「時任先生たちの言うことを良く聞いて、変なことをしちゃ絶対にだめだよ。わかったわね」
「……わかってるよ、いちいち。子供が信用できないの?」
「普段は大人しいのにお出掛けのテンションでバカやって大怪我して病院に担ぎ込まれるおバカさんを、母さんが何人見てきたと思ってるのよ。十や二十じゃないのよ」
「はいはい。それじゃ、泳ぎに行ってくるね」
「気をつけてね、それじゃ、お休み」
そう言って母が荷物をまくら、バスタオルを掛け布団代わりに目を閉じた。
「……西ちゃん、メだよ……」
立ちあがった伶奈に頬を膨らませた蓮が声をかける。
「せっかくみんなと海に来てるのに口うるさいんだもん。運転もしないでずーっと寝てたくせに……」
「しょうがないわよ、休みを取るためにずっと夜勤を続けてたらしいし」
と、頭の上からアルト。
「それもわかってるけど……ずっとシュン君とジェリドと翼さんに運転させてたじゃん」
「気にしない、気にしない、おばさんが色々してくれたおかげなんだしさ」
と、今度は満面の笑みで美紅が言った。
「うんうん、私たちの海がいよいよ始まるんだよ!」
穂香が宣言し、喫茶アルト恒例夏の社員研修旅行が始まる。
「暑いね……」
更衣室から出ると熱い砂と熱い太陽が伶奈をサンドウィッチにし、ムワッとした熱気が頬をべろっと舐めていく。
「夏だものね……」
頭の上からうんざりした声が聞こえた。
そして、伶奈は辺りをキョロッと見渡す。
すると眩しい日差しの中ですでに着替えを終えた一団――灯達大学生三人にアルトのウェイトレス二人、そして、四方会の三人がだらだらと会話している姿が見えた。
「可愛いね、良く似合ってるよ」
最初に声をかけたのは真鍋俊一だった。相変わらず筋肉質……去年よりも筋肉が増えてるのは春先から安いトレーニングジムに通っているからだそうだ。
「そっ、そうかな……?」
熱くなった顔を両手で押さえる。
今日の水着はもちろん学校指定の野暮ったい代物ではない。
伶奈が一目惚れした黒い水着は、スカート付きの水着で、Aラインのワンピースを思わせるシルエットが特徴的だ。
その大人びた雰囲気に予算オーバーでありながらも我慢しきれず買ってしまった逸品。
「モジモジしないの! 堂々としよう! 似合ってんだからさ!」
「わっ!? ちょっと! 押さないでよ!」
穂香にぐいっと背中を押され、伶奈は一段の中央へと進み出る。
「いいじゃん、いいじゃん、似合ってるよ!」
凪歩の言葉を筆頭に、俯く頭の上を大人達の褒め言葉が行ったり来たり。
それがすごくくすぐったい。
ただ一人、悠介だけが、
「馬子にも衣装だな」
(……ムカつく……あとでアルトに刺してもらお……)
心で決める伶奈を、翼がちょいちょと手招きで呼んだ。
「なに?」
「……ちょっとおそろい」
確かに翼の水着は胸元と背中が大きく開いたモノキニと言うやつではあるが、色は伶奈と同じくまっ黒。
「色だけだね」
「黙れなぎぽん」
「なんでだよ」
揉め始めたウェイトレス二人を尻目に灯が声をかけた。
「お母さんは寝ちゃった?」
「うん……灯センセの言うことを良く聞けって。ごめんなさい、お母さん、責任者なのに……」
「責任者はいざって時に責任を取るのがお仕事だよ」
そう答えたのは灯の隣にいた俊一だ。珍しく真面目ぶった表情で彼は言葉を続ける。
「取らせないようにするのが下の人間の役割。言うこと聞かないと途中で切り上げるよ」
顔は濃いけど影は薄い人……それが伶奈の俊一に対する評価だった。
そんな青年がここまではっきりと言い切るのは少し意外だった。
「こいつ、これでも野球部時代は部長もしてたしね。面倒見と責任感はあるんだよ」
「これで野球の才能があれば良かったんだけどな」
俊一はそう言うと灯と共に「あはは」と声を上げて笑った。
そんな二人の様子に美紅がぽつりと呟く。
「私もソフトボール部の部長、押しつけられそうなんですよね……小学校の頃からソフトやってたの私だけで、先輩達と交じって周りの子に色々教えてたら……」
「ああ、気がついたら祭り上げられてたパターンかぁ〜ありがちだよな」
「うん。そんなガラじゃないんですけど……」
「でも、選んでくれたんなら応えないとな。謙遜も行き過ぎれば嫌味になるんだよ」
「そういうものですかね……」
「そういうもの、そういうもの」
美紅の相談に乗りつつ俊一が歩きはじめると、それを先頭に他の七人、総勢九人が歩きはじめる。
手にはそれぞれ思い思いの荷物。
雑多な荷物の大半は海の家で留守番している由美子のところや貴重品ロッカーの中だが、大人組はなんだかんだで荷物を持っていた。
