伶奈達の海(2)

「だれだよ……こんなアホな、伝統……作ったやつは……」
 波打ち際、腰まで水に浸かった灯が吐き捨てる。
「みっ、三島さん、って……寺谷さん、が言ってた……こっ、これは……きつい……」
 吐き捨てられた質問に答えたのは俊一だ。
「……死ぬ」
 そして、棒人間は一言だけ残してばったり倒れた。
 真っ青な空と真っ青な海の間で、大勢の人達があげる楽しそうな歓声が聞こえている。
 その頭上を真っ白くて大きな入道雲と円を描いて飛ぶ海鳥が見守っていた。

 ヒモを付けた浮き輪に女が捕まり、男に引っ張らせる、それは喫茶アルト研修旅行では定番のお遊びだ。
「ちょー楽しかったねっ!」
 じゃんけんで勝利し、一番体力のありそうな俊一に引っ張って貰った穂香は天井知らずにテンションを高めまくり。
「さすがに辛そうだけどね」
 楽しかったには楽しかったが、ぐったりとへたり込んだ灯の様子に素直に喜べない……そんな雰囲気を醸し出しているのが、美紅だ。
 そして……。
「……大丈夫? やっぱり、運動した方が良いよ……そんなんだから棒人間って言われるんだよ」
 そして、ゼーゼー言いながら身動き一つ取れなくなっている悠介を上から覗き込んでいるのが伶奈だ。
「……」
 見下ろされた悠介は波打ち際で大の字になったまま。伶奈の顔を一瞥だけするも反論することもなく、プイッとそっぽを向いた。
「……どんだけ体力ないんだよ」
 軽くため息を吐いて、伶奈はきびすを返す。
 そして、十メートルほど……ビーチパラソルの下、くつろぐ凪歩と翼、そして日差しに負けて死にかかってる蓮の元へと戻った。
「最後は体力だよ〜貧弱なボーヤじゃダメだって」
 足を投げ出してくつろいでいた凪歩が軽い調子で笑ってみせる。
「ジェリドだから仕方ないよ。所詮ジェリドだもん」
 頬を緩めながら伶奈は凪歩に応え、クーラーボックスを開く。
 クーラーボックスの中には大量のペットボトルと市販の氷が袋のままで大量にぶち込まれていた。
 そこからペットボトルのスポーツドリンクを二本、ヒョイと掴む。
 うっすら汗をかいたペットボトルをほっぺたに押しつけると、火照った肌が気持ちいい。
 そして、少女は熱い砂浜を踏みしめ、未だ大の字になったままの青年の元へと戻った。
「はい、これ……ほんと、少しくらい運動したら?」
 大の字に寝転がる青年の胸元にペットボトルを落としたら――。
「うげっ!」
 良い角度でみぞおちを直撃、青年はヒキガエルのような声を上げた。
「……わざとだろう?」
「わざとなら叩きつけてるよ」
「……口の減らねえジャリだ……」
「一つしかないもーん」
 悠介が苦々しそうな表情で身体を起こすと、笑みを浮かべ伶奈はその隣に腰を下ろした。
 お尻の下まで打ち寄せ、そして引いていく波が心地良い。
「シュン君と同じスポーツジムに通ったら? 安いらしいじゃん」
「……まず行くこと自体がかったるい」
「……だから棒人間なんだよ」
 いやそうな顔をしている青年を一瞥し、伶奈はペットボトルの封を切った。
 飲み口に口を付けると甘酸っぱいスポーツドリンクが流れ込んでくる。
 一口飲んで吐息をこぼす頃、波に投げ出した膝にどこからか飛んできたアルトが膝の上に着地を決めた。
 そして、伶奈の顔を見上げて言う。
「なぁに、もう一休み? 早すぎるんじゃないの?」
「だって、ジェリドが死にそうな顔をしてんだもん、かわいそうじゃん」
「……前振りもなしに人の悪口言うなよ」
 封を切ったペットボトルに口を付けるのを止め、青年は眉をひそめた。
「アルトだよ、話をしてたの」
「免罪符にならないからな、それ」
 そう言って悠介はグビグビとペットボトルのスポドリを喉に流し込む。
 心なしか赤かった顔も落ち着いているようだ。
「これからどうするの?」
 アルトが尋ねた。
「うーん……どうしようかなぁ〜? 凪歩お姉ちゃんにシュノーケリングの道具を借りても良いし……ジェリドはどうすんの?」
「甲羅干し」
「……アルト、やっぱあの人、一生棒人間だよ」
「いいんだよ、俺は棒人間としての一生をまっとうするから」
「開き直ったわよ、棒人間が」
「……――だって、アルトが」
 そんな感じで伶奈がアルトや悠介と話をしていると、ビーチパラソルの下でくつろいでいた翼が立ち上がった。
「あれ……どっか行くの?」
 ちょうど背後を通りがかったところで、伶奈が尋ねた。
「トイレ」
 端的な回答に伶奈は苦笑を浮かべる。
 そして、特に足取りを緩めることもなく翼はその場を後にし、人混みの中へと消えて行った。
「海ですればいいのに」
 アルトが膝の上でぽつりと零すと、伶奈はほぼ反射的に声を上げていた。
「アルト、汚い」
「なにがだ?」
「アルトがね、海ですればいいのにっていったんだよ」
 スポドリで喉を潤しながら、悠介が問いかける。
