西部家の車がぶっ壊れた数日後の夜……この日の伶奈は母と一緒に夕食を食べていた。
夕飯のメニューはエリンギの牛肉巻、細く切ったエリンギに牛肉を巻いて炒め、焼き肉のたれで味付けた物。
「……――って事でもう買っちゃった方が早いだろうって話。お母さんが気になるなら見積書も出すとか言ってたよ」
伶奈がジェリドこと勝岡祐介から聞いた話を母に伝えると、母はお肉をパクッと口に放り込みながら答えた。
「その辺は信頼してるし……何より、二十万キロ超えでエアコンも効かない十五年落ちの中古車なんて直してまで乗る物じゃないわよ」
その辺の話は祐介も灯もしていたし、アルトも似たようなことを言っていた。
「そんなもんなんなんだね……」
「どうせなら新車が良いかしら……ちょっと良いのを買っちゃいましょうか?」
どこか嬉しそうな母の声を聞きながら、伶奈は牛肉をヒョイと摘まみ口へと運んだ。
それを租借し、飲み込む。
そして、次へと箸を運びつつ、伶奈は俯いたまま尋ねる。
「お金は?」
「そんなことはあなたが気にする必要はないわよ」
「でも……うち、そんなに余裕があるわけじゃないでしょ……お肉、いつも何かに巻き付いてるし……」
「お肉は栄養バランス。伶奈はお肉と野菜を並べておいてたらお肉しか食べないじゃない」
「……気のせいだよ」
母に痛いところを突かれ、少女はプイッとそっぽを向いた。
その視野の外から更に母が言葉を続けた。
「中学生が家のお金の心配しないで。向こうにいたときの貯金もあるのよ」
その言葉にそっぽを向いていた顔が母の方へと向き直る。
そして、今度は母が顔色を変えてそっぽを向く。
その横顔に少女は小さな声で言う。
「…………全部、持ってきた、の?」
「……財産分与と慰謝料、あっちも納得してるはずよ」
そっぽを向いたまま、母が答えた。
「お父さん、仕事してなかったんだよ!?」
「あなたにあんなことをした男、どうなったって知らないわよ!」
互いに大きな声を上げた瞬間、伶奈の脳裏に“あんなこと”がフラッシュバックした。
酒と煙草と男の匂いを含む生温かい吐息が鼻先をかすめるのをリアルに知覚する。
その瞬間、嫌悪感が固まりとなって胃から口へと逆流した。
口元を押さえて伶奈が立ち上がる。
足に堅い物が当たる衝撃と大きな音が聞こえたのを無視して、伶奈はユニットバスへと飛び込んだ。
そして、さっき食べたばかりの物が全て便器の中にあふれ出す。
『伶奈! 大丈夫なの!?』
「ほっといて!!」
ドアの外から聞こえた声に涙声で応える。
便器の手前にしゃがみ込み、伶奈は便座を抱え込むようにして何度も吐瀉物を便器の中へと落とした。
食事の途中だったからだろうか? あっという間に吐き出す物はなくなって、後は苦い胃液が伶奈の喉を焼いた。
それでも吐き気は治まらない。
「……最悪」
胃液と一緒にそれだけの言葉を吐き出す。
こっちに来て一年少し……あの頃の自分が自覚していた以上に我慢していたことを少女は理解してしまっている。
それでも……
ひとしきり胃液を吐くと、伶奈は洗面器の水道をひねり、歯磨き用のプラスティック製コップで水を一口飲んだ。
まずい水が口内と喉の奥に残った胃液と共に流れ落ちていく……
そして、ユニットバスから出ると心配そうな顔の母がそこにいた。
「……大丈夫?」
「うん……」
改めてリビングに視線を向けるとガラステーブルの上に置いてあった食事はぐちゃぐちゃ……特に味噌汁がひっくり返って酷いことになっていた。
「……ごめん」
「いいのよ……」
ガラステーブルの前に座り直すも食欲は全くない。
そんな伶奈の前で母はこぼれたままになっていた味噌汁を台拭きで丁寧に拭き清め始めた。
「…………あの人は預貯金は全額持っていくように言ったけど、それじゃあの人が生活出来なくなるから、二月分くらいのお金は置いてきたわ……その後のことは知らないし、興味もないし、教えられても困る……」
牛肉巻エリンギの大きな皿やお茶碗、こぼれて空っぽになってるグラスなんかは床の上に待避、水たまりのようになってる味噌汁を乾いた布巾で拭っていく。