俊一はそれぞれのスマホや小銭入れをひとまとめにした防水バッグを持っているし、悠介はビーチパラソルとレジャーシート……それから――と、伶奈は視線を動かす。
その先にはクーラーボックスにジュースを入れて歩いてる灯とお菓子や軽食の入ったトートバッグを下げている翼の姿が目についた。
その二人が並んで歩いてるのを見やり、穂香がボソッと言った。
「灯センセって翼さんと付き合ってるの?」
「聞いてないよ、なんで?」
「だって、今日、灯センセと翼さん、ずっと一緒じゃん」
穂香に言われて伶奈は改めて本日の行動を思い起こす。
今日、伶奈達一行は二台の車に分乗してきた。
レンタカーで借りたライトバンと時任家のおっきいセダンだ。
運転を大学生組とウェイトレス組の五人が順番に運転していたから席順はいろいろだったが、下りれば翼と灯はいつも一緒だった……ような気がする。
しかし……。
「むしろ、凪歩の両隣に灯と翼がいたって感じじゃないの?」
「――ってアルトが言ってる。私もそう思う」
「言われてみればそうかもしれないけど……うーん……」
腕組みをし始める穂香から伶奈は噂の二人……いや、灯と彼を挟んで歩く翼と凪歩へと視線を向けた。
凪歩の腕には大きめのトートバッグ、中身はシュノーケリングの道具のはずだ。
「シュノーケル、寺谷さんも使う?」
「……んっ」
灯の問いかけに翼が首肯で答えれば、凪歩はパッとその表情を明るくした。
「ここの海、綺麗だもんねぇ〜楽しみ」
「――って伶奈ちゃん、どうしたの? こっち、じーと見て……シュノーケリングの道具、借りたい?」
こちらの視線に気付いた灯が声をかけた。
「一緒にしようか?」
その声に凪歩まで乗っかると、伶奈は慌てて首を左右に振った。
「ううん! シュノーケルのはまたあとでいいよ、水遊びもしたいし」
「そっかぁ〜みんなで水遊びもしたいよねぇ〜水鉄砲も持ってきたら良かったなぁ〜」
「……なぎぽん、子供っぽい」
「こんなときくらい童心に戻らないとっ!」
再び、翼と凪歩が会話をし始め、伶奈は何故か安堵の吐息を漏らす。
「やっぱ、付き合ってないのかなぁ?」
もう一度穂香が尋ねた。
「前に同僚で年下の義姉ができる男なんていやって……翼が言ってたわよ」
「――とアルトがね……じゃあ、やっぱり付き合ってないのかな?」
「ふぅん……でも、あの二人、似合うと思わない? 美男美女ってやつで」
「……そうかな? よくわかんないよ……」
「あの二人、引っ付けちゃおうか!?」
「……バカなの?」
「痛いっ! 心が痛い! 怜奈チの言葉の刃が私の繊細な心を真っ二つに……」
熱い砂の上にがっくりと膝をつく友人を見下ろし、伶奈は呟く。
「私、穂香よりも心が強い人って見たことないけどね」
がっくりとうなだれていた穂香の顔が跳ね上がる。
満面の笑みが眩しい。
そして、すっくと立ち上がると彼女は恥ずかしそうに頭をかいてみせる。
「えへへ、そうかな?」
「褒めてない」
「ナイス突っ込み!」
「褒めていらない!」
「あは――痛っ!?」
照れたり、サムアップしたり、忙しい穂香の頭をぽかんと大きな手が落ちてきた。
すぐ近くを歩いていた悠介の物だ。
「ジャリが余計なことを考えるな」
ぶっきらぼうに言い切る青年を恨みがましそうな目で見上げること数秒……そこから伶奈へと視線を動かし穂香が言った。
「……怜奈チ、旦那に殴られたんだけど」
「ジェリド、もう一発行っていいよ」
「だれがだれの旦那だ、それと年上に命令してんな」
ポコン、パチン、悠介の平手は穂香の頭にだけではなく、伶奈の頭にも振り下ろされた。
「「いたいっ!」」
「第三者が余計な首を突っ込まない。ジャリは自分のダチを見張ってろ、いいな?」
「……だれが穂香を止められるんだよ……」
「ノーバディキャンストップミー♪」
「……ほらね」
「胸、張んな……それより」
呆れ顔の悠介が足を止めた。
「なに?」
伶奈も足を止める。
「ノーバディキャンストップミー♪」
穂香だけが歩き続ける。
むしろ走り出した。
「――止めてよ!」
突っ込み待ちだったらしい。しかし、伶奈は流すことにした。
そして、悠介は斜め後方に視線を送って言う。
「……もう一人が行き倒れてるぞ」
ぎゅんっ! と音がするくらいの勢いで振り向く。
けっこうな後方で蓮がばったりと倒れ込んでいた。
「早く言ってよ!!」
慌てて駆け寄ると、そこには……。
『にしちゃん』
『きたちゃん』
『しのちゃん』
と、犯人の名前を書いては縦線で消し、消しては書き、最終的には――。
『みず』
――と、書かれたダイイングメッセージが残されていた。
(…………まだ、余裕があったんじゃ?)
