転がる石(完)

 西部家に新しい車が届いたのは夏休みも土壇場にさしかかった八月の末だった。
 ホンダのフィット、真っ赤な車体が天頂にさしかかった盛夏の太陽に眩しく照らされていた。
 静かに寄せて返す潮騒が耳に心地良い。
 よどみが流されていくような気がする……。
「十年乗るとしてその頃にはあの子、四十も後半でしょ? こんな真っ赤な車なんて恥ずかしくないのかしら?」
「……五年もすればお嬢さんも運転できるからこれくらい派手でも良いんじゃないんですか? って言葉に乗せられたんだよ」
 自宅アパートから小一時間、海っぺりの道の駅。
 すぐそばには大きな川があって、その川の上を湿気を含んだ盛夏の風が流れていた。
「二人で内緒話? 母さんの悪口でしょ?」
 車の向こう側、運転席から降りたばかりの母が眉間に深い皺を刻んでふてくされる。
「派手な色だって話してただけだよ」
 そう言って伶奈はアルトを頭に乗せたまま、視線を河口から続く水平線へと向ける。
「好きなのよ」
「知ってる」
 視線を水平線とその向こうにひょっこりと頭を出してる小さな島へと向けたまま、母と娘は言葉を交わした。
 潮騒が伶奈の耳を優しく刺激し、塩気を含んだ風が頬を優しく撫でた。
「……ちょっと暑いね」
「そうね」
 やっぱり視野の外で母が答える。
 そっと少女は車の屋根を優しく撫でた。
 太陽に照らされた鉄板は焼けるように熱い。
 この車がいくらしたか……それを母は教えてはくれていない。
 ――が、昨今の女子中学生ともなれば与えられたスマホで車の販売価格や値引き幅を調べられる。
 欲しがっているグレードとオプションを聞き出し、機械に疎く仕事に忙しい母よりも先に見積もり金額をはじき出していたくらいだ。
(多分、二百万は越えてる……)
 それが車の価格として高いのか、安いのかの判断は伶奈には付きかねる。
 上を見ればキリがないし、下を見れば軽四や中古車なんかは安い物がいくらでもある。
(……考えても仕方ないよね……)
 ただ、納車されたばかりの車に一時間ほど乗ってみると、前の車に乗っていた自分がどれだけ我慢していたかを理解した。
 正直、前の車にはもう二度と乗りたくない。
(私も都合が良いよね……)
 苦笑い気味の言葉を心の中で呟き、少女は空を見上げた。
 真っ青な空に真っ白いカモメが一羽……海岸線を沿うように東の空へと飛んでいく。
「……お母さん……」
「なに?」
 伶奈の呼びかけにスマホのモニター越しに海を見ていた母が答えた。
「……大磯って……あっちでいい?」
「えっ?」
 頭の上のアルトと母が同時に声を上げた。
「……ちょっと……思いついただけ」
 大磯……懐かしい響きの言葉に胸が痛む。
 はっきり思い出せるあの頃のアパートは一人で暮らすには広すぎるはずだ。なにより家賃も安くない……と思う。
「……確かにあっち方向だけど、直接は見えないわよ、障害物あるもの」
 答えたのはアルトだった。
「……伶奈……」
 そう呟いた母の表情は伶奈の方がいたたまれなくなるほどに暗く、今にも泣き出しそうに見えた。
「ちょっと……遠いところまで来ちゃったなって……今更思っただけだよ。前の家も海が近かったし……最近、思い出す機会が多くて……」
 ぼんやりと海を眺めながら、伶奈は言葉を紡ぐ。
「……そう……」
 沈痛な面持ちで母は絞り出すように答えた。
「ねえ……お母さん……」
「なに?」
「『転石てんせき苔むさず』って言葉……小学生の時に聞いて……」
「うん? うん……あるわね、そんな言葉……」
「あれって……良い意味なの? 悪い意味なの? 苔の付いた石よりも付いてないピカピカの石の方が綺麗だけど、苔の付いた石の方が立派だって言う人もいるじゃん? 国歌だって、苔のむすまでー♪ って歌ってるし」
「えっ? あっ……さっ……さあ? 母さんも良く知らないわ……」
 あまりにも突拍子もない質問をしたからだろうか? 先ほどまでの沈痛な表情が嘘のように消え失せ、母はきょとんとした表情を娘に見せた。
