「……余計なこと言ったぁ……」
真っ青に晴れ上がった空とまっ赤に燃える太陽の下、汗を拳で拭いながら青年──浅間良夜が呟いた。
ここは喫茶アルト駐車場、伶奈たちが海に行った初日の話。
カンカン照りの真夏日、今日も三十度後半、陽当たりいいところだと四十度近くにまで上がるかもしれない。
その陽当たりのいい駐車場の片隅へと、良夜はゆっくりと視線を動かした。
向けた先には真っ青なワンボックスカーが鎮座ましましている。
三島家夫妻の愛車だ。
「……はぁ」
大きなため息がこぼれた。
「まいったな……」
良夜はバリバリと頭をかいた。
喫茶アルトのドアまで後一歩、その一歩が踏み出せない。
なんと言っても──。
(親への挨拶……か……)
──ってやつだからだ。
(なんでこんなこと思いついちゃったんだろう……?)
それは世の中がまだまだ梅雨だったころに始まった話だった。
「今年、私は海に行きません」
六月の第二日曜日、アルトのカウンター席、内側の丸椅子に座った美月がはっきりと断言した。
「なんで?」
外側のストゥールに腰を下ろした良夜が軽く小首をひねると、美月は神妙な面持ちで答える。
「スタッフの割り振りを考えると若干厳しいかと思うんですよね。お祖父さんのぎっくり腰もありますし」
「そんなに?」
「月二から週一くらいの覚悟は必要ですね……」
「……それはきついな」
良夜が苦い顔を見せると、美月は神妙な主も持ちのままで頷いた。
「そうなんですよ。そこで私が残ってお母さんを呼び寄せればお祖父さんがどうにかなっても、ギリで回るかなぁ〜と……」
「最近、土日もそこそこ入ってるみたいだしね」
「平日みたいに特定の時間帯にわーっと来て、さーっと波がひくみたいに居なくなるって感じじゃなくて、一日中だらだら途切れないんですよ。ありがたいと言えばありがたいんですけど」
「成長企業なんだよ」
「そうだといいんですけど。それで、みんなが帰ってきたらふたりでどこか行きません? 海でも山でも湖でも」
「十一月に結婚式だから、金はあまりないよ。日帰りか、最大でもビジホ一泊旅行かな……?」
「はいはい。私だって出席予定なんですから、それなりにお金は段取りする所存ですよ」
「美月さんも来るんだよなぁ……ホントに……」
そこまではしたところで、良夜は言葉をいったん句切った。
その様子に美月が小首をひねる。
「どうかしました?」
「うん……あのさ、美月さんのご両親に挨拶しようか……」
「そりゃ、挨拶くらいはして貰わないと困りますよね、子供じゃないんですから」
すました顔で美月が言えば、少し奥で置物になっていた和明が「ぷっ」と小さく吹き出した。
その老人の顔を一瞥、再び、きょとんとしてる恋人へと視線を戻す。
「おはようございますとか、こんにちはとか……そう言う挨拶じゃないってのはわかってるよね?」
「しないんですか? おはようございますとか、こんにちはとかのご挨拶」
「いや、するよ、会えば。でも、この場で言う挨拶ってのは、美月さんと結婚を考えてますって挨拶。お母さんを呼ぶならお父さんにも来て貰ってさ」
良夜が若干キレ気味に言うと、美月はポンッ! と、薄い胸の前で手を叩いた。
「ああ、はいはい、その挨拶ですね──」
コクコクと数回首を上下に動かした後、彼女は言い切る。
「──やらなくていいんじゃないんですか? 別に」
「……なんでだよ?」
「いいですか、よく聞いて下さい。三島家はお店を中心に回ってんです。お店が中心と言うことは、一番偉いのは、アルトです」
「……アルトなんだ……一番」
どうしてかは聞いたら長くなる上にきっと理解できないだろうから、聞かない。
「そのすぐ下に名義上店長のお祖父さん、ちょっと下がってほぼ店長の私、ハナ差で翼さんと凪歩さんが同格で並んでて、少し下がって後輩の灯君、週一だけ手伝ってくれてる伶奈ちゃんが居て、クリスマスに手伝ってくれた真鍋さん。それからずーーーーーーっと下がって稀に手伝ってくれるお母さんが居て、皿洗いの一つもしないお父さんはコーヒーカップ以下です」
一息に言い切り、美月はグビッと少し冷えたコーヒーを飲んだ。
そして、そのカップをソーサーの上に戻すと、美月はカップの縁を指先でつーっと撫でる。
「
唖然としつつ、二番目に偉いと称された人へと、良夜はもう一度視線を向ける。