そんな母の手際をぼんやりと少女は眺めていた。
そして、あらかた片付けが終わった辺りで少女はぽつりぽつり……まるで確認するかのように呟いた。
「……二ヶ月分……たったの? 二年もかかって仕事が見つけられなかったのに……二ヶ月で仕事が見つかるはずないじゃん……」
「……プライドを捨てれば食っていくくらいの仕事は見つかるわよ……」
床の上に待避させていた牛肉巻エリンギの皿や茶碗なんかをテーブルの上に戻しながら、母が言った。
「……だからって……」
「……このアパートの資金礼金、家具や家財道具、服だって大半はあっちに置いてきたし、学校のお金も掛かる。中学高校だけじゃなくその先も……何より、私に何かあったときのためにお金は必要なのよ……解るでしょう?」
淡々と話しながら、母はテーブルの上に料理を並べ終えた。
母の言うことは正しい。
理性では理解してる。
「…………」
口をつぐむ伶奈に母が追い打ちをかけた。
「それにあなたに吐くほどのトラウマを植え付けた人のこと、考える必要なんてないわよ」
ぴしゃりと母は言い切った。
離婚前は……いや、あの夜まで娘の目から見れば母は父にベタ惚れだった……と思う。三人でいればいつだって母は父の隣にいた。
それなのに……
(ああ……お母さんにとってお父さんはもう敵でしかないんだ……)
それが……その敵である理由が『
「……ごはん、いらない……」
そして、伶奈は席の前から立ち上がった。
「……お母さんが悪いわけじゃないけど……お母さんの顔は見たくないから……今夜、アルトで泊めて貰う……」
「伶奈……」
テーブルを拭いていた手が止まり、母の顔が伶奈の方へと向けられる。
その母に伶奈は背を向けた。
「……お母さんは悪くないよ……お母さんが私のためを考えてくれてることも解ってる……けど――」
いったん言葉を切る。
胸辺りがぎゅーっと痛くなり、口の中が妙に乾いた。
「あんなことをされても……それでもお父さんなんだよ……紙切れ一枚で繋がってて、その縁も切れちゃったお母さんとは違うよ……」
「……解ったわ。けど、一人で行くのは辞めて。何時だと思ってるの?」
諦めたような口調で母が背後から声をかけた。
夏至直後の夕暮れは長い。
窓の外は赤紫に燃えていて、まだまだ一人歩きをして危ないほど暗いとは思わない。
しかし、壁の時計に視線を向ければそろそろ時間が八時前であることを伶奈に教えていた。
出来れば一人になりたかったけど、そこまで我が儘を言う物でもない……と思う。
「……うん、解った……」
部屋着からいつものオーバーオールに着替えると、母も木綿のパンツにトレーナーという軽装に着替えていた。
そして、明日、アルトから直接登校できるように必要な教材なんかを学生かばんに放り込む。下着は向こうに置いてるけど制服はこっちにしかないから、それを用意してボストンバッグにたたんで入れる。さらには体操服も……
「本当に家出ね」
結構な量の荷物を両手にぶら下げると母が少しだけ苦笑い気味の声を上げた。
「……仕方ないじゃん、こっちまで取りに帰ってくるのも大変なんだし……」
伶奈も少し苦笑い気味に答える。
そして、二人で部屋を出る。
隣のドアを何気なく見れば、そこには寒々しい空間だけが広がっていた。
「……ジェリド、いない」
ぽつりと伶奈が漏らす。
「……いつも居るわけじゃないわよ」
「そうだね……」
母の返事に伶奈も答え、二人はゆっくりと階段を下り始めた。
パタパタ……静かな階段に二人の足音だけが響く。
踊り場とフロアで何回か曲がり、伶奈達母娘はアパートのエントランスから駐車場へと抜けた。
そして、駐輪場に泊まっている伶奈の愛車の元へと行ったら、大きな荷物を籠に押し込んだ。
自転車を駐輪場から引っ張り出し、国道へと出る。
すると峠の向こう側に夕日が沈み、残照だけが山の稜線を赤く燃やしていた。
「……もうお父さんには会いたくない……」
その美しい光景が涙で歪む。
「そうね」
伶奈の言葉に母が頷いた。
「……でも……」
「でも?」
「……どこかで普通に暮らしてて欲しい……」
