伶奈たちの海(完)

「あっちが七人でこっちが三人か……なんか悪いな」
 女子組がいなくなったコテージ、がらんとしたリビングでチビチビと缶チューハイを傾けていた俊一が呟いた。
「仕方ねーよ……ジャリどもがいても気を遣うだけだし……灯はかわいそうだがな」
 俊一同様、安酒を傾けている悠介が応える。
 そして、一人だけコカコーラをグビグビやってる灯が呆れ顔で言う。
「……子供がいるから酒禁止って話はどこに消えた?」
「だから、ジャリどもがいなくなるまでは我慢してたし、この一本だけだって」
「ったく……」
 チビチビと缶チューハイを舐めるように飲んでる悠介から視線を切ると、灯は一人、リビングのソファーセットへと移動した。
『──では続きましては株価についての……』
 伶奈たちがいる頃からずーっと掛かってるテレビからは、良く知らないアナウンサーが読んでるニュースが垂れ流しになっていた。
 それをリモコンで切ると、灯はスマホを開く。
 雑多な通知がいくつか来ていることを確認していると、その中に、
『出てこれる?』
 そんなSNSのメッセージがあるのを、彼は見つけた。
 送信者は翼、送信時間は十五分ほど前。
(マズいかな……)
 内心だけで舌打ちをしつつ、
『出られる』
 簡単に返事をする。
『女子棟の前で待ってる』
 その返事が届いたのは灯が送って一分ほどの時間が過ぎてのことだった。
 それを確認すると灯は席を立つ。
「どうした?」
 首だけを灯の方へと動かし、悠介が尋ねた。
「ちょっと散歩」
「出たついで、チューハイでも何でも良いから買ってきて」
 と、俊一。
「なぎ姉にチクるぞ……」
「秘密でヨロ」
 笑いながら一本だけの缶チューハイをチビチビやってる俊一を置き去りにして、灯は外に出た。
 ビーサンを引っかけた足で一歩踏み出しと、酷暑の残り香がペロッと灯のほっぺたを舐めた。
 それに眉をひそめ、灯は空を仰ぎ見る。
 海辺の夜空は澄み渡り、そして高い。
 その天頂には満月一歩手前の月がぽっかりと浮かんでいて、星々の淡い光をかき消していた。
(明日も暑そうだな……)
 呟き、灯はパタパタと小走りで隣のコテージへと向かう。
 女子棟のドアが開き、中の光がこぼれた。
 灯は足を止め、ドアから溢れ出る光が消えるのを待つ。
 出て来た人物がこちらを向いた。
 それが翼であるのを確認すると、灯は小走りで駆け寄った。
「ごめん、ジェリドたちと話をしてたらLINEに気付いてなかった」
「……いい、別に」
 翼が短く答えた。
 ホットパンツにルーズなトレーナーとビーサン、少しセクシーな格好の翼が玄関ポーチに腰を下ろした。
 それに習って灯も隣に腰を下ろす。
 ドアの幅プラスアルファ程度の玄関ポーチは二人並んで座ると狭い。そして、少し熱く感じるのはコンクリートに残った酷暑の残り香だけのせいではないだろう。
「……私で、いい?」
「えっ? あっ……うん……」
 不意討ちのセリフに灯はしどろもどろになりながらも首肯で答えることが出来た。
「……そう。ありがと」
「なにが?」
 月から翼へと視線を動かす。
 鉄仮面の横顔が月を見上げていた。
「年上だし、ぶっきらぼうだし、友達も少ないし、美人でもない。それに……」
「それに?」
 灯が問いかけ返すと翼は僅かに視線を落とした。
「…………」
 言葉を選ぶように沈黙をした後、翼はつぶやく。
「……家族も、いない」
「それ、関係あるか?」
 翼の顔が灯の方へと向いた。
 サボりがちと評される表情筋が動き、目を僅かに見開かせている……ような気がした。
「ないの?」
「なんであるの?」
「……そう」
 答えて翼は月へと視線を向けた。
 遠くから潮騒が聞こえる。
 潮の香りがする風が吹き、火照った頬を優しく撫でる。
「美人だよ」
「……たで食う虫も好き好き」
「失礼だぞ、地味に」
「……ありがと」
「それにさ、俺も年下だし、面倒くさい姉貴はいるし、酒も飲めないし……気の利いた話もできないし」
「……私は、会話自体……少し、苦手」
「知ってる」
「でも、お酒は飲んで欲しい……」
「ムリだよ」
「……残念」
 交わしていた会話が不意に途切れた。
 互いに月だけを見上げている。
 潮騒と背後から少女たちの騒ぐ声が聞こえた。
 静かな時間がゆっくりと過ぎる。
(不思議と……いやでもないか……)
 そう思うと同時に──
(……寺谷さん……退屈してないか?)