 それに伶奈が眉をひそめて応えれば、青年は一言だけ漏らした。
「ああ……」
「ああ……てなんだよ!? まさか、ジェリド! したの!?」
「してねーよ」
「してたら、もう全世界の海に入らない!」
「全世界規模ってなんだよ!?」
「だって、海は繋がってんだよ! 南氷洋から北氷洋まで! 瀬戸内海とかも含めて! 汚いじゃん!」
「世の中にはもっと汚いもんが流れ込んでる海もあるんだよ」
「ジェリドの体液よりも汚い物なんてないよ!」
 伶奈の言葉に悠介はわざとらしく口にツバを溜めたら――
「かーーーーーーーー、ぺっ! もう入んなよ!」
 ひとかたまりのツバが波間に落ちて、すーっと流れていく。
 そんな子供じみた様子に伶奈の上がっていたテンションも波のように引いていく。
「……あそこに小学生がいるよ」
「……さすがに今のは引くわね、精神年齢低すぎて」
「……ほんと、口が減らねえ……」
 アルトとの会話は聞こえてないはずだが、悪口を言われてるのは理解したのだろう。プイッとそっぽを向く青年が少し可愛くて、少女は頬を緩めた。
 そして、笑って言う。
「一つしかないもーん」
 そして、ふと視線をあげるとビーチパラソルの下では穂香達四方会の三人と凪歩、それから灯や俊一もが集まって、何やら、わいわいと楽しそう。
(なにしてるんだろう?)
 そう思いながら、伶奈はグビグビとスポドリを流し込む。
 そして、口からペットボトルを外した瞬間、こっちを見ていた穂香と目があった。
 穂香がぶんぶんと大きく手を振る。手が千切れちゃわないかと心配になるくらいの勢いだ。
 それに続いて、連や美紅の二人も手を振り、穂香を先頭にこちらへと駆け寄ってきた。
「れーーーーーーーーーーーーーーーーーなーーーーーーーーーーーーーーーーーちーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
「穂香、うるさい……どうしたの?」
 近づいてきたかと思うと、穂香は伶奈の顔を覗き込み言った。
「いやぁ〜夫婦、仲睦まじそうでうらやましい――痛っ!?」
 その言葉が最後まで言い切られるよりも早く、伶奈は穂香の向こうずねを蓋を閉めたペットボトルで思いっきり殴りつけていた。
「……怜奈ち、最近、口よりも手が先に出るようになった……」
 向こうずねを押さえながら穂香が恨みがましい視線を向けた。
 プイッとそっぽを向き、穂香から視線を外して、伶奈は言う。
「アルトの悪癖が移ったんだよ」
「私のせいにしないで」
「それじゃ仕方ないか……」
「納得しないで」
 膝の上で叫んでるアルトは無視して、伶奈は穂香へと視線を戻す。
「うんうん、仕方ないんだよ……で、どうしたの? からかいに来ただけなら、もう一発行っちゃうよ?」
「うん、そんなところ」
 満面の笑みで頷く穂香に伶奈は頭が痛い。
 満面の笑みの背後で笑っている二人の友人に、伶奈は声をかける。
「……みんな、ほんと、そろそろ三方会にしない?」
「穂香ちゃん、適当なこと言い過ぎ。真鍋さんが海の家に暖かい物でも食べに行かない? って身体が少し冷えたって」
「……おでん、食べたい。ラーメンでも可」
 頬を膨らませて美紅が言うと、いつものぼんやりとした表情で蓮も言う。
「うん、じゃあ、私も行く……あっ、その前に私もお手洗い……」
 そう言って伶奈が立ち上がると、未だ座ったままだった悠介が指先を海に向けてにやっと笑った。
「あっちか?」
「バカッ!」
「うおっ!?」
 ざくっ!
 剣呑な音を立ててペットボトルが彼の座るすぐ傍、濡れた砂浜に突き刺さる。
「ちっ……」
 舌打ちをする伶奈に顔色をなくした悠介が叫ぶ。
「あぶねーぞ! クソジャリ!」
「べーっ!」
 あっかんべーをすると伶奈は悠介に背を向け、歩きはじめた。
 背後では青年が何やら叫んでいるようだが、それは無視だ。
「ほんと、子供みたいな喧嘩をしないの」
 いつの間にか膝の上から頭の上へと移動していたアルトがそう言う。
「子供だもーん」
「はいはい、知ってたわよ」
 伶奈も投げやりならあるとも投げやり、投げやりな言葉を互いに投げ合い。
「ほんと、怜奈ちってジェリドさんと仲いいよねぇ〜」
「ふんっ! レベルをあわせて上げてるだけだもん!」
 穂香のからかうような口調に返事を投げ捨てると、伶奈はズカズカとトイレに向けて歩きはじめた。
 ぐったりと脱力する蓮を小脇に抱え、穂香が大声を上げた。
「待って、待って! 速すぎ! 速すぎ! 蓮ちゃんが死んじゃう!」
 そして、小脇に抱えられている蓮は脱力しきった口調で言う。
「ひと思いに死ぬよぉ〜未練たらたらで……干からびて死ぬよぉ〜」
「……ひと思いに死ぬのか、未練たらたらなのか、どっちかはっきりしなさいよ……」
 頭の上で呆れているアルトに伶奈は肩をすくめるのだった。