オーバーオールの胸ポケットからハンカチを取り出し、伶奈は無造作に目元を拭いた。
そんな伶奈に母は感情の解らない声で小さく一言だけ言った。
「……そう」
「……うん」
伶奈が頷くと母が先に一歩を踏み出した。
その後を追って伶奈が歩み始める。
カラ〜ン
喫茶アルトのドアベルがいつもの乾いた音で伶奈達親子を出迎え、そして、その音が消えるよりも先に長身の青年が声をかけた。
「いらっしゃいませ、ようこそ――って、伶奈ちゃん、それに西部さんも……どうしたんです?」
きょとんとしている灯に伶奈はプイッとそっぽを向いたまま答えた。
「……ちょっと家出……」
「……家出?」
聞き返した灯が伶奈の横顔からその背後、母由美子の方へと視線を向けた。
「ちょっとした親子喧嘩です。美月さんは?」
「今、キッチンは忙しいから……あいさつでしたら少ししてからの方が……」
灯にそう言われると母はペコッと灯に頭を下げ、言葉を返した。
「いえ……伶奈、あいさつくらい自分で出来るわよね?」
「うん……」
コクンと小さく首を縦に振った。
そして視線を国道側の窓へと向ける。
外はすっかり暗くなっていて、国道を行く車のヘッドライトが眩しく路面を照らし出していた。
「……明日は……多分、帰る、と思う……自信はない……」
真っ黒いアスファルトとそこを照らすヘッドライトだけを見ながら、伶奈は答えた。
「……帰らないなら連絡して……スカイプでもメールでもいいから」
「うん……解った……ごめん」
小さめの声で言って、改めて母の顔を見上げる。
「私も悪かったわ……」
小さめの声で母が伶奈を見下ろすような感じで言った。
「…………ううん」
その一言だけを絞り出す。
「それじゃ、時任先生、美月さんと叔父さんによろしくお伝えください」
「はい」
そして母は最後に灯と言葉を交わして喫茶アルトを後にした。
カラ〜ン……
二度目のドアベルは一度目よりも妙に余韻が残った……ような気がする。
「灯センセ、私、部屋に行ってるね。営業が終わった頃に降りてくるから……」
「うん、解ったよ。何があったかは知らないけど、相談事があったら三島さんやなぎ姉にでも相談して。もちろん、俺も聞くから」
「うん……解った」
背後から聞こえる灯の声に応えながら、伶奈はきびすを返した。
そして、スニーカーを脱いだら居住区へと繋がる階段をトントンと上がっていく……
「はぁい、伶奈。親子喧嘩? 成績でも下がったの?」
「……成績は現状維持だよ。私の上、常連しかいないし……」
頭の上にちょこんと着地を決めたアルトと言葉を一言ずつ交わし合う頃、伶奈は自室の前へとたどり着いていた。
そして、部屋に入ると伶奈は部屋の隅に置かれているアナログステレオのスイッチを入れた。
クラシックジャズの名盤がノイズ交じりに再生され始めた。
軽快なピアノの独奏がしばらくの間続き、その後にバス、アルトサックス、ドラムの演奏が始まる。
「はぁ……」
それを聴きながら、伶奈は古びた木製の椅子に座り、古びた木製の机に向かった。
とんとアルトが伶奈の頭の上から飛び降りる。
伶奈に背を向け着地を切ると、右足を軸にくるんと一回転。左に一回転、左右に揺れるように踊りながら、妖精は問いかけた。
「で……? どうしたの?」
「お母さんが……お父さんと二人で貯めたお金、ほとんどこっちに持ってきてた……」
左右に揺れていたアルトの身体が止まった。
そして、伶奈の顔を見上げながらアルトは小さめの声で呟く。
「……そう」
「うん……」
二人は言葉もなく互いの顔を見つめ続けた。
背後ではスタンダードジャズの小気味よい楽曲が流れ続けていた。
最初に口を開いたのはアルトの方だった。
「……正論が感情の隙間にスポッと入りきらないことはよくあるわよ……」
単語を選ぶようにゆっくりとした口調だった。
その言葉に伶奈はコクン……と小さく頷いてみせる。
「……うん……それも解ってる……でも、今夜はお母さんと同じ部屋で寝たくなかった……」
「そうね……それくらいのわがままは許されると思うわよ……」
背後ではレコード盤の上でアルトサックスの独奏が始まっていた。