 そう思って灯は視線を月から翼の方へと向けた。
「……」
「……」
 そこにはいつもの鉄仮面がこちらを見ていた。
 その鉄仮面を一ミリも崩さぬまま、翼が問いかけた。
「……退屈、してない?」
「別に……寺谷さんは?」
「……翼」
「えっ? ああ……翼さん」
「……翼」
「……呼び捨てがいい?」
「うん……呼び捨て。ちゃん付けでもいいけど……」
「……ちゃん付けはきついな」
「……呼ばれる方も、きつい」
 そして、翼はまた空へと視線を向けた。
 月明かりが翼の鉄仮面を照らす。
「退屈はしてない……私はこんなだから……今も凄くうれしいけど、言葉は出てこないし、表情も……あまり動かない」
 翼の顔が灯の方へと向いた。
 その翼の顔を横から月の青白い光が照らす。
 その横顔は息を呑むほどに美しい。
 鉄仮面と言うよりも大理石でできた彫像のよう……というのは言い過ぎ、もしくは恋人初心者の欲目だろうか?
 その横顔にしばしの間見入った後、灯はようやく口を開いた。
「喜怒哀楽……思いついたらすぐに言ってくれればいいよ。いま、うれしいとか、悲しいとか、怒ってるとか……」
「……わかった……いまは凄くうれしい……」
「俺もだよ」
 そして、灯は立ちあがった。
「少し歩こうか? 座り込んでるのは飽きた」
「んっ」
 うなずく翼に灯が手を差し出した。
 その手を翼の手が握る。
 指こそ細く長いが、毎日包丁を握っているかだろう、力強さを感じる。しっかりとした手のひらだ。
(仕事をしている人の手だな……)
 その手を放すことなく、灯は歩きはじめた。
「……少し、恥ずかしい……」
 ぽつりと翼が零した。
「手くらい誰でも繋ぐさ」
「……そうね」
 十三夜の明るい月ではあるが、歩くには少し暗い。
 明かりはポケットにねじ込んであったスマホを取り出し、ライトをつける。
 月の柔らかい光の中にLEDの冷たい光がスポットを作った。
「足元暗いよ、歩けなかったら言って」
「……大丈夫」
 磯の側にある遊歩道、三十分ほど歩けばちょっとした展望台にまで行けるらしい。
(この時間に三十分、ビーサンだし……どうしようか?)
「……バイク、楽しい?」
「えっ? うん、楽しいよ……急に、なに?」
「……話題……」
「ああ……寺谷さんは何か趣味とかあんの?」
「……図書館、よく行く。あと……最近は、スマホ、よく弄ってる……それから……」
「それじゃら?」
 灯は尋ねて足を止めた。
「それから……呼び捨て」
「そうだった。急に言われてもな」
「……りょーやんとチーフ、未だに『良夜さん』と『美月さん』で他人行儀に聞こえるから……」
「浅間さんのこと、愛称で呼んでんだな……」
「吉田さんがそう呼んでたから……いや?」
「……別に……」
「あかりん」
「勘弁して」
 こんな時間に……と思いつつも灯は結局遊歩道へと足を向けた。
(ほかに思いつかないし……)
 陸と磯との境目、岩壁に張り付くような感じで遊歩道は整備されていて、海が水平線までよく見えた。
 昼間だったら……の話だが。
「……夜の海、少し恐い」
 翼がつぶやくように言った。
「吸い込まれそうになるよな」
 潮騒も昼よりも夜の方が大きく聞こえているような気がする。
 どちらからともなく足を止めた。
「どこまでが海でどこからが空か……」
 木製っぽくカモフラージュされたコンクリート製の手すりに両手をつき、翼がつぶやいた。
 空っぽになった右手を一瞥し、その軽さを実感しながら、灯が答える。
「こっち側だと月も見えないな」
「でも、代わりに星がよく見える……」
 手すりを背もたれにすると、翼は身体を灯の方へと向けた。
 しかし、その視線は海の方へと向き、灯には横顔を見せていた。
 その横顔を灯はぼんやりと見つめる。
 強い潮風に翼のショートボブが揺れた。
「……ホントはさ……」
「なに?」
 灯が小さな声で言うと、翼が灯の方へと視線をもどす。
「なぎ姉は勘違いしてたけど……初対面は映画館じゃないの、覚えてる?」
「……確か一度ご飯を食べに来てた……なぎぽんの奢りで」
「あのとき……みんなで騒いでる横で一人、翼だけが静かに食事をしてて……」
「……まずそうに食べてる……って、思った?」
「それもなくもない」
「……よく言われる」
「それ以上に大人だなって思ったんだよな。あの時いた浅間さんのお姉さんとか、三島さんとか……もちろん、なぎ姉と比べても」
「そう……」
「でも、酒を飲んだら翼ちゃんだし、想定外のことが起こったら立ちすくむし……時々持ってるトレイで叩いてくるし、実は口も悪い。結構面白くて楽しくて……なんだかいいなって、思ってた」
「……褒めてる?」
「綺麗で大人だけな人に話しかけられないよ」
「……そう」
 呟き、翼は一呼吸入れるとゆっくりと口を開いた。
