「ちょっと行ってくるわね」
伶奈の頭の上をくつろいでた妖精がポーンと飛び上がった。
「あっ……」
伶奈が小さな声を上げたときには、すでに陽性は穂香の黒い頭に着地を決めていた。
「来たわよ」
そう言ってあるとは穂香の神をグイグイと強めに引っ張る。
ビクンッ!
穂香の身体が跳ね上がり、ほぼ反射的に伶奈の方を一瞥した。
それに伶奈が軽くうなずけば、穂香はニマリと頬を一瞬だけ緩めた。
(……悪いこと考えてそう)
軽く伶奈は肩をすくめた。
そして、穂香はもう一度大きな声を上げる。
「ママ! なにしてんの!?」
「…………」
その言葉に翼は穂香の顔を一瞥する。いつも通り表情は一ミリも動かない鉄仮面。
それに対して、チャラい男略してチャラ
「まっ、ママ!?」
「ぷっ……」
思わず伶奈は小さく吹き出す。
「どうしたの? この人だれ? パパ、呼んでこようか?」
「……いい、少し話をしてただけ……行こう……蓮」
翼の手が穂香の肩に触れ、男に背を向ける。
「ああ、ちょっと待って、ちょっと待って。断る理由、思いつくまではしゃべってていいんだろう? お嬢ちゃん……レンちゃんだっけ? 何歳?」
「……おじさん、だれ? ロリコン? ポリスメン、呼ぶ?」
「あっ……いや……だから、用事があるのは……」
男が一歩下がれば、穂香は一歩踏み出す。
「ママに! 用事が! あるの!? 人妻! なのに!!」
「ひっ……」
ひと単語ずつ、大音量で穂香が絶叫する。
周辺を行き来していた海水浴客達の足が止まった。
気付けば、三人の周囲には三メートルほどの空間を空けつつも、人だかりができてしまっていた。
「ママに! 用が! あるなら! 私を! 通して!!」
去年よりも膨らんだ胸元を突き出すように男に迫る穂香、相変わらず鉄仮面の翼、慌てているのはナンパ男ただ一人だ。
「あっ、いや……用事って言うか、ちょっと話がしたくて……」
そして、そこに最後の登場人物が現れる。
「……俺のツレになんか用ですか?」
時任灯だ。
その顔を確認した途端、穂香はパッと明るくし灯の下へと駆け寄った。
そして、まっすぐに男の顔を指さし、これまた大きな声を上げる。
「パパ! この人が! 人妻の! ママに! 用事が! あるんだって!!」
更なる大声に周辺からひそひそと話し声が聞こえ始める。
「だから、少しこの人と話をしてただけで――」
「……黙って」
めげずにしゃべるチャラい男の言葉を翼が制した。
「えっ?」
チャラ男の男の割に大きな目がまん丸に開く。
「断る理由、思いついたから……」
そこまで言うと翼は一端言葉を切り、男の顔をじーっといつもの無表情で見つめる。
そして、彼女はぽつりと相変わらずなローテンションで言葉を紡ぐ。
「……旦那が来た」
そう言って翼は灯の右腕にするっと腕を巻き付けた。
「わっ!?」
灯の素っ頓狂な声が遠巻きに様子を眺め続ける海水浴客の頭上を飛んでいく。
「わぁい、じゃあ、蓮もっ!」
いつの間にか『蓮』に改名してる穂香が灯の左腕にぶら下がった。
「……そっ、そんなわけだから……失礼します」
ぺこりと頭を下げて灯がチャラ男に背を向け歩きはじめた。
よく見ると右手と右足が一緒に出てるし、顔はガチガチにこわばっている。
「♪」
「…………」
蓮に改名済みの穂香は上機嫌だし、翼はいつも通りの冷静な様子を崩しはしない。
そして、十歩ほど……三人ひとかたまりの集団が、伶奈達野次馬の元へと戻ってきた。
「おっ……お帰り」
「たっ、ただいま」
伶奈が灯を出迎えると、灯は未だにこわばった口調と表情で答えた。
「楽しかった、楽しかった。アルトちゃんが来てくれたから、全然恐くなかったよ」
灯の腕に自分の腕を巻き付けたまま、穂香はうれしそうにそう言った。
「……アルトがいかなかったらどうするつもりだったの?」
「うーん……わかんない! 多分、なんとかしたよ!」
「……ホント、雑に生きてるんだから……そのうち、大怪我するよ」
胸を張る穂香の頭からポーンとアルトが飛び立ち、そして、呆れている伶奈の頭へと着地を決めた。
「あれだけ人目のあるところで暴力的なことをするバカなんて居ないわよ」
「……――ってアルトは言ってるけど、世の中、どんな人が居るか分かんないんだよ」
「はいはい、気をつけるよ」
「ホントにわかってるのかな……?」
「あっ! そうだ、翼さん、あたしは穂香、連はあっちでぼーっとしてるこだよ。ちゃんと覚えててね」
「ぼー……」
穂香が連を指さし、連は相変わらずぼんやりしたまま。
「口で言わなくていいからね」
と、美紅が苦笑いでツッコミを入れた。
「……わかった、ごめん」
