に転がしてあったハンドバッグを拾い上げた。
「えっ?」
「ちょうど、買い物に行こうと思ってたんですよ〜。なにか必要な物ってあります?」
「いや、私は別に……って、今から?」
「もちろんですよ〜それじゃ、後はよろしくお願いしますね」
 ミュールを引っかけ、美月は部屋の外へと駆け出した。
(まずはニトリで……帰りにスーパーで生理用品……それから下着も買って……あと、お菓子も何か買っておかないと……急な来客もあるみたいですし……それからそれから……)
「……行っちゃった……」
 呆然と小夜子が見送っていることに美月が気付くことはなかった。

 その後、美月が帰ってきたのはお昼十二時を大幅に過ぎた頃のことだった……。
 その時、小夜子は部屋のど真ん中でつまんないNHKのニュース番組を見ていた。
 正座で……。
 その正座した小夜子の首がゆっくりと玄関へと向いた。
「美月ちゃん、ちょっと話をしようか? そこ、座って?」
 笑顔だった。
 しかし、なぜか眼鏡の向こう側に見える大きな目は全然笑ってない気がした。
 その瞬間、さすがの美月も自らの顔から血の気が引く音を聞いた。
「ちょっ、ちょっと聞いてください!」
 買ってきたランドリーボックスやサニタリーボックス、ついでにデパートで仕入れてきた特製ロースカツサンドイッチもその辺にポンポンと投げ捨て、美月は小夜子の前に腰を下ろした。
「ほら、お義姉さんは勝手に良夜さんのお部屋の鍵を作ったり、勝手に入り込んでくつろいでたって話だから……いいかな? って思ったんですよ、知ってますか?」
「鍵を勝手に作ってたのは前の部屋だよ……」
 そう言った小夜子の顔から作り笑いがかき消される。
 そして、彼女は深い深いため息を吐いた。
「はぁ……鍵がないから出かけらないし、美月ちゃんちだと思うと落ち着かないし、テレビはつまんないし、連絡先はわかんないし、そもそも帰ってこないし、もうどうしろって……」
「アルトに連絡してくれれば教えて貰えた──」
「そこまで気が回んないよ!」
「ごっ、ごめんなさい!」
 ばんっ! とガラステーブルに手をつき腰を浮かせる小夜子に美月は反射的に頭を下げる。
 そんな美月の顔を見ながら、小夜子はしみじみと呟く……。
「……良夜くんが──」

「美月さんには一生かなわないと思う」

「──って言ってる意味がやっとわかった……」
「えっと……あの……どういう意味でしょう?」
「うん……いいの、そのままの美月ちゃんでいて。そんで、良夜くんを振り回してくれればいいから……」
「えっ? えっ? えっ?」
 小夜子の言葉の真意を美月が理解することはなかった……。
 

 
 

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