「…………」
「…………」
互いに言葉を交わさないときが静かに過ぎ、曲は次の楽曲へと変わっていた。
タンタタン♪ タンタンタン♪
一曲……二曲……と曲が流れて行く……
そして、机の上に足を投げ出し座ってアルトが尋ねた。
「……貴女は、どうしたいの?」
小さな声で答える。
「……解らない……」
そして、伶奈はぺたんと机の上に突っ伏した。
広めのおでこがぺたんと机の表面に押しつけられた。
気付けば音楽はトランペットの小さな音だけになっていた。
目を閉じるとどこか物悲しいトランペットの音だけに意識が支配されていくような気がした。
そして、伶奈は独り言のように呟く……
「正しいのはお母さん……お母さんがしていることは全部私のため……そのお母さんのしてることにモヤモヤしてる……どうしたら良いんだろ……?」
「正しくて、自分のためにしていてくれてる……って、理解してるなら上出来じゃないの? その理解に感情が追いつかないのもよくあることだし、仕方ないことよ。人間だもの」
閉じたまぶたと机が作る闇の中、トランペットの音と共に妖精の声が聞こえた。
「あはっ……妖精さんに『人間だもの』って言われると説得力があるような気がする」
意識して頬を緩めてみたら、少しだけ心が晴れたような気がした。
そして、伶奈は顔を上げる。
机の上に足を投げ出して座ったままのアルトと目が合った。
やけに整った顔を能面のような無表情にして、妖精は言葉を紡ぐ。
「それと……苦しみたくなかったら父親のことを考えるのは辞めなさい」
「……それも解ってる……」
伶奈が短く答えた。
楽曲が途切れた。
数秒の沈黙の後、ピアノの独奏曲が始まった。
静かではあるが軽快な曲が、今の伶奈には少し耳障りだった。
その曲を意識の外に追い出そうと努力すればするほど、軽快なジャズピアノの音が伶奈の神経を逆なでした。
「……それでも、お父さんなんだよ……楽しかった頃の記憶も沢山……あるんだよ」
「……人間だものね……」
そして、伶奈は立ち上がると相変わらず軽快なジャズピアノを流し続けているアナログレコードから針を持ち上げた。
プツ……っと小さな音がして、音が消えた。
タイヤがアスファルトを噛む音だけが遠くに聞こえた。
「ピタゴラスイッチみたい」
「なにが?」
今も机の上でくつろいでいたアルトが少し大きめの声で尋ねた。
「車が壊れただけなのに、あっという間にこんな所までボールが転がってきた」
「そう言う間の悪いときもあるわよ、長い人生だもの」
「…………」
頭の上から聞こえた言葉に伶奈は沈黙だけを返した。
そして、ぼんやりと古びたアナログレコードのプレイヤーを眺める。
美月の祖母、真雪が頑張って購入した物で、ここに置き去りになっていたレコードも真雪が好きだった物らしい。
動かないレコードプレイヤーを見つめ続ける。
遠くでまた車のフォーンの音が聞こえた。
「……苦しまずにお父さんのことを考えられる日って……来るのかな?」
視野がまた歪んだ。
「その日が来るまでは傍に居てあげるわよ……」
頭の上でアルトが答えた。
静かな優しい声……だと思う。
その声に伶奈は小さく頷き、答えた。
「……うん、ありがとう……」
半袖シャツから伸びた腕で目元を少しだけ乱暴に拭う。
クリアーになった視野の向こう、窓の外には触れればキレるような細い月が昇っているのが見えた。
梅雨明け直後の澄んだ夜空に細い月が眩しい。
「……今年も暑くなるんだってね……」
ぼんやりと呟いた。
「よかったじゃない? 今年は空調の効く来るまで過ごせるわよ?」
「…………どうでも良いよ」
頭の上から聞こえてくる言葉に伶奈はぶっきらぼうに答えた。
そんな伶奈の目の前にフワッと小さな頭が天地逆さまになって落ちてきた。
小さな顔の大きな瞳がまっすぐに伶奈を見つめる。
「お金の出所に納得出来ないならしなくて良いんじゃない? でも、新車ならこれから十年、貴女の家の足になる車よ。嫌っても十年、好きになっても十年なら好きで居る方がお得よ」
「…………考えておく」
そう答えるのが伶奈の今の精一杯……