 盛夏の空の下、海辺の人混みはなかなかの物だ。
 特に海の家なんかがある辺りになるとまっすぐに歩くことすら面倒くさくなってしまうほど。
「トイレ、どこだっけ……?」
 呟き辺りを見渡すも、見えるのは水着に包まれた男女の身体だけ。
「怜奈ち、怜奈ち」
「見つかった? トイレ」
「うん……あれ」
 穂香が指さしたのは海の方向。
 釣られて伶奈は視線を指先が向く方へと向けた。
「だから、海はお手洗いじゃ――あっ、翼さんだ」
 特徴的なきわどい水着にショートボブの頭、なにより能面のような横顔は間違いなく寺谷翼女史だ。
 その翼の前には一人の男性があれやこれや……声こそ聞こえないが何か話をしている……いや、一方的に茶髪の男性が話しかけてるっぽい。
「……ほんとだ……一緒にいるの……だれかな? チャラそう……」
 同じく指先が向く方へと視線を向けていた美紅が呟いた。
「ナンパされてるんじゃない?」
「……――だって、アルトが」
 伶奈が通訳した瞬間、パタパタと穂香が駆け出した。
 そして、翼の元へと駆け寄ったら、その顔を見上げて一言言った。
「ママ!」

「「「「ママ!?」」」」
 少女達と妖精の声が高い空へと響き渡った。
 

 
 

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