「私は逆……初めて会ったとき、食事に来てたときはいがぐりが可愛い高校生……あれから二年経って……灯はすっかり大人の男になった」
「そう? 伶奈ちゃんには『大学生はもっと大人だと思ってた』ってよく言われるけど」
「世の大学生はもっと……ガキ」
「それで大人になった……って言われてもな」
 灯が格好を崩すも翼はいつもの鉄仮面を顔に貼り付けたまま。
 その鉄仮面が灯へと足を一歩踏み出した。
 灯が鉄仮面に手を伸ばした。
 翼も灯の頬へと手を伸ばす。
 互いの右手が互いの左頬に触れた。
「ヒゲ……薄い」
「親父に似たんだろうな……やわらかくて暖かい鉄仮面だ」
「サボりがちなのは皮膚じゃなくて、表情筋と……語彙力だから……」
 そう言って翼は手をひいた。
 それに習って灯も手をひく。
 少し寂しかった……が、手をひいてくれて良かったようにも思う。
(理性、保たねぇ……)
 鉄仮面を崩さず、翼がきびすを返す。
 そして、背を向けたまま、ぽつりと言った。
「……少し……いや、かなり、恥ずかしかった」
「……俺も」
 翼が足を止めた。
 灯が足をすすめる。
 二人の肩が並び、どちらかともなく手を繋ぐ。
 上ってきたばかりの遊歩道を二人はゆっくりと下りる。
 潮騒よりも風の音よりも、自分の鼓動がうるさかった。
 取り立てて会話もないままに二人は一行が泊まっているコテージのすぐ側にまで戻ってきた。
 灯が足を止めた。
「今更だけど、翼のこと、好きだ。ほかの男には渡したくない」
 かーっと赤くなるのを感じる顔を鉄仮面は崩れることもなく、じっと見つめる。
 そして、数秒……。
「……もっと早く、言え。バカ」
「悪かった」
「でも……悪い気はしない……いや、素直にうれしい」
 そして、翼は僅かに視線を逸らすと、灯の顔をまっすぐに見上げた。
「……今日、少しだけ伶奈たちに嫉妬した。我ながらバカだと思う」
「勉強見てるとき?」
 食事のあとに大学生組で中学生組の勉強を見てたことを思い出す。
 教え方に慣れてない悠介と俊一は、解法や答えはわかっても説明の仕方が解らないと言う体たらく。結局、答え合わせこそ二人も手伝っていたが、教えるのは灯ばっかり……。
 そんなことを思い出していると翼は表情を変えることもなく、ただ首を左右にだけ振って見せた。
「浮き輪……引っ張ってるとき」
「……アレ、付き合うって話の前の時じゃないか……」
「でも、少しイラッとしてた……」
「そっか……」
「勉強を見てるときは……イラッとじゃなくて、うらやましかった……」
「うれしいけど、これからも伶奈ちゃんの家庭教師の度に妬かれると困る」
 格好を崩す灯から翼がそっぽを向く。
「……気にしないように善処する」
 表情は相変わらず鉄仮面だが、何もない闇を見つめる横顔は普段よりも可愛く、そして幼く見えた。
「あはは、やっぱ、寺谷さん、面白いよ。これからもよろしく」
「……褒めてない」
「褒めてるよ。じゃあ、お休み。中学生組に見つかったら面倒くさいからここで見送る」
「……んっ」
 軽くうなずき、翼が灯に背を向けた。
 ……かと思ったらまた振り返る。
「呼び方」
「えっ?」
「また、寺谷さんって呼んだ」
「そうだっけ?」
「そう……」
「気をつけるよ」
「んっ……じゃあ、また……明日」
 そして、今度こそ翼は女子棟にむかって歩き……。
 ……出さない。
「……灯」
「なに?」
「私はあなたが好き、だと思う。中学生にすら妬く程度に……」
「……ありがと。俺もだよ」
 そして、今度こそ翼はその場を離れた。
 カーテン越しの淡い光が近づく翼を逆光で照らしていた。
 翼がドアの前に立ち、ちらりとこちらを見た……ような気がした。
 その翼に軽く手を振る。
 翼は手を振り替えし、ドアを開いた。
 賑やかな声がほんの少しだけ聞こえてきた。
(まだ騒いでるんだな……)
 ドアが閉まるのを確認すると灯はきびすを返した。
 そして、男子棟へときびすを返すも、すぐに足を止めた。
 振り向けば、やっぱり窓からカーテン越しの光が見えた。
(……同じ棟ならよかったな……)
 具にもつかぬ事を考える自分に苦笑いを浮かべ、灯はパタパタと小走りで男子棟へと向かう。

 その頃……。
「ねえねえ、どうだった? どうだった?」
「穂香ちゃんうるさい。聞こえるよ」
「……西ちゃん、通訳……」
「……今聞いてる……バレたら一緒に謝ってよ」
 中学生部屋では車座になった少女たちが翼の頭の上に居座っていた妖精さんスパイから、二人の様子を聞き出そうとしていたのだった……。
 ──ってことが翼にバレて、翌朝四方会の朝食はマヨサンド(パンにマヨネーズを塗って二つ折りにした物体)になった。
 

 
 

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