 そんな由美子が少しだけ面白くて、伶奈はクスッと小さく声を上げて笑った。
 そして、屋根の上にぺたんとほっぺたを押しつけて、母に微笑みかけた。
「車が壊れたってだけなのに、色々イヤなことやそうでもないこと……何年か前は想像もしなかったような遠いところで生活してるし……その先の予定も高校は英明の高等部にいくにしてもその先はまだまだノープランだし……」
「うっ……うん、そうね……わかるわ……」
 やっぱり母は伶奈の言ってる意味が良く解らないのだろう。神妙な顔こそしてはいる物の、頭の上には可視化された? マークがいくつも飛んでいるように見えた。
 そして、伶奈自身、自分が何を言ってるのか良くわかってない。
 それでも伶奈はわからないままに言葉を紡いだ。
「なんだか……ふと、ああ、私は転がってる石なんだなぁ……って思っちゃったら……『転石苔むさず』って良い言葉なのかな? 悪い言葉なのかな? って気になったの」
「両方の意味があるらしいって……ずいぶん前に聞いたわよ」
 答えたの母ではなく頭の上で伶奈の話を聞いていたアルトだった。
「……そうなんだ?」
「えっ?」
 アルトの姿も声も見聞きできない母が尋ねれば、伶奈がアルトの言葉を通訳する。
「そう……」
 複雑な表情を母が見せた。
 そして、視線を澄みきった空へと向けて母は口を開いた。
「その言葉がどっちの意味かはわからないけど……母さんはもう転がる気はないわよ」
 母の言葉に今度は伶奈がきょとんとする番。
「えっ?」
「他に条件の良いところがあればアパートを変えるくらいはするかも知れないけど、多分、あの近辺でずーっと生きて、死ぬつもりよ。今の職場も気に入ってるし、夜勤明けにアルトでちょっと早いランチをいただくのも楽しみだし……」
 やっぱりその言葉の意味が捉えきれず、伶奈は小首をかしげながら――
「だから?」
 ――と短く尋ねた。
「だから、あなたは好きなところにどこまででも転がっていって、好きなところで落ち着いて欲しいの」
 静かに語る母の顔を見上げたまま、伶奈は静かに話を聞いた。
 その伶奈から海の向こうへと視線を向け、母は言葉を続けた。
「そして、気が向いたらいつでも帰っていらっしゃい……母さんはいつまでもここにいるから……」
 恥ずかしそうに頬を緩める母から視線を外し、少女は再び水平線へと視線を向けた。
「大学……卒業するくらいまでここにいるよ」
「学部はどこにするの?」
 頭の上でアルトが尋ねた。
 面倒くさいからスルーする。
「したい仕事なんかは決めてるの?」
 今度は母親の方。
「うっ……」
 軽く言葉に詰まると頭の上で妖精が勝ち誇った声で言う。
「親も聞いてるわよ」
 生意気な声に視線をチラッと上へと向けるも、頭の上で寝転がっているアルトは見えない。
 代わりに真っ青に染め抜かれた高い空とそこを気持ちよさそうに飛んでいるカモメだけが見えた。
「……英明の高等部出た後はノープランだって言ったじゃん……」
「そうだったわね」
 視野の外で言う母が苦笑い気味になっているのは見なくてもわかる……ような気がした。
「でも……何か資格は取りたいな……食べるのに困らない奴……看護師はイヤだけど」
「医療関係は責任とストレスが多いから……やりがいはあるけど食べていくだけの職としてはしんどいわよ」
「……うん、知ってる」
「……取り返しの付かない失敗もしちゃったしね……」
 自嘲気味に呟く母へ、伶奈は反射的に視線を向けた。
 整った横顔からその感情を読み取れない。
 その横顔から伶奈は視線を海へと戻した。
 真正面には大海原、水平線、そして、少し上には大きな太陽、水面に映ってキラキラと眩しく輝いていた。
「……海の向こうに……色々置いてきちゃったけど……こっちでも沢山見つけたから……別に、いい……」
 数は決して多くはなかったが小学校の頃の友人、保育園の頃からずーっと一緒……って子も居たのに、あいさつの一つもせずに別れてしまった。
 それを思い出すと未だに胸が痛む……。
 いや、逆か……?