ワックスで光るパイプをハンカチで拭きつつ、ニコニコしているだけだった。
(我関せずだな、あのじーさま……)
がっくりとうなだれ、良夜は改めて美月へと視線を戻した。
「あのね、美月さん、ねーちゃんの結婚式、出るつもりなんだよね?」
「そのつもりですよ。先日、電話がありましたし。正式な招待状こそまだですが、出席の意向は伝えました。晴れ着の着付けも段取りして下さるとか、もう楽しみなんですよ〜」
「おう、すげーな、俺は全然なにも全く一切聞いてねえけど」
「来ることとして段取りされてるんですよ〜夜行バス往復の代わりちょっといいホテルでツインルーム取って下さるそうです。お風呂が広くて気持ちいいそうですよ〜楽しみですね〜」
「…………だから、俺に相談しないでサクサク決めてんじゃねーよ、あのクソ姉貴は──」
聞けば聞くだけ自分の表情が厳しい物へと変わっていくことを自覚しつつも、良夜はアイスコーヒーに口を付ける。
さわやかな苦みが口いっぱいに広がり、昂ぶる気持ちを落ち着かせた。
「──ってのは後であのクソ姉貴に電話するとして、だよ、美月さん」
「お姉さんをクソ姉貴はひどいですよ。いいお姉さんじゃないですか〜」
「いいか悪いかはともかく、その結婚式、来るんなら肩書きは『
「へっ?」
良夜がやっぱり一息で説明すると、美月は心底キョトーンとした表情を見せた。
梅雨の国道、濡れたアスファルトを自家用車のタイヤが駆け抜けていく音が一台分……それから少し間が開いてもう一台。
さらに三台目がアルトの前を通り過ぎようとした瞬間、美月がバンッ! とカウンター内部の作業台に手を突き立ちあがった。
「聞いてませんよ! 結婚しに親族一同全員集合だなんて!」
カウンターの内側で丸椅子がコケて転がる音がむなしく響く。
それを聞きながら、良夜はまたもやため息を吐いて口を開いた。
「結婚式で親戚一同全員集合しないでいつやんの……それが嫌なら来なくてもいいよ。現実問題、婚約者だって言ってもそれらしい今年たわけでもないしさ。新婦弟の恋人ってだけなら来ないのが普通じゃないか?」
「結婚式には行きたいんです。お姉さんのお祝いだってしたいですし、振り袖を着る数少ないチャンスですし、お姉さんにも行くって返事しちゃいましたから。でも、親族一同の前でお披露目はちょっと……怖じ気づきますよね」
「俺だって言ってはみたものの、怖じ気づいてるよ。社会人一年目で、まだ右も左もよくわかんないし……」
「いざって時はアルトでウェイターって立場はまだ残ってますよ。正直、手はまだ足りてませんから」
「……はいはい、いざって時はそれでよろしく。ともかく、お袋さんをこっち呼ぶならそれと同じタイミングでもいいし、親父さんの仕事の都合があるならそれはそれで都合を合わせるから、一度、来るように言って置いてよ」
「はーい。お姉さんの結婚式に出るってだけなのに面倒くさいですよねぇ〜」
「まっ……しょうがないよ」
ひっくり返った丸椅子を拾い上げるため、美月がカウンターの内側にしゃがみ込む。
美月の消えた空間をぼんやりと見つめながら、良夜はすっかり氷の溶けたコーヒーに口を突た。
「……覚悟、決めるしかないよなぁ……」
──と言う流れで今ここに至っているわけだが、いざとなると覚悟が決まらないのが人間という物だ……が、時間が無限に与えられてるわけでもないのも人間という生き物の常だ。
美月から誕生日に貰った腕時計へと視線を落とす。
(……約束の時間だな……)
自分で言いだした時間に遅れるわけにも行かず、良夜はアルトのドアを開いた。
から〜ん。
乾いた音でドアベルが鳴った。
「いらっしゃいま──ああ、浅間君。こんにちは。うちのは窓際の席、いつものところの一つ後ろ。私も後で行くわね」
アルトの制服に身をつつんだ清華が出迎える。
「美月さんは?」
「一緒。ご機嫌ななめだから気を突てね」
「……なんで……?」
「うちのと喧嘩中。詳しくは本人に聞いて」
「……なにしてんの? あの人……」
不穏当な言葉に見送られ、良夜は言われた席へと足を向けた。
その道すがら、頭の中で思い当たる理由を探す。
(付き合いを反対されたとは思いたくないよな……)
そして、彼が席へと近づくと──
「良夜さん、聞いて下さい、お父さんってひどいんですよ! 知ってますか!?」
フロア側に座っていた美月が席を立って声をかけた。
「……知らないよ、なに?」