翼が素直に頭を下げる。
灯を挟んで反対側に立っている穂香は笑顔で首を左右に振った。
「気にしないよ!」
「てか、いつまで灯センセの腕にしがみついてんだよ?」
そう言って伶奈が灯の腕に巻き付いた穂香の腕に手をかける。
──も、穂香は灯の腕にますます力を込めて引っ付く。
「私だけ? 翼さんにも言わなきゃっ!」
柄物ワンピースの胸もとを灯の筋肉質な腕に押しつけながら、穂香が言った。
「えっ……えっと……」
ニコニコ楽しげな笑顔の穂香、困り顔の灯、そして、その向こう側へと伶奈は視線を動かした。
「…………」
中学生のそれとは比べものにならない肢体を灯の腕に絡ませた翼がいた。
「ほらほら、翼さんにも言いなよ、怜奈チ」
「つっ、翼さんは良いんだよ!」
「なんでだよ〜ちょっとわかんないな!」
「だっ、だって、大人だもん!」
「大人の方がずくない? むしろ」
言い合いを続ける穂香と伶奈を尻目に、灯が気まずそうにつぶやく。
「えっ……えっと……寺谷さん……?」
「…………ああ……ありがと」
つぶやいた翼は灯の腕にしがみついたまま、離れようとはしない。
そんな翼を一瞥するも灯はすぐに視線を逸らす。そして、明後日の方向を向いたまま、小さな声で言葉を紡いだ。
「俺はいいけどさ……演技じゃなくても……」
そしたら翼もぽつりと零した。
「…………私も、灯なら……むしろ、嬉しい」
灯の言葉に翼が応えた。
灯も翼も決して大きな声ではなかった。
しかし、口論をしていた伶奈と穂香、その二人を笑い顔で見守っていた美紅、そして、相変わらずぼんやりしていた蓮までもが声を上げた。
「「「「えっ?」」」」
さらにはその風景を笑って見ていた姉兼同僚が――。
「えええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!???」
と、声を上げ、そして……。
悠介と俊一がため息交じりに呟く。
「やっとか……」
「ああ、やっとだな……」
「で……いつから? いつから良いと思ってたの?」
海の家名物少し伸び気味のラーメンをすすりつつ、凪歩が尋ねる。
ラーメンをすすっていた灯の手が止まり、視線が宙を彷徨う……。
「………………わっ、割と……最初の方から」
「……って言うと……去年のお正月? 映画観に行ったらばったり会ったときとか?」
「えっ……いやっ……あっ、うん、まあ、そんなところ。綺麗な人だなって……思った」
「ふぅん……まっ、そんなもんかァ〜翼さんは?」
凪歩の言葉にカレーを食べる手を止め、翼は端的に答えた。
「教えない」
「……そこまで単刀直入に断らなくても……」
再び翼がカレーを食べ始める。
黙々、チビチビ……。
(美味しくなさそう……)
心の中で呟く伶奈の横で、穂香が満面の笑みを浮かべて言った。
「もしかして、今! とか? この流れに乗って彼氏ゲット! みたいな……」
「…………」
翼の手が止まった。
灯の手も止まった。
他の皆の手も止まった。
外から賑やかな海水浴客達の声が聞こえた。
「……一応、違う」
ぽつり……と翼が小さな声で否定するも、穂香は腰を浮かせて追撃をする。
「ホントに?」
「……ホント」
「じゃあ、いつ?」
「……働き始めた頃……ちょっといいと、思った……」
その言葉に周囲から「お〜」とどよめきが起こり、灯が恥ずかしそうに視線を外す。
そして、翼は更に言葉を続けた。
「……あと……初詣に行ったり、その後にカラオケ……少し楽しかった……」
「それから……スマホ、買うときに助けてくれた……うれしかった……」
「去年の海も楽しかったし……」
「……ほかにも私は酒癖悪いのに……いつも、そばに座ってくれるから……うれしい……」
──と、翼にしては多めの発言が終わる頃には……。
「……勘弁してくれ」
灯は顔を真っ赤にしてテーブルに突っ伏してるし、他の面々は手を合わせてはっきりと一言だけ言う。
「ごちそうさま」
「……まだ残ってる……」
「そう言う意味じゃないって。それよりも翼さん、酒癖悪い自覚あったんだ?」
食べ残しのラーメンをすすりつつ、凪歩が言うと翼はコクンと小さく頷いた。
「……反省はしてる」
ぽつりと翼が漏らせば、ガバッ! と灯が身体を起こした。
「じゃあ、俺に酒を押しつけるのはやめろ! アレルギーなんだ、下手に飲んだら死ぬぞ」
「…………わかってる」
「…………だったら、なんで毎度毎度やるんだよ?」
「………………嫌がる灯が可愛いので……」
「……やめて……」
「……可能な限り……やめる」
「全力でやめろよ」
――と翼と灯が話してる横で、ひょこっと伶奈の頭の上にアルトが着地を決めた。