(一年以上経ってやっとようやく色々考える余裕が出来た……のかも……)
「……伶奈、あのね……」
「もう暗い話はやめよ」
 母の言葉を少女が打ち切る。
「そうね……」
 そう答えた母のへと視線を戻して、また少女は口を開いた。
「ねえ、お母さん。この車、ちょうだい」
「えっ?」
「この車。五年もしたらお嬢さんも乗れるってセールスにいわれたんでしょ?」
「そりゃいわれたけど……」
 キョトーンとした母の顔がちょっと可愛い。
「あなたがビックリした時とそっくりな顔をしてるわよ」
 頭の上から振ってくる声はひとまず無視する。
 頬が自然に柔らかくなるのを感じながら、きょとんとしたままの母の顔を見つめ続ける。
 母は未だによくわかってなさそうだが、ともかくため息を吐きながら答えた。
「そうね……家から通える公立の大学に入れたら通学用に車を買ってあげるわよ」
「どこに行っても良いって言った癖に……それと、これがいい。新しいのじゃなくて。新しいのを買う余裕があればお母さんが買えば良いじゃん」
「現実と理想は違うのよ……まあ、若葉マークには五年落ちの中古くらいがちょうど良いのかしらね……」
 苦笑いの母に伶奈も少しだけ肩をすくめて見せた。
 そして、視線を真夏の太陽に照らされた車体に戻す。
 コーティングの効いた真っ赤な車体が眩しい。
「事故らないでね」
「面倒を見られる側にはなりたくないわね」
「擦ったり、ぶつけてもだめだよ? 私の車なんだから……」
「……はいはい、わかったわよ……って、五年後でしょ?」
「もうツバをつけたから私の……ご飯、食べよう?」
「……もう……」
 苦笑いを浮かべて母がきびすを返した。
 それにあわせて、伶奈も真っ赤な車体の向こう側へと回る。
「割り切り方としては良いんじゃない?」
 目の前にフワッと金色の髪が落ちて揺れる。
「ごまかしてるだけだよ……現実が変わるわけじゃないもん」
 目の前のアルトを追い払うように少女は軽く手を振った。
 その手から逃げるように妖精はくるんと宙を舞う。
 トンボのような半透明な羽が盛夏の日差しを受けてキラキラと光るのを、伶奈は細めた目で見上げた。
 そして、伶奈は小走りに数歩歩くと、肩越しに背後へと視線を向ける。
「……理由は必要だよね……」
 小さな声で少女は呟く。
「半分以上は貴女が乗りそうね?」
「……ずっと先だよ……ずっと先の話」
 頭の上に着地し直したアルトと言葉を交わすと――
「伶奈! どうしたの!?」
 一足先に食堂へと足を向けた母が大きな声を上げた。
「今行く!!」
 そう言って少女はもう一度、真っ赤な車体に目を向けた。
(この車で私はどこまで転がっていくんだろう?)
 遠いところなのか、近場をぐるぐる回るだけなのか……もしかしたら、通学と通勤程度にしか使わないのかもしれない。
 でも――
「早く行かないとまた怒鳴られるわよ?」
 目の前、少し上をふらふらホバリングしている妖精、その背中でせわしなく動く羽を少女は見やる。
 この真っ赤な車が自分の小さな羽になる……そう思えば好きになれそうな気がした。
「今行く」
 ひとまず少女は駆け出した。
 真っ青な空と真っ白な雲、そして、真っ赤な車が見守る中で……。

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