窓際には苦虫をかみつぶした表情の父拓也が座っている。
「……ご無沙汰してます」
ぺこりと頭を良夜が頭を下げる。
「ああ──」
「お父さんなんてほっといて下さい!」
立ったままの美月にあわせて良夜も立ったままで問いかける。
「……なに怒ってんの?」
「また、お祖父さんを連れて帰るって言いだしたんです!」
「……ああ……」
頷きながら、良夜は
(マズいな……)
ほぞをかんだ。
「もう五年目で、親父も経営からは手をひいてて、お前も『ほぼ店長』を名乗ってるんだろう? なら、連れて帰っても──」
「そう言う問題じゃありません!」
立ったままの美月がテーブルをバンッ! と手を叩きつける。
華奢なアイスコーヒーのグラスがカタンと揺れ、その水面をざわつかせた。
それを一瞥し、乳は腕組みをしたままで問いかける。
「じゃあ、どういう問題だ?」
「お祖父さんは大事なスタッフなんです!」
「なにやってるんだ? いま」
「コーヒーを淹れたり、コーヒーを淹れたり、コーヒーを淹れたり……後、学長先生と話をしたり、東雲のおばさんと話をしたり……置物したり……パイプ磨いてたり……後、お風呂の掃除……」
当初は勢いが良かったのも頭だけ。
美月の視線は下を向き、声のトーンは小さな物へと変わっていく。
「……ほぼコーヒーを淹れるだけだな」
ぴしゃりと拓也は切って捨てた。
その言葉に美月の顔が跳ね上がった。
「喫茶店ですからね! 当社は! お祖父さんの居ないアルトはアルトじゃありません!」
「じゃあ、親父が死んだらこの店は閉めるのか?」
「誰もそんなことは言ってませんし、そもそもお祖父さんは死にません!!」
「お前よりかは先に死ぬし、死ぬ前に身体が動かなくなって店に出られなくなることもあるぞ。ぎっくり腰でアテにできないって、お前が言ったはずだが?」
冷静な拓也に対して、激高した美月は何度もテーブルに手を叩きつけていた。
「そんなこと、今考えなくても!」
「
(──と言うか、その話を今する必要があるのか? 俺をほったらかしにして)
椅子に座るタイミングも失い、良夜はただただ美月が父親と口論をしているのを聞き続ける羽目となった。
しかも、総論としては、
「早めにこっちでの生活に慣れさせた方が、身体を壊した時にも便利だ」
これが拓也の意見。
「アルトにはお祖父さんが必要なんです!」
これが美月の意見。
この辺、半径一メートル(良夜主観)で議論はグルグル回り続けている。
(どっちにも一理あるのが面倒くさいよな……)
グルグル回ってバターになりそうな議論を聞きつつ、良夜は思う。
そして──
(強いて言えば……親父さんかな……なにかあった時に美月さんだと面倒見切れない気がする。アルトの仕事も忙しいし……)
良夜は親子喧嘩を眺めつつ、そんなことを考えていた……が、それを素直に言えば、
(美月さん、キレるよなぁ……)
なので言えない。
(ああ……なんでこうなっちゃったんだろう……?)
本日二度目の後悔を良夜は真っ青なお空を窓越しに見上げて呟いた。
「だいたい、アルトに会うのが嫌で帰ってこないお父さんにお店のことをとやかく言われる筋合いはありません! 今回だって、アルトの居ない隙を突いて帰ってきてるくせに!」
(あっ……マズい、思い出し怒りが始まった……)
「伶奈ちゃんだって、いくらおばさんが居るからって、一度も様子を見に来ないっておかしいですよね!? お父さんが連れてきたのに!」
「それ……今の話に関係あるか?」
「あります! あるんです! お父さんにお店のことを言われる筋合いはないってことでは同じです!」
「俺はお前の親で、親父の息子だ」
「お父さんが家を出て行った時点で親だとは思ってません!」
美月がそう言った瞬間、拓也の拳がドンッ! と叩きつけられ、そして、その勢いのままに彼のお尻が浮かび上がった。
「転勤だ! 転勤! 家庭を捨てて出て行ったみたいに言うな!」
「似たような物です!」
「全然違うだろうが!」
グルグル同じところを回っていた議論が、遠心力に負けあらぬ方向へと飛んでいった。
(せめて座らせてくれないかな……てか、勝手に座っていいのかなあ……)
──と良夜が黄昏れていると、それまで会話の輪に参加していなかった清華が顔を出し、そして、言う。
「お義父様が固まってる……」
その一言に、口角泡飛ばして喧嘩していた