「ねえねえ、さっき、俊一と悠介が『やっと』って言ってたんだけど、どうしてか聞きなさいよ」
頭の上からアルトの小さな頭がぶら下がる。
目の前を揺れる長い金髪がラーメンをすする邪魔をする。
それをのれんのように避けながら、伶奈は悠介に声をかけた。
「……ねえ、ジェリドは灯センセが翼さんのことが好きなの、知ってたの?」
「ん?」
伶奈の呼びかけに悠介がラーメンをすする手を止め、首を左右に振る。
「いや……でも、灯、なんやかんやいいながら寺谷さんに言われたことって断んねえもん。それと、灯の家であの人がたまに宅飲みしに行ってるのは知ってるか?」
「凪歩お姉ちゃんとでしょ? 灯センセは不参加だって聞いたよ」
「飲み会には不参加だが、終わったあとにあのねーちゃんを家まで送ってる」
「そうなの!?」
思わず伶奈は大きな声を上げた。
「おまっ!?」
灯が思わず腰を浮かす。
しかし、悠介は灯を一瞥だけすると、再びラーメンをすすりはじめた。
「ずずず……んっ……少なくとも俺とシュンはお前があのねーちゃんに気があるから、せっせと点数稼ぎをしてるもんだと思ってた……なあ? シュン」
「そうじゃなきゃおかしいけど……凪さんも最近は灯をあごで使うからなぁ〜」
同じくラーメンを食いつつ、俊一が答える。
その二人の言葉に灯はバツが悪そうにそっぽを向いた。
そして、独り言のようにぼそぼそと呟く。
「なぎ姉にしたって寺谷さんにしたって、俺のことをあごでよく使ってくれるから……」
その言葉に翼がボソッと応える。
「……断ればよかったのに」
「次回からそうする」
「……それは、困る」
「終電までに帰れば困んないよ」
「……終電、十一時過ぎだし……」
そっぽを向いたまま、翼と灯は視線を交わさぬ会話を交わす。
そこに凪歩が身を乗り出し口を挟んだ。
「うんうん、やっぱり、きっちり翼ちゃんが降臨されるまで飲まないとね、翼さんだってそう思うでしょ!?」
明るい口調と満面の笑みに対して、翼は相変わらずの鉄仮面を一ミリも崩すことなく答える。
「……いや、私はそこまで酔いたくはない」
久しぶりに灯の線が翼の横顔へと向いた。
「じゃあ、飲むなよ……」
その言葉に翼が灯の方に顔を向ける。
「お酒は飲みたい」
「……すごいな、この人」
「今からそれがあんたの彼女だよ」
「ずっと以前からあんたの友達だよ」
向かい合ってにらみ合う
「どうでもいい姉弟喧嘩は……やめて」
「誰のせいだ……」
その三人のやりとりに言葉を挟んだのは穂香だった。
「お酒のあとに家に送ってるなら、そのままどこかに連れ――痛っ!?」
その穂香の後頭部にチョップが突き刺さっていた。
蓮の右手だ。
そして、キリッと眉を突き上げた蓮が強めに語気で言葉を放つ。
「しのちゃん!!」
「さっ、さすがにさっきのは下品だったね、ごめん!」
「あっち!」
仁王立ちになった蓮の指先がビシッ! と灯を指し示す。
「ごめんなさい、灯センセ、翼さん」
「……冗談なのはわかってるから……」
「……気にしてない」
困り顔の灯に、いつもの鉄仮面の翼。
そして、いつの間にか穂香の背後に回っていた蓮が帰ってきて、伶奈の隣に腰を下ろす。
「お疲れ様、四方会の良識」
蓮の顔を見ながら美紅が言うと、蓮は両手でピースサインを作って答える。
「いぇい」
「でも、ほら、やっぱり男の人には少しくらい強引な……にっ、睨まないでよ、蓮チ」
「……なんで懲りないんだろ?」
そして、バカなことを言って穂香が蓮に睨まれ、美紅に呆れられる。
そんな友達三人から視線を外し、並んで座る灯と翼へと向けた。
適度に日焼けし引き締まった体つきと笑えばやさしいけど口を閉じれば精悍な顔つきの灯と、少し色黒ではあるがバランスの取れた肢体に整った顔つきの翼……。
「やっぱり、似合ってるよね……あの二人」
ラーメンをすすりながら漏らすと、穂香が突然声を上げた。
「あぁぁぁぁ!!」
「どうしたの? 大声出して……」
尋ねたのは美紅だ。
「しまった……引っ付いちゃったら、灯センセと翼さんで遊べないじゃん……」
真顔で落ち込む穂香に四方会三人の突っ込みが一気に炸裂した。
少女達のやりとりに大人達は声を上げて笑う。
それは翼も同じだった。
もっとも、本人をして「サボりがち」と評される表情筋はこの時もサボりがちだった。
口角はほんの少しだけ上に動き、まなじりの下がり方もほんの僅か。
声すら聞こえないレベルに漏れただけ……。
「……ふふっ」
それでも確実に翼は笑っていた。
「あっ……」
それに気付いたのは灯ただ一人。
――ってことを伶奈が聞いたのはずいぶん後になってのことだった。