突っ伏したまま、突っ込み待ちの蓮の後頭部を見つめ、伶奈はそう思わざるをえなかった。
さて、海っぺりについたら早速の海水浴……と言うわけだが、伶奈達四方会の興味は足元を流れる冷たく心地良い海水ではない。
「……やっぱさ、灯センセと翼さん、今も一緒じゃん。凪歩さん、いなくなったのにっ!」
穂香の言うとおり、凪歩はラッシュガードにシュノーケル、水中眼鏡とフル装備でさっさと泳ぎに行ってしまった。
今回は水中でも使えるコンデジを持って来てるとかで、写真も撮るらしい。
「あまり沖に行くなよ、ジャリども」
「この辺から離れないでね」
俊一と悠介は何故か中学生組のお付きというか、見張りというか……適度に離れ、適度に近いところに陣取っている。
結果、翼と灯は二人組……お互いシュノーケルを付けて、水の中を覗き込んでいる姿は、確かに恋人同士に見えなくもない。
「なになに? なんの話?」
一人、俊一と話し込んでいた美紅がヒョイと伶奈の肩越しに首を突っ込んだ。
「あの二人、付き合ってるのかな? って話」
「灯センセと寺谷さん? どーなんだろう〜? でも、似合いそうだよね」
「……美紅もそっち側なんだ……」
伶奈の口から言葉が零れた。
「穂香ちゃんと同じカテゴリーに入れないで!」
「穂香も美紅もあまり変わらないよ……蓮はどう思う?」
視線を足元、遠浅の浜辺にぺたりと座り腰まで海水に浸して遊ぶ蓮へと向けた。
「……蓮も似合う……と思うけど、変なことしちゃメッ、だよ……」
(妥当なところかな……)
「えーっ! つまんないよっ! 二人が仲良くできるようにみんなで協力しようっ!」
「どうやって?」
不服そうな穂香に美紅が尋ねた。
その問いかけに数秒ほど沈思……してるうちにみるみる表情が陰り、自信なさそうな雰囲気でぽつりと呟く。
「……二人きりにしてあげるとか?」
「すでに二人きりだよ」
美紅が的確に突っ込む。
視線を戻せば、灯と翼は相変わらず、楽しそうに二人でシュノーケリングをしている。
そして、そこから少し離れたところでは、いつの間にか戻っていた凪歩が俊一と悠介に声をかけていた。
「シュン君と勝岡君は泳がないの?」
「中学生組見守り中」
と、悠介。
「のんびり泳いでるって」
と、俊一。
「変わるからシュノーケルやってみたら?」
「……よく咥えてたシュノーケルを差し出せるよね……凪さん」
「逆ならアルコール消毒だけどね」
「良い性格してんな、灯ンところの姉さんも……」
俊一との凪歩の会話に悠介が肩をすくめた。
そんな三人の会話をぼんやりと見ながら、伶奈は考える。
(そういえば、凪歩お姉ちゃんとシュン君も幼なじみとか言ってたっけ……あの二人もお似合いかも……でも、去年、凪歩お姉ちゃん、シュン君、潰してたしなぁ……)
「なになに? 旦那が他の美人と話してんのが気になんの?」
「……殴るよ、穂香」
「またまた、照れちゃってぇ〜怜奈ちの恋も取り持ってあげようか?」
ぺったり……膨らみかけた乳房を伶奈の背中に押しつけながら、穂香がそう言った。
(……うん、これは鬱陶しい……)
伶奈はグイッ! と穂香の身体を自分の身体から引き剥がす。
そして、真っ正面に彼女の顔を見据えたらはっきりと言い切った。
「余計なことはやめよう」
「えっ……」
きょとんとした表情を一瞬見せたかと思うと、穂香は……。
「やだやだやだっ! 恋バナで盛り上がりたいっ! 他人の恋バナで楽しく遊びたいっ!!」
ジタバタと地団駄をふむ友人を見やり、四方会三名は静かに思う……。
(……ほんと、面倒くさい子……)
なお、その頃、アルトは一人大海原に浮かんでいた……。
「今年も賑やかな旅行になりそうねぇ〜」